裏切りの命題 -1-
薄闇の執務室で、ルーク・盤城・クロスフィールドは、無機質な室内の唯一の装飾品であるところのチェスセットを前にして、独り座していた。向かいの席に腰掛ける人間はない。かといって、対局のシミュレーションに取り組んでいるというわけでもない証に、盤の上には白の駒、それもたった2つが中央付近に置かれているのみであった。
軽く腕組をした姿勢から、少年はおもむろに片手を上げると、盤上へと指を伸ばした。白い指先が、堅牢なる塔を模したチェスピースの尖端へと掛かる。確かめるように、ルークは自分と同じ名で呼ばれるその駒を手の中に握った。睫を伏せて盤上を見つめる淡青色の瞳には、いかなる感情の色も過ぎることがない。およそ無感動な在りようで、少年は無為に駒を弄った。
常日頃、職務中はもちろん入浴の際にいたるまで、影のように隣に寄り添う側近の姿は、今はどこにも見当たらなかった。そのためであろうか、電源の落ちたモニターに囲まれた寒々しいばかりの部屋に、ぽつんと取り残された少年の姿は、どこか支えを欠いて不安定に据えられた白い人形のように見えた。
弄っていた己の駒を、結局どこへ移動させることもなく、ルークは指を離した。代わりに、盤の脇から、新たなチェスピースを音もなく取り上げる。しなやかな手つきで摘まんだ、その黒の駒を、盤上へと据えようとしたときだった。
ふと、何かに注意を引かれたように、ルークは軽く顔を上げた。遅れて、その視線の先で、小さな開閉音とともに扉がスライドする。
「──ただいま戻りました」
恭しく告げられた声は穏やかに落ち着き払って、決して大きくはなかったが、よく通って少年の耳まで届いた。非の打ちどころのない礼法に則った一礼を施すと、POGジャパン総責任者の忠実な側近たる黒衣の青年は、通路から室内へと一歩足を踏み入れた。
年若い主人の無感動な視線を受けながら、黒衣の裾を優雅に翻してゆっくりと歩み寄り、その対面に立つ。椅子が勧められることはなかったが、別段に気にすることはなく、ビショップは白い少年と、その前に据えられたチェス盤を見下ろした。子どもが無作為に駒を置いて遊んだ後のような盤上の、白の王と塔、そして横倒しになった黒の司教──興味深げに視線を走らせるも、ビショップは特にコメントを紡ぐことはなかった。あくまでも己の領分を超えて前に出ることのない忠実な部下の在りようを保って、ルークに相対する。穏やかな碧眼に見据えられて、少年は僅かに目を眇めたように見えた。それとも、部下の見慣れぬ格好を前に、その身分を預かる者として、彼なりに何か思うところがあったのかも知れない。
整った顔立ちに浮かべる表情こそ、普段通りの柔和なものであったが、現在のビショップの出で立ちは、彼を知る者たちからは、いったい何があったのかと驚かれるような在りようだった。しなやかな鳶色の髪が少々乱れ、頬に落ちかかっているというのは、まだほんの瑣末な点に過ぎない。常日頃、一分の隙なく身に纏い、潔癖なまでに整えられてしかるべき優雅な黒のコートを、ビショップは前を開けて、袖を通さずに軽く肩に羽織っていた。それだけでも十分に衝撃的なことであるが、さらに見れば、その衣装は無惨に煤け、ところどころ著しく擦り切れている。
肩から落ちかかるコートを、青年の右手は洗練された所作でさりげなく押さえたが、ダークグレーのインナーの袖が肘まで捲り上げられたその腕には、真新しいガーゼがいくつも貼りつき、指先まで包帯に覆われている。細かな動作が制限されて、少々ぎこちなく襟元を直す仕草は、平常の彼の惚れ惚れするほど優美な振る舞いようを知る者ならば、誰でも痛ましさを感じずにはいられないであろうものであった。
