ヴェネツィアン・ラプソディー -4-
翌朝、事前の打ち合わせ通りの時刻にロビーに降り立ったヘルベルトは、そこに恭しく一礼する黒衣の青年の姿を見出して、少なからぬ安堵を覚えた。子どもではないのだし、観光地にしては珍しく治安の良い区域であるから、何らかの事態に巻き込まれるような心配は無用とはいえ、こうして無事の姿を見るまでは、どうも落ち着かなかった。仮面に隠された魔性の都、その闇に呑まれてかき消えてしまうのではないかと、そんなつまらぬ妄想も、この水上都市の非日常的な空気の中に身を置いていると、ふと意識を支配してしまうのだった。
それに、昨日の己の所業を思い返すに、とうとう愛想を尽かされ、先に帰国されていたとしても、無理はないように思われた。こちらの可能性は、十分現実的にあり得る話であっただろう。しかし、黒衣の青年はどうやら、己の職務へ人一倍強い使命感を抱いているらしかった。与えられた任務を放棄して逃げ出そうなどと、おそらく考えの内にもないのだろう。
あんな目に遭わされておきながら、よくのこのこと、その相手の前にまた姿を現わせるものだなと、ヘルベルトは他人事のように感想を抱いた。生真面目というべきか、愚直というべきか、それとも実は被虐趣味でもあるのか──その悲壮な決意のほどには、素直に感心しないでもない。
などという内心はつゆほども顔に出さずに、極東本部長は皮肉げな笑みでもって部下に相対した。
「ブォンジョルノ、アイ・ドルミート・ベーネ? ……うっかり水路に落ちてはいないかと、心配したのだよ。どうだったね、町の宿とやらは。なにか、ひどい目に遭わされはしなかったかね」
「問題ありません。イカスミのパスタとエビのフリッターをいただきました」
澄まし顔の若者から返された可愛らしい答えに、ヘルベルトはやれやれと首を振った。
「定番にもほどがあるな。いかにも観光客が喜びそうな取り合わせだ。私と一緒に来れば、優雅で甘美な一夜の夢に酔わせてやったものを」
「ご朝食はいかがなさいますか」
何事もなかったかのように話題を切り替えるビショップに、極東本部長は僅かばかり物足りなげな表情を浮かべたが、確かに出発まであまり時間はない。適当なところで、腹を満たしておくのが良いだろうと思い直す。地元のバールでの軽いコンチネンタル・ブレックファストを提案すると、慇懃な部下は無言で一礼した。
ホテルに隣接するバールのカウンターは、常連と思しき人々の朝食のオーダーで賑わいを見せていた。混雑の中を回り込んで、こちらはぽつぽつと空席のみられるテーブル席に着く。
カメリエーレを呼びつけると、ビショップは彼が唯一、自信を持ってオーダー出来る品であるところの、トマトサンドイッチとエスプレッソを注文──しなかった。
「イタリア式の朝食は、甘いものと相場が決まっているのですよね──ヴォレイ・ウン・ブリオッシュ・コン・パンナ・エ・ウン・カップチーノ・ペルファヴォーレ」
紡がれた音の連なりは、およそ非の打ちどころがなく流麗であった。意外な展開に、ヘルベルトは内心で軽く嘆息する。なんだ、話せるではないか──初めて聞く、己の部下のまともなイタリア語会話は、十分に合格点といってよかった。おそらくは、事前に注文を決めて、密かに予行演習をしていたのだろう。それほどに、自然かつ自信を感じさせる振る舞いであった。
昨日は無言を貫いたがためにいいようにからかわれて、きっと胸の内で悔しがっていたのに違いない。可愛らしいことをするものだ──と、若者の地道な努力に微笑ましい思いを抱いていたヘルベルトは、次の瞬間、再び驚かされることとなった。自らの注文を告げたビショップが、ふと思いついたように、給仕人に語りかけたのだ。
