愚者のパズル -3-




小さく呻いて、抗うように片耳を塞いで頭を押さえる、濡れたままの少年の身体を、ビショップはただ、抱いていてやることしか出来なかった。せめて先に身体を拭いてやりたいのだが、まさか床に落ちたものを使うわけにはいかないし、新しいタオルは残念ながら、手の届く範囲には存在しなかった。それを取りに行くためには、頼りなくこちらに身を預けるルークを引き離し、縋るように小さく袖を握ってくる細い指を外させて、独り、置き去りにしなくてはならない。ほんの僅かの間のことといえ、そんな行動をとることが正しい選択であるとは、ビショップには到底、思えなかった。
髪も身体も濡れたままで、これでは折角熱いシャワーで温めた甲斐なく、熱を奪われた細い身体が震え出すのも時間の問題だ。銀髪から滴り落ちる、既に熱を失った水滴が濡らす薄い肩を、せめて手のひらで覆い護ってやりながら、ビショップは暫し思案した。それから、少しばかり体勢を動かすと、おもむろに己の襟元に指を掛ける。片腕はルークを抱いたまま、片手で淡々と留具を外し、黒衣を開いていく。
多少苦労して順に腕を抜くと、脱ぎ落した上衣を、ビショップは丁重な所作で少年の肩に掛けた。こんなものでも、何もないよりはましであろう。いつも白い衣装か白いタオルに包まれている姿しか見たことのない、白いその肢体が己の黒衣の下にあるというのは、不釣り合いにもほどがある光景であるが、そのようなことを言っていられる場合でもない。
遅れて状況に気付いたらしいルークは、辛うじて目を開けると、暫し、覆い被せられたものを戸惑うように見つめていたが、自らの身体が冷えつつあることに思い至ったのだろう、躊躇いがちに、交差させた手でそれを握って襟元を合わせた。未だ頭痛が続いているのか、指先は小さく震えている。
ああ、これだから──と、ビショップは気付かれぬよう密かに溜息を吐いた。これだから、ルークは──始末が悪い。組織の頂点として、何ら歪みも綻びも伺わせぬ超然たる姿で立ち、無感動な瞳で物事を見据え、無感動な脳で思考を働かせ、無感動な声で命令を紡ぐ、一点の穢れなき崇高な白、それが彼、ルーク・盤城・クロスフィールドである。その同じ姿で、それでは、この弱々しい在り様は何だろうか。完成にも完全にも程遠い、ただの無力な子どもに過ぎないのだとでもいうような、簡単に手折ってしまえそうな、この在り様は何だろうか。
簡単なことだ。ビショップとしても、はじめから分かっている。この少年は、実際のところ、人々の上に立って率いるどころか、むしろ庇護を受けてしかるべき存在であって、ただの一人の無力な──普通より、ずっと無力な子ども、そのものなのだ。今こうしてうずくまる彼の姿を目にすれば、誰であろうと、当たり前のその事実を納得出来るだろう。ただ、状況的に、ビショップ以外の人間がルークのこんな姿を目にするというシチュエーションは、まず考えられないといっていい。誰も知らないのだ──誰も、欠落を抱えた年若い少年としてのルークを、見ていない。
それを知っているのは、ビショップだけだ。だから、始末が悪い。いったい、この両極端な二面性を持つ少年をどう評価したら良いのか、こういうとき、ふと分からなくなる。自分がルークに対して抱く思いの正体が何であるのか、途端に見えなくなる。
しなやかな細い脚がのぞく黒衣の裾を、包み護るように丁寧に直してやりながら、ビショップは緩く首を振った。余計なことだ、今は考えまい。自分の勝手な思いなど、この少年に対しては、何の意味も持たないではないか。価値もなければ、関係もない。そんなものは──どうだっていい。

