弦のない月(プレビュー版)






低重心、超軽量、高反発のシューズは、さすが今シーズンの話題をさらった新作というだけあって、噂に違わぬ安定感を誇る履き心地であった。苦労をして別注モデルを手に入れただけの甲斐はあったといえるだろう。
大量の資本によるプロモーションが製品の売り上げを決める、身も蓋もない世の中の風潮にはつくづく嫌気がさしていたが、こうして真に実力を備えた質実剛健なモノづくりが正当な評価を受けるというのは、まだまだこの社会も捨てたものではないのだと、ほのかな希望を感じさせる。
お気に入りのランニングシューズの紐を入念に結ぶと、ビショップはそれさえも洗練された所作で長身を起こした。

吸湿速乾性に優れた素材のトレーニングTシャツにアームウォーマーを合わせ、高弾性生地のロングタイツにラフなハーフパンツを重ね着したその出で立ちは、職務中に一分の隙なく纏った漆黒のコート姿とは、およそかけ離れたものであった。
それでいて、見る者に与える印象に不思議と落差が生じないのは、ひとえに彼の徹底して優雅な振る舞いのゆえであったといえよう。
スポーツウェアに身を包んでいながら、ビショップの身のこなしは、あたかもよく訓練された良家の執事のごとく、品格に満ち満ちていた。黒をベースに鮮やかなマゼンタのラインをあしらったウェアは、なかなかに着用者を選ぶデザインであったが、青年の引き締まった長身にはよく映えて、その手足のしなやかな所作を引き立てるばかりである。

二十二時ジャスト──確認してから、最後にICタグ内蔵のリストバンドを嵌めて身支度を完了すると、ビショップはウインドブレーカーを片手に、自室を後にした。
通路を曲がったところで、向こうからやって来る見知った顔に出くわして、ビショップは足を止めた。相手は会釈すると、歩み寄りながら親しげに声を掛けてくる。

「これはこれは。ナイトランっすか? 精が出ますねえ──やあ、めちゃくちゃ格好良いじゃないすか、それ」

新作のシューズを指して、ダイスマンは調子の良い歓声を上げた。さすがビショップ様、と長い手足を活かした仕草でもっておどけてみせる様子は、フェイスペイントとあいまって、正しく道化師のそれである。
称賛されたというのに、あまり嬉しくないのは何故だろうかなどという感想は表には出さず、ビショップは落ち着き払った態度で応じた。

「どうも。そういうあなたは、本日のトレーニングを終えられたところですか?」
「いやはや、参ったっすねえ。どうもああいうのは僕には向かないもので。ま、その分頭脳労働に励みますんで、ご心配は無用っすよ」
「……それはなにより」

内心に抱いた感情は隠して、ビショップは呟いたが、ともすれば少しばかり棘が滲み出てしまったかも知れない。たとえそうだとしても、この調子者の相手には、別段に伝わってしまっても構わないように思えた。
いかなる環境下においても、身体トレーニングを欠かさず実践することは、ビショップにとって少年時代からの日課であった。頭脳集団に身を置くといえ、体力面をおろそかにして良い理由はなく、むしろ脳を活性化させるためにも、どちらかに偏るのではなくバランスをとって、健全なる心身を鍛えていくことが望ましい。
そんな古よりの理念に従って、日本支部の本拠地もまた、トレーニング施設の設備拡充には力を注いでいる。個々人の現状と課題に合わせた綿密なプログラムが組まれ、適度な頭脳労働と肉体労働とが、日々粛々と実行されている。規律正しいその在りようは、労働と清貧をモットーとする修道院の様にも似ていた。
そんな規律から飄々と逃れて楽をしようとしている部下に、ビショップは既に半ば諦めつつあるといえ、苦々しい思いを抱かずにはいられなかった。青年自身、己には人一倍厳しい掟を課して律する面があったから、こうして調子良く適当に生きているようにしか見えない相手というのは、どうしても受け容れ難く感じてしまうのかも知れなかった。
その相手はといえば、目の前の上司が今、内心で何を思っているかも気にした様子なく、ふと白手袋を嵌めた指を顎にあてる。

