弦のない月のない夜




この島にやって来て、なにが良かったといえば、間違いなく、彼と出逢えたという一点、これに尽きるというのが私の正直な感想。遊べる場所も何もない、ティルトローターで本土に戻る手続きも面倒な堅苦しい島だけれど、ちょっとくらいの不便は我慢してもいいと思うの。なんといっても、彼とこんなに近くいられるのだものね。
考えてみれば、ロマンチックじゃないかしら。外界から隔てられたちっぽけな孤島に、二人だけ──とは、まあ、いかないけれど。ともかく、ひとつの閉鎖的な空間に一緒にいることは確かよね。これってすごいことだと思う。海の上のひと続きの場所に、今も彼がいて、同じ空の下で同じ空気を吸っているんだと思うと、どきどきしちゃう。

同じことを思っているのは、男女を問わず、きっと多いことだろうと思うわ。実際、私と一緒にここに入った同室の女は、暇さえあればうっとりと、端末に入れた彼の写真を眺めているものね。その写真はどこから手に入れたのかといえば、同好の士のネットワークに出回っていたものを拾ってきたというのだから、なんとも惨めなこと。ちなみに最新のショットは、部下にチェス指南をしているときの一枚で、たぶん盤面の記録とかなんとかいって隠し撮りしたのでしょうね。しなやかな手つきでチェスピースを摘む彼の姿は、確かに絵画のように美しく、ずっと眺めていたくなる気持ちも分かるわ。
末端構成員の彼女は、あの人に直截にお目にかかることなんてとても出来ないものだから、そうして一方的に想うしかないのよね。募る思いを発散すべく、せいぜい組織内SNS、Kogoeで妄想を呟くばかり。

『翡翠の瞳…雪花石膏の指…はぁ美しい……うっとり』
『なめらかなお肌に包まれた…しなやかな指先の…この骨の浮き具合がもうね色気全開』
『ジムで鍛えるお姿とか……シャワールーム覗きたいよハァハァ』

そんなことを呟いていたら、回線の向こうの同志が『新情報! ビショップ様の裸眼視力0.03だって』なんて、どこから手に入れたのか知れない個人情報を投下するものだから、ますます勢いづいちゃって。

『えええ 間違って女子ロッカールーム入ってこないかな!』
『そしてその場でぼんやりお着替え始められたりさ……皆、息を潜めて見守ろうな』
『じゃあ、まずはなんとかしてコンタクトと眼鏡を隠して……男子に協力させるか』

それは犯罪よ。なんて、私はくだらない会話に加わったりなんてしないけれど。
まったく、恥ずかしいったらないわね。そんな正直な欲望をさらけ出しちゃって。クローズドSNSだからって気が緩んでるんじゃないかしら。管理者権限があれば、そんなもの丸見えなんだからね。あまり下手なことを言わないのが一番よ。
まあ、組織の転覆を狙う密談をしてるわけじゃないから、見られても問題ないといえばないけれどね。せいぜい、その管理者があなたたちの王子様本人だったとしたら、とてもいたたまれないわねっていうことくらい。

午後10時、同室の彼女が風呂に入っているうちに、私は今日も、そっと外へ出た。別に、誰かと密会しようというんじゃないけれど、心配顔であれこれ詮索されるのは嫌なの。保護者気取りも余計なお世話。いつどこに行ったって私の自由でしょう、放っておいて欲しいわよね。
館外に出て、私は一息つくと、新鮮な空気を吸って身体を伸ばした。頭の上には、広大な星空。絶海の孤島から眺める夜空は、本当に素晴らしいものよ。本土にいたときには、無粋なビル群に邪魔されて、こんなに広い空を見たことなんてなかったもの。周囲が全部、ぐるりと一周、海なんだか空なんだか分からない漆黒に覆われて、そこにきらきらと小さく星が煌めくのは、夢みたい。もっとそれを味わいたくて、私は断崖の上へと通じる階段を上っていった。

