神は不可解に行動する -1-
無遠慮に侵入した舌は、無抵抗の口腔を思うさまに蹂躙した。およそ情緒に欠ける一方的な行為に、ビショップは内心で大いに閉口したが、微塵たりとも表情に出すことはしなかった。軽く閉ざした瞼は、あたかも神に感謝の祈りを捧げる敬虔な信徒めいて、場違いなまでの高潔さを保ち、情動の片鱗も伺わせない。
いついかなる場合にも余裕に満ちた冷静な態度を崩さず、非の打ちどころのない優雅な振る舞いでもって立つことに定評のある黒衣の青年は、すっかり慣れた処理方法でもって、己の胸の内を淡々と遮蔽した。馴れ馴れしく舌を絡めてくる相手に応じることはしないが、逃げたり抗ったりすることもしない。そもそも腰に腕を回して抱き寄せられ、顎に指を掛けて固定されているとあっては、今更どこにも逃げ場はないのであるが。
より深く貪ろうというのか、ぐ、と覆い被さるようにして、相手は身を寄せてくる。だいぶ首を反らす格好となり、呼吸も楽ではないが、ビショップはこれといって反応を返さず、安定を得るために軽く片方の足を引くだけにとどめた。口づけを交わし情動を交感するというよりは、これはただの捕食行動といった方が正しいだろう、と己の置かれた状況を冷静に評論する。獣めいた息遣いで、行儀悪く内側をかき回されては、そんな感想を抱くのも無理はなかった。
さて、このくだらない嫌がらせに、いったいいつまで耐えれば良いものか──されるがままに身を委ね、思いを馳せていると、ようやく飽きたのか、唇を塞いでいた生温いものが離れる。
唾液が伝い落ちる感覚に辟易としながら、ビショップはゆっくりと、閉じていた瞼を上げた。出来ることならば、ずっと目を閉じて顔を背けていたいものであるが、そうもいくまい。薄闇の室内、ぼんやりと発光する大型モニターを背景にして目の前に立つのは、今の今まで好き勝手に口腔を蹂躙していた相手──本日、日本支部を訪問し、ひとしきりの視察を終えたばかりのPOG極東本部長ヘルベルト・ミューラーであった。
一歩身を引きつつ、最小限の動作でもって口元を拭うと、ビショップは何事もなかったかのような平静たる態度でもって、極東本部長に相対した。
「……お気は済みましたか」
「無抵抗かね。つまらんな。日本支部は上から下まで、不感症ばかりか」
上段に構えた挑発的な物言いの内に、言葉とは裏腹に愉悦の色を浮かべて、ヘルベルトはやれやれとでも言いたげに首を振った。
内心の嫌悪感ならば既に軽く臨界点を突破しているのであるが、そのようなことを伝えたところで、この悪趣味な相手を喜ばせることにしかなるまい。重々承知しているビショップは、あくまでも涼しい顔を通した。暗に、無感動の極致たるPOGジャパン総責任者の白い少年を揶揄されたことについては、もちろん愉快ではないとはいえ、今はそこに異議を申し立てるべき場面ではない。ただ、つまらないと評する割には、随分と熱心に舌を求めてきたものだなという感想だけ、胸の内で述べておいた。
返答の無いのをどう捉えたか、ヘルベルトは芝居がかった動作で肩をすくめた。
「冗談だ。君以外の者にこのようなことはしないよ。嫉妬したかね」
「ご心配なく。本部長のご趣味について、私は一切、思うところはありませんので」
何をされようとも、動かすような感情はないと断言するビショップに、ヘルベルトは「冷たいものだ」と苦笑した。
「これでも、君のことは高く評価しているつもりなのだがね──私は美しいものの味方だからな。いくら聡かろうとも、見苦しい者よりは、美しく愚かしい者の方がずっと、傍に置くには好ましい」
あからさまな侮辱を受けてなお、ビショップは表情一つ動かさなかった。他人を挑発して冷静な判断能力を奪うことによって己の優位を確立するのを生きがいとしているらしい悪趣味な男にとって、そのポーカーフェイスぶりは小癪なものに映っただろうが、むしろ面白がっている風でもある。