出来るだけ水分を拭ってやろうと、掛けた上衣越しに肩を、腕を、背中を撫でていくと、頭痛が治まってきたのか、次第にルークの身体から緊張が解けていくのが分かる。うなだれた頭を、楽なようにこちらの肩口に預けさせて、さてこれからどうしたものかとビショップは思案した。まず、少年が立ち上がれるようになるのを待って、改めて身体を拭き髪を乾かすことになるだろうが、どうだろうか、もう一度改めてシャワーで身体を温め直した方が良いかもしれない。
などと思いを馳せつつ、少年の背中を撫でていた、その時。小さく、息を吐く音が聴こえた。否──息ではない。
「────」
それは、声だった。聞こえるか聞こえないか、ともすれば吐息に交じって消えてしまいそうな、ほんの僅かな声だった。切なく、訴えるような、求めるような、声を──ルークが、紡いでいた。
それは、聞き間違いでなければ、誰かの名前であるように思えた。力なくうなだれ、冷えた肩を震わせながら、ルークは、縋るように誰かの名を呼んでいた。
聞こえたのは、一度だけだ。だが、我慢に我慢を重ねた末に感極まって口をついてしまったというのでは、それはなくて、もっとごく自然に、当たり前のようにして、心の声が唇を通して紡がれたように聞こえた。そこに、いかなる思いが込められたものか、それは当人にしか分からない。分からないが、少なくとも眩暈を起こしてからずっと、胸の内で幾度となく、その名を呼んでいた筈だと、ビショップは確信した。
ルークの呼んだその名を、ビショップは知っていた。この少年の口から、誰かの個人名が発せられるというケースは、極めて少ない。彼にとって、大多数の人間は、名前で区別する必要のない、つまらぬ駒にすぎないからだ。その彼が、親しく情感を込めて名前を呼ぶ対象──大勢の中から区別して取り上げ、特別に呼ぶ対象。それは、ただ一人だけだ。
彼の、懐かしい記憶の中に住む者。
彼の、忌まわしい記憶の中に棲む者。
彼を、救い上げる希望。
彼を、突き落とす絶望。
彼が、探し求める者。
彼が、拒み逃げる者。
彼が、愛してやまない者。
彼が、憎んでやまない者。
彼の理由、彼の根拠、彼の目的、彼の憧憬、彼の過去、彼の未来、彼の現在、彼の全て。
その名を、ルークは呼んだ。忠実なる側近の腕に抱かれながら、ここではない、はるか遠いその名を──呼んだ。

