カサブランカ -1-

条件が変われば違う未来もある、二人に。



──3、2、1──0。
一日の学業を終え、放課後を告げるチャイムが鳴り始めるやいなや、俺は前もって準備しておいた荷物を肩に引っ掛けて席を立った。片手で椅子を机の下に押しやったときには、もう身体は駆け出している。少しばかり乱暴な音を立ててしまったが、なにしろこちらは急用だ、大目に見て欲しい。心の中で謝罪しつつ、まだ教科書やノートを広げたままの学友たちの机の間を縫って、脇目もふらずに教室後ろの扉を目指す。
「カイト!」
今にも扉を開け放とうとした瞬間に呼び止められて、俺は一応、振り返った。正直、聞こえなかった振りをして走り去りたいのはやまやまであったのだが、こんな俺でも、出来ればクラスメイトとの友好的人間関係を保ちたいという思いを、人並み程度には備えている。これ以上教室内での評価を下落させては、今後の輝ける高校生活がいささか気まずいものとなるであろうことはうけあいだ。
呼び掛けの発せられた方向を見れば、気さくなクラスメイトが席を立ち上がりながら、軽く手を振っている。
「今日こそ、ミーティングしようぜ。ほら、校外学習のテーマのやつ。なにか軽くつまみながらさ」
「悪い、俺はなんでもいいから。適当に頼む」
折角の誘いに申し訳ないが、寄り道をしている時間はない。おそらく、そのミーティングの大半は、菓子をつまみながらの、他愛のない日常の雑談に費やされる筈だ。残念ながら、そうして必要以上に親交を深める手続きは、そもそも俺の好むところではない。たとえ、暇な昼休みに誘われたところで、慎んで辞退させて貰ったことだろう。
それに、なにより、今は──急いで帰らなくては。
付き合いが悪いといって糾弾する声を背景に、俺は駆け足で学び舎を後にした。

バス停までの並木道を一気に抜けようとしたところで、しかし、脇から飛び出してきた人影によって、スタートダッシュはいきなり邪魔されてしまった。わざわざ待ち伏せていたのだろうか、行く手を阻むように立ちふさがったのは、眼鏡の男子とその腰巾着という、いつものパズル部員二人組であった。
何度同じことを繰り返しても気が済まないらしい眼鏡は、よれよれになった何かの紙片をこちらの眼前につきつけて、高々と叫んだ。
「大門カイトォ! 今日こそはこの武田の挑戦を受けてもら」
「472、196、843、567、420。じゃあな」
空白の升目の並んだ紙片のよれ具合からして、おそらく、何度も書いては消して制作したのだろう。以前よりはだいぶましになったとはいえ、まだまだ不細工なパズルであることには変わりない。
悪いが、こんなものに構っている暇はないのだ。苦労の跡がうかがえるそれを、俺は片手で軽く払いのけ、再び駆け出した。
「なっ……正解っす……!」
「くうっ…! ええい、次こそは!」
そんな悔しげな声を、背後に聞きながら、俺は心が浮き立つような感覚がした。といっても、なにもパズルを解けた喜びに浸っているということではない。
そうではなくて、背後に残してきたものではなくて、志向するのは、もっと先──この並木道の、そして、その更に先。
意識はもう、これから帰るべき場所へと向かっている。



自宅の扉の前で、息を整えながら、いったん時計を確認する。予定時刻を3分オーバー。いくら100メートル走のタイムを向上させたところで、交通事情まではいかんともしがたい。この程度の遅刻で済んだならば、まあ上々といっていいだろう。
ドアハンドルに手を掛けると、朝にしっかりと鍵を掛けて出掛けた筈のそれは、抵抗なくガチャリと音を立てて回った。別段に、驚くようなことではない。いつも通りだ。
一つ深呼吸をしてから、俺はゆっくりと扉を引く。

「おかえり、カイト」

30度ばかりを開いたところで、完璧なタイミングで迎えてくれたのは、この上なく温かな声だった。そんな筈もないのに、まるで柔らかな光に包まれたようで、ドアの隙間から溢れる眩しさに俺は少しばかり目を眇めた。否、それとも、これはセンチメンタルな比喩でもなんでもなしに、実際に扉の向こうがこちらの何段階か明るいとしても、不思議ではなかった。残りの60度を、俺は躊躇わずに開け放った。
──ああ。やっぱり、明るい──扉の先、真っ白な壁を背にして立つものを見て、俺はこの上なくシンプルな感想を抱いた。それも当然だろう。
白い服、白い肌、見事に色素の抜けた白金の髪、澄みきった淡青色の瞳。そんな取り合わせは、周囲の光を淡く反射してやまない筈なのだから。