それも当然か──いかなる手段を用いてでも己の意思の実現に邁進し、仮にも極東本部を束ねるまでに上りつめた者である。彼にとって、自分の思い通りにならぬことなどは一切なく、すべてが綿密に創り上げられたパズルのように、思いのままに動かせるものと当然のようにみなしている。その階級の足元にも及ばぬ、組織の下位構成員など、手遊びの玩具に過ぎず、ささやかな反抗を試みたところで、シロネズミが爪を立てるような、ただ可愛いものでしかあるまい。おそらく今は、いかにしてこの生意気な若造の仮面を剥ぎ取って慌てさせたものか、内心で鼻歌交じりに思案でもしているのだろうとビショップは推測した。
淡々として内心を伺わせぬビショップの面持ちを前に、あきれたような感嘆するような息を吐くと、ヘルベルトは今一度、距離を詰めてその顎に指を掛けた。無抵抗の青年を上向かせ、吟味するようにじっくりと視線を這わせる。
「常々思っていたのだが、君にはもっと似合いの職場があるのではないかね。こんな弱小支部でくすぶって、ポッと出の子どもの世話などをさせているには勿体ない」
台詞だけ聞けば、あたかも上司から目を掛けられ、将来性を期待されているかのような錯覚に陥るかも知れないが、極東本部長の人となりを十分に承知しているビショップは、そのような愚を犯すことはなかった。こうしてあたかも人を持ち上げるかに見せかけておいて、どうせ次には碌でもない暴言が続くに決まっている。分かりきっていたので、ビショップは無言のまま、事務的に男を見つめ返した。
予想通り、ヘルベルトは人を小馬鹿にしきった笑みを浮かべると、その表情に違わぬ台詞を吐いた。
「どうせ身を捧げて奉仕するというならば、君の場合、執事よりも男娼になってくれた方が、喜ぶ人間が多いだろうよ。なんといってもその美貌と身体だ、老若男女を問わず、買い手には事欠くまい」
ああ──またか。ビショップは内心で盛大な溜息を吐いた。
相当に際どい問題発言であるが、特にこれといって感想は浮かばなかった。ここまであからさまでなくとも、似たようなことは、ギヴァーとして歩む道を決めて以来、これまでに幾度となく陰で、また面と向かって言われ続けてきたからだ。いちいち過剰反応するまでもなく、すっかり慣れてしまったし、正直いって、ビショップは飽き飽きとしていた。
どうして、パズルなんてやっているのか──同じ組織内のメンバーから、時に嫉妬混じりの羨望として、あるいは無邪気な疑問として、そのようなことを言われるのは、面倒でならなかった。もちろん、そんな内心は得意のアルカイック・スマイルで覆い隠し、私にはこれしか出来ませんからなどと謙虚な答えを返すのであるが、そんなくだらないことを問うてくる、相手に対する幻滅は埋め合わせようがなかった。
「過分なお言葉、恐れ入ります。私ごとき、一介の凡人ふぜいに」
「心にもない謙遜をするものではないな。君の振る舞いは、どう見ても、己の価値を知り尽くした者ならではの自信に溢れているではないか。むしろ不遜なまでにね──否、悪いとは言わんよ、美なる者は傲慢であってこそ、手折る愉しみが増すというものだ」
尊敬の念など当初よりゼロを割って久しく、これ以上失いようがないように思われた上司に対して、ビショップは同じ幻滅を抱いた。何ら幻想も期待も抱いていない相手に対して、がっかりとするというのも理屈に合わない話であるが、もしかすると、同じパズル制作者という側面においてのみは、自分の内にもまだこの男に対する僅かばかりのニュートラルな感情が残っていたのかも知れない。どうやらそれも買いかぶりであったようだが──「美しい肌を保つ秘訣は何かね。ご主人様との睦み合いかな」などと言って馴れ馴れしく輪郭を伝い上がる指の硬い感触をよそに、ビショップは思いを馳せた。
