裏切りの命題 -3-




通路に出て、背後の扉が閉まる音を聞くやいなや、青年は左腕を押さえて、押し殺した息を吐いた。主人の前で貫き通したポーカーフェイスを取り去ったその表情には、隠しようもない苦痛の色が滲んでいる。その場でずるずると倒れ込む醜態を晒さずに済んだのは、ひとえにビショップの強靭な自制心の賜物であった。己を叱咤するように、彼は足を踏み出したが、片脚を引き摺りながら通路を二、三歩進んだところで、あえなく足元をもつれさせ、壁面に手をつく。壁に肩を預け、ビショップは苦鳴混じりの呼吸を継いだ。あちこちの傷が熱く痛む身体には、壁面の冷やかさは、かえって丁度良いように感じられた。力なく頭を垂れ、額を押し当てる。
暫しそうして、呼吸を落ち着かせながら、ビショップは横目で己の右手を見遣った。滲んで歪んだ視界でも、ぼんやりと白く覆われたその手から、じわりと赤く滲み出すものは、明瞭に見て取ることが出来た。先にルークの頬に触れようとしかけて、結局取り止めたのは、こうして滲み出たもので万が一にも、少年の白い肌や髪を汚してしまうことが躊躇われたからだった。どうやら、その判断は正しかったらしい。
バイクから放り出されて、サーキットを勢いのままに転がり滑った際、むき出しでハンドルを握っていた両手は、ざらついた路面に容赦なく擦り下ろされるかたちでもって、だいぶ皮膚やら爪やらを持っていかれてしまっていた。包帯の下は、本人でもあまり見たくないような有り様になっている筈だ。指先を僅か動かす度に、ぴりぴりと鋭く痺れるような痛みが腕を伝い上がる。
まったく、余計なことをしたものだ──自嘲してから、ビショップはそれが先程、こんな手で意味もなく主人のチェス盤を整えてやったことか、あるいは、やはり意味もなくガリレオの少年と対戦したことか、どちらを指すのだろうかと思って苦笑した。考えてみれば、自分はルークに対して、余計なことしかしていないような気がする。余計なことをして、余計なことを思う──それだけなのだと、青年は半ば諦念の心持ちで溜息を吐いた。耐え難いほどの鋭い痛みは、次第に慣れて鈍く感じられるようになりつつあった。
そろそろと姿勢を動かして、壁に背を預けると、ビショップは今しがたのルークとの遣り取りに思いを馳せた。

──誰かを思い遣るのも、護りたいと思うのも。幻想であると、ルークは当然のようにして口にした。確かに、そういう空しいだけの在りようもまた、残念ながら人間の一側面であることを、ビショップは知っている。
ルークの言うことは、間違ってはいない。ただ、間違ってはいないが、欠けているのだ。薄っぺらで、いい加減で、偽りに満ちた、空しい在りようは、確かに人間の一側面ではあるが、同時に、そうではない側面というものが、人の心の内には存在している。それは、幻想ではない──現実だ。
ルークは、自分の知っているものが全てであると思い込んで、他の可能性に見向きもしない。それを、愚かだといって哀れむことは、ビショップには出来なかった。他者から向けられた感情でもって、子どもは感情を学んでいくのであるし、人は自分の知る尺度でしか、他人を測ることが出来ない。人間の醜く愚かしい姿ばかりを見せられて育った少年が、こんな歪んだ思想に陥ってしまうのは、分かっていたことだ。分かっていて、しかし、誰もそれを正そうとはしなかった。人の思いはそう簡単ではない、偽りのない思いというものもあるのだと、ルークに教えることも出来たのに、それをしなかったのは他でもなく、ビショップ自身だった。

