アンバースデー -2-
そうなることを期待して呼び掛けたというのに、いざ見事にその通りの結果が得られると、ビショップは何ともいたましい思いに駆られた。己の失態を恥じてか、固く唇を引き結び、眉を寄せて足元を睨めつけている、ルークの姿はこれまで見慣れたものと何ら変わりない筈なのに、とても見ていられないほどに、痛々しかった。
その細い肩を包み込んでやろうと、ビショップは一歩踏み出しかけたが、差し出された手を、ルークは怯えたように振り払った。
「……触れないでくれ。おかしく、なるから」
たった今、側近の腕に縋りついて切々と綴った戯言を、どうやら当人も「おかしい」ものであったとは認識しているらしい。それが、いったいどうして表出してしまったのか、詳細な仕組みは分からずとも、ビショップに触れられたことがきっかけであったのは、少なくとも間違いがない。自分自身の思考を制御出来ないというのは、特別な頭脳を持たされて生まれたこの少年にとって、存在意義が根底から覆されかねない忌まわしい事実で、ならば、そうならないように、「おかしくなる」きっかけから距離を取ろうと試みるのは当たり前だ。
どうやら、無用な警戒心を煽ってしまったらしいことに、少しばかり苦い思いを噛み締めつつも、そんな内面をきれいに覆い隠した、いつも通りの穏やかな表情でもって、ビショップは囁くように問い掛けた。
「どんな風に、ですか」
もっと、自分の身に起こる変化を詳しく記述してみせろと促す、それは見方によっては、哀れな少年に更なる追い打ちをかけているようにしか捉えられなかったことだろう。その解釈も、もちろん間違いではないが、しかし、何もビショップは、言葉を詰まらせ恥辱に唇を噛むルークの表情を、目の前でじっくりと鑑賞したいがために、そのような問いを放ったわけではない。
ルークに、分からせてやりたかったのだ。
「おかしくなる」とは、どういうことであるのか。どうして、そういうことになるのか。ただ単に、望ましくないこと、嫌なことというだけで済ませずに、その背景にあるものに目を向けさせ、そして、出来ることならば、気付かせてやりたかった。ルーク自身も把握出来ていない、その内奥にわだかまるものへと、手を引いて導いてやりたかった。
無視しようと、逃げようと、一向に構わない筈なのに、ビショップの問いに対して、ルークは顔を背けようとはしなかった。己の内に湧き起こるものを見定めようというのか、苦鳴を堪えるような表情で、睫を伏せて俯く。固く引き結んでいた唇が、やがて薄く開いて言葉を紡ぐのを、ビショップは根気強く待った。可憐な唇をたどたどしく動かして、ルークは一言、欲しくなる、と呟いた。
「……欲しくなる。抱き締めて、もっと触れて、欲しくなる」
正直すぎるほど正直に、訥々と応えると、ルークは、ぎゅ、と自分自身を抱くようにした。その仕草が、見る者にいかなる感想を抱かせ得るものであるかなどという意識は、当人の内にはまったく無いのだろう。これだから──始末に悪い。ビショップは内心で、やれやれと首を振った。
抱き締められたい、触れられたい。そんなことを、どうして自分が欲してしまうのか、ルークは理解出来ない。おかしくなる、としか表現出来ない。それはルークにとって、得体の知れない、不安を誘う、何が何だか分からない、怖いものであるに他ならない。全てを知り、全てを見通す筈の自分の中に、そんなおかしなものがあるという矛盾、それ自体が、受け容れ難く少年の精神を苛む。
小さく身じろいで、はぁ、とルークは押し殺した吐息をこぼした。今、その身体の奥底から湧き起こっているものが何であるか、ビショップはだいたい、想像がついた。音声化こそしなかったものの、ルークが胸の内で、縋るようにある者の名を呼んだであろうことは、簡単に推測出来た。
「……触れたい。触れられたい。……欲しい」
