ロマン・ホリディ(プレビュー版)






まったく──ローマの休日(ヴァカンツァ・ロマーナ)とは、そのままではないか。胸の内で苦笑して、私は遠く広がる街並みを堪能した。
「……出来た」
横合いから小さな声がかかって、意識を引き戻されたのは、通りの向かいの屋根で遊ぶ小鳥を微笑ましく見守っていたときだった。見れば、いつの間にか着替えを完了したルークが、どこか遠慮がちに佇んでいる。
椅子に腰掛けて窓の外を眺めるばかりで、早く支度をしろといって急かすこともない側近の姿に、ルークは戸惑いを隠せないようだった。それを分かっていながら、私は椅子から身を起こしもせずに微笑みかける。
「さて、どこに行きましょうか。なにか、リクエストがあれば」
「水路を、見学に行くんじゃ、」
「良いんですよ。これは、お休みなのですから。きっちり予定に従うことはありません」
ならば、なぜ叩き起されたのだろうと、ルークは納得がいかない面持ちである。生徒を丁寧に指導する教師の気分を味わいながら、私はゆっくりと、その疑問に答えを与える。
「私が、あなたと一緒に過ごしたかったのです。ひとりでは、休暇もつまらないものですから」
「……そんな」
「そんなことで、良いのではないですか。なんといっても、お休み、ですからね」
どうでもよさそうな風情で言って、私はのんびりと頭の後ろに手を組んだ。窓からのそよ風を、目を閉じて心地良く味わう。
そんな私の、およそ上司の前でするには相応しくない姿を、ルークはじっと黙って見つめているようだった。

「…………」
「…………」
さて、リクエストを募ってみたものの、返事は一向に返ってこない。いきなりそのようなことを問われて、ルークはどうしたら良いのか分からないという風に、すっかり困ってしまっているらしい。
所在なさげに立ち尽くす、その様子を横目で見遣ると、私はようやく椅子から身を起こした。
「それでは、お散歩といきましょうか。ローマは街自体、美術館のようなものですから。きっと、面白いものをたくさん見つけられますよ」
教会を訪れ、美術館に入り、遺跡を見学し、泉にコインを投げる──そんな観光の定番コースを、私たちは辿る気はなかった。
往々にして、そうしてノルマをこなすかのようにして、各地であれこれと見物した芸術作品は、どこで何を見たのだか記憶が定着せず、抱いた印象も、いっしょくたのつまらないものになってしまいがちである。巨匠の傑作を、いくら実際に目にしようとも、それではいったい、何の意味があるのだか分からない。
まして、混雑した屋内という環境条件にまだ不慣れで、人ごみをかきわけてでも絵画や彫刻を観たいというほどの情熱も持ち合わせていないルークにとって、それは単なる苦行に過ぎないだろう。私としても、かような場所に連れて行って、むやみに少年を疲れさせてしまうのは本望ではない。
古代世界の栄華を今に受け継ぐ永遠の都(チッタ・エテルナ)は、それ自体が大いなる歴史を物語る、人類の遺産である。その街の愉しみは、屋根の下ばかりにあるものではない。
自らの足で、石畳の細い路地裏を行き、街中に忽然と現れる古の巨大な建造物に感嘆し、気ままに店に立ち寄り、のんびりと空を眺める。そんな風に、この街の空気をたっぷりと呼吸して味わうというのも、「休暇」には相応しいと思うのだ。
そんな私の提案に、うん、とルークは素直に頷いた。爽やかに晴れた空の下、今日は一日、めいっぱい歩くことになりそうだ。
少年らしいカジュアルな衣装を纏ったルークの顔と腕に、私は抗紫外線ジェルを塗ってやり、最後にフードを目深に下ろさせた。別に身分を隠さねばならない理由はないのだが、念のためである。支度を終えると、私たちは小さな宿を後にした。