ビショップの眼には、ルークの描くビジョンとは違った結末が視える。思惑通りに事が進めば進むほど、実際はまるで逆に、自分の首を絞めていることを、ルークはいったいいつになれば気付くのだろう。引き裂いて離そうとすればするほどに、よりいっそうに繋がりを強くする、そんな絆もあるのだと、認めるのだろう。
おそらくは、この白い少年がそれを目の当たりにするのは、最後の最後だ。
大門カイトは、独りにならない。
こちら側には、堕ちてこない。
一緒に行くことは、出来ない。
思い知らされて、見せつけられて、そしてルークは、自分の計画のすべてが狂っていたことを知るのだろう。彼の信じてきたすべてが、一瞬にして意味を失い、あえなく崩れ落ちるのだろう。それは、何よりも手酷い裏切りの証明だ。手中にあると思っていた駒に、そして、自分自身に、ルークは裏切られ、そして、突き落とされる。冷たく美しい白の塔は、砕け散って、無残に残骸を晒すだろう。
哀れなことだと、ビショップは少年に痛ましい思いを抱く。だが、それだけだ。心の内で哀れむばかりで、だからといって何をしてやるつもりもない。あなたは間違っている、あなたは失敗する、あなたは絶望する──そんな進言をしたところで、どうせ聞き入れられる筈もない。歩み寄りの余地の欠片も感じさせない、先の遣り取りからも、それは明らかだった。
ルークは、何が起ころうと、何を言われようと、進み続けるしかない。崩壊への道を、愚直なまでにまっすぐに、ひた走るしかない。いわばそれが、この世に生み出されたときからの、彼に課せられた運命であり、使命だ。
それだけしか縋るもののないルークに、それは違うと言ってやめさせることは、彼がほんの僅かに自分を繋ぎとめている細い糸を、ぶつりと断ち切ることに他ならない。ルークとしての定められた在りようを逸脱してしまえば、もう、少年はルークではいられない。それでも、彼がなんとか護ろうとしている、白く頑なな世界を、徹底的に突き崩してやることこそが、望ましいというのだろうか。それだけが、唯一絶対の正答なのだろうか。いったい誰が、ルークの精一杯に生きてきた年月を間違っているといって断罪し、こうあるべき「正しさ」を強いることが出来るだろうか。
それほどに重い責任を負ってまで、この少年を救い出し、呪縛から解き放たってやろうという正義感も傲慢さも、ビショップは抱くことが出来なかった。
いずれ、そう遠くなく破綻することが分かっていながら、ビショップはルークがルークで在り続けられるように、傍らで手を貸し続けた。彼の考え方の致命的な誤りに、最初から気付いていながら、何も言わずに通した。
思惑とは正反対の事態が、水面下で進行しているのにも気づかずに、計画通りだといって無邪気に喜ぶ白い少年の笑顔は、本当に哀れだった。いったい、この少年は、すべてを失くした最後に、どんな表情をするのだろうかと、そんなことを思いながら、ビショップは黙ってその傍らに控えていた。

ビショップの眼に視える結末へと向けて、ルークがその役割を果たし続ける限りにおいて、青年は忠実な側近の在りようを守り続ける。このところ、情緒不安定な傾向を強めつつある白い少年を、今までと同じように護り、変わらぬ敬意を払って接する。そのとき、ビショップは感情を押し殺して心にもない演技をしているのではない。そんな偽りの在りようなどであっては、たとえば顔に湯をかけられでもすれば、すぐに仮面が剥がれ落ちてしまうだろう。そこでなおも自制を保つほどの忍耐力は、ビショップとしてもさすがに備えてはいない。
崇高なる玉座の傍らに立つとき、青年は心からルークを敬愛しているのだった。人形めいた在りようで座し、まっすぐに先を見据えるルークの在りようには一点の穢れもなく、潔癖なまでのその白さに、ビショップは素直に感嘆し、畏怖の念を抱く。それは、盲目的な狂信とは違って、あえて言うとすれば、よくこんな風にして存在し続けていられるものだ、という感心に近い。ルークの役どころを、ビショップはもちろん、他の誰であれ、代わって為すことなどは出来ないのだから、そういった意味で、この純粋培養された少年の存在は貴重であるように思う。
歪められ、奪われ、砕かれ、欠け落ちて、ぼろぼろになって、がらんどうになって、それでも、与えられた役割を果たそうとする。そういうものとして作り出された、自分の在り方を守ろうとする。逃げることも抗うことも、とっくの昔に諦めて、脆弱な身体で独り立つ。
そうして今、ルークが存在していることは、奇跡的なことであるとビショップは感じる。いつ壊れてしまっても不思議ではなかったのに、きっとその方が楽であっただろうに、白い子どもは白いままに、ここまで来てしまった。その、砕け散る直前のような、生身の存在感を欠いて透き通るような危うい姿は、嘆息せずにはいられないほどに痛々しく、そして美しい。こんな感動を呼び起こしてくれるというだけで、ビショップはルークを肯定し、その在りようを護るために、己の持てる力を尽くしたいと欲する。