「あれ、でも、ビショップ様もジムには行かれてないんじゃないすか? これからだって、外で走ってこられるんすよね?」

素朴な疑問、といったように問い掛けられた内容に、ビショップは僅かに眉を動かした。
確かにダイスマンの言う通り、下手なスポーツジムより充実した、その福利厚生施設にビショップが赴いて汗を流すことは、滅多になかった。あるとしても、それは、人手を要する何らかのプロジェクトで人員の大部分が駆り出され、利用者の途絶えた時期であるとか、館内メンテナンス期間に幹部特権で貸切状態にしてあるといった、極めて限定的なシチュエーション下のみである。
今日も、ビショップは自室を後にすると、館内地下のジムとは逆方向の進路を取り、外での走り込みに、独り専心することにしていたのだった。
他人にはトレーニングを勧めておいて、その当人が参加していないのは何故なのだろうかと、皮肉ではなく純粋に不思議がっているらしい部下に、ビショップは即席の微笑を拵えて応えた。

「ああ──そうですね。私もマシントレーニングに取り組みたいのはやまやまなのですが、皆さんを委縮させてまで、することではありませんので。隣に『監視者』がいては、集中も妨げられてしまうというものでしょう」

充実した福利厚生施設をあえて利用しない理由を、ビショップはそのように述べて説明した。
何も、他の人間の使った器具を使いたくないだとか、汗くさい中での運動は耐え難いであるとか、そんな個人的で矮小な理由があるものと勘違いされては堪らない。そうではなくて、これは、厳格な上下関係を有する組織ゆえの弊害であるともいえた。

つまり、いやしくも日本支部の中枢、中央戦略室に籍を置く幹部ギヴァーであるビショップがすぐ隣にいるという状況で、いったい誰が己のトレーニングに集中出来るものか、ということだ。
そういった場面をきっかけに、上下関係の垣根を越えて親睦を深めようなどという気楽な考えを抱くような者は、ここにはいない。厳密なる階級の定められた組織の末端人員にとって、同じ島内にあろうとも、幹部クラスはおよそ遠く手の届かない、崇拝の対象といっても良いくらいの存在である。
自分のために、皆の集中を妨げて委縮させてしまうのは、組織全体の効率を考えたときに望ましくないというのが、ビショップの考えであった。──精確にいえば、表向きの考えであった。

「ははあ。そこまでお考えとは……上に立つ方ってのは、大変ですねえ」

どうやら、表向きの考えだけで相手は納得したらしい。深く追及されると面倒なので、その前にと、ビショップは続けて話題の矛先を相手に向けた。

「ですので、あなたもどうぞ気兼ねなく、ジムに行っていただいて良いのですよ」
「ああ、ええと、その。そんな素敵な笑顔で言われると、余計怖いといいますか。……ゆ、許してぽろり〜ん」
「…………」

両手を上げて小首を傾げる、気は確かかと疑いたくなるようなダイスマンのふざけた行為──本人は可愛らしさの演出のつもりでやっているのであろうことが、さらに救いようがなく痛々しい──に、しかしビショップは無言のまま、この上なく穏やかな微笑を返した。
即刻、問答無用で鉄拳制裁を加えたくはならなかったかと問われれば、回答に迷うところではあったが、それよりはむしろ、微笑ましさの方が先立った。否、哀れみといった方が正しいであろうか。
何ら言葉を返さずとも、その辺りの心情の機微は、過不足なく伝達したらしい。ダイスマンは、引きつった笑顔でもって、言い訳がましく戯言を紡ぎながら、一歩一歩と後ずさる。

「や、これ絶対流行ると思うんすよね……二年、いや一年後くらいに、大人から子どもまで巻き込んだ大ブームに……皆の前でちょくちょくやってるんすけど、い、今はまだ、時代が僕のセンスに追いついてないっていうか……」