「──ルーク」

かけがえのない我が親友──ルークは、慈愛に満ちた穏やかな眼差しでもって、今日も定時に帰宅した家主を出迎えた。
「カイト」
ゆっくりと、大切に味わうように呟く声には、隠しようもなく歓喜の色が滲んでいる。朝方、俺が学校に向かうのを玄関先で見送ってくれたときは、泣き出しそうな不安げな顔を隠そうともしなかったというのに、同じ場所で、今はこのこぼれんばかりの笑顔である。毎日そんな激しい浮き沈みを繰り返させて、さすがに俺も、少々申し訳ない心地にならないでもない。
何も疑うことを知らぬ幼子のような無垢な笑顔で、ルークはいつも、俺を出迎えてくれる。照明の落ちた薄暗い部屋に帰宅することが当たり前になっていた俺にとって、それは戸惑うくらいに新鮮な体験だった。誰かに「おかえり」と言って貰うのも、玄関まで出迎えて貰うのも、そんな記憶なんて、いくら探しても見当たらなかったのだ。

俺は無言で玄関に這入り、期待に満ちた瞳を輝かせるルークに相対した。言いたいことはちゃんとあった筈なのに、そして、ドアハンドルに手を掛けるまではそのつもりであったのに、すべてを信じ切って委ねるように穏やかな親友の笑顔を前にして、それを計画通りに実行することは難しかった。
ドアが閉まるのも待ちきれないといった様子で、ルークは裸足で玄関に下りた。ぺたり、と一歩踏み出すだけで互いの衣服が触れ合ってしまう狭い空間で、静かに身体を寄せてくるのを、俺は逃げずにその場で待つ。
「カイト。……おかえり」
耳元で、もう一度ルークは囁いた。そのまま、ぎゅ、ともたれるように両腕で抱きつかれると、俺は何も言うことが出来ない。いったい、こんなルークを相手に、何が言えるっていうんだ──あの言葉以外に、いったい、何を返せるっていうんだ。
ふがいない自分に内心であきれながら、今日もまた、同じ返事を繰り返す。
「……お前もな。おかえり、ルーク」
軽く頭を撫でてやると、ルークは嬉しそうに、こちらの肩口に頬を擦り寄せる。柔らかな髪のくすぐったさ、細い身体の温かさ、触れ合せる肌の感覚は、容易に十年前の懐かしい記憶を呼び起こす。草と土、そして、微かな消毒液の匂いが、鼻腔をくすぐるような気がした。

実際のところ、学校から帰って来た俺がここで言うべき台詞は「ただいま」であって、一方でずっと家にいたルークに対して「おかえり」もなにもないだろうということは、自分でもよく分かっている。英国育ちの俺だって、それくらいの日本の挨拶文化は、ずっと幼い頃に習得して心得ているつもりだ。
それでも、俺がルークに言ってやりたい言葉は、いつも、「ただいま」ではなくて「おかえり」の方だった。それは、考えるまでもなく、当然に。
なぜならば──帰ってきたのは、俺ではなくて、ルークの方なのだから。少なくとも、俺はそういう風に解釈している。やっと帰って来られたルークに、俺は何回だって、「おかえり」と言ってやりたい。
向こうは2回も言ってくれたのだから、こちらも返してやらないとな、と俺は律儀に考え、友人の背中をぽんぽんと撫でながら、今一度繰り返した。
「ルーク。おかえり」
耳元で告げると、こちらの身体に回す腕に少し力を込めて、ルークは応えた。触れ合った箇所から伝達する、静かな温度と肉の薄い身体の感触が、友人の儚い存在感を教える。意識的に息を潜めて、俺はその繊細な感覚を味わった。



