アンバースデー -6-




腕の中で、意識を手放すようにして眠りに落ちたルークの力ない身体を、ビショップは静かに寝台に横たえた。清潔なタオルでもって、汗ばんだ肌を拭ってやってから、丁重に掛け布で覆う。規則正しい寝息を紡ぐその表情は、少し苦しげで、赤みの残る頬に伝う涙を、ビショップは唇でもって掬い上げた。
手触りのよい柔らかな髪、温かな身体。出来ることならば、膝の上に抱えて、ずっと抱き締めていたくなる。そんな愛玩動物に向けるような目でもって、この驚嘆すべき存在を見つめていることが知られれば、きっと他人からは咎められてしまうことだろう。ただ、立場だの良識だのをよそにすれば、この考えは、案外賛同を得られそうな気もする。
ビショップの偽りない実感で言うならば、ルークは十分に、周囲から愛を受けるだけの要件を備えている。あどけなく眠りに就いた、無垢な姿かたちにしても、その純粋すぎるほどに純粋な内面にしても、存在していられるのが不思議なくらいに危うげで、何も言わずに護ってやりたくなる。側近という特殊な立場の自分に限らず、本来ならば、この少年を知った誰もが、同じ思いを抱いてしかるべきなのだ。それが上手く達成されていない現状は、ビショップにとってもどかしく、不満でならないのと同時に、ほのかな安堵と優越感をもたらす。せめて自分だけは、この脆く儚い存在を護ってやらねばならないのだと、そんな思いを新たにする。
他人を駒としてしか捉えることが出来ずに、外界を徹底して拒絶し、孤立し、触れ合おうとも理解しようともしない、そんな在りようを貫きながら、無遠慮な他者が少し突いてやるだけで、途端に崩れ落ちてしまう。弱く、脆い自分を必死で護ろうとして、一番必要なものを遠ざけている、ルークの痛々しい姿は、いくら与えても足りないほどに、己の全てを与えてやりたいという衝動に似た思いを、ビショップの内に湧き起こらせるのだった。

ただ、勘違いしてはならない、とビショップは己を戒めた。

ビショップがルークに捧げるものも、また、条件付きの愛であることに変わりはない。
ルークをここまで虐げ、追い詰め、非情な定めを負わせた責任を追及するならば、間違いなく、その咎は自分にも及ぶであろうことを、ビショップは知っている。それがこの白い少年にとって、決して望ましいことではないと知りながら、躊躇いを切り捨て、ルークがルークで在り続けられるようにと力を尽くしてきた。王を護る駒、難攻不落の城塞を、そうであるようにと強化してきた。
ルークの側近であり、忠実な駒として命じられるままに動く身であっても、年若い主人を望ましい方向へと導いていくことは出来る筈だった。そして、ビショップは導いたのだ──今、目の前に在る、このルークの現状を。
きれいに覆い隠した、凍てつくかの白い外郭と、がらんどうの内奥に息づく、赤黒い情動。美しく完成された姿で立ちながら、欠落と渇望に喘ぐ、不完全で不自然なその在りようを、かたち作ってきたのは、ほかでもない、彼を取り巻いてそうあれと強いる、無慈悲な意思の集合体だ。ルーク自身の意思ではない。たとえ、「選ばれた者」としての驚嘆すべき頭脳を持つといえ、たかだか16歳の少年に、その人生の責任を負わせるなど、年長者のすることではないとビショップは考える。
「そうである」ように作られた、哀れな子ども。それが、純粋な目でルークを評価したときの、ビショップの正直な感想だ。そこにあるのは同情ではなく、微かな罪悪感といった方が正しい。子どもに対する責任を持つ、一人の大人としての、それは無力感であり、諦念だ。あるべき己の役割を、十全に果たすことも出来ず、ただ少年を哀れむことしか出来ない。そこから先へは、進むことが出来ないのだと、ビショップは既に知っている。
罪を贖うことは出来ない。
赦しを乞うことは出来ない。
出来るのは、哀れむことと──認めることだけだ。
かわいそうにと思うのと同時に、ビショップは、ルークの存在を肯定している。いるのといないのと、どちらの方が良かったかと問われれば、迷いなく、いてくれて良かったと言える。こんなかたちで出逢えたことを、感謝こそすれ、嘆いたことなど一度もない。
もしも許されるのならば、彼の誕生を心から祝い、その名を褒め称え、ここまで生きてきてくれたことを感謝し、そして、これからも健やかであり続けることを祈るだろう。どうか毎年、この記念すべき日を祝わせて欲しいと願い出て、その日は全ての責務を解き、一人の少年のために捧げるだろう。彼の好きなもの、素敵なものだけを集めて飾り、心許せる客人を招き、優しい音楽を背景に、彼だけのためのプレゼントを積み上げ、温かな料理と、甘い甘い菓子で満たすだろう。
あなたはこんなにも愛されている。
私はこんなにもあなたを愛している。
あなたが生まれてくれて良かった。
あなたはここにいる、どうかここにいて欲しい。
そんな思いを、あらゆるかたちに宿らせて、溢れるほどに与えるだろう。

