カサブランカ -2-




「はい、来月の校外学習のテーマ。カイトはこれ調べて、って。これなら、ミーティング万年欠席のあんたでも出来るでしょ」
「ああ。分かった」
玄関先に立った幼馴染が手渡してくる、クラスメイトからの指令書の束を、俺はありがたく拝受した。ユニフォーム姿の彼女は今日も放課後、フットサルの試合の助っ人として大活躍してきたものらしく、届け物をしてくれた今、時刻は21時を回っている。毎度毎度、よく元気が尽きないものだと、これには素直に感心するばかりだ。
疲れを感じさせない笑顔で、ノノハは溌剌と明るい声を紡ぐ。
「皆にはうまく言っといたから、安心して。引き取った犬の世話をしないといけないんだって説明したら、全員、納得してくれたよ。なんでもっと早く言ってくれなかったのって怒られちゃった」
頭脳明晰、スポーツ万能、学年中からの人望厚い彼女の言うことだ、おそらく皆、極めて好意的に受け止めてくれたことだろう。俺が抗弁を試みれば、嘘っぽいただの言い訳にしかならないところを、なにか少年と犬の涙と感動の物語仕立てにでもして語ったに違いない。
実際、彼女のフォローがなければ、俺のクラス内での立場は、もっと取り返しのつかないところまで転落していただろうことは明らかだ。幼馴染に支えられている自分を実感しながら、俺は頭を垂れた。
「……すまねえな」
「どういたしまして」
毎朝、遅刻しないよう叩き起して貰う習慣は一応卒業したとはいえ、どうやら俺は、まだまだこの幼馴染の世話になり通しのようだ。申し訳なさと感謝との入り混じった感情を、胸の内で味わっていた、そのときだった。
カチャ、と小さな音が鼓膜を叩いて、俺はリビングの方を振り返った。玄関へ出ていったきり、いつまでも戻ってこないから心配になったのだろう。扉の陰から顔をのぞかせたルークは、俺と視線が合って、ほっとしたような笑顔を浮かべた。頼りない足取りで、こちらに向かってくる。
「カイト。お風呂……」
「こんばんは、ルーク君」
玄関から少し身を乗り出して挨拶をしたノノハの声は、彼女にしては、ゆっくりと穏やかに紡がれたものだった。まだ他人に馴れないルークに、出来るだけ刺激を与えないようにとの配慮のほどがうかがい知れる。
それでも、声を掛けられたルークは、ぴたりとその場で足を止めてしまった。否、これは、固まってしまった、という方が正しいだろう。踵を返すことさえ忘れてしまったかのように、足を踏み出しかけた中途半端なところで立ち尽くす。
そんなルークに、こちらから少しでも歩み寄ろうとしてか、ノノハは手土産を掲げて見せた。
「お菓子、またいっぱい作っちゃったから。良かったら、食べてね」
反応はない。そこには、無視をするだとか、沈黙を守るだとかの能動的な行為は一切なく、ルークは単純に、立ち尽くしていた。おそらくは、掛けた言葉もその耳を素通りして、脳内までは届いていないのだろう。

んー、と考えた結果、ノノハは、自分が少し喋りすぎたことに気付いたらしい。それから、挨拶によってルークの言葉を遮ってしまったということにも。その辺りのことはさすが頭の回転の速い彼女だけあって、すぐさま話題を巻き戻す。
「お風呂入るの? いってらっしゃい」
その言葉で、ずっと淡青色の瞳を瞠っていたルークは、ようやく気付いたように瞬きをした。ふっと金縛りが解けたように、その強張った肩から力が抜ける。そのまま、ルークはおぼつかない足取りで、廊下の残りの数歩を進んだ。ようやく俺の元まで至ると、後ろに隠れるようにしてそっと腕を引く。
「……カイト」
「ああ、カイトが先に?」
ほんの小さな囁きを捉えて、ノノハは納得したように言った。風呂が沸いたから入れ、と家主を呼びに来たものだとでも思ったのだろう。同居人だから、遠慮して先を譲っているのだという風にも解釈したかも知れない。
折角納得したところを悪いが、それは正解ではなかったので、俺は首を横に振った。
「いや。一緒に、だ」
その瞬間、これまで保たれていたノノハの朗らかな笑顔が、音を立てて凍った。
「……一緒、ですか?」
引きつった笑顔で紡がれた声は、あからさまに上ずっていた。なんで敬語になってんだよ、と心の中でつっこみながら、俺は若干引き気味な幼馴染に、解説を加えてやった。
「まとめて一度に済ませた方が、面倒がなくていいだろ。ほら、洗濯と一緒でさ」
「……はぁ」
相槌なのだか溜息なのだか、よく分からない声をもらすと、ノノハは妙に明るい声を紡ぎ出す。
「そ、そうね、二人は親友だもんね。一緒にお風呂くらい当たり前よね。それくらいはね、うん。……まさか、同じベッドで眠っているわけじゃあるまいし」
「はは。まさか」
幼馴染の根拠のない想像を、俺は笑って流した。否、流そうとして、それは結局、出来なかった──ずっと黙っていたルークが、どこか乾いた俺たちの笑いの合間で、小さく呟いたからだ。
「一緒だよ。寝るときも」
どうしてお前は、いつも黙ってるくせにこういうときだけ、致命的な一言を発するんだ。心の中だけで、俺は叫んでおいた。

