ヴェネツィアン・ラプソディー -1-





総督宮殿と白亜の大聖堂を擁する壮麗なピアッツァ・サンマルコには、雲ひとつない抜けるような青空がよく似合う。穏やかな水面が陽光を受けてきらめくラグーナをヴァポレットで渡り、この地へと足を踏み入れた者は誰しも、海の蒼と空の青とに抱かれた、海上都市の白く輝くばかりの在りように、ただただ感嘆の息をもらすのである。

「セレニッシマ(晴朗なり)──実に麗しい」

謝肉祭の時期には、着飾ったマスケラ姿の人々の波で埋め尽くされる大広場であるが、オフシーズンの今、さしたる混雑はみられない。かつてこの地を占領した、かのナポレオン・ボナパルトが「世界一美しい広間」と称賛したという、その気持ちもよく分かるというものだ──視界を遮るものなく、右手には天を突く煉瓦造りの鐘楼が聳え、正面にはビザンティン様式のドームも壮麗な大聖堂の威容を前に、白のコートに身を固めた長身の男は詠嘆した。
結い上げた背までの黒髪は、よく手入れされた深い艶を誇り、怜悧に整った面は、誰が表現しようと異論なく美形の範疇に含まれよう。ただ、大聖堂に視線を注ぐ切れ長の瞳に宿る鋭い光は、彼が物見高い観光客などではないことを証する。唇の端に、どこか酷薄な愉悦を浮かべ、男──頭脳集団POG極東本部長ヘルベルト・ミューラーは満足げに頷いた。
「丁度先日、修復が終わったところだそうで何よりだ。無粋な足場や重機に遮られては、いかに美なる建造物であろうとも、興醒めの感が拭えん。ぜひとも、完全な姿を見せたかったのだよ──特に、君にはね」
その最後の呼び掛けは、彼の隣に佇む同行者へと向けたものである。
「……それはどうも」
親しげな呼び掛けに対して、返ってきたのは、およそ情感のこもらぬ、社交辞令的応答にもほどがある冷めきった声であった。極東本部長に一歩下がって控える鳶色の髪の青年は、誰しも無防備に感嘆すべき美なる情景を前に、背筋を伸ばした直立体勢を解こうともしなかった。穏やかな潮風を受けて、ただ漆黒のコートの裾が時折、翻るのみである。
均整のとれたしなやかな長身は、その洗練された優美な立ち姿とあいまって、ただでさえ人目を惹くものであったが、ことに広場を行き交う人々の熱い視線の的となっていたのは、その容貌であったといえよう。そよぐ風に煽られた前髪が落ちかかるのは、白皙の美貌である。軽く顎を引いて目を伏せた様子は、それだけで品格を醸し出し、高い知性と柔和な物腰を想起させる。控え目に俯いた表情はどこか物憂げであったが、その静謐なる美をいっそうに高めこそすれ、決して損ねるものではない。
最高級の翡翠を思わせる双眸は、陽光の下で物静かに艶めいて麗しい。そこには、しかし、周囲を行き交いこちらを見つめる者たちの姿などは、もとより映ってはいない。宮殿に掲げられた芸術作品のごとく、人々の熱い眼差しを集めながら、その当人は、向けられる視線を一顧だにしなかった。
それを、己の価値を知り尽くした者ならではの傲慢さの表れであると感じるのは、凡庸なる者の僻みでしかないであろうか。美なる者にのみ許された、ただそこに存在するだけで醸し出される気高さ、あるいは傲慢さ──黒衣の青年は、まさにそのモデルケースであるといってよかった。