掠れがちな声で紡ぐと、ルークは何かに堪えるように、己の腕を掴む手に力を込めた。細い指先が、強く押し付けられるあまり、ただでさえ薄い血色を失い、小刻みに震えている。それを少しでも抑制しようとしてか、ルークはがくりと首を折って俯いた。そうしなければ壊れてしまうとでもいうように、背を丸めて押し殺した息を吐く。少年の有様を、ビショップは眉をひそめて見下ろすと、今度こそ一歩、足を踏み出した。
「……ルーク様」
「っ…………」
気遣わしげに伸ばされた忠実な側近の手が、肩に触れるや、ルークはびくりと身を竦め、嫌がるように首を振った。烈しい拒絶に、ビショップはすぐさま、手を引き戻したが、無礼を詫びて退くことはしなかった。そのまま、今すぐにでも抱きとめられる程度の距離でもって、少年の哀れな姿を見つめる。
「……呼ぶな、触れるな、見るな、……何も、与えるな」
絞り出すかの声でもって、ルークは訴え、そして小さく呻いた。わななく唇から、とうとう、抑えきれない嗚咽がもれ聞こえる。
「カイト……カイト、カイト、……カイト」
縋るように、それさえ唱えていれば大丈夫だと、一心に救いを求める信徒の純真さで、ルークは息が切れるまで、その響きを繰り返した。何をして欲しいとも訴えずに、ただ、その名を呼んだ。全ての訴え、全ての願い、全ての絶望が、そこには込められているのだと、ルークの慟哭は、ビショップの内にそんな感想を抱かせた。
いくら、呼んだところで、彼が助けてくれるわけでもない。彼が手に入るわけでもない。一緒に行ける、わけがない。つい先程、それは痛いほどに思い知らされた事実の筈だ。否、そんなことは、ルークもはじめのうちから、どこかで理解していたのかも知れない。理解して、しかし、目を背けて振り払ってきたのかも知れない。
最早、見て見ぬ振りも出来ぬ、決定的な断絶を知って、なおもルークは、その名を呼び続ける。10年間、ずっとそうして繰り返してきたやり方でもって、その者を求め続ける。自分の内に僅か残されたものの全てを、余さずかき集め、ただ一人の相手へと向けることで、なんとか己を保つ。少し離れて俯瞰すれば、それが結果的に、より自分を追い詰める未来に至るであろうことが、分かり切っていてもだ。
白と黒の盤上のゲームに置き換えるとき、それは、自分で自分を窒息させる悪手を進んで取りに行くことに他ならない。冷たいチェス盤の上では、決してそのような過ちを犯すことなく、僅かな感情の揺らぎすら伺わせぬ、おそろしいほどに精緻な駒運びで難なく勝利するルークが、自分のこととなると、途端に不条理な面をさらけだす。制御の利かない衝動でもって、せっかくきれいに整えられた盤上を、ぐしゃぐしゃにしてしまう。
ビショップにはそれは、癇癪を起こした幼子が、身の回りにある大好きな玩具を手当たり次第に壁に投げつけては壊し、自分で自分を傷つけて泣いているように見えるのだった。もう、投げられるものが何も無くなってしまったとき、少年はどうするだろう。玩具の無惨な残骸の中で、泣き疲れて眠るまで、声を上げ続けるだろうか。自分のしてしまった、とりかえしのつかない行為に、茫然と目を瞠るだろうか。傷ついた指で欠片をかき集めて、愛おしく、両腕に抱き締めて悼むだろうか。
「……カイ、ト」
ちゃんと相手に届いたならば、この上なく熱烈な愛の囁きになったであろう、切なく、甘やかに紡がれては消えていくルークの声は、それが彼にとって今なお紛れもなく、憎しみではなく歓びをもたらす対象であることを教える。その名を呼ぶことは、確かにルークにとって、一時の胸の内の安らぎを与える。どんなに辛く、受け容れ難い現状が訪れようと、かつてあった時間までは決して汚されず、裏切らず、いつでもルークを迎え入れてくれる。満ち足りた時間の優しい記憶が、蘇って、温かな幻でもって彼を包み込む。幻想の中で、ルークは愛しい者の名を呼び、また、自分の名が呼ばれるのを聴いて、うっとりと目を閉じる。
けれど、僅かな幸福の残滓が通り過ぎて、後に残されるのは、前よりももっとひどくなった欠落だけだ。優しい時間など、既に終わって、無邪気な幻想など、既に潰えて、どこにも残されてはいないのだと、思い知らされるだけだ。