そろそろ目の前の上司から、隠しきれない不穏な空気が醸し出されていることに気付いたのだろう、「で、では自分はこれで」と言い残すと、ダイスマンは脱兎のごとく、その場を走り去った。なるほど、俊敏性はそれなりにあるらしいと、その後ろ姿を見送りながらビショップは感想を抱いた。
鍛錬をして磨けば、もっと心身共に強靭になれるというのに──やれやれ、彼をジムに引っ張り出すにはどうしたら良いものかと、内心で溜息を吐きつつ、青年は先ほど述べた己のもっともらしい台詞を反芻した。

自分がいることで、周囲が委縮してしまうから──この考えだけで、折角のジムの使用を己に禁ずるのは、いささか飛躍があるということを、ビショップはもちろん承知していた。
現に、似たような立場である筈のフンガなどは、何も気にせずに下々の者に交ざって鍛錬に勤しんでいる。当初は周囲にも緊張があっただろうが、すっかり慣れた今となっては、誰も彼に遠慮してトレーニングに身が入らないなどということはなくなっていた。
それも当然であろうとビショップは思う。強引にでも割り入ってしまえば、案外に、後はどうとでもなる。人間にはそれだけの、環境に対する柔軟性、適応性があるものだ。
だから──つまり。
要は、自分があれこれと気にし過ぎる性質であることが、諸悪の根源であると、青年は正しく理解していた。

当初はビショップも、最新設備を導入したこの施設に興味を抱き、己の立場も脇に置いて、いち鍛錬者として訪れたのだった。遠巻きにするような周囲の反応も、お互い次第に慣れることだろうと気楽に考えていた。
それが誤りだと分かったのは、組織内の情報伝達ツールとして利用されている一種のクローズドSNS、Kogoeの投稿を、ディカフェ片手に監視していたときだった。
秘密主義を貫く組織の常として、反乱分子の監視にはそれなりの労力が割かれてしかるべきである。人員の監視は、ビショップに課せられた任務のひとつであった。

管理者権限で、利用者同士の非公開の遣り取りまでチェックするというのは、当初は多少の躊躇いを感じないでもなかったが、暫く続けてみれば何ということはない。どれもこれも、実に他愛のない遣り取りばかりだ。
あえて問題発言に近い例として挙げるとすれば、日本支部総責任者の姿を直截に目にすることも出来ぬ末端の人員らが、冗談めかして「ルーク・盤城・クロスフィールド=ビショップの傀儡」説を展開していたことくらいである。あれこれの陰謀説を勝手にでっち上げられて、もちろん愉快な気分ではないが、処罰を与えるほどの内容ではない。
POGはカートゥーンに登場する悪の組織でもなければ、狂信的な軍団でもないのだから、この程度のことでいちいち騒ぎ立てるのは得策ではないだろう。己の胸の内だけに秘めることにして、ビショップはその遣り取りを閉じた。

そのとき、青年はモニターの隅で流れるライン上に己の名を見つけ、そちらに注意を払った。膨大な分量の投稿から、ランダム抽出によって監視を行なうビショップの目に、それが触れることになったのは、偶然としか言いようがなかった。あるいは、運命のいたずらであろうか。

「本日のビショップ様画像くれ」
「はい、ビショップ様@ランニングマシン(トレッドミル)。美しいフォームで走り込みをされるお姿。精悍な横顔ショットです」
「伝う汗まで計算し尽くされたかのようなこのあざとさ はぁ麗しい」
「隣のマシンの奴絶対興奮してるだろこれ ビショップ様の汗の匂い吸い込みたい」
「きっと石鹸の匂いがするよ」
「いや ブルガリアローズだな 甘くて重い」
「もうネクターでいいよ 神々の酒」
「シャワールームやばい ビショップ様の肌に当たって弾ける水音 ビショップ様の汗を流した湯」
「床舐めるわ」
「むしろビショップ様の足首舐めたいペロペロ」