──それが、どれだけ身勝手で浅ましいことであるか、ビショップはよく承知している。無邪気な夢想を、青年は気だるげに首を振って払い捨てた。
ルークがどれだけ不条理な苦痛にさらされてきたか、承知していながら、それを度外視して、彼の存在を肯定する。それは、無償の慈愛などという聞こえの良い言葉に集約されるようなことでは決してなく、むしろ、徹底した無慈悲とさえ言って良いだろう。
──あなたが、ひどい目に遭ってくれて良かった。
あなたが受けた苦痛のゆえに、あなたの上に刻まれた傷のゆえに、あなたの抱く欠落のゆえに、私はあなたを愛すると、どうして平然として、そんな言葉を吐けるだろうか。それが、偽りのない正直な思いであれば、なおのことだ。
たぶん、ルークがこんな風にあちこち欠け落ちて、不安定で危うい少年にかたちづくられていなければ、自分はこれほどまでに彼を想うこともなかったであろうことを、ビショップは冷静に承知している。自分がこの白い少年に心惹かれるのは、紛れもなく、その欠落のゆえであり、傷を受けてなお斃れることを許されぬ、歪んだ危うい在りように感嘆するがためなのであると、知っている。
癒すことも救うことも出来ないのに、側に寄り添い続けようと思うのは、少しでも何かの力になってやりたいという献身的態度などではなくて、ただ単に、この世界に見捨てられた哀れな存在の行く末に興味があり、見届けたいからというだけの、極めて利己的な理由に他ならない。
現実離れした白く美しい姿かたち、人形めいた冷たい在りよう、精密に調律された頭脳、脆くぼろぼろに欠けた心。そのすべてが、奇跡的なバランスでもって、ルークという稀有な存在を構成する。その一つでも異変が起これば、最早調和を保つことが出来ずに、白亜の塔は根底から崩壊するだろう。そうならないために、ビショップは自らの手でルークを管理し、修復し、そのままで在り続けられるようにと力を尽くしてきた。それがルークにとって本当に望ましいことであるのか、そんなことは考慮の内になかった。分かっていながら、目を瞑り、耳を塞いできた。
救ってやれない、何もしてやれない、せめて、このままでいさせてやるしかない──そんな諦念を抱く一方で、しかし実のところ、本当に何も出来なかったのか、本当に仕方がなかったのかと問われれば、ビショップは答えを返すことが出来ない。ルークがこれ以上、破滅へと突き進んでしまわないために、何かしてやれることはあったのに、それをしなかったのは、ひとえに自分が、ルークに「そのままで在り続ける」ことを望んだからではないか。彼の欠落が満たされ、つまらぬものになり下がってしまうことを、嫌ったからではないか。「あなたはここにいて良い」と、繰り返し言い聞かせることは、「お前はこのままでいなくてはならない」と、暗に命じて従わせることと、何が違うだろう。

ただ、そうであって欲しいからというだけの、甚だ自分本位の理由でもって、ルークを歓迎する。身の回りの持ち物にこだわり、居心地の良いものだけ並べていく中で、たまたま、ルークが好ましかったというだけの、単純な理由。それは、お気に入りの筆記具や眼鏡を語るときの文脈と、何ら変わるものではない。気に入ったものを、出来るだけ長くそのまま、手元に置いておきたいという、そんな考えでしか、接することが出来ない。
ルークが自分にとって望ましい存在で在り続ける限り、条件付きの忠誠を誓い、思慕を捧げる。そんな身勝手な振る舞いをする自分は、結局、この少年のことを何とも思い遣ってなどいないし、愛することも出来ないのだと、ビショップは実感させられて、諦念の溜息を吐くのだった。
──ただ。
そこまで分かっていながら、自分の選んできた道を、間違いであったとは思えない。やり直したいとは、思わない。我ながら強情なものだ、とビショップはあきれ返って笑った。
どこまでも身勝手な自分には、ルーク自身がどうの、周囲がどうのというのは関係なしに、身勝手なやり方でもって、一番良いと思える選択を続けていくしかない。たとえ、少年がそれを望まないとしても、この胸の内だけでも、彼を祝福する思いを抱くことは、誰にも禁じられない。彼へ向ける想いを、己の心に逆らって捻じ曲げることは、出来ない。
身勝手で、独善で、傲慢で、無慈悲な、およそ聖職者の名を冠するに相応しくない、自分の在りようを、愚直に貫き通すだけだ。