漆黒の上衣に隠されて、直に見てとることは叶わないが、よく観察すれば、左腕を庇うような仕草にも気付くことが出来るだろう。その片腕が、だらりと力なく垂れ下がったまま、何ら動作を見せないということにも──命を賭した勝負を仕掛けた代償は、決して小さくはなかった。常識的に考えて、職務を一週間程度休んで療養に専念したところで、何ら咎めだてされることはないであろう。しかし、医師の助言を丁重に辞退して、ビショップは速やかに職務に復帰していた。鎮痛剤を投与しているといえ、その強靭な精神力には、事情を知る周囲の誰もが、称賛を通り越してあきれていた。
己の職務に対する、その高い意欲や忠誠心に労いの言葉を掛けるでもなく、ルークは処置の施された部下の腕をちらりと見ると、どうでもよさそうな無感動な口調で問うた。
「どうだった。彼の実力を、身をもって確かめることが出来ただろう」
「そうですね。自分のルートを切り拓きつつ、相手を妨害する──ソルヴァーとギヴァー、両方の性質を兼ね備えて初めて、あのパズルには勝利することが出来る。少なくとも、私のソルヴァーとしての能力よりは、彼のギヴァーとしての能力の方が優っていたと、そういえるでしょう」
他人事のように淡々と応える青年を、ルークは淡青色の瞳で推し量るように見つめた。その堅牢性に定評のあるビショップのポーカーフェイスは、いかなる感情も読み取らせないものであった筈だが、ルークはふと唇の端に微笑を浮かべた。
「──けれど、そう簡単には、認められない。……だよね?」
尊大な態度で背もたれに身を預け、片肘をついた姿勢で、白い少年は忠実なる側近を気だるげに見上げた。沈黙を肯定の返答と受け取って、満足げに目を閉じる。
自らガリレオを招待したルークには、彼が勝利する結末がはじめから視えていた。部下たちが客人の力量を試すような非礼を働くことを止めなかったのは、そんなことをしても結末は変わらないということを確信していたからであり、また、排他的な傾向を持つ組織人員らに、身をもって「新入り」の実力を認めさせるためでもあった。感情的になって反発する者たちを、穏便な言葉でもって説得するというのは、およそ労力が割に合わない。聞き分けのない彼らには、目に見える分かりやすいかたちで示してやるのが、最も効率的というものだ。
その意味で、ルークに最も近く立ち、誰よりその意思を理解している筈の忠実なる側近が、他の者たちと同様に、自ら勝負を挑むと言い出したのは、少なからず意外に思われることであった。いつも年若い主人の命に粛々と従って任務を遂行するばかりのこの青年にも、存外に譲れぬ意思というものがあるらしいと解釈して、ルークはその申し出を許可した。新入りに対しては、少々手荒い歓迎となってしまうだろうが、何の苦労もなくすんなり得たものよりも、試練を経て掴み取ったものにこそ、人間は価値を見出し、執着するものである。POG幹部らを打ち負かして勝ち取った居場所とあれば、個人主義を気取るあのガリレオの少年の内にも、組織に対する僅かばかりの帰属意識が芽生えないでもないだろう。そうなれば、より駒としての使いみちが増すというものだ。
ルークの思惑通り、ガリレオは試練を鮮やかに突破し、その実力のほどを遺憾無く見せつけてくれた。特に、バイクレースでの集中力、冷静な判断力は見事なものであった。優位な筈の出題者を圧倒しての、完全勝利といっていいだろう。
その彼を語る側近の口調が、敗北者に特有の惨めさであるとか悔しさであるとかをおよそ感じさせぬ、無感動なものであるのは、未だ整理をつけられずにいる胸の内を厳重に隠蔽しているためであろうとルークは推測した。よく訓練された良家の執事のごとく、この青年は常日頃から、冷静沈着にして余裕に満ちた優雅な振る舞いを崩すことがない。これだけの負傷を抱えていながら、なおも何事もなかったかのような涼しい顔を続けるとは、相当な精神力である。おそらくはその内心で、腕輪も持たぬ子どもに敗北を喫したことを気に病み、プライドを傷つけられていない筈もないだろうに──試みに、ルークはその辺りを持ち出して側近に問うてみることにした。
「腕輪を持たない人間は、そんなに受け容れ難い、か」
主人からの問い掛けに、ビショップは直截に答えを返すことはしなかった。代わりに、その碧眼を少しばかり細めて、白い少年を見据える。
