神は不可解に行動する -2-
どうするのか、と静かに問い掛けるような、その淡青色の瞳に見据えられて、ヘルベルトは軽く舌打ちをすると、今にも賞味しようとしかけていた獲物から身を離した。ひとまず難を逃れたビショップの内に、少なからぬ安堵とともに、まさかこの少年が、彼にとって何ら関係のない筈の他人同士の諍いに介入するとは、という驚きが広がる。
この世のほとんどのものに対して無関心を通すルークのことだ、たとえ目の前で刃傷沙汰が起ころうとも、平然と執務を続けるであろうことに違和感はない。その身に直截的な危害の及ばぬ限り、少年にとって、全ては正しく「他人事」なのだ。そんな自分自身のことにさえ、ともすれば今ひとつ関心に欠けるくらいなのだから、まして他人同士の諍いに、彼が首を突っ込んだり口を出したりする筈もない。
だからこそ、ヘルベルトも目の前の少年の存在をすっかり無視し、こともあろうに神聖なるルークの執務室で事に及ぶなど、その傍若無人な振る舞いに拍車がかかったともいえるのだが、それについてビショップはルークに苦言を呈する気などはなかった。むしろ、こんな醜悪な場面に、己の主たる白い少年を立ち合わせることの方が、よほど罪深く感じられて、堪え難かった。どうか最後まで、何事もなかったかのように冷たい人形の在りようを貫き、無視を続けてくれるようにと祈っていたくらいだ。
そのルークが、自ら進んで言葉を発し、割って入った──成人二名が思わず動きを止めて振り返り、まじまじとその姿を見つめてしまったのも、発言内容がどうのという以前に、すっかりいないものとして扱われていた筈の白い少年が何らかの言葉を発したという、事実そのものに虚を突かれたためというのが大きな要因を占めていた。
とはいえ、窺い知れる限り、淡青色のガラス玉めいた瞳は何ら感情を映すことなかったから、彼としては部下の窮地を助けたというよりは、ありのままの事実をただ伝えただけといった方が正しいのだろう。本部の直截命令があるとなれば、日本支部を預かる身分として、つつがなくそれを遂行する責任があるということくらいは、年若いこの少年も心得ている。機械仕掛けめいた几帳面さでもって、今後のスケジュールのリマインダーを飛ばしたと、言ってしまえばそれだけのことだ。
唯一絶対の本部命令を持ち出されては、さすがの極東本部長も逆らうわけにはいかない。不承不承の様子ながら身を引いたヘルベルトは、わざとらしい溜息を吐くと、ビショップに向けて肩をすくめた。
「情けないことだな。こんな子どもに助けて貰うとは」
芝居がかった所作で嘆かわしげに言うと、それきり関心を失ったように踵を返し、男は、じっとこちらを見つめる白い少年のもとへと歩み寄った。
「すまないね、仲間外れにしてしまって。寂しかっただろう」
揶揄しつつ傍らに立つと、頼りなく細い身体を椅子に預ける少年の姿を、ヘルベルトは尊大な態度でもって眺め下ろした。値踏みするかの眼を隠そうともせずに軽く腕を組み、頭から爪先まで、未成熟な身体に舐めるような視線を這わせる。のみならず、その片手が純白の衣装の襟元に割り入り、ほっそりとした少年の喉もとに掛かるに至って、ビショップは最早、黙って見てはいられなかった。
「本部長。それ以上は」
「残念だ。その台詞は是非とも先ほど聞かせて貰いたかったよ。黙っていたまえ、極東本部長と日本支部長が親睦を深めようというのに、どんな問題があるというのだ。それより、大事な任務とやらが待っているのではなかったのかね。早く行きたまえ」
お前の出る幕は無いと言わんばかりの男の態度は到底受け容れ難かったが、これを組織上の上位者二名の間の問題であるとする発言内容自体は至極まっとうである。それでなくとも、ビショップにはどうすることも出来なかった。やめろと言ったところで、そもそも聞くような相手ではないというのは百も承知だ。むしろその歪んだ嗜好からいって、抵抗や反発があればあるほど、より行為を煽って彩りを添えることにしかなるまい。
残る手段は力ずくで強制的に止めさせることであるが、もちろんそのようなことをして、組織内での立場が無事で済むものとは思えない。最後の手段を、静かに胸の内で覚悟しつつも、ビショップはただ、目の前で為される非道を見つめていることしか出来なかった。
