ヴェネツィアン・ラプソディー -3-
「すし詰めになって行儀悪くはしゃぐ観光客連中ほど、嘆かわしいものはない。ゴンドラは二人きりで乗ってこそだ──もっとも、このように屋根なしでは、秘め事には向かないがね」
軽口を叩きながら、ヘルベルトは水面を揺れるゴンドラへと乗り込んだ。続く若者に手を差し伸べるが、残念ながら、その紳士的な行為がかえりみられることはなかった。差し出された手を、何事もなかったかのように無視して乗り込むと、ビショップは優美な小舟に据えられた椅子に腰を下ろした。百合の花束は、静かに膝の上に置く。いささか物足りなげな一名と、澄まし顔の一名を乗せて、ゴンドラは音もなく岸を離れた。
規定に基づき漆黒に塗られたゴンドラの細い船体は、感傷的な旅人にしばしば柩を連想させ、不吉なイメージを抱かせる。しかしながら、画一的な外観に反して、その内部は乗員の快適性を追求した工夫が凝らされ、舟の持ち主ごとの個性を演出する。たとえば今、二人の貸し切った一艘の場合、座席は深紅の布地に金糸の刺繍が施されたクッションも心地良い豪奢なソファである。その座り心地は、ここが狭苦しい船上であることなど、容易に忘れさせてしまう。よく訓練されたゴンドリエーレの見事な櫂さばきによって水面を滑るように静かに進んでいく、穏やかな感覚とあいまって、あたかも気分は居城で寛ぐ貴族のごとく、乗客を陶酔と怠惰のただなかに陥らせるのだった。
両側に迫る建造物の苔むした壁の合間を縫って、ゴンドラは狭い水路を進んでいく。大運河の喧騒を離れ、時折くぐる小さな橋の上には通行人の姿もない。陽光は遮られ、ひっそりとした静寂の中、耳に届くのはさざ波のリズムと、きしり、きしりと小舟の軋む音のみである。華やかな表通りからは知れぬ、暗く密やかな在りよう──これもまた、水の都の見せる幻惑的な表情の一つだ。
悠然とソファの背にもたれた極東本部長は、ゆったりと流れゆく景色を愛でつつ、時折ゴンドリエーレと観光にまつわる軽い会話を交わした。気のいい漕ぎ手は、ユーモアを交えつつ都市の歴史を紹介していたが、ふと気付いたように、もうひとりの乗客の方へと向き直った。膝の上に百合の花束を乗せた黒衣の若者に向ける視線には、どこか気遣わしげな色が浮かんでいる。
「お兄さん、どうした? さっきから俯いちまって、随分と無口じゃないか。気分でも悪いのかい? これでも、俺の操縦テクには定評があるんだがね(コメ・スタ・シニョーレ ペルケ・エ・タチトゥルノ・エ・グアルダ・イン・ジウ ア・マル・ディ・マーレ ソノ・フィドゥチォーゾ・ディ・オペラツィオーネ・マ・リトルネーラ)」
呼び掛けに応じて、緩慢に顔を上げた青年の表情には、困惑の色が浮かんでいた。形の良いその唇が、何らかの言葉を紡ぎかけたとき、
「ああ、すまない。彼は、イタリア語が全く分からなくてね。いつもリストランテでは、馬鹿の一つ覚えのように同じメニューばかり注文するのさ。どこへ行っても、トマトスパゲッティってね。水の都まで来てそれとは、なんとも情けないことじゃないか(ノン・シ・プレオークピ ルイ・ノン・カピシェ・イタリアーノ セッベネ・シア・アッラ・チッタ・デッラックァ・オルディナ・スパゲッティ・ディ・ポモドーロ・ペルケ・ケ・トゥッティ・プオ・カピスコ ケ・ヴェルゴーニャ)」
極東本部長は、その音楽的な美しい言語を、流れるようになめらかに紡ぎ出した。イタリア語初学者には、いったいどこが単語の切れ目であるのかも分からぬほどの、それは流暢な台詞であって、およそ非の打ちどころがない。ゴンドリエーレも、それはそれは、と納得の面持ちである。ひとり置いてけぼりの格好となったビショップであるが、それでも何か自分の悪口を言っているだろうことは察しがついたらしく、氷点下の眼差しでじっと水面を睨めつけていた。
かの国の言語を解さぬことは、なにもビショップの語学能力が凡庸であることを証するものではない。英語、フランス語、スペイン語、中国語については、ビジネスシーンで議論を戦わせるのに不自由しない程度には操れるのに加え、アラビア語、日本語をはじめとするいくつかの言語での日常会話には支障がない。根底にラテン語の教養を有するがゆえに、イタリア語もまた、読み書きについては、ビジネス文書の遣り取りにおいて、申し分のないレベルに達している。
だが、いかんせん、これまで直截的には職務と関係のなかった地域で、その必要もなかっただけに、会話については実践の機会がなかった。加えて、半島に林立する小都市国家の統一が成ってから未だ日が浅いかの国は、言語的にも地域色の影響が強く残っている。標準語とされるフィレンツェ語の心得が多少あったところで、ヴェネト訛りの入ったアクセントで、スラング混じりに早口でまくしたてられては、さすがにお手上げである。
