愚者のパズル -1-




天才というのは、好きではない。
より精確にいうならば、天才という言葉が、好きではない。
天才という言葉が使用されるシチュエーションが、好きではない。
天才という言葉を口に出して言う人間が、好きではない。
天才という言葉で周囲から称賛される人間が、好きではない。

ことに、実にまったくどうでもいいような一部分に関して、少しばかり「珍しい」からというだけの理由で、安易な修飾として濫用されるケースは、見聞きに堪えないどころか、冒涜的行為ですらあるかのように思える。言葉に対する冒涜であり、そして、本来それを向けられることが特権的に許される筈であった、ごく限られた彼らに対する冒涜だ。
天才という言葉は好きではないが、それは何も、言葉の指す概念そのものを厭うこととイコールにはならない。好ましくないと感じるのは、言葉の使われ方に対してであって、言葉を使う人間に対してであって、言葉そのものに罪は無いからだ。事実、天才という言葉で本来表現されるべき存在について、特別に好悪の感情は持っていない。
当初は何とも思っていなかった筈のニュートラルな言葉が、気付けば好きではなくなっていたのは、それがあまりに品性に欠ける使われ方をする言葉に成り下がってしまっていることに失望したからであり、本来の意味を離れて偽物にばかり結びつく安易さに嫌気がさしたからだ。いっそ、元々のごく限定的な意味での天才というものを指し示すために、新たな言語表現が生み出されてしかるべきであるとさえ思うのであるが、今のところその望みは達成されていない。本物の天才にしろ、その紛い物にしろ、同じ陳腐な言葉で言い表すことしか出来ない現状は、何とももどかしいものである。
天才。
天より、才能という輝ける財を与えられし者。
それは、圧倒的にして致命的に、厳格にして緻密に、線引きされた境界をもって、あらゆる意味で「区別」される者。
彼らは、いかなる模倣も追走も許すことなく、徹底して孤立する。個としてのコードを持ち、肉体が滅びてなおその名を遺す彼らは、この地に現れては儚く消えていった、その他大勢の中から独り、取り上げられて認識される。
ツヴァイクの言う、人類の歴史における一瞬の輝かしい「星の時間」の担い手に相当する、そういう存在が、そうそう安易に現れて良い道理はない。ましてや、本物に飢えているからといって、ただの劣化した模倣品や、程度の低い偽物を相手に、喜んで称賛を贈るなど、愚かしいにもほどがある。
それは、みだりに神の名を唱えてはならないという掟と同様の禁忌である──と、そこまで言いきってしまうのは、いささか度を過ぎているであろうか。なるほど、天才などに興味は無い振りを装いながら、こうして考えてみれば確かに自分は、この特異なる存在にそれなりのこだわりというものを抱いているといって、間違いではないのかもしれない。

他愛のない思考をそこまで遊ばせると、聖職者の名を冠した黒衣の男──ビショップは、小さく苦笑した。暇に飽かせて、つまらないことを考えたものである。
天才など、そんな非現実的な存在について、抽象的な思考を働かせたところで、およそ何か新たな知見を得られるものとは思えない。なにしろ、これまでの人生経験において、元来の意味で天才と呼ぶに相応しい人間というものに、ビショップは未だ出逢ったことがない。そんなものは実在しないのだ、幻獣の類と同じものなのだと言われれば、それですんなり納得できてしまう自信がある。
偉大さが輝きを放つのは、回想においてか想像においてのみである、とはナポレオン・ボナパルトの遺した言葉であるが、だとすれば、自分の生きているうちにリアルタイムに天才的な存在に触れることは、結局叶わないのだろうとビショップは思う。誰かを回想することも、想像することも、そのような感傷的な行為を、ビショップは過去にしたこともなく、また、これからもしたいとは思わないからだ。
知りもしないものについて、あれこれ語ろうなどと、そんな微笑ましい想像の世界に遊ぶことが許されるのは、世間知らずの愚かな青少年くらいのものだ。これならば、頭の中でチェス盤を展開し、自分対自分、一人二役の熱戦でも繰り広げた方が、多少は有益であったかもしれない。自分の二手先の意図をもう一方の自分に隠し、かつそれを探って自分で読むという屈折した感覚は、さながらアイデンティティの揺らぎともいうべき奇妙な酩酊感をもたらして心地よく、暇つぶしにはもってこいである。さて、今からでも一戦を交えてみたものだろうかと思案しつつ、ビショップは律義な直立体勢を保ったまま、軽く息を吐いた。