宿を出て路地を行き、最初に行きあたるのは、かの有名な大階段を擁するスペイン広場である。
噴水の周囲にたむろするローマっ子、階段に腰掛けて休息する旅行者、世界に名だたる一流ブランド店の立ち並ぶコンドッティ通りから流れた買い物客──広場は常に、大勢の人々で賑わっている。
はぐれないよう手を繋いで、混雑の中を通り抜けようとしたところで、ふと、隣を歩くルークの足が止まった。どうしたのだろうかと、視線の先を追うまでもなく、彼は首を反らして、トリニタ・デイ・モンティ教会へと続く大階段を見上げているのだった。
「……ね、ちょっと行ってきていい?」
うずうずとした様子で、少年は上目遣いにねだる。ルークの子どもっぽい振る舞いに、私は小さく苦笑した。
とはいえ、こうも見事な大階段を前に、はしゃぐ気持ちというのも十分に理解出来る。少なくとも、以前のルークであれば「はしゃぐ」などということはまず考えられなかったのであるから、これも大きな進歩であるといえよう。
「構いませんよ。私は、飲み物でも買いに行っていますから。どうぞ、こころゆくまで」
楽しんでいらしてください、と言い終わるより前に、もうルークは駆け出している。通行人にぶつからないよう、上手く避けて走る身のこなしは体重を感じさせずに軽く、羽根つきのサンダルでも履いているかのようだ。
大階段を、一段飛ばしで一気に駆け上がって──ああ、最初からそんなに飛ばしては──思った通り、中間地点あたりまで上ったところで、少年は失速し、ふつりと糸が切れたように、その場にしゃがみこんだ。
階段の下からでも、その背中が上下して、ぜいぜいと息を継いでいる様子が分かる。その脇を、小さな子どもたちが追い抜いて、わあわあと駆け上がっていく。
たぶん、ルークの抱いているセルフイメージは、隣の子どもたちとそう変わりない。十年も昔に、止まったままなのだろう。体力があり余って、疲れを知らない幼児のつもりで、むやみに動き回るから、当然のごとく身体がついていかずに、ああしてすぐに息切れしてしまう。
まあ、放っておけばすぐに持ち直すことだろう。心配はない。額の汗を拭っているルークの頼りない背中を眺め遣ってから、私は広場の周辺、商店の立ち並ぶ方へと足を向けた。

バールでボトル入りの水(アックア・ナトゥラーレ)を購入して戻って来ると、私は混雑する大階段の中に少年の姿を探した。
きっと一番上まで行って、眺望を愉しんでいることだろうという予想に反して、ルークは階段のふもとに佇んでいた。手持無沙汰に手すりに背中を預ける、その横顔は、ぼんやりとバルカッチャの噴水を眺めているようだ。
急いで駆け寄りつつ、お待たせしました、と声を掛けようとしたときだった。
帰りの遅い側近を待っていた少年は、後ろから肩を叩かれて、無防備に振り返った。その視線の先に立っていたのは、しかし、彼の予想した相手ではなかった。
「やあ。君、可愛いね。名前は? ひとり?(チャオ セイ・モルト・カリーノ コメ・ティ・キャーミ セイ・ソーロ)」
ルークの前に姿を現した若者は、そんなことを言って、気障な所作でサングラスを押し上げた。咄嗟にルークは声もなく、目を瞬いている。
──ああ。さすがローマだ。
その様子を目にして、月並みな感想を抱いてしまうのも、いたしかたあるまい。私はルークに駆け寄り掛けた、中途半端なところで足を止めていた。
フードで顔を隠していることであるし、少女ならばともかく、まさか彼に声を掛ける物好き、あるいは猛者がいるとは想定していなかったのだが、どうやらその見通しは甘かったようだ。
相手の意図が分からないのか、きょとんとしているルークを前に、軟派者はあまり上品でない笑みを浮かべる。少し離れた位置から、私は苦々しく両者の様子を見遣ったが、そこでふと気付く。
どうやら、若者がルークに声を掛けたのは、刹那的な遊びに誘いたいと思ってのことではないらしい。よく見れば、彼は片手に「商売道具」を携えていた。
だとすればこれは、舞い上がった観光客を狙った詐欺とみて間違いないだろう。珍しい動物を抱かせてやるとか、写真を撮ってやるとかの言葉で誘い、後から高額な代金を請求するという、お決まりのやり口だ。これほど手口が知れ渡っているのに、いつまで経ってもあの種の商売が廃れないのは、どうしたわけだろうか。