「私たちは、今日でヴェネツィアを発つのですが……それも惜しまれるほど、実に良い街でした。あなたがたにも、満腔の感謝を(ノイ・ラッシアーモ・ヴェネツィア・オッジ ペルケ・エ・ウナ・チッタ・ヴェラメンテ・ベッラ・ノン・ヴォレーレ・アンダーレ・ヴィア・クイ ア・レイ・グラツィエ・ミッレ)」
美しい景色、温かな人々、そして洗練された料理、とビショップは舞台俳優のごとく、軽く瞼を閉じて詠嘆した。
「これが最後ですので、何かこちらのお勧めの一品をいただきたいのですが……ティラミス。ああ、そうですね、ではそれを(クアーレ・エ・イル・スオ・ドルチェ・ラッコマンダート ティラミス ポイ・ロ・トローヴォ グラツィエ)」
さすがに驚きを隠せぬ極東本部長に、ビショップは不敵な微笑で応えた。この地に着いて以来、ずっと不機嫌そうな沈黙を貫いていた青年の、それは、初めて見せた晴れやかな表情であった。
一緒に食事など苦行以外の何物でもないというような顔を、昨日はしていたくせに、今朝は妙に乗り気だったのはこれのためかと、ヘルベルトは苦笑した。これで清清したとでもいうような、どこか誇らしげな部下の顔を、小生意気に思うのと同時に、なんとも憎めないものを感じてしまうのは何故だろうか。
それにしても、これほど急にスピーキングのレベルを上げるとは──文法と発音だけではない、どうやら聞き取り能力も向上している。昨晩のうちに、ひとりホテルで猛勉強でもしたのだろうか。そんなことを思いつつ、ヘルベルトもまた適当なイタリア風朝食をオーダーした。
さて、コーヒーが来るのを待っている間、その辺りの秘密を聞き出そうとした、そのときだった。
「ブォンジョルノ、シニョーレ」
テーブルの合間から掛かったのは、甘やかな声であった。脇を見遣ると、エレガントなワンピースを纏ったブロンドの美女が、魅惑的な笑みでもってこちらを──否、黒衣の若者を見つめている。彼女はテーブルに近づくと、親しげにビショップに話し掛けた。
「昨晩は素敵な時間をありがとう。楽しませていただいたわ、アルフィエーレさん(グラツィエ・ディ・トゥット・クエッロ・ケ・アイ・ファット・ペル・メ・イェリ・ノッテ ミ・ソノ・ディヴェルティート・タンティッシモ シニョーレ・アルフィエーレ)」
「ああ、こちらこそ。宿の空きもなく、どうしたものかと途方に暮れていたのです……その節はお世話になりました(ディ・ニェンテ ペルケ・ノン・チェラ・ウン・ポスト・ヴァカンテ・ソノ・スタート・ペルプレッソ グラツィエ・ア・テ)」
突然に目の前で繰り広げられ始めた意味深な会話に、ヘルベルトは再び、あっけにとられることとなった。地元の住民であろう若い女性と、部下は随分と親しげに言葉を交わしている。昨晩は町のホテルに泊まったのではなかったのか、と疑問が口をついて出かかったところで、そういえば今朝、宿の感想を求めたときに、泊まったとは一言も言っていなかったことを思い起こす。
いったい、昨晩の両者の間に何が──思いを馳せかけたところで、いくつかの甲高い声が思考にずかずかと踏み込んだ。
「あっ、本当! 彼だわ(オ・ヴェーロ ルイ・エ・ラ)」
「ちょっとラウラ、抜け駆けはナシよ!(アスペッタ・ラウラ)」
「綺麗な百合をありがとうね、アルフィエーレ(グラツィエ・タンテ・ペル・ウン・ベル・ジッリョ アルフィエーレ)」
いつの間にか、テーブルは寄り集まって来た女性たちに囲まれていた。にこやかに談笑している黒衣の若者を、ヘルベルトはわけも分からず見つめるほかなかった。昨日の寡黙な在りようが嘘のように、ビショップの唇はよどみなく音楽的な響きを紡ぎ出す。