POG最高責任者の側近ともあろう者が、何故暇を持て余しているかといえば、別段に休暇の消化中であるとか、仕事を干されているといった事情があるわけではない。それで言うならば、今現在は疑いなく、崇高にして真摯なる仕事の真っ最中である。
なにしろ、ビショップにとっての唯一忠誠を尽くす対象、心より仕える主人と向かい合い、次なる『賢者のパズル』の出題に関する進捗の報告、および今後の展開についての彼の意向を聞き取っているところなのだ。仕事も仕事、相当に重要な任務といえよう。通常であれば、この年若い幹部の言葉数少ない発言を一字一句逃さず捕らえ、無機質な面に微かに浮かぶ表情を読み取り、その望むところを精確に解釈して適切な舵取りをするべく、全神経を集中させて当然の場面である。
それでなくとも、面と向かって話し合いをしている相手を差し置いて、どうでもいいような思考を遊ばせるなどという非礼な態度は、ビショップの流儀に反する、忌むべき行為に他ならない。いかなる相手であろうとも、向き合ったならば礼を尽くし、真摯に応対する──それが人としてのルールであり、かつ、人としてのルールをあまりわきまえていない者の多いPOGの中にあって、ビショップをビショップたらしめる美学だ。
しかし、規則には例外がつきものであり、マニュアル通りというのではなく、その場その場で適宜、柔軟に対応してこそ、ヒトはルールの運用者としての資格を得る。それに従っていえば、ビショップは現状、目の前の少年──ルーク・盤城・クロスフィールドと、話し合いをしているという自覚はない。ゆえに、現状を暇だと感じることも、他のことに頭を働かせるのも、非礼というにはあたらない。
何故、話し合いの態勢にありながら、両者の間でそれが断絶してしまったのか。より精確にいうならば、こういうことになる──今、この銀髪の少年の無感動な瞳には、彼の忠実な側近の姿は映っていないし、おそらくは、意識の片隅にも残ってはいないのだ。

少しばかり体格に不釣り合いなようにも思える、いかにも地位ある者が座するに相応しい重厚な椅子に深く身を沈めて、ルークは手元のタブレット端末に視線を落としていた。身じろぎひとつせず、もちろん一言も発することなく、じっと画面を見つめて、間もなく四分が経過する。そこに映し出されているのは、さきほどビショップが報告した、次なる『賢者のパズル』──POG構成員としては少々品格というものに欠ける、あの粗暴なギヴァーの作成した駐車場パズルの設計図の筈である。
いつもならば、報告を受けたところで、つまらなそうに一瞥して──実際、彼にとって、この世の殆どのパズルはつまらないものなのだろうが──その後の運用は部下に一任するというのがお決まりのやり取りとなっていたから、いったいこの程度の問題の何が彼の気を引いたのか、ビショップは首を傾げざるを得なかった。
そうしたわけで、状況として一対一で向かい合っていようとも、今のルークの意識を傾ける先は、ビショップではなく、手元のパズルである。こうなると、彼とパズルの対話の間には、誰も入り込むことが出来ない。
彼はパズルを人のように扱うし、人をパズルのように見做す。この類稀なる頭脳を持った少年にとっては、人間であろうとパズルであろうと、対話の相手としては純粋に同レベルの位置づけであって、その時の自分にとってより興味深い方を優先させることについて、何の疑問も躊躇も抱かない。人を待たせてパズルに勤しむなど、普通に考えれば社会人失格の、悪くすれば人間失格の行為であるが、ルークの基準ではむしろ、解かれたがっているパズルを放置して、つまらぬ人間と会話をすることの方が、よほど罪深いということになるのだろう。パズルは逃げないのだから後でやれ、などというお決まりの説教は、彼に対しては何ら効力を発揮するものではない。パズルの「気持ち」を「理解」するというこの少年にとって、比喩ではなくパズルは「生きて」いるのであり、「逃げる」こともあれば、「死んで」しまうこともある、一瞬一瞬がかけがえなく、後回しに出来る筈もない対象なのである。