──何故、同じくパズルというものを愛する者同士でありながら、彼らは分からないのだろう。ヒトの外見の美など、一刻一刻と劣化していくばかりの肉体に依存し、年月に耐えられぬ、儚い幻想に過ぎない。そんな怪しげなものに己の価値を置いて縋るなど、少しばかり知恵のある者ならばまず避けて通る道だ。やがてそれが失われたときに、自分には何も残っていないと知ることになるのだから。
どうせ美を崇めるというのならば、それはもっと確実であり、永続性があり、普遍的であるべきだというのがビショップの考えだ。いち文化圏でたまたま美形の範疇に含まれる容姿であるからといって、広い視野で俯瞰したとき、いったいそれがどれだけの意味を持つだろう。もっと大きな集団で、あたかも人類に共通の原型のイメージの如く、共通してそこに美を見出せるもの──物質を越えたところにある仕組み、概念──それはたとえば、パズルというひとつの芸術に集約される。
文学のように、情緒深く。音楽のように、緻密に。絵画のように、普遍に。建築のように、挑戦的に。
そして──ここが肝要であるが──科学のように、潔癖に。
パズルは、偶然の産物であってはならない。偶然からアイデアが生まれることは構わないが、それ自体に根幹を頼るようでは、最早パズルとは言い難い。パズルとは、厳密なるルールに則った、正当なる知の戦いの場である。あるパズルは、何度繰り返しても同じ性質の同じ問題であり、同じ条件下で同じ解法をとれば、必ず同じ結果に至る。妥当な実験の要件──再現性を、ここに見出すことが出来る。すなわち、記述された方法に則り、条件を整えて追試をしたとき、繰り返し同じ結果が得られるという、科学的再現性である。
この、誰が取り組んでも同じ結果が得られるという側面こそが、パズルと他の芸術との一線を画する礎であると、ビショップはそのように解釈している。ともすれば、無粋であるとも取られかねない、自由度の入り込む余地のないその潔癖さが、逆により一層、パズルの崇高なる美に磨きをかけるのである。
パズルは物質に依存しない。木で作ろうとプラスチックで作ろうと、同じ立体パズルは変わらず、同じ立体パズルである。そのパズルを支える構造、システム、ルールさえ守れば、いくらでもオリジナルと同じものを作り出せる。演算パズルやワード・スクエアなどになるともっと顕著で、必要な道具は紙と鉛筆だけだ。定規で測って精密に作図しようと、拙い筆致で書き殴ろうと、何ら本質に変わりはない。それに相対し、解かんとするときの脳内には、そんな見た目の個体差を超越した、いわばパズルの「原型」が宿り、ヒトは専らこれに向き合い、挑戦することになるからだ。
パズルは、それを見る者の脳内でパズルとして認識されて初めて、真の意味で成立する。パズルの実体は、この現象界に依存するのではなく、それを離れた天上の世界に存在しているのだ。あたかも、面積を持たぬ「点」や、太さを持たず永遠に伸びる「直線」といった、この世には存在しないものの概念を、何故かヒトが脳内に有することが出来るのと同じように。音楽を聴いても、景色を見ても、「美しさ」を感じることが出来るのと同じように。古代の賢人がイデアと呼んだ、我々の魂が共通して知る本質「そのもの」──そんなものに、最も漸近して存在し、手の届くところにあるもの、ビショップにとって、それがパズルだった。
秩序、そして調和。あたかも数式のごとく、物質に依存せず成立するパズルの美は永遠である。この身が滅びようとも、制作したパズルは変わらぬ姿を保ち、栄誉ある我らがPOG研究所のアーカイブの中で輝き続けることだろう。己の作品が受け継がれていくこと、何であれ、いち制作者としてこれほどの喜びはない。美しいパズルを作り出すことが出来る、この技術こそ、ビショップが誇り、己の拠り所とするものだ。