「……彼は真に、大門カイトを憎悪しているのでしょうか」
部下の冷静な声に、それが想定外の返事であったのか、ルークは微かに眉をひそめた。
「何が言いたい」
「先の対戦の折、彼に盤外戦を仕掛けました──もしその主張通り、大門カイトに対抗意識を抱き、これを越えようというならば、彼はオルペウスの腕輪に対してコンプレックスを抱いている筈。選ばれし者の圧倒的な力を前に、選ばれなかった自分を意識せずにはいられない。たとえ、腕輪になど頼らないといって強がってみせたところで、腕輪との契約がパズルの才能を有することの証明であるという事実は覆せない。腕輪の話を持ち出して挑発してやれば、彼は必ず乗ってくる筈でした──もし彼の主張が、本心から出たものであるならば」
まさしく今、あなたが試みたように──とは、ビショップは口に出して言わなかったが、聡明な少年は言外の意図を精確に汲み取ったらしく、不服げに目を眇めた。気付かぬ振りをして、ビショップは続ける。
「ましてや、高度な集中力を要する対戦パズルの最中です。苛立ち、憤り、焦燥──そんな感情を少しでも抱いたのならば、走行の乱れや判断ミスが生じてしかるべきでした。しかし」
そうはならなかった、とビショップは沈黙によって伝えた。結果は知っての通り、ビショップの完敗であった。出題者と解答者、両方の性質を備えると豪語する少年に対して、その特性が最も活かされるであろう戦いの舞台を用意したのだ、ギヴァーを本流とする青年が敗北を喫するのも無理はない。それは最初から分かっていたことだ。その実力を確かめるという目的だけであれば、なにもビショップ自らがソルヴァーの真似事をする必要などは、どこにもなかったのだから。
ビショップが見極めようとしていたのは、レース中の逆之上ギャモンの言動から滲む、その真意だ。そう易々と思考を読ませてくれるような単純な相手ではなかったが、それでも、ビショップが己の推測への確信を強めるだけの効果は得られた。直截に言葉を交わした者だけが感じ取ることの出来る、その実感を過不足なく伝えるべく、ビショップはまっすぐに少年を見つめて言葉を継いだ。
「あの場面で冷静を保てるのは、そもそも彼が腕輪を羨んでいないため。しかし、それならば何故、彼は大門カイトを潰すなどという意思を抱くでしょうか。そればかりか、彼の言葉の端々からは、まるで大門カイトの身を案じるかのような──腕輪と契約してしまった彼を哀れむような意識が滲んでいました。ルーク様、差し出がましいようですが、彼の動機については今一度、再考の余地が」
「……なぜ?」
己の職務の範疇を超えて上司に進言する、ビショップの真摯さとはおよそ不釣り合いに、ルークは子どものようにきょとんとした表情で呟いた。無礼を咎めるでも、反発するでもなく、ただただ、不思議でならないとでもいうような──ケージの中のシロネズミが急に口を利き出したのを見れば、人はこんな表情をするだろうか。
この相手の気は確かなのだろうかと案じるような、負傷した部下の腕を見たときにも浮かべなかった気遣わしげな表情でもって、ルークは言い聞かせるように紡いだ。
「あれだけ、目の前で、カイトが美しく鮮やかにパズルを解放する場面に立ち合わせてあげたんだ。ヴェネツィアでは指示通り、彼とカイトをひき比べるような言葉も、投げてやったんじゃなかったのかい。どんな愚か者であろうと、格の違いというものを思い知らされるだろう。そして、なまじ己の能力に自負があるだけに、ガリレオ君は身の程知らずにもカイトと張り合おうとしている。腕輪も持たないというのに、滑稽なものだ──だがそれだけに、扱いやすい。そのくだらない自尊心を満たしてやるといって、カイトとの勝負の場を提供してやれば、必ず乗ってくると分かっていた。ギヴァーとしてもそこそこの腕があるようだから、丁度良いカイトの踏み台になってくれるだろう。そしてカイトは、『友達』に裏切られたことを認めざるをえなくなる。皆が離れていく、一緒になんていられない、独りきりなんだと、分かってくれる。カイトと同じなのは僕だけなんだと、カイトと一緒に行けるのは僕だけなんだと、カイトを分かってあげられるのは僕だけなんだと、ようやく気付いてくれるんだ。そうなればもう、計画は達成されたといっていい──前にも説明した通りだ。理解していなかったのか?」