それを理解した瞬間に、ビショップの内に去来した思いが何であったのか、それは分からない。確かめる前に、すぐに消え失せてしまったからだ。いつの間にか、少年の肩を強く掴んでいたことに気付いて、ビショップはすぐに力を緩めた。埋め合わせのように、手のひらでことさらに優しく包み込み直す。
「……ビショップ」
肩口に額を預けたままのルークは、今度は先とは違う名を呼んだ。その声の響きに、最早、先程垣間見せた情動の残滓はない。何でしょうか、と問う部下に、首をふらつかせながらゆっくりと頭を起こした少年は、無感動な瞳を少しばかり眇めて告げる。
「パズル、を」
「──承知いたしました」
恭しく応えると、ビショップは己の衣装を探った。こういうときのために、というわけではないが、いくつかの種類のパズルは、常に携帯し持ち歩いている。最初に指に当たって、取り出したのは、ディスクタワー──ルークの好むパズルの一つだ。手渡してやると、一度全体をくるりと回してから、少年は暫し、両手に包んだそれをじっと見つめた。あれこれ階層を回転させたり、ためつすがめつするといった反応とは違う、極めて静かな、止まっているかのような態度。
どこか切迫した態度でパズルを求めておきながら、いざ手にして何をしているのか、早く解かないのかと、人は疑問に思うだろう。それには、こう答えてやるほかはない。すなわち、ルークは既に、手に取った時点で、脳内で瞬時にパズルを解いている。そして、彼がパズルを求めたのは、それを解くためではない。それが目的であれば、そもそもビショップも、見知ったディスクタワーなど取り出しはしない。こういうときに、ルークがパズルを求める理由はただ一つ──パズルと、「対話」をするためなのだ。
精神の安定を図るために、ルークはパズルに縋ることしか知らない。あたかも、普通であれば薬物を求めるところで、彼は代わりにパズルを欲する。思考の全てを、目の前のパズルに集中することで、調整を図るのだ──現状に、脳をチューニングする。この世界と、ルークとを繋ぐ唯一の接点、それが、何の変哲もない小さなこのパズルなのだ。
そこに何らかの答えを探し求めるかのように、手の中のパズルを見つめていた少年は、ふと、僅かに表情を曇らせた。何かを訴えるように眉を寄せて、しかし、薄く開かれた唇から言葉が紡がれることはない。
暫しそうした後、もういい、と言って、ルークは溜息と共に、結局一回転もさせなかったディスクタワーを差し出した。それから、ふと気付いたように、己の背中に掛けられたものを見て、緩慢な動作でそれを取り去る。持ち主へ手渡しながら、少年は小さく呟いた。
「足りない……もっと、欲しい」
しなやかな身体をさらし、気だるげな表情、吐息混じりにそんなことを言うものだから、相手によってはおかしな気持ちを引き起こしかねない、危険な発言である。とはいえ、自分以外の者にそんなことをルークが言うシチュエーションというのは、まず考えられないので、ビショップとしては苦言を呈して改めさせる気などはさらさらない。
新しいパズルを献上しろと言ってねだるルークに、ビショップはすぐさま応じることはしなかった。代わりにその肩を、そっと包んで浴槽へと押し戻す。
「その前に、もう一度、湯を浴びてください。すっかり冷えてしまったでしょう。髪もちゃんと乾かして、パズルはそれからです」
まるで聞き分けのない子どもを諌めるような物言いに、ビショップは我ながら苦笑した。こんな態度で、畏れ多くもPOG幹部に臨むなど、考えてみれば可笑しなものである。とはいえ、今目の前にいる少年が、正しく、聞き分けのない子どもであることは間違いない。もっとお話して、と寝台の中で熱心に親にせがむ幼子のように、彼はパズルを求める。
ただ、やっていることは幼児と同レベルであるが、その背景にあるものを知れば、微笑ましいとも言っていられない。ルークのそれは、意志の力で抑えられるようなものではない、根源的な欲求で、渇望というほかはなく、決して満たされることはない。
かつて、失ったものを、取り戻さない限り。
それを追い求める、代償行為としての彼のパズルは、際限というものを知らない。

今回は素直に言うことを聞いて、ルークは大人しく、再び頭からシャワーを浴びる。既に夕陽は沈んで久しく、薄暗い室内で飛沫を纏う白い身体は、ほのかに柔らかな光に包まれているように見えた。
少年に提供し用済みとなった己の上衣を畳んで脇に抱えつつ、ビショップは飽きず、その後姿を見つめた。自然、思い起こすのは、自分の腕の中で先程、彼の呟いた名前である。縋るように、訴えるように、追い求めるように、呼んだ、名前である。
名前とその対象、それ自体は、どうでも良い。個人として特別に興味を引くようなものではないと、そう思う。幼い頃に、ああいうことがあって、そのときルークの身近にいたのが、たまたまその相手であったという、それだけのことだ。状況がそれを決定したのであり、もしそこにいたのが違う誰かであったとしても、ルークはその時はその相手に、同じ感情を抱いた筈だ。だから、ビショップにとって、ルークが口にしたその名前は、独立して存在するのではなく、ただルークを通してのみ、その関係性においてのみ、意味をなすものである。なんら、個人的なコメントを紡ぐべき対象ではない。
ただ──抱えた衣装を、ビショップは軽く握り締めた。
ルークは、求め続けるのだろうか。
彼は、ここにはいないのに。
彼は、助けてはくれないのに。
彼は、与えてはくれないのに。
彼は、想ってはくれないのに。
彼は、分かってはくれないのに。
彼は、一緒にいてはくれないのに。
──それなのに。
──それは、あまりに──
分かっている、とビショップは思考を切って、緩く首を振った。そんなことは、分かっている──ビショップにしても、ルークにしても。それがいかに無意味な行動であるか、そんなことも分からぬルークではない。
それでも、どれだけ言い聞かせたとしても、ルークは、彼の幻を追い求めることを、止めようとはしないだろう。彼だけが、ルークの中で特別な位置を占める存在であって、唯一、心を満たす存在であって、そこを空席とすることも、誰かがなり変わることも、同等にあり得ない事態である。
分かって、いるのだ──はじめから、分かっていたことだ。自分の力では、足りない。自分では、ルークを満足させることなど出来ないのだと、ビショップは重々承知している。あまりに明瞭な、それが現実だ。少しばかり、近くにまで歩み寄れるというだけで、この少年と同じ地平に立つことは、出来ないのだから。彼の求めるものに、なることは、出来ないのだから。
彼の望む、解答者には──なれない。
揺るぎない結論を、ビショップは今一度、深く胸に刻んだ。