おまけに、完璧主義の傾向があり、理想とするセルフイメージをことさらに高く描いてしまうこの青年は、異国の地で相手の言葉を何度も聞き直しながら拙い会話を交わすなどという、無様な姿をさらす屈辱に耐えられない。それくらいならば、一言も口を利きたくないといった、極端に頑なな空気を、全身に纏って表現している。実際、今回の視察にあたって、ビショップはただの一言も、現地の言葉で話そうとはしなかった。
その彼をよそに、上司とゴンドリエーレは軽口を交わした。
「じゃ、英語でご案内した方がよろしいですかね?」
「いや、構わんよ。なにしろ彼は、そうした気遣いをされるのが一番嫌いときているからな。無駄にプライドが高くて、扱い辛いことこの上ないね」
そこが魅力でもあるのだが、と冗談めかしてつけ加えると、漕ぎ手は豪快に笑った。
「いやあ、景色も見ずに水面ばっか眺めてるもんだから、てっきり運河の女神でも口説いてるのかと思ったね」
「少し違うな。彼はナルキッソスなのだよ」
「はは。確かに、随分と綺麗なお兄さんだ。お似合いだね、お二人さん」
この発言がもし聞こえていたならば、この若者のことだ、静かにかつ断固として途中下船を申し出ていたことだろう。ことによると、水路に身を投げていたかも知れない。そうならなかったことは、運河の女神とやらの導きであろうか。小さく笑うと、まるで気味の悪いものを見るような冷たい視線が突き刺さって、ヘルベルトはますます愉快に思った。
「さ、もうすぐ、ため息橋ですよ(パッセレーモ・プレスト・ソット・イル・ポンテ・デイ・ソスピーリ)」
危うげない櫂さばきで水路を曲がり、ゴンドリエーレは前方を指し示した。その手を向けた先には、沈み行く赤い陽光の中、通常よりも随分と高い位置に架かった優美な橋を見出すことが出来る。
「もうそんなところか。折角だ、ほら、君も見るがいい」
促してやると、黒衣の青年は面倒そうに視線を上げた。二人して、その歴史的観光名所を眺め遣る。
空中の渡り廊下とも言うべき、屋根付きの短い橋は、乳白の大理石の柔らかな輝きも美しく、その繋ぐ両側の建造物の威容に相応しい優美な装飾が施されている。「ため息橋」などという、一見してロマンティックな名称がいかにも似合いそうな外観であるが、実際のところ、その名の由来は決して穏やかなものではない。
この小さな橋は、かつての総督宮殿内裁判所と、隣接する牢獄とを繋ぐために設けられたものである。すなわち、裁判所で刑を宣告された者は、この橋を渡り、己が罪を購う牢獄へと向かう。肩を落とし、足を引き摺り、その瞳からは生気が消え、唇からもれるのは溜息ばかり──といった様子を、実際には橋の内部を見ることも出来ない市民たちがあれこれと先走って想像した結果、ついた名称が「ため息橋」である。
彼らのイマジネーションは尽きないようで、現在では、それこそ由来の知れぬ、しかし観光客の好みそうな、新たなまじないまで流布されているありさまである。期待通り、ゴンドリエーレは橋を指して得意げに語る。
「日没時、口づけを交わしながらあの橋の下を通った恋人は、永遠の愛で結ばれるって言い伝えがありまして。どうです、そちらのお兄さんで試してみては(リ・インナモラーティ・ケ・シ・バチアーノ・ス・ウナ・ゴンドラ・ソット・クエスト・ポンテ・アル・トラモント・シ・ガランティスコノ・アモーレ・エテルノ ヴェドノ・セ・エ・ヴェロ・オ・ノン)」
意味深な笑みを浮かべた漕ぎ手は、最後の部分だけ声を潜めて、極東本部長に告げた。
「なるほど。それは面白そうだ(ジャ エ・インテレッサンテ)」
自分が話題にされていることにも気付かぬ様子で、つまらなそうに頭上を眺めている黒衣の青年を、ヘルベルトは横目で見遣ってほくそ笑んだ。折しも、太陽はまさに海へと沈みかけていた。
ゴンドラの舳先が、ちょうど橋の影に入ろうかという、そのときだった。安定を保っていた船体が、不意にぐらりと左右に揺れる。
「ちょっと、お客さん、急に動かれると──(フェルモ ノン・シ・ムオーヴェレ)」
絶妙な重心のコントロールによって快適な運航を実現するプロフェッショナルであるゴンドリエーレが、小さく声を上げたのも無理はない。非難の声も無視して、黒髪の男はソファから半ば腰を浮かせていた。無防備に頭上の橋を眺める若者の顎を、素早く伸びた片手が捉え、強引に引き寄せる。何事かと、驚いたように双眸が瞠られたときには、覆いかぶさられる体勢でもって、ビショップの抵抗は封じられている。ちっぽけな船上、逃げ場は無い。形の良い唇が何らかの抗議の言葉を紡ぐより前に、それは重ね合わされたものによって塞がれていた。