繰り返す波音のリズムを心地良く聞きながら、穏やかな潮風の中を散歩するのが私の夜の楽しみ。こんな崖の上は、立ち入り禁止の札もあって、上ってくるような物好きな人間もいないから、私もひとり、自由気ままに歩けるというものだわ。ルールを破ってることは、別に気にならないし。誰に叱られるような話でもないものね。心配されなくとも、足を踏み外して真っ逆さまなんて間抜けな真似、私はしないわ。

そうして私は、今夜もひとりの散歩を楽しんで──いいえ、ひとりじゃなかったみたいね。立ち入り禁止の崖の上には、もうひとり、先客がいた。もう、こんなに堂々とルールが破られて良いものかしら。ちょっと組織の行く末が心配ね。私が案じるようなことじゃないけれど。
それに、その人影を見た瞬間、私の胸の内にあったのは、今後の組織の在り方を嘆く思いなんかじゃなかった。そんなもの、全部吹き飛んでしまうわよ。薄く雲に遮られた月明かりの下でも、私の眼にははっきりと分かったわ。ただ立ち尽くす姿だって、優雅な品格が溢れるのを隠すことは出来ない、あの姿。しなやかな細身のシルエット。間違いない、彼だって。

私は無意識のうちに足音を潜めて、彼に近づいた。なにも驚かせようと思ったのではなくて、遠く水平線の辺りを見つめる彼の姿は、声を掛けるのも躊躇われるくらいに綺麗だったんだもの。こっそり近づいて、もっとよく眺めたいと思うのは、当たり前のことじゃないかしら。
ただ、そんな努力は無駄だったようね。彼はすぐに私に気付いて振り返り、ああ、こんばんは、と優雅に会釈した。簡単にばれてしまったのは確かに悔しいけれど、それよりも、こちらを向いて貰えた嬉しさの方が勝ってしまう。どうかしら、こんな風に親しく話し掛けて貰えるなんて、ルームメイトの彼女が知ったらなんて思うか、想像するだけでも愉快なことだわ。

彼は招き寄せるように、こちらに優しく手を差し伸べた。
「どうぞ。そんなところに立たれていないで」
そう言って彼は、いつもの上辺だけのアルカイック・スマイルではなくて、心から素直な気持ちを表すように自然に微笑んだわ。そうされると、ちょっと無防備なくらいで、私は胸が小さく高鳴るのを感じた。普段の、柔和だけれどどこか人を寄せ付けない、綺麗に統制された表情も素敵だけれど、こうしてふと見せる少年のようないたずらっぽい瞳の方に、私はよりいっそうに惹きつけられる。
彼にこんな表情をさせることが出来るのは、私だけなんだわ。そう思うと嬉しくて、私は彼のもとに駆け寄った。

彼が私にこんなにも心を許すのは、彼が美しいものを愛する人間だからだと思う。
最初に逢ったとき、私は彼を美しい人だと思ったけれど、それは彼の方にしても同じだったみたい。美しい者同士が惹かれあうのは、当然のことよね。
部下の目もあるし、彼がからかわれてはいけないから、私もいつもは遠くからその姿を眺めるばかり。だけど、皆が自室に引っ込んだ夜だけは違う。私と彼は、こうして月明かりの下で、ひと時の逢瀬を愉しむの。
穏やかな水面のような彼の碧眼は、とても優しく私を見下ろす。ちょっと子どもを慈しむような視線なのが気になるけれど、別に文句を言うなんてことはしないわ。それこそ、小娘のすることだもの。いいわ、子ども扱いでも結構よ。
「少し、歩きませんか」
そんな彼にまろやかな声で誘われて、もちろん、断る理由なんてないわよね。すぐに私は、彼の後に続いたわ。

