ヴェネツィアン・ラプソディー -2-
色とりどりのヴェネツィアン・グラス、伝統的なレース編み、金細工を並べた商店、トラットリアにジェラテリア──石畳の道は活気に満ちている。店先を覗き、寄り道をしながら20分ばかり歩くと、目の前に開けるのは、市民の憩いの場、上品な佇まいの館に囲まれたサン・ポーロ広場である。
広場から伸びる細い路地の一本を入った先に、目的の革小物専門店は喧騒を離れ、ひっそりと佇んでいた。控えめなショーウィンドウから窺い知れる店内は、間接照明の生み出す陰影によって趣き深く演出され、通りすがりにふらりと立ち寄るというよりは、そもそもこの場所をのみ目指して訪れるのが相応しかろうと思わせる。悠然たる態度で、極東本部長は店内へと足を踏み入れた。いかにも己の仕事への高い矜持を感じさせる店員と、友好的に挨拶を交わす。
店の人間に何事かを問われると、彼は芝居がかった動作でもって片腕を広げた。あたかも本日の主賓を紹介するかのごとく、その手のひらの指し示す先は、己の背後に控える若者である。
「今日は、こちらの紳士に似合う手袋をと思ってね(ヴォッリョ・レガラーレ・イ・グアンティ・アル・ジェンティルォーモ)」
「……は?」
入口脇で、すっかり待機の態勢に入っていたビショップは、思わぬ指名を受けて訝しげに眉を寄せた。状況を呑み込めずにいるらしい若者に、その上司は軽く手招きをしてみせる。
「聞こえただろう、そういうことだ。さあ、こちらへ」
見繕ってやろうというヘルベルトの誘いに、しかし、青年はその場を動こうとしなかった。頑ななまでの態度でもって、己の意思を表明する。
「結構です。どうぞご自分のお買い物を」
「私としては、この紫などが良いのではないかと思うね。それとも、こちらのオリーブかな」
「ですから、」
更に固辞しようとする黒衣の若者の手首を、ヘルベルトは掴んで強引に引き寄せた。堪らず姿勢を崩す部下の手を引いて、店の奥まで導く。カウンター前に立たせると、改めて片手を丁重に取り上げ、美術品を愛でるかのごとく、ビロード張りの試着台の上にそっと置いた。漆黒を背景に敷いて据えられたその手は、静脈の薄く透ける肌の質感といい、骨ばった手の甲から爪の先まで精緻に整った造形といい、丹精込めて彫り上げられた象牙細工にも似て、見る者の嘆息を誘う。
「目上の者の好意は、素直に受けたまえ」
男にしておくには惜しい、なめらかに肌理の整った手を撫でつつ、ヘルベルトは囁いた。観念したのか、ビショップはそれ以上、抗おうとはしなかった。大人しくなった若者を満足げに見遣ると、彼の上司は早速、店員にいくつかの手袋を取り出させた。
しなやかなレザーグローブは、青年の長く優美な指にぴったりとフィットして包み込み、その美しい骨格のラインを際立たせる。一見すると、やや派手すぎるように思われる鮮やかに染色された手袋も、実際に嵌めてみると、黒ずくめの衣装に上品なアクセントを加える小物として、実によく似合うのだった。素材の革の品質にしても、丹念な縫製にしても、職人の誇りが細部にまで宿る逸品であることは、誰の眼にも明らかである。
よくお似合いです、と店員は感嘆混じりに呟いた。東洋のどこぞの商人と違い、彼らは客に世辞を言うことはない。似合う似合わないのジャッジを下すのは、あくまでも商品のプロフェッショナルである彼らの方であって、客もそれを当然にして受け容れる。己の取り扱う商品に高い自負を持てばこそ、彼らは責任をもって客に最高の一品を提供するのである。
「折角だ、他のデザインも試してみてはどうかね。ああ、こちらの異素材の取り合わせも面白いな」
結局、乗り気の本部長に押し切られるかたちでもって、ビショップは代わる代わる20双ほども、革手袋を試すはめになった。その間、当然のごとく手首は握られっ放しである。うんざりとした表情で、最後に彼が半ば投げやりに選択したのは、最初に試したシンプルな緑の一双であった。
「そうかそうか、私もそれが一番似合うと思ったのだ。早速、嵌めていくかね」
「……そうします」
珍しく、青年は上司の勧めに従ってみせた。経緯はどうあれ、上等の革手袋を純粋に気に入ったのか、あるいはただ単に指先が冷えていたためであるのか、それとも、これ以上、直截に手を握られないための防衛策であるのか──それはヘルベルトの知るところではなかった。ただ、いずれにしても、贈り手に僅かばかりでも好意的感情を持ってのことというのは確かであろう。そう都合良く解釈すると、極東本部長は足取りも軽く、手袋の青年を引きつれて次なる目的地へと石畳の道を進んだ。
「折角だ。フラーリ聖堂も見学していきたまえ、聖職者殿」
最早、いちいち反発するのが面倒になってきたのだろう、ビショップはヘルベルトの誘いに大人しく従い、黙って後に続いた。
サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂──一見すると、その印象は決して華やかとは言い難い。ヴェネツィアで第2位の高さを誇るロマネスクの鐘楼に隣接した聖堂の姿は、仰ぎ見る者にまず重厚な印象を与える。煉瓦造りの外観は質実剛健で、幾重ものアーチに天使や聖人の像を連ねるような類の華美な装飾には縁遠く、いっそ簡素ですらある。先ほど目にしてきた、壮麗なアーチを連ね5つのドームを有する白亜の外観、内部は黄金のモザイク画に埋め尽くされた眩いばかりのサン・マルコ大聖堂とは、まるで性質を異にしているといえよう。