ともかく、早く追い払わなくては──と、当然のように彼らの間に割って入ろうとしたところで、しかし、私は思い直して踏みとどまった。
いつもいつも、こうしてルークを危険から遠ざけることが、果たして良いことなのかと、小さな疑問が過ぎったのだ。
これまではもちろん、あらゆる危機から主人を守ることが側近としての当然の責務であったから、それで構わなかったかも知れないが、今は彼の見聞を広める旅の途上である。今までと同じやり方を通していては、何も学ぶことにはならないのではないだろうか。
見れば、戸惑いながらも、ルークは一生懸命に首を横に振っている。
そう、こういった場面での上手い対処を覚えることも、社会勉強の一つである。いきなり荒波に放り出すようで、少々胸が痛まないでもないが、これも彼のためを思ってのことだ。甘やかすばかりでなく、ときには厳しさをもって、少年に外の世界というものを教えねばなるまい。
はたしてルークは、いかなる方法で窮地を切り抜けるものかと、私は物陰に身を隠して、事の推移を見守る態勢に入った。
「君、可愛いから。今日の記念に」
巻き舌の英語に切り替えた軽薄な若者は、そう言うと、「商売道具」──ミサンガを一本、取り出した。美しい模様に心を惹かれたのだろう、なんだろうかと見つめるルークに、自慢げに説明する。
「これね、お守り。大切な友達と、ずっと仲良しでいられる、お守りだよ」
「……ずっと?」
「そう。結んであげる」
客が乗り気らしいことを察したのだろう。彼はルークの手をとり、その細い手首に、慣れた手つきでミサンガを巻きつけようとした。
しかし、その素早い動作が完了する前に、白い腕は彼の手元から、するりとすり抜けている。
「僕は、いいよ。ごめんね」
静かに、しかしはっきりと、ルークはそう言って、好意を装った押し売りを拒んだ。
そう、それで良い──胸の内で、私は頷いた。はっきりと拒絶を示せば、たいていの商売人は諦めて、もっと引っ掛かりやすそうな他の客を探しに行く。なにしろ、カモ候補はそこらじゅうに、いくらでもいるのだから。

──と、普通はそうなる筈なのだが、運が悪かったのだろうか。今回の相手は、そうはいかなかった。
その場を離れようとするルークの手首を、待ってよ、と若者は馴れ馴れしく握った。驚いて振り向いた少年の顔を、至近距離で覗き込む。
「いいじゃない、君、気に入った。一緒にゲーム、遊ばない?」
「あ……遊ばない」
「あは。それじゃ、もっと良いもの、あげようか」
優しげに囁きかけつつ、若者はルークに身を寄せた。いつの間にか、手すりに押しつけられるかたちで自由を奪われていることに気付いて、ルークは困惑したように左右を見回す。
それは、助けを求めるサインにしては、あまりにささやか過ぎた。そんなことでは、誰もこの少年の窮地に気付きはしないだろう。はたから見れば、同年代の友人同士が仲良くじゃれあっているようにしか見えない。
おそらくは、手を振り払うなり叫ぶなりの、はっきりとした拒絶を示さないルークの態度を見て、相手は都合のよい解釈をしたのだろう。あろうことか、ルークの深く下ろしたフードに手を掛けて、これを脱がせる。
「…………っ」
「可愛いなあ。ふわふわだ」
容赦なく降り注ぐ陽光から、眼をかばって顔を背けるルークの苦鳴を気にも留めず、商売人は鼻歌交じりに白金の髪を弄ぶ。
「どうしたの、疲れちゃった? じゃあ、あっちで休もうか」
気遣わしげに肩を抱いて、少年をいずこかへ連れ去ろうと、一歩踏み出したところで、詐欺師は足を止めた。否、止めざるを得なかった。

「……うちの弟と遊んでくださって、どうも(グラツィエ・ディ・トゥット・クエッロ・ケ・ア・ファット・ペル・ミオ・フラテッロ)」
彼らの行く手に立ちはだかって、私は低く呟いた。残念ながら、今の自分が、いつものような温和な仮面を被っている自信はあまりない。そのような努力は、とうに放棄していた。
あからさまな敵意を向けられていながら、少しも悪びれずに、詐欺師は笑顔で応じる。
「イタリア語お上手だね、お兄さん。恋のお守り、貰ってよ。これで、高嶺の白百合もお兄さんのものだよ」
そんなことを言って早速ミサンガを取り出そうとする若者に、私は一言、要りませんと告げて手を振り払った。なにが白百合だ、やめて欲しい。
「さあ、行きますよ」
ルークの肩に馴れ馴れしく回された腕を、有無を言わさず外しつつ、フードを掛け直してやる。
商売人は更に何か言い募ろうとしたが、そこでふと、背後を振り返って大階段を見上げた。それがあまりに唐突だったので、私もつられてそちらを見遣る。
彼の視線の先は、階段の最上部に佇む、あの人影だろうか──逆光に目を眇める。裾の長いコートを纏ったシルエットは分かるが、私の視力ではそこまでが限界だ。
はあ、と溜息を吐くと、若者はこちらに向けて肩を竦めた。
「残念、俺もツレが呼んでるんで。じゃあね」
なるほど、階段の上の人影は、一帯を縄張りとする商売仲間かなにかなのだろう。「良い旅を」とだけ言い残して、商売人は身軽に階段を駆け上がっていった。