さて、暫しそのままの体勢で待ってみたが、親友の細くてきれいな腕による拘束から、どうやら俺の身体が解放される気配は無い。この調子では、放っておいたら、何時間でもこのまま固まっていそうな予感がする。あまり体力のないルークだから、そのうち立っているのに疲れたら放してくれるかも知れないが、それを無為に待つというのも芸が無い話である。
だいたい、疲れたといって、この場で抱き合ったまましゃがみ込まれるはめになったらどうするというのだ。下手をしたら、朝までそのままである。いくら俺でも、玄関先で一晩を明かすのはごめんだ。
それでなくとも、今こうしている間にも、裸足のルークは冷ややかな玄関に熱を奪われている筈である。本人は、たぶんそんなことを少しも気に留めてはいないのだろうが、俺のせいで身体を冷やして風邪でも引かせてしまうことになっては、なんとも忍びない。ここにルークを住まわせている以上、その健康を守ってやることは、家主である俺の責任の一つであると思うのだ。
密着させた身体の小さな鼓動と規則的な息遣いを、微かに肌で捉えながら、俺は状況を変えるべく、ひとつ提案をした。
「な、ちょっと靴脱ぐから、放してくれねえか」
「カイト。キスして」
控え目な提案に、返って来たのは肯定でも否定でもなかった。人の話をおよそ耳に入れた様子なく、ルークは安堵しきった声を紡いでねだった。吐息交じりの、少し掠れた甘やかな声は、聞きようによっては、おかしな感情をかき立てられてしまいかねない切ない響きを内包する。
しかしながら、それは今の俺が求める応答ではなかった。そのことを、ルークに分かるように伝えてやらねばならない。もう一度、俺はゆっくりと言葉を選んで言い直す。
「うん。じゃあ、まず靴脱いでからな。そうしたら、俺はルークにキスする。いいか?」
「いいよ」
今度はあっさりと許諾して、ルークはもたれていた身体を離した。後ろを振り返りながら、もう一度室内に上がる。その様子に、内心で俺はほっと一息を吐いた。ひとまず解放されて良かった、という気持ちもあるにはあるが、それというよりもむしろ、この親友とちゃんと間違えずにコミュニケーションが出来たことによる安堵の方が大きかっただろう。

そう──間違えなかった。
ルークの中には、彼だけの特別なコミュニケーションの仕方というものがあって、それに則って言葉を交わさなくては、応答がまるでちぐはぐになってしまう。普通の相手であれば、馬鹿にしているのかといって怒り出すか、あるいは、これは駄目だと匙を投げるか、いずれかの結末しか訪れないだろう。
こんな調子だから、ルークは俺以外の人間と、まだあまり上手く意志疎通が出来ずにいる。否、といって、たかが10代の子どもである俺が、そう特別な会話技術を備えているわけではない。あえていうならば、俺は何があろうとも、ルークに対して怒ることもあきれることもないという、ただその一点においてのみ、他の人々から優越しているといえるのかも知れない。

片足ずつゆっくりとスニーカーを脱ぎながら、俺は何気なく手を伸ばして、玄関のドアに鍵を掛けた。むやみやたらと侵入してくる幼馴染の少女のせいで、そうとは見えないかも知れないが、これでもセキュリティ意識はそれなりに持ち合わせている方である。鍵がある以上、それが掛かっていないというのは何とも落ち着かない。この小さな金具に与えられた責務を、しっかり果たさせてやろうではないかと、使命めいた思いを抱いてしまう。
それでありながら先程、帰って来たときに鍵がかかっていなかったのは、言うまでもなく、俺を迎えるためにルークがそれを開けていたからだ。学園の授業終了時刻──午後三時を過ぎる頃から、ルークはどうしても、俺が帰って来るのを玄関先に立って待たずにはいられなくなるらしい。
鍵を開けて、ドアの前に立って、じっと主人の帰りを待つ。飼ったことがないので知らないが、こういうのを忠犬というのだろうな、という失礼な感想は胸の内だけに留めておいた。たいていの犬は、鍵を開けるなんてことまではしないのだろうから、その意味でこちらは少々厄介である。
泥棒と鉢合わせでもしたらどうするんだ、危ないだろうとさんざん言っているのだが、一向に聞き入れられる気配は無い。めげずに今日も説教してやるつもりだったのに、もうあの嬉しくてたまらないといった笑顔で、尻尾を振らんばかりに出迎えられてしまっては、どうしても厳しいことは言えなくなってしまう。情けないことだ。

そもそも、この家の中だけで生活が完結するルークにとって、この扉をくぐって入って来るのは俺だけで、他には考えられないらしく、鍵の意味というのも全く理解していない。「だって、開けてあげないと、カイトが出て来られない。閉じ込められちゃうよ」と、いつだったか不安に瞳を揺らして言っていたから、もしかしたらルークにとって、内と外の概念は、俺たち世間一般の考えとは、まるきり逆転しているのかも知れなかった。彼にとっては、この家の中こそが、鍵の外の自由な世界であって、家の外は、錠のかかった牢獄のように感じられるのだろう。
いずれにしても、家の鍵を開けた状態にしておくというのは、中にルークがいるといっても──ルークがいるからこそ、看過出来ない。一刻も早く帰宅して、自分の手で鍵を掛け直さなくてはいけない。それで俺は、友人たちから付き合いが悪いといって罵られようとも、全速力でまっすぐに家を目指すのである。
一分一秒でも早く、帰ってルークを安心させてやるために。
嬉しそうな表情で、「おかえり」と口にさせてやるために。