色素の欠落した白金の髪に指先を遊ばせて、ビショップは年若い主人の寝顔を見守った。
──愛していると、叫ばなくては、届かない。
愛して欲しいと、訴えなければ、手に入らない。
愛されたい、愛されたいと、一番切実に訴えている筈のルークが、愛されることの何たるかを知らない。自分のずっと求めているものが、それであるということも、理解出来ていない。分からないから、与えて欲しいといって訴えることも出来ずに、ただ、胸を抉って苛む痛みを、無理やりにでも呑み込んで抑えつけることしか許されない。
傍から見れば、それはとても単純なことで、どうして分からないのかともどかしいくらいのことであるが、それに気付けないことこそ、ルークの致命的な欠落の証に他ならない。彼自身が、気付かなくてはならないのだ──愛を受け、満たされるためには。
愛して欲しいと、求めることを、ルークはこの先、知ることが出来るだろうか。
泣き叫んで、訴えることが出来るだろうか。
──そのとき、彼に応えてやれる誰かが、側にいてくれるだろうか。
それが自分ではないことだけは、ビショップはよく承知している。ルークに求められることのない、自分に出来ることは、ただ一方的に少年を見つめ、勝手な思いを捧げることだけなのだと、知っている。卑下するでもなく、自嘲するでもなく、この身に定められた役どころを、全うするだけだ。それが、続けていられなくなる、きっと、最後の時まで。

一つ深呼吸をしたところで、ビショップは軽い疲労感を覚えた。主人を早く休ませた分、今日片づける予定であったいくつかの業務が積み残しとなっている。軽く一息を入れてから、そちらの方に取り掛かるとしよう。紅茶でも淹れて気分を切り替えようかと、青年は頭の中で、ストックしてある筈の茶葉のリストの中から適当な銘柄を選択した。
その選択肢の中には、普段使いの用途とは異なって、ルークに飲ませてやろうと思って取り寄せた特別な銘柄も含まれる。あの少年は茶の味わいなどには興味を示さないと、もちろんビショップは心得ているが、だからといって変わり映えのしない水を差し出すようなことを続けていては、この世のほとんどのものに興味のないルークの周りにあるものは貧しくなる一方だ。
たとえ当人にこだわりがなくとも、ビショップは側近として、丹精込めた良質のものをルークに与えたいし、心を動かすほどの美なるものを見せたいし、そうして、この世界に広がる豊かな選択肢を、いつも教えてやりたいのだ。そうすることで、この少年の幼い日に与えられなかったものを、少しでも取り戻すことが出来るのではないかと、そんな夢想を抱くのを、いつまで経っても諦めることが出来ずにいる。
無機質な執務室で独り、片手間に喉を潤すというだけではなくて、もっと違った環境で、優雅なアフタヌーンティーの席を、いつか設けたいものだという密かな計画も、その一環だ。誕生パーティーは出来そうにないが、それくらいならば、暫し仕事を忘れて、スコーンの賞味につきあってやれるような気がする。三段重ねのティースタンドを前に行儀よくちょこんと坐るルークの姿を想像して、ビショップは小さく笑みをこぼした。

脳裏に蘇るのは、英国児童文学を題材に取った、ノスタルジックなアニメーション映画。不思議の国の、愉快な住人たちの繰り広げる楽しいティーパーティーの歌に、とても素敵なフレーズがあったのを思い起こす。寝室を後にする前に、眠る少年の傍らに今一度、ビショップはそっと身を寄せた。

生まれたことを、祝って貰えなかった少年に、16回分の祝福を。
誕生日でも何でもない日に、少しも特別ではないこととして、当たり前のようにして何度でも、心から捧げよう。





──Very merry unbirthday to you!




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愛を知らないルーたんについて必死に弁明するビショップさんになりました。あなたが教えてあげようよ!

2012.02.05

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