お前は隣に立って何を聞いていたのだと、咎めるような主人の声に、ビショップは「承知しております」と頭を垂れた。この聡明な少年が作り上げた壮大な計画は、側近として、細部に至るまで知り尽くしている。現在のところ、おおむねルークの思惑通りに事が進んでいることも、もちろん理解している。何も問題ないと、ルークも、そして組織の他の面々も、自信をもってそう断言するであろうことは間違いない。
そんな状況にあって、しかし、ビショップは上司に意見せずにはいられなかった。垂れていた頭を上げ、なおも食い下がる。
「確かに、彼は腕輪そのものには、良い感情を持ってはいないかもしれません。憎んでいるといっても良い。しかし、その契約者に同じ感情を向けているかといえば──むしろ、彼を腕輪の支配から護ろうとしているような──」
「……どうして、そんなおかしなことを思いつくのか、理解に苦しむ」
要領を得ない、ビショップの曖昧な言葉に嫌気がさしたというように、ルークは緩く首を振った。深々と息を吐いて、掠れた声で呟く。
「人間は皆、自分のことしか考えていないよ。危険なパズルに挑ませれば、なりふり構わず生き延びようとして、みっともなくも命乞いをする。誰かを思い遣るだとか、誰かを護ろうとするだとか、そんなものは皆、幻想だ。表面上そう振る舞っていたとしても、追い詰められれば、そんなきれいごとは真っ先に放棄される。すべては自分の欲望のため、他人を、パズルを利用する。それが人間」
既に分かり切った当たり前のことを述べるように、感情を見せずに淡々とルークは言い切った。それから、ふっと微笑を浮かべて、忠実なる側近を見遣る。
「直截に対峙して、実力を確かめなければ納得出来ないなんて、らしくないことを言うと思っていたが、まさかこんなくだらないことを確かめるためだったとはね。残念ながら、見当違いもいいところだ。どうしても僕のやり方が間違っていると言いたいのなら、プロジェクトから降りて貰っても構わないよ。それで、自分の方が正しかったと、証明するがいい。それが出来るとしたら、の話だけれど」
「……私は、」
何かを口にしかけて、しかしビショップはそこで言葉を切った。続きの言葉は、結局紡がれることはなかった。改めて主人の瞳を見つめると、一言ずつをゆっくりと言い聞かせるようにして発する。
「あなたが、このままでは──ひどく傷つけられることになる」
「つまらないことを言う。このままならば、すべてうまくいくに決まっているだろう。傷つけられる? いったい、誰によって、僕が?」
はるか未来を見通す神の声を伝えるかのような、聖職者めいた台詞を、ルークは一笑に付した。
「すべて順調に進んでいるじゃないか。エジソンもダ・ヴィンチもカイトを畏れ、巻き込まれまいと身を引いたし、ガリレオは敵対する道を選んだ。このまま進めていけばいい、そうすればカイトはもっと強く、美しくなれる」
「確かに彼らは、大門カイトから距離を置いています。しかし、目に見える行動を、イコール本心へと結びつけてしまって良いものでしょうか。彼らへの警戒は、引き続き行なうべきでは」
なおも食い下がる側近の提案を、ルークは「その必要は無い」と一言で切り捨てた。目の前に据えられた、白と黒の盤上を眺め下ろして、分かり切ったことのように呟く。
「駒がプレイヤーの意思を離れて動くことなど、──ありえない」
いかなる反駁も、それは許さぬ前提であり、結論だった。それが、ルークの知る世界の、揺るぎないルールだった。いかなる言葉も、その信念を簡単に覆してやることは出来ないのだと、重々知っていたから、それ以上何も紡ぐことが出来ずに、ビショップは押し黙った。