片手の内に収めた少年の首を、男は恐怖心を煽り立てるようにゆっくりと撫でさすった。急所をさらして、普通であれば、怯える反応の一つは返すだろうに、しかしルークは無抵抗でそれを受け容れた。情動を隠すのではなく、はじめから感じてもいないというようなその在りようは、どうやらヘルベルトにとって新たな嗜虐心をくすぐられるものであったらしい。柔らかな白金の髪が繊細に影を落とす白い顔を、片手で無造作に掬い上げるようにして上向かせる。
「さて、彼の代わりに、今度は君がその可愛らしいお口でもって相手を務めてくれるのかね。総責任者殿」
触れるばかりに顔を寄せて、男は愉悦のかたちに唇を歪めた。空いたもう一方の手を、臍の上で組み合わされたルークのか細い指に重ねて、卑猥な動きでもってねっとりと撫でる。
「……お望みであれば」
作り物めいて白い面にいかなる感情の色も浮かべずに、ルークは淡々と応じた。不躾な視線を正面から受けて、なお臆することなく、淡青色の瞳でもって相手を見上げる。それは、本心を隠して強がりを言っているだとか、高をくくっているというのとは違って、本当にそれで構わないとでもいうような、侵し難く透明な眼差しだった。
「ほう。健気なことだ」
ますます面白いとでもいうように、男の無遠慮な親指が、ルークの可憐な唇に押し当てられる。みずみずしい柔肉の弾力を確かめるように、硬い指先になぞられても、ルークは他人事めいた無感動な表情を崩さなかった。顎を捉える長い指に促されるまま従順に、小さな口を薄く開く。
「…………、ふ、」
寝かせて曲げた指の背で、無造作に唇を押し割られて、ルークは小さく声をもらした。ぐ、とねじ込まれるままに、なすすべなく、椅子の背に後頭部を押しつける。無理に咥えさせられたものに、少しばかり目を眇めて、しかし、ルークは視線を外そうとはしなかった。ガラス玉めいた瞳は、睨めつけるでもなく、赦しを乞うでもなく、無垢なまでの在りようでもって、目の前の男の姿を映す。
無言の両者の間に視線が交錯するも、そこに通い合う意図はない。淡々と無意味に、時間ばかりが経過していく。
「……やれやれ」
絡み合った糸を、先に断ち切ったのはヘルベルトの方であった。咥えさせていた指を引き戻すと、身を起こして、つまらなそうに首を振る。
「子どもだな。あと2年、いや、1年もすれば、味見をしてやらないでもないがね」
それだけ言って、極東本部長は年若い部下の椅子を離れた。どうやら、今度は本当に気が済んだものらしく、「無駄な時間を過ごしてしまったものだ」などと言い捨てて、執務室を後にした。
扉が閉まって、ビショップは張り詰めていた神経を少しばかり緩めた。とんだ災難であった──自分はともかくとして、護るべき主人にあのような者の汚らわしい手を触れさせてしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。自責の念に駆られながら、忠実なる側近は、白い少年の様子をうかがった。
ルークは、頭痛の種が去って安堵の溜息を吐くだとか、表情を緩めるだとかの反応は一切見せずに、変わらず作り物めいた無感動な在りようを貫いていた。指を組み直して座した姿は、何事もなかったかのように、元通りの静まり返った在りようを取り戻している。そもそも先程の状況を災難であると、彼自身が認識していたのかどうかも定かではない。それは、ビショップを救ったあの一言の真意が知れぬのと同じように、外から推し量ることはかなわなかった。
ルークの言う「本部命令」というのは、ある意味で間違いではないとはいえ、限りなく嘘偽りに近かった。事情を知らぬ極東本部長はあっさりと騙されてくれたが、実際のところ、ビショップは本部からいかなる要請も受けていない。それではルークは部下を救うために出まかせを言ったのかといえば、そういうわけでもなく、だから、ある意味で間違いではない嘘、という表現が最も適当であろう。
本部の意思は、すなわち、非公式といえPOG総帥から直截の命を受けて動く、ルークの意思と同一である。その意味で、ルークの望みはイコール、本部命令と等価であるといってしまって差し支えない。
彼の言う「特殊活動任務」が何のことであるのか、ビショップはもちろん説明されなくとも了解していた。それは、主人を風呂に入れるという、この上なく崇高な任務を指して他にない。
精密に定められた秩序と調和を愛するルークの脳は、日に何度か、「どうしても風呂に入らなくてはならない時間」というものを持っていて、執務中であろうと何であろうと、それは最優先で遂行されなくてはならない至上命令である。それが、いったいどういう仕組みで決められているものか、そんなことはビショップの理解の及ぶところではない。