「……大丈夫でしたか」
他人にべたべたと触れられた肩の辺りを払ってやりつつ、私は少年に問うた。
ずっと隠れて事の経緯を見物していた人間の言うことではないが、仕方あるまい。これでルークも、ひとつの社会経験を積んだことになる。きっと、何かの役に立つこともあるだろう。
初めての経験に、まだ思いが乱れているのだろうか、ルークは黙って俯いたまま、殆ど分からないくらいの角度でもって頷いた。暫く待っていると、そろそろと、フードに守られた顔を上げる。
淡青色の瞳が、戸惑うようにこちらを見つめてくるので、どうしましたかと私は微笑んでみせた。逡巡の後、ルークは唇を小さく動かす。
「弟って、なに」
先ほどの私の台詞が気になっていたらしい。神妙な面持ちで訊ねてくるのが可笑しくて、私は笑いを堪えながら一礼した。
「失礼いたしました。そういう設定が、一番分かりやすいかと思いまして」
まさか公衆の面前で、上司や主人にするように、この年若い少年にかしずくわけにもゆくまい。スーツ姿ならばまだ、上流階級の子息のお忍び旅行につき従う執事の図に見えなくもなかったかも知れないが、このようなくだけた衣服でそれはない。
といって、友人というには年齢差が大きく、親子というには無理がある。結局、兄弟あたりが無難であろうということに落ち着いたのだった。
説明に、納得したのだか、していないのだか、ルークは私をじっと見つめて、そう、とだけ呟いた。



ローマには、街中におよそ二千もの噴水が存在するという。圧倒的なスケールで堂々たる威容を誇るトレヴィの泉、パンテオン正面のロトンダ広場に聳えるオベリスクを囲む泉、バロック芸術の傑作と讃えられるナヴォーナ広場の四大河の噴水──いずれも躍動感に溢れ、力強さと優美さが見事に調和した麗しい姿を誇る。
一方で、かように雄大な泉のみならず、路地のそこかしこにも、装飾を凝らした個性的な噴水が豊かな水を注ぎ、道ゆく旅人の喉を潤す飲用水を提供している。当たり前のように街中に溶け込んだその様子は、古代ローマの驚くべき水道建設の偉業、そして都市の繁栄を今に伝えるものである。
全ての道はローマに通ず(オムネース・ウィアエ・ローマム・ドゥークント)>氛氓ネにしろ、ここは「世界の中心(カプト・ムンディ)」なのだから。

「これは面白いモチーフだね。パズルみたいだ」
壺を積み重ねて山にしたようなかたちの噴水、あるいは、知識を象徴する巨大な四冊の本を積んだかたちの泉に駆け寄っては、ルークはそう言ってはしゃいだ。
感嘆するばかりか、早速その脳内では、どうしたらこれで面白い作品を作り出せるかという思考が回転し始めている。
「水の流れを邪魔しないように組み替えて……スライド、いや、一定時間ごとに切り替わる方が面白いかな。下手をしたら、溢れ出して水浸しになっちゃうんだ」
活き活きと瞳を輝かせて、ルークは構想を語る。その発想は、いたずら好きな子ども、そのものである。まるで目の前にその立体模型があるかのごとく、ルークは空中で、ああでもないこうでもないと両手を動かす。
愉快なパントマイムを経て、彼は何かの結論を見出したらしく、うん、と力強く頷いた。背伸びをして、こちらを見上げる。
「ね、面白そうでしょ」
「ええ。ぜひ、実物を見てみたいものです」
私は微笑んで答えた。なにも社交辞令を述べているのではない。彼との間に、そういった表面上の遣り取りは、もはや不要である。
私は彼の言う子どもっぽいパズルが、心から楽しそうだと思ったし、本当にそれを見てみたかった。あるいは、永遠の都ローマの観光よりも、そちらの制作の方を優先しても良いと思えるほどで、この文化芸術の宝庫を前に何を言うのかと、きっと周囲の観光客からは叱られてしまうだろう。
ルークの友人たちの言葉で言うと、そういう性質を「パズルバカ」というらしいが、ならば私も、立派なその一員だ。むろん、ルークたちのレベルにはとうてい、及ばないのだが。

唯一、ナヴォーナ広場では、タコと戦う姿も勇壮なネプチューンの噴水を見て、ルークはパズルではなく「オクトパァス!」と口走ってはしゃいでいた。それがどういった心境のゆえであるのかは、私にはよく分からない。
浴槽に浸かりながら、ガラスの向こうの魚たちを茫と眺めていることが、かつてのルークにはよくあったとはいえ、別にタコにそれほど執着していたらしい記憶は無い。
なにやら、海の怪物を眺めるには相応しくない陶然とした表情で、うっとりと頬を染める少年の横顔を、私は内心で首をひねって見つめたのだった。




[ to be continued... ]
















完成版はweb再録集『resign』に収録しています。(→offline) ビショルク新婚旅行からの帰還を心待ちにしつつ。

2012.04.28

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