もう二ページほどスクロールしても同じような会話が続いているのを流し見て、ビショップはおもむろに眼鏡を外した。椅子の背にもたれて軋ませつつ、深々と溜息を吐く。
あるいは、こんな自分の姿もまた、他人に見られたのならば、貴重なプライベートシーンなどといって、彼らの格好の餌として消費されるのだろうか。想像して、小さく苦笑する。

自分がそういう欲望を向けられる対象であるということについて、ビショップは特に思うところはなかった。この閉鎖的な組織内において、たまにはガス抜きというのも必要であろう。
先程の、すっかり悪の黒幕扱いの陰謀説と、本質的に何ら変わるところはない。たとえ自分がその生贄であろうとも、当人の預かり知らぬところで勝手に盛り上がってくれている分には、特に構いはしなかった。
しかし、さすがにこれほど露骨な目とレンズを向けられているとあれば、多少の身の危険を感じないでもない。以後、青年はなんとはなしにジムへ向かうのに気が引けるようになり、結局、孤独なナイトランに励むという今のスタイルに落ち着いたのであった。

そんな経緯を思い出して、少々沈んだ気分を振り払うように、ビショップは緩く頭を振って準備運動に取り掛かった。念入りに足首を回し、下肢と上体の筋をそれぞれ十分に伸ばしてやる。
肩まわりと肩甲骨付近は、凝り固まっている自覚があるので、特に意識して解す必要があるだろう。正しいフォームで走るには、リラックスした上半身のしなりが必要不可欠である。
身体が温まったところで、いよいよ走り出す。起伏に富んだ地形を交えつつ島を一周するルートをとると、ちょうど良い運動量である。海から吹きつける風は未だ肌寒いものであるが、身体を動かしていれば、じきに心地良く感じられるようになるであろう。
規則正しい呼吸を継ぐ度に、冷ややかな空気を取り込んで、己の中から浄化されていくような心地を味わう。軽やかに地面を蹴る美しいフォームを維持すべく、ビショップは全身の筋肉の緊張と弛緩を意識して、静まり返った夜の闇を走った。

賑わいよりは、静けさを。
温さよりは、冷たさを。
それが、青年の好むところであった。煌々と照る太陽の下を暴力的な光にさらされて走るよりも、月明かりを頼りにほの暗い路を進む方が、ほよど性に合っている。
まるで、後ろ暗いことがあってまともに陽の光の下を歩けない人生だとでもいうような誤解を招くかも知れないが──否、そういってあながち間違いではないのだろうが──少なくとも、あまり人に自慢できるようなことをしていないというのは確かだ。しかし、ビショップ自身、それは望むところでもあった。
誰もが公明正大に、光の下の道を行けるわけではない。光に背を向けた者には、また別の、陰の道があってしかるべきである。
光には光の役割があり、陰には陰の役割がある。
そして青年は、己の意志で、自ら歩む道を選択したのだった。それを、悔やんだことは一度もない。
優しく見守るような月の下、ぽつぽつと点在する申し訳程度の灯りを目印に、木々の合間を、崖の際を、滑走路の上を、ビショップは走った。軟らかく、また硬く、踏みしめる大地から伝わる感覚を、全身でもって味わった。

一周して戻って来たスタート地点を目視し、徐々にスピードを緩めてから足を止めると、地面からじわりと立ち昇るような心地良い疲労感に包まれる。強張った筋肉をリラックスさせてやるべく、ビショップはゆっくりと呼吸しながら、入念にストレッチを行なって身体を伸ばした。
大腿から脹脛を意識して伸ばしていたときだった。ふと視界の隅で、何かが動いた気がして、ビショップは反射的にそちらに顔を向けた。
誰か、同じようにナイトランに励む者でもいたのだろうか──そんな物好きは自分だけかと思っていたが──しかし、振り向いた青年が目にしたのは、ランニングウェアに身を包んだ部下でもなければ、物陰から覗くカメラのレンズでもなかった。
暗がりにひっそりと佇むその姿を認めて、ビショップはあからさまに安堵の表情を浮かべた。