とはいえ、その内部に収められた芸術作品の数々は、美術館に引けを取らぬ充実度を誇る。中でも最も目を引くであろう絵画は、主祭壇後陣に掲げられた、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの初期代表作『聖母被昇天』である。躍動感溢れるダイナミックな構図、鮮烈な色彩表現を遺憾なく発揮した巨大な祭壇画は、一瞬にして見る者の心を捉えて離さない。
画面中央には、聖母被昇天を主題とする絵画の伝統的形式に則って、両腕を広げて天を見上げる乙女の姿が描かれている。その視線の先、はるか天上には、全能の父なる神が威厳に満ちたその姿を現す。劇的な場面を鮮やかに切り取った珠玉の名画は、教会内部という薄闇の閉鎖空間にステンドグラスから射し込む外光の演出もあいまって、はっきりと荘厳なる光を放つのだった。
その光に射抜かれたかのように、黒衣の若者は祭壇の前に立ち尽くしていた。上司に従って内部へ足を踏み入れた際には、まったく興味のなさそうな、信仰心の欠片もない風情でつまらなそうに俯いていたというのに、祭壇の絵画を目にするやいなや、これである。引き寄せられるようにふらふらと進み出たかと思うと、碧眼を瞠って、高さ7メートルに及ぶ巨大な聖画を一心に仰ぎ見る。
常に気だるげで、何事にも動じぬ淡々とした姿ばかりを目にしてきた極東本部長にとって、彼のそのような姿は、新鮮なものにほかならなかった。いったい何が彼の心を捉えたのか、それはヘルベルトには分からない、ただ、芸術性に心を打たれたであるとか、宗教的感銘を受けたというのとは、それは、少しばかり違うように感じられた。瞬きも忘れたような青年の表情は、恍惚というよりは、沈痛といった方が近しかったからだ。
聖なる場面を仰ぐ、その血の気の薄い横顔は、何かを畏れ、耐えるような痛ましげな色を滲ませ、いっそ苦悩に満ちている。清廉なる幾筋もの光の中に天を仰ぐ、受難の信徒めいた高潔な在りようは、なんとも犯し難い。暫しヘルベルトは聖画と併せて、黒衣の青年の姿を目を細めて鑑賞した。
それ自体が一枚の絵画といっても過言ではないであろう、聖堂の一場面を十分に味わって眼に焼きつけると、極東本部長は彼の部下のもとへと歩み寄った。
「私は先に出ている。気が済むまで、鑑賞したまえ」
耳元で囁いた寛大な言葉に、反応が返されることはなく、はたして相手に聞こえているものかどうかは定かではなかった。やれやれと首を振ると、ヘルベルトは若者を一人残し、祭壇に背を向けたのだった。
「お待たせしました」
外で待たされていた時間は、10分ばかりであっただろうか。教会から出てきたとき、黒衣の青年の表情に先ほどの沈鬱な色は既になく、落ち着き払った在りようを取り戻していた。淡々とした事務的な物言いからは、絵画に心奪われていた繊細な感受性の残滓も感じられぬ。
後ろ手を組んだ不遜な格好で、ヘルベルトは唇をゆがめた。
「随分と熱心に眺めていたな。ヴェネツィア派の色彩表現が好みかね」
「いえ……べつに」
視線を逸らしたビショップは、そこでふと、不審げな面持ちで左右を見回した。
「どうしたのかね。何か、気になることでも」
何食わぬ顔で問い掛けるヘルベルトに、彼の部下は困惑の表情を浮かべた。自分でも何に気を取られたのか分からぬような頼りない風情で、この香りは、とその唇が小さく綴る。
「……いえ、何でも。気のせいでしょう」
「ああ、それは気のせいではないな」
言って、ヘルベルトは後ろ手に隠し持っていたものを、黒衣の若者の眼の前に差し出した。彼の好む美しい翡翠の双眸が、驚きに軽く瞠られる。それを確認して、極東本部長は自慢げな笑みを浮かべた。想像通り、実に絵になる──目論見通りであった。
わけも分からぬままに、押しつけられたものをひとまず抱えて、ビショップはまじまじとそれを見つめた。青年が手にしているのは、花束であった。それを構成するのは、触れるのも躊躇われるほどの、清らかなる純白の百合、ただそれだけである。彩りを添える小さな花々もなければ、リボンが巻かれたわけでもない。それは、純粋なる5本の百合の切り花以外のなにものでもなかった。
教会を背景に、黒衣の青年がそれを抱えていると、まるで葬式帰りか何かのようであるが、不思議と悲哀の雰囲気はない。それは、ただただ、この若者の禁欲的な美を、一枚の聖画のごとく、崇高に演出するばかりであった。
花束を抱え直すと、未だ驚きが抜けきらぬような表情で、ビショップは呟く。
「……どこから、このようなもの」
「言っただろう。私は魔法使いなのだ」
もちろん、これは外で待っていると言って教会を出てすぐさま、角を曲がった先の路地裏にある小さな花屋に足を向けて買い求めたものである。聖画に見入る青年の横顔を眺めるうちに浮かんだ、他愛のない悪戯めいた思いつきだった。少し考えれば、そのようなことは簡単に思い至るだろうに、どこか茫然としたように呟く青年の様子はなんとも可愛らしく、無防備に感じられた。
「では、行こう。日が暮れてしまう。最後はゴンドラに乗らねばな」
じっと百合の花弁を見つめていたビショップは、上司の言葉に黙って頷くと、その後に続いた。
いかに好まざる相手から贈られたとはいえ、花に罪は無いということなのだろう。彼は律義に花束を携え、混雑した通りでは行き交う人々からそれを庇うように気遣いながら歩むのだった。