あるいは、そんな忠誠心は、これが永続的なものではなく、そう遠くなく終わりを迎える限定的な契約関係であると知っているからこそ、誓うことを楽しんでいられるのかも知れなかった。よく訓練された執事のような、芝居じみたまでの優雅な振る舞いでもって、年若い少年の我儘に付き合ってやるのは、なんとも倒錯的な愉悦を湧き起こらせてやまない。己に与えられたこの舞台を、一人の演者として、ビショップは純粋に楽しんでいた。
こうして、限定的条件下で、自分にとって都合の良い限りにおいて、いかに相手を思い遣ろうとも、それは偽りであるに過ぎないことを、ビショップは承知している。弱く、曖昧で、変わりやすい、そんなものに信頼を置いて、あたかも唯一絶対の真実のように取り扱うのは、愚かしいことこの上ない。
一切の利害関係を取り払った上で、それでもルークに対して同じ忠誠心を抱けるかと問われれば、ビショップは答えを返すことは出来なかった。だからといって、それが何らやましいことであるとは思わない。この世の殆どの人間関係は、無条件に成り立つようなものではない。まして、自身が利己的な人間であることを自覚し、それをすっかり受容しているビショップとしては、何も気に病むべきことはなかった。
自分にとって都合が良いから、愛着を抱く。見返りがあるから、愛情を注ぐ。
そんなことは、言うまでもなく当たり前のことだった。たとえば、ルークは彼が執着するあのオルペウスの契約者の少年に対して、「こうあって欲しい」という姿を強いて、より自分にとって望ましい存在となるよう、計略に力を注ぐことを惜しまない。そのままの彼の在りようを肯定するのではなく、自分が関わることで、思うままに方向づけようとする。そうやって、強引にでも欲しいものを手に入れようとする少年に対して、同じように接してやったところで、何ら咎め立てされるいわれはない。最後まで、壊れて使えなくなるときまで、ビショップはただ、ルークの高潔なまでの白く美しい姿を、出来るだけ長く愛でていたいのだ。

その意味で、聞き入れられる筈もない助言をわざわざ与えてやったり、その感情を揺さぶるような言葉を吐いたりといった、先の行動は、ビショップ自身、「らしくない」ことだと自覚していた。単に計画の遂行上、ガリレオの少年にもっと警戒すべきであるという助言ならば、あんな風に真正面から伝えなくとも、それとなく注意を促すなど、いくらでも方法はあった筈だった。それこそ、身の危険を冒してまで勝負を挑み、その結果報告として私見を述べるなどという方法は、あまりに愚直であると言わざるを得ない。
ましてや、ルークの知らない、人の感情というものについて解説してやる必要は、本来、どこにもなかった。少年が冷徹な指導者の在りようを保ち続けるためには、むしろ、それは決して教えてはならない筈だった。ルークにとって理解出来ない、それは彼を惑わせ、迷わせ、疑問を抱かせ、弱くする。そんなものは、ずっと遠ざけて、知らせずにいるのが一番だ。思い遣りだの、愛だのと、ルークはずっと知らずに、知らないままに終わるように、はじめから作られている。そして、ルークがそうあり続けられるように、それとなく誘導していくのが、ビショップの本来の役割である筈だった。
まるでそれに反するような、己の行動に、ビショップは適当な理由付けをすることが出来なかった。はたから見れば、まるで心から少年を案じ、思い遣っているがゆえの行動であるように見えることだろう。
あたかも、これ以上ルークが傷つけられるのを、見ていられないとでもいうように──護ってやろうとでも、いうように。
今ならまだ間に合う、どうか考え直して、こんな危険な賭けからは手を引いて欲しいと、望むかのように。
だが、そうではない──そんなものでは、ないのだ。時に勘違いをしそうになる己を、ビショップは厳しく戒めた。そんなことは、望んでなどいないのだから──望んでは、ならないのだから。己に言い聞かせて、青年はとりとめのない思考を無理やりに打ち切った。力なくもたれていた壁から、ゆっくりと両脚に重心を移す。新人の教育プログラムを組むようにとは、三人の幹部に指示を出しておいたものの、仮にも天才の称号を持つ少年に対して、はたして彼らで事足りるのかどうかというと、今一つ安心して任せられない部分がある。彼らを管轄する身としては、休んでいる場合ではないなと溜息を吐いてから、とはいえ、自分も天才には及ばぬ凡人であることに変わりはないのだが、と付け加えて自嘲した。