大好きな相手は、もういない。
好きになってくれる相手は、もういない。
約束する相手は、もういない。
解いてくれる相手は、もういない。
見てくれる相手は、聞いてくれる相手は、褒めてくれる相手は、触れてくれる相手は、笑ってくれる相手は、抱き締めてくれる相手は、もういない。
まだ幼い日、あの夏には、その全てが与えられ、満たされていたというのに。足りないといって、苦しむこともなければ、欲しいといって、おかしな気持ちになることも、なかったというのに。
何も聞こえない、静寂。
何も視えない、暗闇。
何も触れない、空虚。
奪われ、失い、欠け落ちた。
取り戻せない、やり直せない、満たされない。
何もかもが反転した、その烈しい落差が眼前に突きつけられる度に、ルークの柔らかな胸の奥は抉られ、とろりと熱をこぼす。他愛のない過去の繋がりなどに救いを求めなければ、それは、感じることなく済んだ筈の痛みだ。
だから、ルークはますます「カイト」に溺れる。なんだか分からない、この痛みを和らげ、やり過ごすために、焦燥まじりに、理想化されたイメージの中の優しい「カイト」に手を伸ばす。一時だけの少しの安らぎを覚えて、そうするほどに、強く縛られ、離れられなくなる。もう一度、満たされるために、声が嗄れるまで、喉が壊れるまで、叫び続けるだろう。その願いが、真実、聞き届けられることは決してない。ルークを救ってくれる筈の輝かしい存在は、その振りを装って、ただただ容赦なく彼を蝕み、傷つけ、崩壊させていくばかりなのだ。
柔らかな白金の髪を、ルークは両手で無造作に掴んで軋ませ、襲い来る情動から逃れるように頭を振る。
「考え、たくない……考えたく、ないのに、」
ますます辛くなることが、分かっているのに、それでもルークは、欲することをやめられない。貪欲に、求めながら、自分の身を喰い尽くしていく。この少年が今も立っていられるのは、とうてい満たされることのないその烈しい渇望のゆえであり、彼を支える唯一であると、ビショップは承知していた。
ルークは決して、満たされることがないだろう。望むものを与えられて、欲求を失ってしまったら、その時点で、ルークはもう立ってはいられない。崩れ落ちて、二度と戻らない。そして、それを本人も理解して、恐れている。
満たされたい、与えられたい、安らぎたい。けれど、そうすれば自分が自分でなくなってしまう。それは、とても怖いことだ。望んでは、いけないことだと、考えるより前の段階で、知っている。
望みながら、拒絶する。
叶わぬものだけ、追い求める。
葛藤に、解決策を見出すことが出来ずに、ここまで来てしまった。
欠け落ちることが、最初から、定められて生み落とされた子ども。
そういう子どもを前にして、ビショップには、何を言うことも、何をしてやることも出来ない。いったい、この哀れな少年に対して、何が出来るというのだろうか。何が、与えられるというのだろうか。
ぎし、と嫌な音がして、ビショップは目の前の情景へと意識を引き戻した。ルークが、己の頭に指を──否、爪を立てて、ぎりぎりと引っ掻いていた。それを認識した瞬間、忠実なる側近のとった行動に迷いはなかった。
少年のか細い手首を、およそ加減のない力で掴んで引き剥がし、逃れんとする身体を、両腕ごとまとめて抱きすくめることで行動を封じる。息苦しいだろうと思えるほどに強く、抱き寄せると、身を捩ろうとする健気な抵抗はすぐに治まった。
「……見ないで。見ないで、見ないで、……」
側近の腕の中に顔を埋めて、弱々しく声を震わせる、少年の頭をビショップはそっと抱き込んだ。腕の中の、白金の髪の合間からは、微かに鉄錆の匂いがした。
自分がとても曖昧で、脆い存在であることを、ルークは知っている。何もルークに、確かな実感を与えてくれるものはない。己の身体さえ、心さえ、自分の持ち物ではなく、自由にならない。それは、幼い頃から繰り返し教え込まれた、当たり前の事実だ。