かさり、と黒衣の膝の上の花束が小さく鳴る。
橋の下を通過する、永遠とも思える静寂の一秒間を経て、ヘルベルトは押し当てていた唇をゆっくりと離した。顎に掛けた指はそのままに、部下の碧眼を至近距離で見つめる。
殴られるかも知れない、とはヘルベルトも覚悟の上であった。存外に血の気の多いこの若者のことだ、積もり積もった我慢も限界に達し、ついに破裂したとしても、何ら不思議なことはない。むしろ、これまで耐えてきたことの方が驚きであるくらいだ。だから、もしそうして暴力的手段に訴えられようとも、ヘルベルトとしては別に構いはしなかった。少々のリスクを冒してでも、手に入れたいと思ったものは手に入れるというのが彼の信念であり──それだけの価値が、この若者にはあると、確信していたからだ。
しかし、目の前の整った顔立ちに浮かぶ表情は、彼の予想を大きく外したものであった。驚愕、狼狽、あるいは憤怒──そういった情動の一切を、ヘルベルトは向かい合う若者の内に見出すことが出来なかった。
一言でいえば、ビショップの返した反応は、あまりに薄かった。眉を寄せてささやかに遺憾の意を表明してはいるものの、何の前触れもなく強引に唇を奪われた者のする顔としては、それはおよそ不適切と言わざるを得ない。感情の揺らぎを見せぬ、凍てついた水面めいた瞳は、狼藉を働いた男の顔をじっと見据えるばかりである。これならば、マスケラの試着でも無理強いした方が、余程、面白みのある反応が返ってきたであろう。
静まり返った白い頬に指を這わせながら、極東本部長は呟く。
「……その花束で殴りでもしてくれれば、見事な画になっただろうに。どこまでも、期待を裏切ってくれる男だな」
無遠慮な指を振り払おうともせずに、接触事故としか感じていなさそうな平然たる表情で、ビショップは目を伏せた。
「そうしたお相手をお望みであれば、よそで見つけてくださいますか」
淡々と気だるげに紡がれた言葉には、およそ熱がない。やれやれと一つ溜息を吐くと、ヘルベルトは再び己の座席へ腰を下ろした。
一部始終を目撃するはめとなった哀れなゴンドリエーレが、気まずそうに終着点を告げるまで、小舟は陰鬱な沈黙に包まれることとなった。とはいえ、下船時に支払われたチップは相場よりだいぶ上乗せされており、白コートの乗客の密やかな満足のほどを証していた。
夕食前に、バールで一杯どうかというヘルベルトの提案は、最早「結構です」の一言すら返されることなく、部下に黙殺された。あわよくばフェニーチェ劇場でオペラ鑑賞としゃれこみたかったところであるが、これでは望みは薄いだろう。POGの名を出せばすぐさま最上待遇で案内される桟敷席へと、従者が同行してくれる可能性は、これで万に一つもなくなってしまったわけだと、いくら何事にも前向きなヘルベルトであっても理解せざるを得なかった。
陽が沈むと、昼間の喧騒もやや落ち着いて、街はひっそりと幻想的な薄闇に包まれる。磨き抜いた舞台のごとく、街灯を反射して艶めく石畳の道に、二人は無言で靴音を響かせた。
今宵の宿は、極東本部長の独断によって、運河沿いのホテルと決まっていた。海洋都市の栄華を偲ばせる瀟洒な商館を改造したホテルは、床面積という点では劣るものの、それを補って余りあるだけの壮麗な内装も眩しく、見る者の感嘆を誘ってやまない。吹き抜けの頭上には豪奢なシャンデリアが無数のきらめきを纏い、旅人の眼を楽しませる。その下を通り、ヘルベルトはフロントへと向かった。
部下を待たせつつ、フロントと早口でいくつかの遣り取りを交わす。何らかの交渉をまとめると、極東本部長は、いかにも芝居がかった様子で肩を竦めてみせた。
「おや、2部屋予約した筈なのだが、手違いかな。ロイヤルスイート一つしか用意されていないらしい。これもお国柄というやつか。仕方あるまい、どうせベッドは一人には大きすぎる。君も一緒に」
「それでは、私はどこか他で宿を取ります」
上司の口からつらつらと吐き出される怪しげな言葉が結ばれるより前に、ビショップは感情を伺わせぬ平坦な声で己の意思を告げた。およそ付け入る隙のない慇懃な一礼を施すと、早くも踵を返している。
「待ちたまえ、ひとりでは心細かろう。初めてというのに」
「ご心配なく。それでは、失礼いたします」
背中に投げ掛けた言葉も空しく、若者は振り返りもせずに表へと出ていった。
魔性の都、ヴェネツィアの闇は深い。迷いのない足取りで通りを渡っていく青年の、闇に溶ける黒衣と、片手に携えられた純白の花が視界から消えるまで、ヘルベルトはその後ろ姿を見送った。