素直すぎて嘘を吐くことが出来ないルークに、いったいどのようにして、場の空気を読むという高等技術を伝授したものか、俺は考えあぐねて天を仰いだ。その間にも、ノノハは壁に向かって、何かぶつぶつと独り言を紡いでいる。
「知らなかった……ルーク君が来てから、カイトってばちゃんと早起きするもんだから……まさかそんなことになっているとは……っ」
そこに込められた悔恨がいかなるものであるのかは、俺には知る由もないが、このアグレッシブな幼馴染という名の目覚まし時計から、近頃の俺が卒業したというのは事実である。
ルークが家に来てから、俺は朝に強くなった。毎朝ちゃんと、決まった時間に、アラームもなしにすっと目が覚める。隣で寝息を立てている友人の、安らかな寝顔を暫し見つめてから、起こしてしまわないようにそっと寝台を抜け出すのだ。余裕をもって支度を整え、ルークを起こして一緒に朝食を摂り、登校する。
以前の、寝起きが悪くて毎朝幼馴染に叩き起されていた頃とは大違いの生活だ。我ながら、その変貌ぶりに驚く。こんな変化が起こったのも、ルークのためであって、つまり俺が以前のようにいつまでもベッドから出ずに惰眠を貪っていては、ノノハによる暴力的な目覚めの一喝に、ルークまで巻き込んでしまうことになる。
そうならないために、俺は彼女が襲来する前に自力で起きることにしたのだ。やや遅い、自立心の目覚めというやつである。それに、こうすることによって、世話になりっ放し、面倒を掛けっ放しの彼女に対して、ささやかな負荷軽減となれば良いという思いだってある。
俺が、ルークを変えていくという、それだけの一方的な関係ではない。ルークの存在によって、俺もまた、変化しているのだ。

「男同士、男同士の友情、熱い絆……よし」
何かぶつぶつと呪文のように唱えてから、ノノハは俯いていた顔を勢いよく上げた。その面は、何かをふっきったように清々しく輝いている。どうやら、気を取り直したということらしい。さすが、打たれ強さと立ち直りの早さにかけては定評のある井藤ノノハといったところか。
「それじゃ、私はこの辺で。また明日ね」
明るく手を振って、ノノハは自宅へと戻っていった。外廊下まで出て、その軽やかな後ろ姿が視界から消えるまで見送る。
こうして傍で何かと支えてくれる、彼女の存在の大きさを、俺は改めて実感していた。時間を割いてまで、俺のために、そして、──ルークのために。ノノハだけじゃない、それは、他の皆にしても同じことだ。
アナはしばしば小さな絵を贈り、軸川先輩はチェスの相手をして、ルークを慰めてくれる。基本的に穏やかな性質を有するあの二人に対しては、ルークも少しばかり、心を開いているようなふしがある。
ギャモンのことはまだ苦手なようで、出くわすと相変わらず俺の後ろに隠れてしまう。だが、あの悪友はあれでなかなかに面倒見が良く、こいつちっとも馴れねえしなどと悪態をつきながらも、そんなルークに試行錯誤で根気強く接してくれる。ありがたいことである。
カイトは僕のものなのになどと言って普段から妙な対抗意識を燃やしているらしいキュービックだって、それとこれとは話が別といったように、真摯な使命感を帯びた研究者の眼差しでもって、定期的にルークの状態を診てくれるのだ。
なんて心強い──仲間たちだろう。あれだけのことに巻き込まれておきながら、こうしてルークのことも俺のことも友人として扱い続けてくれる、彼らの思い遣りのほどには、いくら感謝しても足りない。出会ってから、いくつもの体験を共有していく中でも、今ほど仲間の絆というものを感じたことはなかったと思う。その意味で、やはり俺は、以前の自分とは明らかに変化しつつあるのだろう。

偉人の称号を戴く、この仲間たちを通して、ルークも少しずつ、外の世界というものを知ることが出来れば良いと思う。そうしたら、一緒に学校にだって行けるかも知れない。これまでに出来なかった、普通の高校生らしい生活を送ることだって、夢ではないと思うのだ。
そうさせてやることが出来れば──ルークが俺のところに預けられた意味もあるというものだ。
親しい友人はおろか、同年代の子どもと接することさえなく、周りを慇懃な大人たちばかりに囲まれて育ったルークに、今からでも普通の少年らしい経験をさせてやって欲しいと、そう願って彼の保護者は、俺にルークの身柄を託したのだ。ずっと傍で見守って世話をしてきた、家族ともいえる大切な存在を、こんな子どもに預けるだなんて、簡単な決意ではなかったことだと思う。そこにあるのは、ひとえに、ルークに対する誠実な思いであり──愛情だ。
その思いに、俺は応えなくてはならない。ルークに、平凡で穏やかな毎日を、与えなくてはならない──与えてやりたいと、そう思う。
「カイト」
「ああ。いま行く」
家の中からの小さな呼び声に、俺は扉の内へ戻ると、静かに鍵を閉めた。




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