そのようなことも理解出来ずに、表層的なものにとらわれて妬み嫉みを向けるなど、神のパズルの名を冠する頭脳集団に身を置いておきながら、恥ずかしいとは思わないのだろうかと、ビショップは軽い苛立ちを覚えずにはいられない。別段に、他人の眼を意識するがゆえではなく、自分がただ気分良く過ごしたいがために身なりや振る舞いに気を遣った結果がこれであるビショップにとって、たぶん、そういう彼らの思いというのは理解も出来ないし、歩み寄ることもないのだと思えた。
「しかし──いくらお上品な顔を拵えても、それだけ剣呑な空気を纏っていては台無しというものだ」
つい己の思考に没入してしまっていたビショップは、品定めをするかのようなヘルベルトの指に唇を撫でられてようやく、我に返った。どうやら相手は未だ満足を得ず、このまま嫌がらせを続行するつもりらしい。ビショップは内心、本日で何度目になるか分からない溜息を吐いた。
だいたい、一応は視察という名目で訪問しておきながら、この男は何ら有意義な仕事をしていないではないか──管理職の重要な責務として支部の実情を把握し、下で働く者たちの意見を汲み取り、今後のよりよい組織づくりの方針に活かすなどという意識を、そもそも持っているものとは考え難い。個人的な嫌がらせ目的での来日といった方が、より事実に即しているだろう。とんだ上司もいたものである。いくらギヴァーとしての手腕が優れていようとも、このような者が極東本部を仕切るのは、その下位組織である日本支部にとっても歓迎出来たことではない。
POGは変わらねばならないというのに──今一度原点に立ち返り、選ばれし人員が共通の理念の下で不足なく己の役割を果たす、古えよりの高潔な在りようを取り戻さねばならない。もし改革が成ったならば、この男などは真っ先に切り捨てられてしかるべきだ──などと、首や腰の辺りを愛撫されながらも、組織の今後について冷静に思考を遊ばせていられる余裕を、ビショップが保っていられたのはそこまでだった。
「最高級のジェイドを思わせる瞳だ。漆黒のビロードの上に飾ったならば、さぞかし映えることだろう──もっとよく見せてくれ」
何気なく伸ばされたヘルベルトの片手が、ビショップの頬に落ちかかるしなやかな鳶色の髪に触れ、これを絡め梳く。それまで無抵抗を貫いていた青年が、僅かに眉を寄せて身を引きかけるのを、ヘルベルトは目ざとく察知して腕を掴み、それを阻んだ。反射的にビショップは腕を振り払いかけたが、辛うじて相手との階級差に思い至ったのか、結局、そのまま力なく脇に下ろす。
それは、この密室の行為の中で、青年の初めて見せた抵抗らしい抵抗といってよかった。ようやく糸口を掴んだと言わんばかりに、ヘルベルトは捕らえた獲物の腕にねっとりと指を巻きつけて握り直しながら、酷薄な笑みを浮かべた。
「身体よりも、髪に触れられる方が堪え難い、か。奇遇だな、私もだよ」
言って、面白い玩具を見つけたように、改めて身体を密着させる。後ずさろうとも、逃げ場は無い。頬に触れて頭を包み込むようにする両手を、ビショップはなすすべもなく受け容れるほかなかった。
「私は単に、美しく整えたものを乱されるのが嫌なのだがね──どうやら君は、それだけではないようだ」
あえてゆっくりと、ヘルベルトは獲物の首筋から耳の後ろへと指を這わせ、整えられた髪の合間へと差し入れる。優しげに愛撫するかの手つきでもって梳き、かき上げられると、ビショップは最早、表情に苛立ちが滲むのを抑えることが出来なかった。せめてこれ以上、碧眼を覗きこまれないように伏せ、忌々しく唇を噛み締める。
屈辱に耐える青年の反応は、どうやらヘルベルトにとってはこの上ない美酒であったらしい。わざとらしくも、「おやおや、どうしたのかな。人の話を聞くときは、視線をしっかり合わせるのが礼儀ではないかね」と窘めると、舌舐めずりしかねない欲望に満ちた表情でもって、じっくりといたぶるように、髪を弄ぶ動作を繰り返す。
「勿体ないではないか。折角、良い具合に潤んで色つやが増してきたところだというのに──そんなに悔しいかね、感じてしまうのが?」