浅からぬ付き合いの中で、そういうルークの性質を十分に承知しているビショップは、報告を中断されたままに大人しく身を引き、少年がこちら側に戻って来るのを辛抱強く待つことにした。その待ち時間を、暇だと感じるのも、つまらぬ思考を遊ばせるのも、別段に非礼なことではないとビショップは考える。頭の中で何を考えていようとも、表に出しさえしなければ、それは個人の自由である。なにより、傍目には直立不動の姿勢を保ち、特別な場所も道具も必要なしに暇をつぶすという条件をクリアするのだから、内容については大目に見て貰いたいと思う。
POGジャパン中央戦略室付ギヴァーたる自分の仕事の何割かは、「ルークの邪魔をしないこと」という第一の命令に集約されるのであり、すなわち黙って側に控えることであるという風にビショップは解釈している。黙り込んだ彼に対して、どうした、何か気になるのか、何を考えているのか、いちいち詮索して問い詰めるような真似の方が、よほど無粋である。そうすることで、あたかも彼のよき理解者を気取るような振る舞いを、ビショップはどうあってもしたいとは思わない。
第一、ルークとパズルの間にあるものは、常人が問うたところで、理解出来るようなものではない。世間には、躍起になって、天才と呼ばれる人々の頭の中を知りたがる輩も多いようであるが、実に嘆かわしいことである。問うたところで、それは決して理解出来ないものであるし、仮に理解出来たとしたらそれは勘違いであるし、知ったところでそれが自分のものになるわけではないのだと、そんな簡単なことも分からないのだろうか。
そういうビショップはどうなのかといえば、自分が天才、あるいはそれに近い立場であるなどと思ったことは一度もない。天才と呼ばれる者に対して、捩れた羨望であるとか、歪んだ愛情であるとか、邪な執着であるとか、そんな思いを抱くものでもない。
端的にいってしまえば、ビショップはルークの思考を知りたいとは思わないし、そこに自分が関わってあれこれ口出ししたいとも思わない。自分には、自分の役割というものがある。それに足りないことはもちろん、行き過ぎることも同様に望ましくない。特異な頭脳集団の上層部に身を置いているからといって、他人の能力を自分のもののように錯覚してはならないし、また、自分には持ち得ないものを手に入れたいとして欲するに至っては、愚の骨頂と言わざるを得ない。
何より忘れてはならないことの第一は、身の程を知り、己の領分をわきまえることである。適切に定められた範疇において、逸脱することなく、自分の役割を果たすこと、ただ為すべきことはそれに尽きる。
末端の構成員の中には、はるか頂点に立つ、この高潔な若き指導者を熱狂的に信奉し、過剰な思慕を寄せる者も多い。そういう者たちからは、一歩引いた立場を保つ自分のやり方は、不足であるとして糾弾され得るものであると、ビショップは理解しているが、だからといって、改めようとは思わない。何故あんな奴がルークに最も近い位置にいるものかと、嫉妬心を剥き出しにされるのには苦笑するほかはないとはいえ、それに対する一応の答えは、己の内で揺るぎなく確立しているからだ。

そこで一旦、思考を止めて、ビショップは俯いた少年の白い顔を見つめた。何らかの表情の兆しを探るが、微かな気配すらも感じ取れない。身じろぎひとつしないものだから、一分の隙なく纏った純白の衣装、色素の抜け切った銀髪もあいまって、精巧な人形といわれれば納得してしまいそうにさえ見える。否、あるいは──出来の悪い人形、と形容した方が精確だろうか。この少年と比べれば、丁寧に想いを込めて制作された人形の方が、よほど表情豊かであり、魂の宿った温かみを感じさせるからだ。
常日頃から、感情というものの欠けた立ち居振る舞いで、最低限の言葉しか口にしないことで、彼は人々の間で着実に神格化への道を辿っている。末端の者たちの信仰の対象としてならば、それでも良いかもしれないが、皮肉なことに、彼に近しい立場の人間になるほどに、その考えを読み取ったり理解したりといったことを、早々に放棄してしまう。小さな世界ではそれなりに聡明であると評価されてきた者であるがゆえに、この選ばれし少年と己との差異を明瞭に捉え、打ちのめされ、畏怖してしまうのがその原因であると、ビショップは解釈している。
──だから。
何故こうしてルークの傍らに仕える者が自分であるのか、それは、ごく単純なことであるとビショップは思う。
ビショップは、ルークの考えが分かる。
