裏切りの命題 -2-




しつこい部下をひとまず黙らせたところで、ルークは軽く息を吐いた。それから、怪我人は大人しく寝ていればいいとでも言わんばかりに、妙なことにばかりこだわる青年を睨め上げる。
「……先ほどから、腕輪を否定するような表現が耳につく。ガリレオに感化されて、畏敬の念が薄れてしまったのか」
険しく咎めるような少年の問いに、ビショップは痛む首を緩く振ってみせた。
「いいえ──いいえ。腕輪の力は素晴らしいものです。眠っている能力を開花させることで、人は肉体の束縛を離れて真理に近づき、宇宙の秩序によって形作られた完璧な在りようへと至ることが出来る。神の力へと到達し、世界を導いていくのは、そんな選ばれし存在であるべきです。その思いに変わりはありません。──ただ、」
一度、言葉を切って、青年は回想するように軽く目を伏せた。
「彼の考えはユニークでした。腕輪に呑まれ、超人的な能力を発揮する状況を、みっともないと言って表現するなど、我々には思いもよらぬこと。腕輪から、契約者を護ろうとする姿勢も。我々は──私は、腕輪の力を増大させることが、契約者にとって最善であると信じてきました。ルーク様の、ご意志のままに」
波紋ひとつない水面に似た碧眼に、ビショップは己の年若い主人の姿を映して、静かに告げた。ルークは何とも応えずに目を逸らすと、話を聞くつもりはないとでもいうかのように、盤上の駒へと手を伸ばす。そのか細い指先が、彼を象徴する美しいチェスピースに掛かりかけて、しかし、実際にはルークはそれを手にすることは出来なかった。向かいから伸ばされた、包帯だらけの右手が、先にそれを取り上げてしまったからだ。意を問うように、少年は淡青色の瞳を、向かいに立つ側近へと向けた。

長身を屈めてチェスボードに片手を伸ばしたビショップは、非礼を詫びることもなく、手にした白の塔を、そのまま盤の隅へと移動した。上手く指が曲げられないために、それはひどくゆっくりとした、ぎこちない動きであったが、駒は取り落とされることも、倒れることもなく、本来あるべき位置に納まった。自由を制限されていながらも、それを補って余りあるだけの丁重さでもって、青年が駒を扱ったことは、誰の目にも明らかだった。
駒を横取りされ、勝手に動かされるかたちとなったルークは、盤上に腕を伸ばしかけたままの姿勢でそれを見つめていたが、何も言わずに、静かに手を下ろした。俯いた少年の白い面を、ビショップは暫し推し量るように眺め下ろしてから、おもむろに盤の脇へと手を伸ばす。そこには、ルークの手によって用済みとして盤から下ろされた駒の数々が、無秩序に転がり散らばっていた。その中から、ビショップは慎重な手つきで白のナイトを取り上げると、同じようにして盤上へと動かしつつ、静かに語りかけた。
「それが、間違いであったとは思いません。天より許し与えられた以上の智慧を得た代償の重さは、古来より神話に語られている通りです。それでもなお、脳に負荷をかけてでも、命を縮めてでも、人には挑みたいものがある、叶えたい望みがある。契約者がそれを望むならば、腕輪の力を借りれば良い。選ばれし者にしか、それは出来ない、素晴らしいことなのだから。しかし、それは、契約が本人の自由意思に基づいていたならば、という前提が不可欠です。自ら欲して力を得たならば、その代償を支払うのは当然のこと。ならば、本人がそれを望んでいなかった場合は、どうなるのでしょうか。いったい誰が、その咎を負えば良いのでしょう。たとえば、大門カイトのように、本人が契約に前向きではなかった場合。そしてたとえば、──十分な判断能力のないままに、他者の意図によって契約を強いられ、それが良いことだと思い込まされている場合」
ちょうど、白のキングを少年の目の前に置いたときだった。そこで、これまで黙って俯いていたルークが、何か言いたげに顔を上げたが、その唇が何らかの言葉を紡ぎ出すより前に、ビショップは遮るようにして言葉を続けた。
「ああ、その意味では両者は同じですね、天の定めに流されているという点で。天の定め──そんなものがあるとは、私は思いませんが。定めたのは、天の父なる神ではなく、世俗の人間といった方が正しいでしょうから。運命を、使命を、造り出して強いている存在──それとも、人を駒のように巧みに動かし、そんなことを仕組める人間は、人の身でありながら、神と呼ばれるのが相応しいでしょうか。いずれにしても、腕輪が契約者に多大な負荷をかけることは事実です。それを初めて目の当たりにした人間にとっては、腕輪こそが諸悪の根源に見えるのでしょう。私にとっては新鮮な視点ですが、分からないでもありません。たとえ能力を向上させるとしても、人としての身を失ってしまうのならば、そんなものは認められないと。そもそも、我々が腕輪を崇拝するのも、『能力を持つ者は、必ずそれを伸ばさねばならない』という信念が常識として共有されているためですが、案外、この思想に反発する人々というのも世の中にはいるようで──曰く、生まれ持った能力によって人間が既定されるのは不自由である。備えた能力に関わらず、当人の自由意思こそが、最も尊重されるべきである。未来を自分で選択していくことが出来る、それが、人間に許された自由であると。そういう信念の人間にとっては、腕輪はおぞましい枷のようにしか見えないでしょうね。やっていることは、致死的なドーピングに他ならないのですから──そんなものから、大事な相手を護りたいと思うのは当然です。それが、思い遣ることであり、護ることであり、──愛することなのだから」

滔々とした語りを終えたとき、盤上には白の駒が美しく整列していた。寸分の狂いなく角度を合わせ、悪魔的なまでの精密さでもって配置されたチェスピースの高潔な姿は、初期配列の見本として教則本に載せられてもおかしくないばかりか、いっそ芸術作品であるといって過言ではない。
一度たりとも駒を取り落とすことなく、不自由な片手でもってその見事な秩序を作り上げたビショップは、誇るでもなくただ静かに、目の前の主人の白い面を見つめた。
側近の身分でありながら、出過ぎた真似をして偉そうに語り、何様のつもりだと癇癪を起こされるかとも思われたが、予測に反して、少年はじっと押し黙っていた。俯いた白い顔に表情はなく、こちらの話を聞いていたのか、あるいは聞き流して物思いに沈んでいたのか、判断する術はない。
「……いなかった」
ぽつり、と呟かれた声は、頼りなく掠れていた。感情の追いついていないような、空虚な響きでもって、ルークは繰り返す。
「……そんな人間は、いなかった」
うわごとのように紡いだ、それを最後に、ルークは何も言葉を続けようとはしなかったし、ビショップもまた、沈黙を守った。ただ、その震える睫が影を落とす頬に、引き寄せられるように片手を伸ばしかけて、しかし、大仰なガーゼに隙間なく覆われた己の右手の在りように、思い直したように途中で引き戻す。
宥めるように頭を撫でてやる代わりに、ビショップは一歩、後へ下がった。
「──それでは、私はこれで。新人の教育プログラムにつきましては、出来上がり次第お持ちいたします」
茫として俯く白い少年に、ビショップは僅かの不調も感じさせぬ優雅な一礼を施すと、それきり何ら未練を残さずに、よく統制された足音を響かせて執務室を後にした。




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