分かるのは、もしそれが達成されなければ、ルークはひどく混乱し、取り乱してしまうという事実だけだ。だから、これがルークにとって、ひいては組織にとって、極めて重要な時間であることは確かである。それ以外に、この少年が他人同士の諍いに割って入るだけの理由を、ビショップは見出すことが出来なかった。
早速、支度をしてやろうと、少年に向けて一歩足を踏み出しかけたところで、ビショップは思いとどまってそれを中止した。じっと俯いていたルークが、おもむろに顔を上げたからだ。それがどうしたと思われることかも知れないが、ビショップはそれだけのことで、すぐさまルークに制止を掛けられたことを理解した。
動かないのが当たり前の人形のように、じっと微動だにせずに同じ姿勢を続けるという、普通であれば苦行に近い在りようが、この少年にとっては最も自然な姿だ。そういう彼が、何らかの挙動をとるとき、その一つ一つには、およそ無駄というものがなく、確実に込められた意図が存在する。今の場合は、部下のとりかけた行動を押しとどめる目的ととって、間違いはないだろう。
ルークは自分の身体を、不慣れな道具のように扱う。そこには、無意識の動作や癖というものは欠落して、あたかもチェスの駒を次にどこの座標へ進めるか、精密に定めて移動させるかのような、熱を感じさせぬ挙動となって現れるのだ。
「座れ」
短く命じたルークが、軽く顎で指し示したのは、椅子ではなく冷ややかな床であった。すぐさま、演劇の一幕のごとく、ビショップは優雅な所作で黒衣を翻すと、音もなくその場に跪いた。
玉座から身を起こした白い少年は、ゆっくりとした足取りでもって、忠実なる側近へと歩み寄った。醜態を晒した部下を打ち据えようというのだろうか、それも良い。ビショップは更に畏まって身を低くした。
だが、ルークはビショップの目前に立つや、その場で、ぐらりと崩れるように膝を折った。また眩暈を起こしでもしたのかと、咄嗟に顔を上げたビショップの頬に、何かが触れる。それが、両側から包み込んで固定するように伸ばされたルークの手のひらであると認識したときにはもう、唇が触れ合っている。およそ抵抗なく、当たり前のようにして重ね合わさった、それは、とても静かな接触だった。
小さく押し当てるだけで離れると、ルークはじっと観察するような瞳でビショップを見つめた。数秒後、不可解気に首を傾げる。
「……さっきと違う」
訝しげに呟かれた言葉を、半ば茫然としながらも、ビショップは聞き逃さなかった。その意図を理解して、深々と溜息を吐く。
「ルーク様。……お戯れは、ほどほどにしていただけますか」
軽く諌めて言うと、ルークは何がいけないのか分からないというように眉を寄せ、さらに首を傾げた。つまりルークとしては、先程お前は同じことをされていたのに、どうして自分だと反応が違うのだとでも言いたいのだろう。
ルークは嫉妬を覚えたわけではないのはもちろん、こちらを慰めようとしてこんなことをしたのではないのだと、ビショップは当然のごとく承知していた。ただ単にこの少年は、己の側近が常ならぬ様子を見せたということに興味を覚え、自分もそれを試してみたくなったというだけのことに過ぎない。それ以上のものを、ルークの内に期待するのは徒労というものだ。浅からぬ付き合いの中で、それくらいのことは心得ている。
それでも、自分が何らかのかたちでこの少年の興味を引けたというのは、ビショップにとって紛れもなく、本日の業務日誌に特筆すべき事項であり、同時に、そんな程度のことで浮かれている己を自嘲した。いずれにしても、好奇心を持つのは結構であるが、そう易々と、こういった行為をよそでされては堪らない。その辺りを教えてやる必要がありそうだと、ビショップは片手をルークの薄い肩に乗せ、もう片手をその唇に伸ばした。
「あまり簡単に、このようなことをされるべきでは──」
可憐な唇を、拭ってやろうとして指先を触れさせたところで、ビショップは声を詰まらせた。忠誠を捧げる主人を前に、言葉を言い終わる前に途切れさせるなど、本来ならば恥ずべき失態である。しかし、この場合、事情が事情であったから、やむを得ないとして大目に見ても貰えるだろう。
指先を包む、温かな感触。柔らかな湿度。押し当てられたビショップの指を、ルークは躊躇いなく口に含んでいた。咄嗟に手を引こうとして、しかし、下手に動かして万が一にも、己の爪でルークの口腔を傷つけてしまったらと、思うとビショップは僅かたりとも指を動かすことが出来なかった。温かく濡れた柔肉に挟み込まれる感覚を、されるがままに受け容れる。