吐息交じりに低く紡ぐヘルベルトの声音は、あからさまに気だるい睦言の響きを宿す。思わず睨め上げかけて、ビショップは辛うじてそれを自制した。いかなる反応も、図星と取られてしまうだろうことは明らかだった。これ以上、相手を喜ばせることも、自分が屈辱を受けることも耐え難い。その意味で、常日頃の振る舞いから優雅で穏やかな人間であると周囲からみなされつつも、実際のところは決して己の内面は穏やかでも何でもないと自覚しているビショップが、これほどの侮辱に耐え続けていることは、奇跡といってよかった。
青年はなにも、POGジャパン中央戦略室付きギヴァーとしての所属を守るべく、かような仕打ちに耐えているわけではなかった。自分独りのことならば、上司に立てついて首を飛ばされようとも、一向に構いはしない。失うものは大きいだろうが、自分の心に正直に従ったとして、何ら後悔するところはないだろう。
だから、ビショップが今なお超人的な忍耐力と自制心を発揮して辱めに耐えているのは、ひとえに、何を置いても護りたいと願う、ある存在のために他ならなかった。
POGジャパン総責任者ルーク・盤城・クロスフィールド──あの少年が、自分の行ないのために不利な局面に陥れられるような事態を、ビショップは何としても避けたかった。極東本部長に対して、仮にビショップが刃向かうようなことをすれば、その身分を預かる日本支部総責任者にまで、累が及ぶであろうことは間違いがない。それでなくとも極東本部長ヘルベルト・ミューラーは、年若くこれといった実績も持たぬルークをこの地位に据えておくことに否定的で、隙あれば玉座から追い払うつもりを隠そうともしていない。つけいる隙を、僅かでも見せるわけにはいかなかった。
涙ぐましい献身、そういって間違いではないが、一方的な忠誠心というだけでは説明不足であろう。これは、自己犠牲の精神などとは根底からして異なって、純粋なる利己的な行動に他ならないことを、ビショップは自覚していた。
ビショップは、中央戦略室所属という地位は失おうとも構わなかったが、ルークの側近としての立場については、同じように割り切ることが出来なかった。組織などに縛られて自分を抑圧するのは御免であると、物心ついた頃から思っていたというのに、今や、ただ一人の少年にすっかり身も心も縛られている。ルークを護ると同時に、ルークの傍らに控える自分の立場を護るためにこそ、ビショップは屈辱的な試練に耐えているのだった。
その間にも、髪を撫でまわすに飽き足らず、ヘルベルトの手は嗜虐的な意図でもって、獲物の耳朶を捉える。
「髪と──耳もか? ああ、ピアスホールは性感帯になると俗に言うからな。どれ、試してみようか」
ぐ、と顔を近寄せ、今にも耳朶を含まんとする相手を、とうとう忍耐の限界に達したビショップが、いい加減にしろと叫んで突き飛ばしかけた、そのときだった。
「──本部長。お楽しみのところ申し訳ありませんが、その者には182秒後、一八〇〇より特殊活動任務が与えられております。これは、あらゆる状況に優先して遂行される本部の直截オーダーです──解放してやってはいただけませんか」
割って入った声は、決して大きくも鋭くもなく、むしろ淡々とした呟きに近かったが、しかし、今ここで空間を同じくする人間の耳には、極めて明瞭に届いた。抑揚に欠け、熱を感じさせないその声の響きは、一瞬にして聴く者の注意を引きつけ、あらゆる動体を包み込む空気ごと静止させる。抗い難い、それは忠実なる部下はもちろん、階級的に優る相手に対しても、同様に有効であるらしかった。
「……ルーク様」
先に込み上げた衝動も忘れて、ビショップは知らず口の中で、小さくその名を呟いていた。絶妙のタイミングでもって、成人二名の動きを静止させたのは、それまでじっと椅子に腰掛けて、事態の推移を無感動に見つめていた少年──POGジャパン総責任者ルーク・盤城・クロスフィールドであった。