否、精確にいえば──なろうとは思わない、という方が正しいかも知れない。環境だの状況だの運命だの理由を負わせて、己の意思も責任も放棄しようというのは、ビショップの望むところではない。こうなることを選んだのは、確かに自分自身なのだと、そう信じていたい。たとえ、それが幸せな勘違いで、都合のよい言い訳であったとしてもだ。
POGのギヴァー、それが自分だ。これまでも、ずっとそうしてきたし、これからも、変わることはないのだと、ビショップは確かに言い切れる。『与える者』としての誇りを、そう簡単に棄てることは出来ない。虚勢でも何でもなく、心からそう思う。ソルヴァーとしてではなく、ギヴァーとしてパズルに関わる道を選んだのを、後悔したことは一度もない。
ルークが、パズルを欲しているように。
世界は、パズルに飢えている。
いかに優れていようとも、ソルヴァーだけでは、この世は成り立たないのだ。
先ず、パズルを制作する者がいなければ、それを解く者は存在し得ない。
与える者と、受ける者と。
創る者と、壊す者と。
隠蔽する者と、解明する者と。
そこにあるのは、敵対や反発とは違う、言うなれば、協調関係だ。双方が互いに高めあい、より善いパズルを求めて、天上の領域へと手を伸ばす。美しい調和であり、均衡であり、融合であり、新世界の創造だ。先人たちの遺志を継ぎ、神のパズルの名を冠したこの組織は、密やかにして崇高な、誇り高き任務を全うしてきた。
だから、自分は、与える。
与えてやりたい──ルークの欲するものを。
彼を何より、輝かせるものを。
彼のためにこそ、己の全てを注ぎ込みたい。それが、ビショップの抱く、偽りない思いだ。

ルークがシャワーを浴び終えたら、今度こそ、柔らかなタオルで包み込んでやろう。手触りの良い銀髪を、丁寧に乾かしてやろう。そして、パズルを──彼のまだ見たことのない、新しいパズルを、あげよう。ただ一人のためだけに創作された、自信作だ。きっと彼は、すぐに解いてしまうのだろうけれど、少しの時間でも、楽しんで貰えればそれでいい。
ビショップが用意するのは、解かれないためのパズルなどではない。この手で生み出したパズルは、ルークによって解かれることで、初めて完成する。彼を、夢中にさせることが出来るという、それが紛れもなく、ギヴァーとしてのビショップの喜びであり、誇りなのだ。
誰に、譲ることも出来ない。
何に執着することも、熱くなることもないと思っていた、自分の内に確かに息づくこの思いが、いったい、何と呼ぶべきものであるか、ビショップには分からない。ルークとの間の、この関係を、何といって表現したら良いのかどうか、その名案も思い浮かばない。
そんなことを分からなくとも、パズルを創ることは出来る。
けれど、おそらくは。
その答えを知りたいがために、自分はこうして、彼に与え続けているのかも知れない。
解き明かされる時を、待っているのかも知れない。

シャワーを止めた少年は、その瞳にささやかな期待の色を滲ませ、待ち遠しそうにこちらを見上げる。肩にバスタオルを掛けてやりながら、ビショップは優しく微笑した。

そう、楽しみに待っていてください。

あなたの時間<パズルタイム>の──始まりです。




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シャワーシーンの衝撃を何とかカタチにしたいと思ったらこんなことに。あれこれ設定捏造してしまって後々が恐ろしいっ。

2011.11.11

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