ルークの言わんとすることが分かる。ルークの欲しいものが分かる。ルークの不服が分かる。ルークの満足が分かる。ルークの苛立ちが分かる。ルークの期待が分かる。
ルークのことが──分かる。
それが、唯一にして絶対の答えだ。
それでなくては、ビショップにこれほどの権限が委任され、独断とも思えるやり方で計画を押し進めていながら、ルークからお咎めの一つもないという状況に説明がつかない。ルークの目的を理解し、そこへ至る道筋を理解し、その意思に忠実に従って駒を進めているからこそ、ビショップはギヴァーおよびパズルを管理する権限を許し与えられている。
自分は天才ではないが、もしも世の多くの人々と何が違うというならば、ルークの考えが分かるという、この一点に尽きるだろうとビショップは思う。たかがそれだけのことかと哂われれば、実際、それだけのことでしかないが、当事者にとっては、これは十分に財と呼んでいいだけの価値のある、天から贈られた才である。
たぶん、仲介役としてのビショップがいなければ、ルークは周囲との意思疎通が断絶してしまうし、この世界で上手く生きていくことは不可能に近いだろう。また、ビショップにしても、ルークの期待に応えることが出来る唯一の人材であったからこそ、他の才能あふれる構成員たちの中にあって、現在の地位へ昇り得たのだといえる。ルークがいなければ、ビショップは成り立たないし、ビショップがいなければ、ルークは成り立たない。驕りでも何でもなく、それがシンプルな事実だ。

ルークの考えが分かってしまうということに、これといって理由は無い。説明のつけられるものではないというのが、自分でもそれなりに考察した上での、ビショップの結論だ。
とかく人は、自分の持ち得ぬものを持つ相手に対すると、その獲得方法を聞き出し、あわよくば我がものにせんと欲を出すものである。しかし、後天的な努力によって獲得されたものであるならばまだしも、生まれつき備わった資質について、そのやり方で果たしてどれほどの理解が出来るものであるかについては、甚だ疑問である。問いを向けられた者としても、答えに窮することだろう。それは、例えば、あなたはいったいどうやって呼吸をしているのか教えてくれ、と問われるのと同じことだからだ。
はじめのうちこそ、ビショップも幾度か、ルークへの接し方について方法論を問われたことがあるが、結局、満足のいく答えを返すことは出来なかった。具体的に、表情のどこを読んでいるというわけでもないし、なにも彼の思考回路が全てリアルタイムで把握出来ているわけでもない。ただ、現在位置と目的地が分かるから、そこへ至るルートも、大きく外れることなく歩いて行けるというだけのことだ。
あえて理由づけるとするならば、二人は似ているから、ということになるのかもしれない。ヒトは、あらかじめ自分の内にある枠組みでしか、物事を把握できない。同じ景色を見ても、それぞれの認識する景色は同一であるとは限らない。
極めて共有出来る相手の限られた、ルークの見る特殊な世界を、たまたまビショップも見ることが出来た。認識を、重ね合わせることができた。それだけのことで、この少年は驚くほど素直にビショップを信頼し、己の代理人とすることを定めてしまった。
神の声を聞き、民衆に伝える役割を独占的に負うなど、正に自分の名前の通りではないかと、ビショップは可笑しく思う。さて、その神は、パズルといつまで対話を続けるつもりであろうか──見つめていると、ふと、ルークの瞳に微かな情動の色が浮かんだ気がした。
「──いかがなさいましたか」
思考を邪魔しないよう、最低限の音量でもって、囁くようにして問う。この少年の考えが分かるといって、リアルタイムで思考を読めるわけではないというのは、先に述べた通りである。ただ、常人ならば気付かないであろう、ルークが何かを伝えたがっているというサインを、ビショップは誰より早く、精確に読み取ることができる。それさえ分かれば、後は問うことによって、その言葉を引き出すだけだ。さして難しいことではない。
促してやると、ルークはのろのろと顔を上げて、久し振りにビショップに対面した。ガラス玉めいた碧眼は、鋭く睨めつけているようでもあり、何も見ていないようでもあり、慣れない者は思わず視線を逸らしてしまうほどに、相手の奥底を揺さぶるものがある。そんな瞳と正面から相対したまま、ビショップはルークの言葉を待った。
「……問題の、変更を」