「ああ、あなたでしたか」

穏やかな物腰で語りかけた先にいたのは、一匹の猫であった。その身を包む真っ白な毛は、闇にあってなお、神聖なまでに美しい。ストレッチはこの辺りで切り上げることにして、ビショップはその場に静かに膝をついた。
それを待っていたように、白猫は音もなく、青年の元へと歩み寄る。優美な足取りの一歩一歩を、ビショップは愛おしげに目を細めて見守った。
猫はビショップの傍らで足を止めると、光る瞳でじっと彼を見上げた。何かを求めるようなその仕草に促されるままに、青年は腰に巻いたポーチを探り、それから申し訳なさそうな表情で言う。

「すみません、今日はレーズンしか持っていないもので……差し上げられないのです」

人語を解するわけでもなかろうが、猫はそれでも構わないとでもいうように、そっとビショップの足元にその柔らかな身体を擦り寄せた。
しなやかな毛並みに手のひらを遊ばせて、青年は小さな美しい生き物の温度と感触を味わった。

「あなたも、月に惹かれてここへ? ……お仲間ですね」

白い毛をくすぐりながら、ビショップは暫し、夜空を眺めた。繰り返す波音に身を委ねていると、次第に意識が緩く閉じていくのが分かる。
常日頃、職務中はそれなりに気を張っているだけに、こんな風に無為に漫然とした時間を過ごすのは、小さな安らぎであるといって良かった。月と猫だけが共に在る、今ばかりは、気を抜いて心身を休ませることを、己に許しても良いような気がした。

ぼんやりと鈍い思考でもって、思い浮かぶのは、自らの仕える白い少年のことであった。彼は──ルークは、自分やこの猫のように、月に惹かれてあの部屋を抜け出すなどということは、間違ってもしないのだろう。月を観るために、外へ出ようなどということは、思いつきもしないのだろう。
この島は彼のもので、しかし、彼の世界はもっと狭い。そこには、海も、空も、風も、月もないのだ。

それは──しかし、それは、あまりにも──

いったいその先に抱いた思いが何であったのか、己の内奥に沈む込んだものを掴むより前に、ビショップはふと我に返った。脇で大人しくしていた猫が身じろいで、乗せていた手が滑り落ちたからだ。
そのまま、白猫は腕をすり抜けて、一度も振り向くことも立ち止まることもなく、やって来たときと同じように音もなく軽やかに歩み去った。
その後ろ姿を見送って、ビショップは一つ息を吐くと、ゆっくりと身を起こして立ち上がった。どうやら、心遣いが足りずに愛想を尽かされてしまったらしい。
寝床へ戻るべく、青年は館内へと足を向けつつ、次からは、いつ出逢っても良いように、適当な土産をポーチに入れておこうと思った。




(中略)





少年のガラス玉めいた淡青色の瞳は、じっと満月を見つめて揺るがない。それしか見つめることの出来ないように、他の何も目に入れることのないように、それはあたかも、そっと押さえて固定されてしまったかのようだった。
そうして天上に向けられたルークの視界を遮るように、手のひらを──どうしてかざしたのか、己の行動の理由を、ビショップは論理立てて説明することは出来なかった。
そこに、深遠な意図などは、何もありはしなかった。
それでも、手を止めることは出来なかった。

不意に視界を塞がれ、異議を申し立てようとでもいうのか、少年の唇が薄く開きかけて、しかし、その言葉が発せられるより先に、忠実なる側近は囁いた。

「あまり長く、ご覧になり続けるのは、よろしくないかと。……気がおかしくなってしまうと、言いますから」

民間伝承に影響されたような、そんな物言いでもってルークが納得するとは、ビショップとしても、もとより期待してはいなかった。何を言っているのかと、一笑に付されるのが精々であろう。それか、手の施しようがないとでも言いたげな、冷たくあきれた視線を遣られるだろうか。
しかし、いずれの予想にも反して、少年はそのまま黙り込んだ。無遠慮な手のひらを振り払うこともせずに、開きかけた唇を閉ざす。まるで従順な反応を、ビショップは知らず、表情を緩めて見つめた。
眼球に触れるか触れないかまで、近寄せた側近の手のひらに促されると、ルークは大人しく瞼を下ろした。暫しそのまま、ビショップは年若い主人の薄い瞼に護られた冷たい眼窩に、そっと温度を伝え与えるように、手を重ねていた。