彼も私も、お喋りな方ではないから、黙って一緒に歩くだけ。彼の声は、聞いているだけで心地良くなってしまう響きがあって大好きだから、あまり話してくれないのは惜しいわね。それでも、私の心は浮き立ったし、こうしていつまでも並んでいたいと思った。いつまでも夜の世界が続けばいいのに、太陽は今も、再び上る準備をしているんだわ。私と彼をそうして引き裂くなんて、なんて無粋なことかしら。
少し前を歩く彼の足取りは、本当に優雅で、うっとりしてしまうわ。時折、風に煽られた髪を押さえる仕草も、小さなひとつひとつの所作に、まるで隙というものがなく綺麗。私の目があるからということではなくて、それはもう、彼にとっては当たり前のことになっているのね。
すっと背筋を伸ばして、漆黒のコートを翻す姿は、いつ見ても惚れ惚れとしてしまう。末端構成員の灰色の制服なんかとは格が違う、このコートが彼のもので良かったわ。まあ、彼ほどになれば、どんな衣装でも着こなしてしまうのだろうけれど。

私の歩幅に合わせてゆっくりとした歩調を保ち、時折、足場が悪いのを気にしてこちらを気遣ってくれる彼は、女子なら誰でも蕩けてしまいそうな王子様そのもの。したたかな子なら、ここで足を挫いた振りでもして、彼に抱きかかえて運んで貰うことを妄想でもするんでしょうけれど、私はそんな姑息な真似はしないわ。そんなことをしなくとも、私が上目遣いでおねだりすれば、彼に優しく抱き締めて貰えるのだから。
それに、彼は優しいけれど、弱い相手に向けられたら、それは哀れみになってしまう。私は優しさは欲しいけれど、哀れんで欲しいわけじゃないもの。崖の上も難なく歩ける、そういう強さを持った私だから、彼だって例外的に私を認めて、心を開いてくれているんだと思うわ。

そうして並んで歩いていたときだったわ。彼は、ふと立ち止まって、空を見上げた。私も一緒に立ち止まって、星空を仰ぐ。何を見ているのかしら。あの白金に輝く、大きな月かしら。雲が途切れて、欠け落ちたその姿があらわになる。満月だったら、月明かりに照らされて、彼の美貌がもっと引き立ったことでしょう。そこは残念だけれど、それでも、薄闇にあって上を向いた彼の姿は、溜息が出るくらい美しかった。
しなやかな鳶色の髪が、月光を受けて艶めくのは、昼間とはまた違った趣がある。それが頬に落ちかかって、彼の白皙の美貌に繊細な影を落とす様子は、美の粋を極めた芸術作品でもこうはいかないんじゃないかしらと思うくらい。

月に魂を惹きつけられてしまったように、彼は遠くその星を眺めていた。でもなぜかしら、美しさに感動するとか、畏怖するとか、そういう感情ではないように見えた。欠け落ちた月を綺麗というのが一般的な感覚なのかどうか、そんなことは私の知ったところではないけれどね。
彼の表情は、あえていうならば、痛みというのが一番近いのではないかと思ったわ。どうして彼が、欠けた月を見上げて痛みを感じなくてはいけないのかしら。切なげに少し眉を寄せて、真摯な光を宿した碧眼は、こちらの胸まで締めつけられるようだわ。いつも柔和に微笑している彼のそんな表情、私でさえ、見たことがなかった。

いったい何が、彼にそんな顔をさせるの。
いったい何を、見つめているの。
いったい何を、思っているの。
そこで、ふと私は気付いた。本当は、気付きたくなかったけれど、仕方がないわ。私の勘は鋭いの。見て見ぬ振りなんて、出来やしないわ。

彼には、──想っている人がいるのだと。
その人が、彼にこんな顔をさせる。
その人を、彼は見つめている。
その人を、彼は想っている。
──私がその事実を認めるのに、どれだけ辛い思いを噛み締めたか、分かるかしら。けれど、心のどこかで、分かっていた気もする。彼が優しく微笑むのも、優雅な振る舞いをするのも、全部、その想う相手がいるからこそなんだわ。その人のことだけを、想っているからなんだわ。他の誰も、彼の目には入っていないの──考えの内にないの。
特別なのは、ただ一人だけ。だから、誰もに平等に接することが出来る。彼の優しさは、そういうことなんだわ。