傷に響かぬよう、壁に手をついて慎重に体勢を整えつつ、ビショップはふと思った。まるで、ルークの思想が偏っているがために、人の心を読み切れていないことを前提として、これまでやってきたが──あの哀れな白い少年の思惑というのは、本当に、こんな一介の凡人である自分ごときに理解出来てしまうような、他愛のないものに過ぎないのだろうか。その程度のものに──過ぎないのだろうか。自分が、そして新入りの少年もそうであるように、彼もまた、外からは推し量ることの出来ぬ真意を、隠し抱いているとは、考えられないだろうか。
──否。疑心暗鬼に近い想像を、ビショップは振り払って苦笑した。相手はたかが16歳の、まともな人生経験もない子どもだ。はじめから、駒として使われることを意図して生み出され、造りあげられていった、都合の良い人形だ。それこそ、皮肉なことであるが、ルーク自身が言っていたではないか──駒が、プレイヤーの意図に逆らうことなど、ありえないと。
先程ルークの前で述べたように、「能力のある人間は、それを伸ばさねばならない」というのが、組織で共有される思想の根幹であった。ゆえに、天才と称される者たちは、プレイヤーによって定められた役割に従って、駒として動くことしか許されないのであれば、なんという皮肉だろう。凡人である自分と違って、単独で敵王のチェックメイトへ持ち込み得る強力なメジャー・ピース、盤上を縦横に支配する不落の城塞としてのルークは、倒れることを決して許されず、自分で自分を傷つけることも出来ない。定められ、縛られ、使い捨てられて、砕けるだけだ。それでも、その方が良いと──選ばれし者でありたいと、あの白い少年は、当たり前のようにして言うのだろう。駒である自分は、プレイヤーの意図に従うだけであると、平然として誓うのだろう。

どうやら、自分があちこち傷をこしらえてしまったがゆえに、あの少年の傷一つない神々しいまでの白さがいっそうに際立って感じられて、妙に感傷的な思考を働かせてしまっているようだ、とビショップは自分自身に解釈を与えた。
自分もまた、プレイヤーの手になる駒であることについて、青年はあえて目を塞いだ。サイコロを振るような神も、人間を使ってチェス遊びをするような神も、ビショップは信じてはいなかった。言うなれば、こうして傷を負うに甘んじたのは、そんな神に対する反逆であったのかも知れない。己の身を、自分の自由にすることが出来るという、証明であったのかも知れない。いささか乱暴なやり方ではあったが、後悔するには至らない、それが理由であるように思えた。

一つ息を吐くと、縋るように壁面についていた手を、青年はそっと離した。確かめるように、一歩足を踏み出す。
少し動かす度に軋む身体の痛みと、それとは違う、心臓の奥から這い上がる静かな息苦しさ。
逃さず、そっと抱き締めるように、ビショップは睫を伏せ、汚れた手でコートの前を合わせた。一歩一歩、ゆっくりと通路を行く足取りは、やはりふらついておぼつかなかったが、もう足を止めることはなかった。迷いを感じさせぬその在りようは、傷を負った身でありながら、なおいっそうに格調高く、優雅である以外のなにものでもなかった。擦り切れた黒衣の裾を美しく翻した青年は、その背に高潔な殉教者めいた意志を宿し、己の盤上を歩むのだった。




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#19バイク事故ビショさんの治療シーンを期待していたのに裏切られたものだから…!

2012.02.19

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