こんな風に考えるのは、あまりに夢見がちであるといって、笑われてしまうかも知れないが──月に吸い寄せられて、ルークの中から抜け出ていってしまうものを、そうして目を塞いでやることで、少しでも繋ぎとめておけるような気がした。少年の未成熟な肢体の中に、今暫くは、留めておけるような気がした。
なにしろ、眼球というのは、無防備に外界にさらされた脳の一部であるといってよく、ヒトの中枢へと、そのまま直結する器官であるに他ならない。そこに月光を浴び続けることで、この少年が奥底まで、あの遠い星に囚われてしまったらと、思うとビショップは、このまま目隠しをする手を、決して外したくないような気持ちにさせられた。

とはいえ、ずっとそうしているわけにもいかない。そろそろ良いだろうかと、頃合いを見て、ビショップは乗せていた手を離した。
しかし、視界を解放されたというのに、少年は瞼を上げようとはしなかった。

「……ルーク様」

確かめるように囁く、側近からの呼び掛けにも、閉ざされた睫が震えることはなかった。
眠ってしまったのだろうか──確かに、目元を温めることで、人間はたいがい、安心感を覚え、眠気を誘発されるものである。とはいえ、なにもこんなところで、こんな粗末な敷物の上で寝なくとも良いだろうにと、ビショップは小さく苦笑した。
冷たいガラス玉めいた瞳を閉ざすと、驚くほどに幼く見えるその無垢な寝顔を、ビショップは改めて間近で見つめた。

月明かりの下で、静かに瞼を下ろしたルークの白い髪も頬も、触れるのが躊躇われるほどに、高潔な光に薄く包み護られている。手を伸ばしても、儚く透過するばかりの、それは幻想的なホログラムを思わせた。
その淡い輪郭に、ビショップがそっと指を近付けたのは、純粋なる憧憬からだった。美しいものは、まずは眼で愉しみ、その段階が過ぎれば、触れて確かめたくなる。美なるものを堪能するこの喜びを、視覚だけに享受させておくのは、あまりに惜しいというものだ。
触れるか触れないかで、その肌の上に、指の背をゆっくりと滑らせる。白い頬に指先をあてがうと、しっとりとなめらかな質感を、ビショップは丹念になぞって味わった。

日中に容赦なく降り注ぐ陽光を受け付けないルークの身体は、作り物めいて白く、およそ熱も鼓動も感じさせない。彼の居住する空間に窓は設けられていないし、最低限の外出も夜間に行なわれたから、自然光に照らされたルークの姿というのは、誰より近く彼に仕えるビショップでさえ、久しく見てはいなかった。
執務室の寒々しい人工灯、あるいは壁面モニターの反射だけが、唯一、ルークを照らすことを許された光だった。
太陽の光を、ルークは直截に受けることは出来ない。強烈な光線は、色素の欠落したルークの髪を灼き、皮膚を傷つけ、眼球を射るだろう。

古来より神の象徴として崇拝を受けた、強く美しく輝く、かの恒星は、その火でもってルークを舐め尽くし、容易く呑み込んで、影すらも遺すまい。
生命を育み、地上に大いなる恵みを与えてやまない、その神から──ルークは見放されている。
その慈愛を受ける権利を、はじめから奪われている。
光の道を、歩むことが──許されない。