でも、今だけは、彼の隣にいるのは私なんだから。ここにいない相手を想っても仕方がないじゃないの。私は彼の心を呼び戻すように、身体を寄せた。彼は、それではっとしたように、ようやくこっちを見てくれたわ。
よそ見しないでよ、と私は上目遣いに訴えた。
「ああ──これは失礼」
彼は少し困ったように笑って、そんな表情も魅力的だったわ。レディをさしおいて、悪いことをしたと思ったのでしょうね、腕を伸ばして、私を抱き締めてくれた。そして、そっと頭を撫でてくれたの。彼の長い指は、男にしておくのが勿体ないくらい、なめらかで美しいから好きよ。骨ばった感触も心地良い。うっとりと目を閉じて、私は彼の甘くて少し重い匂いに酔った。

「お詫びといっては何ですが……どうぞ」
言って、彼は懐から小さな包みを取り出した。前にも貰ったことがある、私の好きなお菓子。そのときに喜んだのを、覚えていてくれたのね。いつもの私だったら、ありがたく受け取るところ。だけど、今はなんだか、そんな気分じゃなかった。こんなもので機嫌が取れるなんて思ったら、大間違いなんだから。
私はふんとそっぽを向いてやったわ。そんなもの要らないわって、ちゃんとアピールしないとね。そうしたら、彼も自分の過ちに気付くことでしょう。
「……これはもう、飽きてしまいましたか。すみません、女性の好みというのは、よく分からなくて」
ああ、だから、そうじゃないのに。どうして分からないのかしら。切れ者のくせに、変なところで鈍いんだから。外見も中身も完璧にみえる彼の唯一の欠点ね。こういうときに、彼と意思を通わせることが出来ない自分の身が、少しだけ哀しいわ。なんて、彼の胸に抱かれていながら、贅沢な悩みかしら。とりあえず、ここぞとばかりに頬擦りをさせていただくとするわね。

優しい腕の中で貪る心地良いまどろみを台無しにしたのは、無粋な電子音だった。彼の端末が、小さく震えて音を立てる。瞬間、彼の纏う気配があからさまに切り替わった。
「ああ──すみません。主人からの呼び出しです。……また、眠れないのでしょうね」
いかにも、夜間散歩に邪魔が入って残念そうな風情で彼は呟いたけれど、その表情に、呼び出しを面倒がるような色は一欠片も浮かんでいなかった。むしろ、愛おしげな微笑を湛えて、その心は既に、主人とやらの方へと向いていることが明らかだったわ。

身体を離す直前、せめてもの意思表示として、私は彼の手に小さく爪を立てた。もちろん、引っ掻いて傷をつけるなんてことがあってはいけないから、そっとね。この私が他人相手に手加減するなんて、これも惚れた者の弱みというものかしら。
「はいはい。次は、新しい手土産を持ってきますからね」
もう。やっぱり全然分かってないじゃないの。跪いて、両手で抱き上げていた身体をそっと地面に下ろしながらそんなことを言う、彼の端正な顔を、私はただ睨むことしか出来なかったわ。肩に掛け上って、素敵に整えられた髪をぐしゃぐしゃにしてやりたい気持ちはやまやまだったけれどね。

最後に、彼はその美しい指で、私の喉をくすぐった。
「さあ、あなたももう、お帰りなさい。ご主人が心配されますよ」
あの同居人のことをご主人様だなんて、私は思ったことは一度もないのだけど。まあ、寝心地の良いベッドとそこそこのフードを用意してくれることには感謝しているわ。下僕としてね。
その彼女がするよりも、彼の愛撫は数段上手なものだから、私はついつい気持ち良くなって、はしたなくも鳴いてしまったわ。



「にゃあ」




[ end. ]
















ちょこっと『弦のない月』(→offline)と繋がってます。

2012.03.11

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