今にも深々と溜息を吐きそうに浮かない顔の部下をかえりみて、ヘルベルトは窘めるように言った。
「少しは楽しげな顔をしてくれても良いのではないかね。いったい、何のためにここまで来たと思っているのだ」
「視察です。迷宮≠フ」
およそ抑揚と温度を欠いた声音でもって、鳶色の髪の若者──ビショップは、この都市に仕掛けられた禁断のパズルのコードを即答した。必要最低限以外の会話を交わすつもりは微塵もないとでも言いたげな、頑なな態度で為された優等生的回答に、ヘルベルトはいかにも嘆かわしげに苦笑してみせる。
「それはもう、済ませてきただろう。他の者たちも、先に帰国させた。ここからは我々二人の時間──仕事の話は抜きだ」
「……ならば、私も失礼させていただきたいのですが」
「おやおや、上司を楽しませるのも仕事のうちではないのかね」
「…………」
お気に入りの青年の整った面立ちに浮かんだ苦悩の色が、やがて諦念に変わるまでの様子をじっくりと眺め遣って、ヘルベルトは心が浮き立つのを感じた。やはり、強引にでも連れ出してきて良かった。美しい都を堪能するには、それに相応しく旅情を高めてくれる、美しい従者がなくてはならぬ。その意味で、聖職者の名を冠するこの若者は、極東本部長のお眼鏡にかなった、数少ない貴重な人材であった。
実際、客観的にいって、広場に佇むこの二名の取り合わせによる存在感は、その辺りの観光客などとはまるで別格であった。極東本部長の己の部下へと相対する態度は、いかにも他人に命令することに慣れきった者ならではの驕りに満ち溢れ、目下の者への配慮や労りといったものは欠片も感じさせぬ。しかし、彼ならばそのような態度も許されようことを、見る者に不思議と感じさせるのは、いったいいかなるゆえであろうか。おそらくは、それに見合うだけの確かな実力に裏打ちされた自負というものを、彼の言動の端々から窺い知ることが出来るためであったかも知れない。
白のコートに身を固めた、傲岸不遜を体現したかの男に付き従うのは、職務に忠実な──少なくとも表面上は──一流の執事を思わせる、流麗なる黒衣の若者である。通行人の興味を引きつけるのも無理はない。しかし、そのようなことをいちいち喜んだり煩わしく思ったりする無邪気さは、二人ともとうに失って久しく、視界と意識を占めるのは美しい街並み、そして、互いの存在だけであった。

大聖堂に隣接する赤煉瓦の塔を仰ぎ見て、ヘルベルトは眼を細めた。
「あの鐘楼からの眺めは見事なものだ。行ってみるか? かのガリレオも自作の望遠鏡を携えて上り、総督にその性能のほどを披露したというぞ」
「……当時の鐘楼は20世紀初頭に倒壊しました。これは、その後に再建されたものでしょう」
可愛げのないことを言って情緒を台無しにする若者に対して、極東本部長は別段に気を悪くすることはなかった。どころか、小生意気な生徒を根気よく教え導く教師の在りようでもって、軽く諌めてやりさえする。
「ああ、その通りだ。だが、分かっていても、そう無粋なことを言うものではない。聞きかじりの知識を鼻高々にひけらかす人間は、かえって蔑まれるものだ」
その反応が予想外であったのか、ビショップは無言で小さく顔を背けた。澄ました顔をしているが、きっと内心では、思惑が外れて悔しがっていることだろう。そういうところが若いのだ、とヘルベルトは密かに思う。つれない態度を通していれば、相手も飽き飽きとしてさっさと解放して貰えるだろうとでも考えているとすれば、それは大いなる誤りであるというほかはない。このヘルベルト・ミューラーという人間を、見誤っている。
さりげなく距離をとって、あさっての方向を向き、自分は無関係であるということを全力で主張しようとしている黒衣の青年の肩に、ヘルベルトは馴れ馴れしく手を掛けた。迷惑そうに眇められた碧眼に、広場を取り囲む回廊の一角を指し示しながら問う。
「どうだね、記念にフロリアンで一杯。おごってやろう」
サン・マルコ広場に臨む一等地に店を構えて300余年、圧倒的な伝統と格式を誇る老舗カフェを指して、彼は提案した。ヴェネツィアを訪れたならば、まず誰もが訪れるであろう有名店である。聖地ともいうべきカフェを前に、普通であれば、喜んで提案に乗るであろうところを、しかし、同行者の反応は冷たいものであった。
「いえ、私は結構です。行かれるのであれば、どうぞお一人で」
目も合わせずに早口で紡がれる拒絶の言葉は、およそ取りつく島もない。しかし、それさえも、提案者にとっては予測の範疇であった。
「そうかね。実は私も、騒々しい観光客どもの間でエスプレッソを愉しむ趣味はないのでね。気が合うものだな」
それならば何故誘うのだとでも言いたげな冷ややかな視線を、ヘルベルトは鼻歌交じりに軽く受け流した。とはいえ、いつまでもこうして、生真面目な若者をからかう遊びを繰り返しているわけにもいかない。この調子では、大聖堂や総督宮殿を見学するという提案も、同様の運命を辿るであろうことは確実である。
水の都を訪れたならば、まず押さえておくべき主要スポットであるのだが──たとえ観光客に揉まれながらでも、永遠の輝きを宿した黄金色のモザイク画の彩る豪奢な聖堂内部、そして黄金に2000個もの宝石を散りばめた主祭壇の衝立、パラ・ドーロを鑑賞しない手はない──今回のところは、そこへ引き摺りこむのは諦めておいた方が良さそうだ、と極東本部長は方針を改めた。その顔に、しかし、さしたる落胆の色はない。
そう、異国で見るべきものは、なにも壮麗な大聖堂や美術館の中ばかりにあるのではない。ことにここ、水上都市ヴェネツィアにおいては、街そのものが巨大な鑑賞対象であることを、ヘルベルトはもちろん承知していた。
「それでは、散策といこう。サン・ポーロ広場の近くに、目利きの革小物職人の店がある」
「私は、」
「ついて来たまえ」
すげなく断ろうとする部下に最後まで言わせずに、ヘルベルトは大股で歩き出した。ビショップは暫しその場で、どうしたものか迷ったようであるが、かろうじて職務的使命感が個人的感情を上回ったのだろう。結局、小走りで上司の後に続いた。
濃紺に金のエナメルで黄道十二宮の意匠を凝らした装飾も麗しい、優美な大時計の下を通って、二人は広場から伸びる細い路地へと入った。目指すは、カナル・グランデに掛かるリアルト橋である。