──だから、せめて。

目を覚まさせてしまわぬよう、静かに腕枕を抜き、半身を起こして、ビショップは眠るルークを眺め下ろした。少年の柔らかな髪も、繊細な睫も、いつにもまして白く、およそ現実味がない。呼吸をしているのかどうかも疑わしいような、人形めいた少年の在りように、ビショップは僅かに眉をひそめた。
ルークにのみ許し与えられた、穢れ無き純白の衣装に、ビショップは己の影を落とした。少年の頼りなく細い肢体に、覆いかぶさる体勢でもって、その襟元に指を掛ける。

忠実なる側近は、普段、着替えを手伝ってやるときと同じく、丁重な手つきでもって、その首元のベルトを外した。白い少年を仰々しく拘束する、こんなものは、今は不要だった。
解けた襟元を摘み、静かに衣装を開くと、ほっそりとした首筋から、なめらかな鎖骨、痩せた胸へと、乳白の肌が月光の下にさらされていく。静かに上下する胸と、そこだけ淡く色づいた二つの尖端が、人形めいた身にあって唯一、温もりを証して、ビショップは愛おしく目を細めた。
袖は抜かずに、肩から落ちかかるか否かといったところまで衣装を暴くと、青年は満足げに、覆いかぶさった身体の上から身をどけた。

遮るものなく、月明かりの下に衣装を開いて肌をさらしたルークの姿は、祭壇に捧げられた聖なる生贄めいて、犯し難く高潔だった。
己の影を落としてしまわぬよう注意を払いつつ、ビショップはその在りようを仔細に見つめ、感嘆の息を吐いた。
今ばかりは、この少年にも、光が与えられているのだと思った。

月を介することで、ルークははじめて、太陽の光に触れることが出来る。太陽光反射率(アルベド)の低い天体であるがゆえに、その淡い光は、白い肢体を優しく包み込んで、決して傷つけることがない。
ああ、彼は、月の子どもなのだ──白い肌の上の繊細な陰影を確かめながら、ビショップは自然と、そんな感想を抱いた。

おもむろに、ビショップは少年の胸の中央あたりに片手をかざした。なめらかな乳白の肌の上に、光を遮って黒影が落ちる、その様子は、満月の欠け落ちていく姿にも似ていた。
己の影に重ね合わせるようにして、ビショップは、さらけ出されたルークの胸の上に手を置いた。手のひらを通したその奥に、とくとくと規則正しい鼓動が聴こえる。暫し、青年はその音に愛おしく耳を傾けた。
そっと手のひらをずらし、伝い下りて臍へ、それから脇腹をゆっくりと撫で上げる。薄い皮膚の下の肋骨に沿ってなぞり、小さな赤い尖端を指先でくすぐってやると、少年の身体はぴくんと跳ねた。

「……ん、ぅ…」

軽やかに肌を掠め、優しく爪弾くかの指の動きに、ルークは小さく呻くと、首を反らした。ふる、と揺れた白金の睫から、一粒の滴がこぼれ落ちる。
なめらかな肌を伝って光るその細い道筋を、ビショップはそっと唇で辿った。どこまでも透明な、それは淡い月光を閉じ込めた滴だった。
その瞼が震えて、今にも上げられようかというところで、ビショップは少年の柔らかな髪をかき上げると、あらわになった耳元に唇を寄せた。

「……申し上げたでしょう。目を、開けてはいけませんよ」

吐息交じりに囁きかけてやれば、ルークは過敏にも、小さく背を跳ねて応じる。その反応に愛しげな微笑を返すと、ビショップは少年のふっくらと可愛らしい耳朶に丁重に口づけ、そっと食んだ。

「ふ、ぁ……ぅ、」

喉の奥で押し殺しきれずに、上ずった声がこぼれるのを、ビショップはうっとりと目を閉じて聴いた。宙を運行する星々の奏でる天上の旋律とは、きっと、このような快い音色に違いないと思った。




[ to be continued... ]
















HARUコミ新刊『弦のない月』プレビューです。(→offline) ビショップさんがひたすら島を走ります。

2012.03.07

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