薄い唇が開いて、紡がれたのは、予想外の言葉であった。どういうことかと問う前に、ルークは端末の画面を指して、一方的に指示を出す。
「ブロックの配置は、こことここを交換。これをここに。代わりにこれを。これはここだ。これを半回転。ここの車種をこちらと同じものに。それと」
「待ってください。先に説明をいただけませんか。このパズルに何か問題が?」
淀みなく指示代名詞を連発して紡がれる無感動な声と、連動して画面上を滑る少年の精緻な指先にひとまず制止をかけて、ビショップは問うた。小さな変更点というならば、口頭で伝えられればすぐにでも反映すべく、途中までそのつもりで聞いていたのであるが、どうやら事は大掛かりになりそうである。全ての指示を漏らさず反映するには、これではやや心もとない。必要であれば、メモを取るくらいの猶予は与えてもらわねばならないだろう。何ら外部記憶装置を用いることなく、己の頭脳ひとつで、解法のシミュレーションどころか、ゼロからパズルを組み立てることさえ容易く出来る彼のようには、大概の人間はいかないのだ。
それでも、先に示された変更点はしっかりと記憶に刻みつけつつ、珍しいこともあるものだ、とビショップは胸の内で感心した。たかが末端のギヴァーの作成したパズルに、POGジャパントップ自らが手を加えるなど、知る限りおよそ例がない。問題の駐車場パズルは、ごく初歩的なものであって、ルールに従って作成された正当なパズルである。ギヴァーより提出されたパズルが、正式に賢者のパズルとして認定されるためには、段階的審査を通過する必要がある。通常の解法で攻略可能であることは、ビショップも既に確認済みだ。
パズル作成者、ギヴァーというものは一般に、己の創作物に対する高いプライドを持っている。いくら上層部の意向といえ、むやみに己のパズルに手を加えられることを嫌い、侮辱とさえ感じる者もいるほどだ。それでも、あえて問題の大幅な変更を求めるルークの意図はどこにあるのだろうか。
物憂げに端末の画面に目を落とした銀髪の少年は、ビショップの疑問に一言、逃げ道を、とだけ答えた。それで説明責任を十分に果たしたつもりらしく、温度を感じさせない瞳で、分かったかと言わんばかりに側近を見上げる。あくまでも言葉を補足するつもりはないらしい。
そんな説明ともいえないたった一言で、いったい何が分かるものか、もっと詳しく言ってくれと、おそらく十人いれば九人までが、そう言って食い下がるに違いない。ちなみに残りの一人は、理解していないのに分かった振りをして、後々大きな失敗をやらかす類の輩である。そして、自分自身はそのどちらでもない、十一人目であることを、ビショップは承知していた。
「なるほど。承知いたしました。そのように手配いたします」
言って、軽く一礼する。正直なところ、冷静な話し合いが出来るとも思えない末端のギヴァーを相手に、問題の変更を打診し納得させるのは、なかなかに骨の折れる仕事なのであるが、なにしろ、忠誠を誓った主人たっての依頼である。そういうことであれば、最善を尽くさぬわけにはいかない。彼の望む舞台を、彼の望むように整える、己の仕事を果たすだけだ。
そんなビショップの意思を読み取ったか、ルークは僅かに片目を細めると、それきり興味を失ったように顔を背けた。冷徹であるかのようなその態度が、こちらに対する信頼の証であることを知っているから、ビショップは自然と表情を緩めた。

逃げ道を、と言ったルークの言葉と、指示されたブロックの配置を併せて考えれば、彼が何を求めているか、その答えは明瞭である。手の中に収まるブロックで構成された駐車場パズルならばともかく、今回の賢者のパズルは、それを実物の車両を用いて再現するという、手の込んだ造りである。
シンプルであるほどに、パズルは美しいという哲学は、ビショップも共鳴するところであるが、これは何も感覚的な面でのみ言っていることではない。実際、機械仕掛けの大掛かりな装置にするほどに、想定外のトラブルの発生頻度は高まる。
ギヴァーとソルヴァーによる、パズルを巡る純粋な戦いにおいて、その他の余計な要素が入り込むことは望ましくない。ゆえに、いざという時、万が一、装置のトラブルなどが発生した場合に備えて、逃げ道を用意しておいてやることは、出題者側としての礼儀であるといえよう。