睫を伏せて、ルークはビショップの指先に吸いつき、舌を絡めて爪の縁を器用になぞった。敏感な先端をくすぐるように小さく舐められて、立ち上る感覚にビショップは手首を震わせた。かり、と小さく歯を立てられると、甘美な刺激が指先から腕を伝い上って首筋を痺れさせる。時折、ルークは反応を伺うように、観察者めいた目でこちらを見上げてくるものだから、ビショップはいったいどんな表情をすれば良いものか分からなかった。くだらない嫌がらせに耐えていた先程までと違って、敬愛すべき主人から施される行為に、胸の内から湧き起こるものを隠蔽しきるのは、ひどく難しかった。
ちゅ、と最後に吸い上げて、ルークは唇に挟み込んでいたものを解放した。気が済んだのかどうかは定かではないが、感想を求めるかのように、じっとこちらを見上げてくる。自由となった指先を、ビショップはそっと、己の口元に寄せた。愛おしげに唇を寄せながら、再度、少年に言い聞かせる。
「……これも。他では、なさらないでください」
「してない……」
「これからもです」
先程、極東本部長にそうされたときには何もしなかったと、言い訳か何かのように呟く少年に、ビショップは甘い顔を見せずに戒めを重ねた。有無を言わせぬその語調は、この青年にしては珍しいことで、ルークは困惑を深めた様子で目を眇めた。分からない、と小さく呟く。どうしてそんなことを言われなくてはいけないのか、どうして「他では」駄目でここでなら良いのか、選ばれし頭脳を持つ聡明な少年にあっても、それは理解し難いようだった。どういうつもりなのかと問い掛けるように、淡青色の瞳は忠実なる側近を捉えて離さない。
「教えて、差し上げましょうか」
返答を聞くより前に、ビショップは無防備な少年の唇を奪っていた。
心地良い感触に誘われるままに、可憐な唇に押し当てては離れ、また重ねる。ああ、これでは、やっていることがあの男と同じではないかと自嘲する思いが脳裏を過ぎったが、拙くも柔肉を押し付けて応じてくるルークの健気さを前にして、そんなことはどうでもよかった。
閉じ合わされた唇の合間を舌先でなぞると、ルークは驚いたのかぴくりと背を跳ね、しかし抗おうとはしない。それに乗じてこじ開けるような真似は、それこそ八つ当たりにしかならないので自重し、ビショップは軽く下唇を噛んでやるだけにとどめた。それでもルークは、ふる、と首を震わせた。
頼りない腰に腕を回して抱き寄せると、元々力が抜けかけていたのだろう細い身体はあっけなく支えを失って、ビショップの腕にもたれる。儚い重さを、青年は愛おしく支え直した。
このまま押し倒してしまうことも容易であろうという思いが、ちらりと脳裏をよぎったとき、ビショップはおもむろに、触れ合せていた唇を離した。
「……分かりましたか」
「っ、は……」
そう執拗にしたつもりはなかったのであるが、ルークは軽く息を切らしてしまっていた。普段は血の気を感じさせない白い頬が、心なしか上気し、はぁ、と吐息をこぼす唇は艶やかに濡れて、なんとも可愛らしい。暫く見守っていると、ルークは切なげに眉を寄せて閉じていた瞼を、ゆっくりと上げた。眩しそうに睫を震わせて、こちらを見つめる淡青色の瞳に、ビショップは優しく微笑んでみせた。
きゅ、と少年の細い指が、ビショップの黒衣の肩を掴む。それが何を意味するか、忠実なる側近は当然のごとく承知していたので、両腕でもって年若い主人を抱擁した。
ルークは腕を伸ばして、ためらいがちにビショップの首に回す。それを確かめてから、少しばかり後ろへと押し倒しかけると、頭を打ってしまわないかと怖いのだろう、しっかりとしがみついてくる。安心させるように、ビショップは少年の柔らかな髪を撫で、そっとかきまぜた。暫く続けてやっていると、ルークもまた、ビショップの頭を抱きかかえるようにして身を寄せた。
少年の手が、鳶色の髪をそっと絡め、握り、梳く。縋りついて、髪をかき上げる細い指の冷ややかな感触が、なんとも心地良く、ビショップは陶然と目を閉じた。柔らかく包み込まれるような白金の髪に、頬を擦り寄せる。
納得がいかない様子で、ルークは指を絡ませながら、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、違うみたいだ」
少し掠れた少年の声を、ビショップは丁寧に味わって胸の底に落としながら、応えるように柔らかな髪を食んだ。