欠落して、傷を刻まれて、ぼろぼろになって、そうしたら、ルークには殆ど何も残らなかった。砂上の楼閣に似た彼の自己概念は、ほんの小さなきっかけでもって、簡単に崩壊してしまう。
何もかもが、さらけ出されて、こぼれ落ちてしまう感覚。引き戻すことも、隠し護ることも出来ずに、流れ出ていく。制御出来ない奔流に呑まれて、自分の輪郭が崩れ落ちていく。
それが怖くて、ルークは自分で自分を拘束する。肩を抱き、身を竦め、眼を閉じる。自分の内にあるものを、これ以上、引きずり出されないために。失ってしまわないために。そうして、痛いほどの、壊れるほどの力任せのやり方で、かろうじて己の身を護るのだ。
ルークの中には、何ら信じるに足る中核は存在していない。外側から規定されることによってのみ、かろうじて、ルークはルークとしての自分を保っていられる。そして、それは、この上なく強靭な規定でなくてはならない。中途半端に包み込まれるだけでは、このまま解けていってしまうというルークの不安を拭い去ることは出来ない。
強く、骨に喰い込むほどに強く、縛られなくてはいけない。
強く、僅かな迷いも許さぬほどに強く、定められなくてはいけない。
身体を、心を。
ルーク自身、そうして己を縛り、また同時に他者によって、更に束縛を強化する。だから、とビショップは今一度、ルークを抱く腕に力を込めた。
少年の、その細い腕では、自分自身を抱くのにはとても足りない。爪を立てるほどに、皮膚を抉るほどに力を込めたところで、望む実感は得られない。彼が欲するのは、頭から爪先まで、覆い尽くして縛りつけるものだ。息も出来ないほどの、心臓を締めつける縛鎖だ。
「大丈夫ですよ、ルーク様。大丈夫です……私が、あなたを見ていますから。あなたを縛りますから。あなたを傷つけますから。……あなたを、護りますから」
何度言い聞かせたか知れない言葉を、ビショップは今一度、根気強く少年の耳元に囁いた。
「あなたは、ここにいる。あなたを、あなたのままで、いさせて差し上げます」
だからどうか、手に入らぬものの名を呼んで、自分を傷つけることはしないで欲しいと、願いを込めて、ビショップは少年の背中を撫でた。
たとえこうしたところで、自分が「カイト」の代用品になれるとは、ビショップは考えてはいない。ルークの執着を、断ち切ることなど出来ないのだと、よく承知している。構わないのだ、ルークを本気で救ってやろうなどとは、ビショップの望むところではない。ゆっくりと破滅へと向かうルークを、崩壊していく美しき白の塔を、手を差し出すこともせずに、ただ傍で見つめているだけが自分の役どころなのだと、分かっている。そこを読み間違え、境界線を越えることは、きっと最後までないのだろう。
ただ、ルークが自分で自分を傷つける姿は、見ていられない。
その腕を掴み、その皮膚を引っ掻く姿は、見ていられない。
彼自身の細い指先に、そんなことをさせるくらいならば、自分が代わりにしてやった方がましだとビショップは思う。傷つけられる痛みはルークに、傷つける痛みは、自分に与えられれば良い。そうすれば、僅かばかりでも、この少年と何かを分かち合うことが出来るものと、自分でも滑稽に過ぎると思う夢想を抱いている。
柔らかな白金の髪を梳いて、ビショップは年若い主人の耳元に囁きかけた。
「……慰めさせて、いただけませんか」
今、この少年に何が必要で、何ならば与えてやることが出来るのか、思案した結果、それがビショップの出した結論だった。
その婉曲な表現の具体的に意味するところは、どうやら、過不足なく相手に伝わったらしい。どうして今、そんなことを言い出すのか分からない、といった不可解げな表情でもって、ルークは忠実なる側近を見上げた。その唇が、戸惑うように言葉を紡ぐ。
「まだ、夜じゃない……今日のパズルも、終わっていないのに、」
「構いませんよ。明日にすれば良いことです」
優しげに囁きながらも、有無を言わせぬ態度でもって、ビショップは少年の肩を抱き、モニタールームを後にした。