「……正直、はじめは気乗りのしない旅で、いろいろと嫌なこともありましたが、あなたがたのような美しいお嬢様たちと一夜を過ごす幸運に恵まれたとあれば、苦難の道も報われるというものです。慈悲深いアドリア海の女王に感謝を(インファッティ・ノン・ヴォッリ・ポルタルロ・ア・クイ マ・フォルトゥナメンテ・エロ・カパーチェ・インコントラーレ・レ・ベッレ・シニョリーネ リングラツィオ・ペル・ラ・ミゼリコルディア・ディ・レジーナ・デッラドリアーティコ)」
「あらあら、そんな台詞まで上手くなっちゃって。色男の旗手さまだこと(オー・ミオ・カーロ アイ・ウナ・リングア・ロクアーチェ ケ・ベッラルフィエーレ)」
聞いているこちらが恥ずかしくなるような気障な台詞をつらつらと紡ぎ出す黒衣の青年に、周囲の娘たちはきゃあきゃあと歓声を上げる。完全に蚊帳の外に追いやられ、極東本部長は歯噛みした。
なにがアルフィエーレだ。その単語は、イタリア語で旗手、あるいはチェス駒のビショップを指す。ただの直訳ではないか。いやしくもPOGギヴァーならば、もう少し気の利いた偽名を考えたらどうだ。しかし、彼女たちには、それも彼のミステリアスな魅力として映っているようだ。
どうやら、彼の目覚ましい成長は、夜通し酒場──バーカリで、地元の女性たち相手に会話を猛練習した成果であるらしい。そう思って見ると、どことなく表情に疲弊が滲んでいるような気がしないでもない。若者の体力をもってすれば、一日や二日の徹夜などは軽いものなのであろうが、まさかそこまでするとはと、ヘルベルトは軽い驚きを覚えた。
そこへ、お待たせいたしました、とカメリエーレが注文の皿を置いていく。こんがりと焼き上げられたブリオッシュを割った中には、新鮮な生クリームがこれでもかとばかりに詰め込まれている。それと、たっぷり盛りつけられた素朴なティラミス、湯気を立てるカップチーノ──漂う甘やかな香りが食欲を誘う。
ここへきて、ようやく気が済んだらしい娘たちは、忙しく別れの挨拶とキスを交わして青年を解放した。
「チャオチャオ、アルフィエーレ!」
嵐のようなお喋りを終え、去っていく彼女たちを、ビショップは笑顔で手を振って見送った。その姿が見えなくなったところで、ようやくテーブルに向き直る。一息をつく部下を前に、極東本部長は皮肉げに問うた。
「徹夜で特訓かね。涙ぐましい努力だが、夜更かしは美容の大敵だ。あまり推奨はしないな」
「本部長にご心配いただくようなことではございません。私ごとき一介の凡人のことなど、どうぞお気になさらず」
そんな赤い目をして言ったところで、強がりとしか聞こえない。まったく、負けず嫌いもここまで来ると、いっそ感心してしまう。
褒めてやるつもりなどはさらさらないが、打てば響くこの部下の在りようは、ヘルベルトとしても、それなりに評価を置いている点のひとつであった。コーヒーカップに唇を寄せる若者を見遣る視線も、自然と満足げなものとなってしまう。それを得体が知れないと思ったのか、ビショップは不審げな眼差しを返してくる。素知らぬ顔で、極東本部長は己の皿の温かなブリオッシュを手に取った。
ローマに在りては、ローマ人の如く生きよ>氛沂スに入っては郷に従え。
古よりの教えを実践してみたものの、やはり朝から甘ったるいクリームたっぷりのパンと、砂糖をめいっぱい投入したカップチーノの取り合わせはない。現地流朝食に口をつけた二名は、我が身をもって早々に、それを実感していた。調理に砂糖を使用する習慣のないイタリア人は、こうして毎朝、必要なだけの糖分をまとめて摂取しているようであるが、通りすがりの観光客が真似をするには、ややハードルが高かったようだ。