118を数える小さな島々を繋ぐ橋の数は400余り。その全ては、自然の地形によるものではない。泥に丸太の杭を打ち込んだ土台から、何もかもがヒトの手によって、海上に作り上げられた人工の都市──水と幻想の都、ヴェネツィア。複雑に入り組んだ水路と路地は、人々を惑わせる迷宮とも称される。
「ミノタウロスなき迷宮を、アリアドネの糸を持たぬテセウスとなりて彷徨う。これより愉快なことはなし>氛气Wャン・ルイ・ヴォードワイエ」
その麗しきラビュリントスを、黒髪の男は迷いない足取りで進んだ。
街自体がパズルのように入り組んだ、この海上都市であるが、さすがはPOG幹部といったところか。あちらこちらで地図を片手に途方に暮れている旅行者たちをよそに、あたかも己の庭といった風情で、細い路地を進んでいく。曲がり角に打ち付けられた、現在地の通りの名称を示す親切な標識(ニショエット)には目もくれぬ。およそ上司に対する畏敬の念に欠けた黒衣の青年も、こればかりは素直に認めざるを得ないと思うのか、その視線に込められていた棘が僅かに和らぐ。
つれない態度ながらも、結果的には大人しくつき従って来る若者の心情を想像して、ヘルベルトは小さく笑った。なるほど、口先だけの言葉には手厳しく疑い深いが、己自身で確かめた事柄については、無条件に認めてしまうところがあるらしい。気取ったポーカーフェイスに見えて、存外に考えが表情に出やすい性質なのだなと、ヘルベルトは可笑しく思った。