「お待たせ」
言って、俺も狭い玄関から室内に上がり、そこに佇むルークに相対する。大人しく待っていたとはいえ、きっと内心では、待ち遠しくて気が気でなかったのだろう。全身からうずうずと、今にも溢れ出しそうな期待感が滲んでいる。ひとまず俺は、その薄い肩に片手を掛けた。それを合図に、ようやくおねだりを聞き入れて貰えるとばかりに無邪気に微笑んで、ルークは目を閉じる。
安らかに眠りに就くさまを思わせるその表情は、まるでこちらにすべてを差し出し、自由にしていいとでもいうように、白く、危うい。柔らかな髪の落ちかかる頬に、そっと手のひらを添わせてやると、繊細な睫の影がふるりと揺れる。両手でもって丁寧に包み込むように、俺はルークの白い顔をゆっくりと撫でた。小さく息をこぼすのは、気持ち良いのだろうか、あるいは、早くして欲しいと訴えているのかも知れない。一歩、俺は進み出て、互いの身体が触れ合うまでに密着させた。

少し首を傾げたルークの、軽く閉ざされた唇に、目を閉じながら、静かに唇を押し当てた。暗く閉ざされた視界で、ただ、柔らかく沈み込むような心地良い弾力を味わう。
ルークの唇は、身体の他の部分と同じで、触れるとしっとりとなめらかに吸いつくような感触を与える。そして、ほのかに温かい。重ね合わせていると、少しずつ心が落ち着いていくのが分かる。はぁ、と小さくこぼれた息が互いを掠めて、くすぐったかった。
ただ、軽く触れ合せてやるだけの、シンプルな行為。それだけで、ルークは満足するらしかった。足りないといって、それ以上を求めることもない。
離れるときは、いつもルークの瞳は少し寂しげで、もっとして欲しいと言わんばかりにこちらを見つめるけれど、一度だってそんな我が儘を言ったことはなかった。寂しそうなままに、ルークは黙って笑うのだ。そしてまた、そろそろ我慢が出来なくなった頃に、再びねだってくる。
「キス」と「チェス」。何もかもをどこかに置いてきてしまったような、ルークがちゃんと覚えていて、求めてくるのは、その二つだった。

そろそろ良いだろうかと、俺はゆっくりと、寄せていた身体を引いた。触れ合せていただけの唇は簡単に離れて、それをルークも引き留めようとはしなかった。瞼を上げると、互いにどこかぼんやりと定まらない視線が絡み合う。薄く開いたルークの唇は何か物言いたげで、しかし結局、躊躇うように引き結ばれて、言葉を紡ぐことはなかった。
その心細げな眼差しから、俺はぎこちなく視線を外すと、気を取り直すようにして言った。
「ほら、いつまでもこんなとこ立ってんなよ。行くぞ」
それを言うならば、そもそも、こんな玄関先で抱き合うというのも我ながらどうかと思わないではなかったが、過ぎたことは仕方がない。それに、ひとしきりそうして再会を喜ぶ儀式を経なくては、ルークは俺を中に入れてはくれないのだ。そのことは、これまでの経験上、よく知っている。せめて、事が終われば速やかにリビングへの移動を試みるくらいが、こちらに出来る妥当な対処であろう。

手ぶりでルークを促しつつ、先に立って、リビングへ向かう。否、向かいかけたときだった。小さく右腕を引かれる感覚に、俺は足を止めた。首を巡らせて確かめるまでもない。背後から身体を寄せたルークの細い腕が、俺の右腕をそっと閉じ込めていた。
引き寄せた腕を、大事そうに胸に抱いて、ルークは吐息交じりに呟いた。
「カイト……おかえり、カイト……」
言って、肩口に頬擦りをする。俺は自由な左手を持ち上げると、宥めるように、その白金の頭を軽く撫でてやった。嬉しそうに、ルークはますます身体を密着してくる。やれやれ──今日はなかなか、リビングへと辿りつけないらしい。密かに嘆息しながらも、俺はどこか胸の内に、温かなものが広がっていくのを感じていた。

そんな、まるで10年振りの再会かというような熱烈な歓迎を、ルークは飽きず毎日繰り返すのだった。




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