ブリオッシュをコーヒーで流し込みつつ、ヘルベルトは向かいの青年の様子を見遣った。山盛りの生クリームとパンを辛うじて片付けたその皿の上には、ティラミスがほぼ原型そのままに残っている。フォークを携えた手は、完全に動きを停止し、俯いた表情はといえば、甘い食事に反して苦渋に満ち、降参一歩手前といったところである。
甘いものがそう得意ではないくせに、妙な意地を張るからだと、ヘルベルトは内心で大いに哂ってやった。大人しくトマトサンドイッチでも頼んでおけば良かったものを──しかし、実際にそうからかって遊んでやろうとは、何故か思わなかった。
代わりに、極東本部長は己のフォークを取り上げると、ビショップの前の哀れなるティラミスに向けて伸ばした。
「……何ですか」
「なぜだか急に、食後のドルチェを味わってみたくなったのでね。失敬するよ」
部下の返事も待たずに、柔らかなケーキを大きく切り取って、手元の皿へと運ぶ。物言いたげなビショップの視線を気に留めることなく、ヘルベルトは今にもとろけ落ちそうなティラミスを口に含んだ。ザバイオーネ・クリームの濃厚な風味と、ビスコッティに染み込んだエスプレッソの苦みが入り混じって奏でるハーモニーは、今ばかりは少々重く感じられた。そのような感想は表には出さず、極東本部長は感心したように頷いてみせた。
「なかなかのものではないか。自信をもって薦めるだけのことはある。素朴な味わいが逆に新鮮だ──そちらも寄越したまえ」
早々に皿を空けると、部下の前の残りの半分をも、奪い去って己のものとする。物好きなことだとでも言いたげな恩知らずな目でもって、ビショップはそんな上司を見つめた。
「新しいものを頼めば良いでしょう」
「君の皿から取らなくては、意味が無いのだよ。オウィディウスの言うことが本当かどうか、試してみる絶好の機会ではないかね」
「アルス・アマトリアですか。僭越ながら、それよりも先に、いろいろと改善された方がよろしいことがあるのではないかと」
「口の減らない男だ」
苦笑して、ヘルベルトはコーヒーカップを呷った。ますます気に入った──美なる者は愚かしいものと相場が決まっているが、どうやらこの若者は例外であるらしい。禁断のパズルの視察という名目ではあったが、なにより今回の旅の一番の収穫は、この青年の新たな一面を垣間見たことであったといえよう。思い描いていた以上に、その内面には奥深いものが潜んでいる──暴き立て、かき乱してやったらさぞ面白いことだろう。いずれは、直属の部下として引き抜きたいものだと、極東本部長は内心で密かに画策した。
連れだって通りを行く5人の娘たちは、今しがた別れてきた異国の美青年について、早速に論評を交わし合った。
「彼は英国育ちね。間違いないわ」
自信ありげに切り出したのは、ブロンドの娘である。他の少女たちも、口々に同意する。
「ええ、隠そうとしてたけど、あの発音は明らかにクイーンズ・イングリッシュの名残があったもの」
「アルフィエーレって名乗ったのも、案外そのままなんじゃないかしら」
「つまり、ミスタ・ビショップ?」
「そうよ。きっと本名はエドワード・ビショップあたりね」
それなら、と一人がいたずらっぽく瞳を輝かせる。
「ね、それ当てたら、彼はご褒美に、百合よりもっと素敵なものをくれるんじゃないかしら」
「ふふ、じゃあ彼がまたこの街を訪れてくれることを、お祈りしておきましょう」
少女たちの軽やかな笑い声が抜けていく、ヴェネツィアの空は今日も澄み渡って青い。街角を流れる水路は昇りゆく太陽の光を受けて水面をきらめかせ、穏やかな風が、麗しき迷宮の小路を通り抜ける。
海洋都市国家千年の栄華を今に伝える水の都は、封印されしパズルをその腕に抱いてラグーナに横たわる──いつの日にか、それが解放されることを夢見て。
イタ語っぽいカタカナは 嘘なので スルーで ヽ('〜')ノ
2012.04.01