ゴンドラ、ヴァポレット、郵便運搬船、モーターボート、渡し船──大運河のきらめく水面を滑るように行き交う舟に歓声を上げるのは、欄干に鈴なりになった観光客の群れである。活気溢れる商業の中心地区、リアルトの雑多な人波を前に、極東本部長は辟易したように深々と溜息を吐いた。
「このような雑然たる中を、あまり通りたくはないのだが、仕方あるまい。ヴェネツィアを訪れたならば、一度は渡っておかねばな。はぐれないよう、気を付けたまえ」
見くびられたと思ったのだろう、どうぞご心配なく、と棘に満ちた声が後ろから返って、ヘルベルトは小さく苦笑した。
カナル・グランデに架かる優美なる白亜の大アーチ、リアルト橋は単なる通行用途の橋とは一線を画する。運河を見下ろす左右の歩道に挟まれ、その中央を貫くのは、貴金属やガラス製品の小さな店舗が立ち並ぶアーケードだ。商店は、そのまま両岸の商業地区へと連なり、きらびやかに飾り立てたショーケースでもって、行き交う人々の眼を楽しませる。
立ち並ぶ土産物屋を横目に眺めつつ、橋を渡り抜けようとしたところで、ふとヘルベルトは足を止めた。黙って後をついて来たビショップも、それに倣う。極東本部長の視線の先にあるのは、ショーケースに陳列されたマスケラ──カルネヴァーレには欠かせぬ、精緻な装飾を施した仮面である。ヴェネツィアン・グラスと並んで地域色の強い土産物の定番であるが、実用性はというと、ほぼ皆無であろう。黒髪の男は、思案するように腕を組んで、ガラスの向こうのそれに視線を這わせた。
こんなものに何の用がある、まさか買うつもりかとでも言いたげな様子で、ビショップは上司の横顔を見遣った。半ばあきれたようなその視線に対して、ヘルベルトはおどけて腕を広げてみせる。
「魔法使い(ウォーロック)なのでね。仮面は嗜みなのだ」
己のギヴァーとしての二つ名を挙げて、意気揚々と店舗に足を踏み入れるヘルベルトに、ビショップは深々と溜息を吐きながらも、その後に続いた。

二人も客が入れば一杯になってしまう小さな店舗の四方の壁は、余すところなく無数の仮面で覆い尽くされていた。ぐるりと見渡せば、それぞれのマスケラに施された黄金の装飾が、まばゆいばかりに瞳を射る。一歩間違えば悪趣味となりかねないその豪勢ぶりに、連れの青年は多少、気圧された様子であった。そこへ、奥から店主と思しき男性が現れ、親しげに挨拶する。
「ブォンジョルノ、ポッソ・アイウタールラ?」
「ブォンジョルノ、ヴォレイ・ヴェデーレ・クエッレ・マスケーレ・イン・ヴェトリーナ?」
「スィ、チェルト」
ショーケースの仮面を指して、あれを見せてくれと流暢なイタリア語でもって紡いだのは、もちろん極東本部長であった。店主の取り出してきた仮面を受け取ると、装飾を仔細に観察しつつ、問いを重ねる。
「エ・ファット・ア・マーノ?」
「スィ、エ・トラディツィオナーレ」
職人の誇る伝統的な手仕事の結晶を目の前にして、ヘルベルトは感心するように独りごちた。
「見事な装飾だ。豪奢でありながら、品格を損なわず、芯の強い主張がある。だが、こちらの紅白の塗り分けも印象的だな。いずれも捨て難い」
両の手に携えた二つのマスケラを交互に見遣り、あるいは鏡の前で装着し、極東本部長は悩ましげに首を振った。
「さて、どちらにしたものか。どう思うかね、君のセンスでは?」
「……ええ、右が良いのでは」
店の隅に所在なさげに佇んでいた黒衣の青年は、問い掛けてくる上司の浮かれた仮面姿を見ようともせずに、およそ愛想に欠ける声で答えた。投げやりにもほどがあるコメントの非礼を、しかし、極東本部長は咎めることはなかった。むしろ上機嫌で頷く。
「そうか、奇遇だな。実は私もそう思っていたのだ……こちらをいただこう(ミ・ピアーチェ ラ・プレンド)」
右手に携えていた、けばけばしい紅白の仮面──ちなみに、ビショップから見るとそれは左側である──を、ヘルベルトは店主に差し出した。包ませている間に、物憂げに外を眺めている青年に一言、声を掛ける。
「君はどうするね。これなど、よく似合いそうだが」
「要りません。魔法使いではありませんから」
きっぱりと告げられた言葉に、極東本部長は、そうかね、とつまらなそうに肩をすくめた。




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