ただしそれは、緊急脱出装置などの代物ではない。命を賭した戦いの中で、そのようなものに頼るなど、無粋の極みである。逃げ道はあくまでも、パズルの中に密かに隠される。優れた能力のある者のみが見出すことの出来る、別の解法である。
確かに、この駐車場パズルは、解答者を車中に閉じ込めることで成立するものであり、仮に事故でブロックの移動が止まってしまった場合などには、たとえパズル自体を解いていようとも、タイムアップと同時に落下する大型バスによって、為すすべなく車体ごと押し潰される運命となる。また、これは本来ならば許されざる卑劣な行為であるが、末端のギヴァーの中には、己の敗北を認めることが出来ないばかりに、当初のルールを侵してでもパズルを解かせまいと妨害する者もいる。神聖なる勝負を穢す、かような行為によってソルヴァーを打ち砕くのは、POGの本望ではない。ゆえに、出題者にさえ気付かれぬよう、密かな意図に基づく逃げ道を仕込んでおけというルークの言葉は、なるほど正当な指摘である。
しかし──それだけであろうか。
これまでにも、同様に不具合の可能性を内包した大掛かりな装置を用いるパズルは、いくつもあった。それらは特に手直しされることもなく、当初の設計のままで認可が下りている。何故、今回に限って、この少年幹部は、勝負の公平性について、神経質なまでのこだわりを見せたのだろうか。ギヴァーのことも、ソルヴァーのことも、駒としてしか認識していない筈の彼が──何故。
「風呂に入りたいな」
ぽつりと呟かれた言葉に、ビショップは出口のない思考から意識を引き戻された。声の主を見れば、街を見下ろす大窓に顔を向けて、赤々と沈みゆく夕陽にその白い髪を、頬を、衣装を染めている。ああ、もうそんな時間になっていたかとビショップは赤い景色を眩しく見つめた。夕焼けのパノラマを眺めながら風呂に入るというのが、この研究所へ来てからというもの、ルークはことのほか気に入っているらしい。そして、彼は基本的に素直というか、世間の常識というものに囚われない自由な性質だから、したいことがあればしたいと言い、欲しいものがあれば欲しいと言う。仕事中であろうと何であろうと、脈絡があろうとなかろうと、お構いなしである。
否、そもそも彼に対して、仕事とプライベートの区分を論じること自体、無意味だろうか。POGジャパン総責任者、ルーク・盤城・クロスフィールドは、ただ純粋にそれだけで完成された存在であって、この肩書を取り去った他の顔というものは、彼の中には存在しない。この椅子に座り、この景色を見下ろす、この場所だけが彼の居場所であり、彼はここを離れてどこへも行けない。パズルに囲まれ、パズルに護られた、難攻不落の城塞──POGジャパンという塔に、彼は囚われている。
それでいえば、四六時中彼に付き従い、業務の範疇を越えて、執事の如く身の回りの世話をしてやっている自分もまた、オンとオフの区別のない、ワーカホリックと揶揄されても仕方がないだろう。それについては、ビショップとしても異議を唱えるつもりはない。この年若い上司は、およそ生活能力というものが欠落していて、パズルに関する以外のことは、殆ど独りで満足にこなすことが出来ない。側近としては、心配で目が離せないものである。
ともかく、ルークは風呂に入りたいと言い、そのくせ、椅子から立ち上がることもせずにぼんやりと窓の外を眺めている。入りたいなら、勝手にさっさと入れば良いではないかと、普通ならばそう思うところであろう。だが、それは根本のところで解釈を間違っている。先のルークの発言は、単なる意思表示ではなく、他ならぬ、忠実な側近に向けた依頼といった方が正しい。
もちろんそれを承知しているビショップは、静かに歩を進めると、椅子に身を沈めたルークの片手をとった。手を引かれて大人しく立ち上がった少年の、頭一つ分低い位置にある物憂げな面を、ビショップは穏やかに見つめた。
「──失礼いたします」
囁いて、他の誰に触れられることもない、細い首に廻らされたベルトに指を掛ける。忠実なる側近の指先は、今朝方それを嵌めてやったときと同様に、慣れた動作でこれを外した。続いて留金を外し、白の上衣を丁重に開いていく。ルークも何も言わずに身を任せ、静寂の中、小さく金具の鳴る音と時折の布擦れだけが、紅く照らされた室内に生まれては沈んでいった。




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