さよならノーチラス -1-
《こちら、コントロールセンター……間もなく、基準深度に到達します。どうぞごゆっくり、海底世界の旅をお楽しみください》
小型潜水艇の旅は、おおむね快適であった。定員わずか2名、直立すれば天井に頭をぶつけてしまうほどの狭苦しい座席には、当初こそ閉口したが、慣れてしまえば何ということもない。逆に、この狭さと暗さこそ、海底の旅には相応しいものであるように思えてくる。背もたれに身を預けて、私は静かに息を吐いた。
地上のコントロールセンターからの通信によると、潜水は順調に進行しているらしい。遠隔操作された小型艇の動きはスムーズであり、水中を順調に降下すると、ゆるやかに水平移動へと切り替わった。
目の前には、直径1メートルほどの、外界に向けて膨らんだ球面状の窓。その先に広がるのは、神秘の海底世界である。複雑な形状の岩場が藍色の陰影によってのみ描き出される光景は、荒涼として、しかしどこか深い郷愁めいたものを感じさせるのだった。それは、かつて海の中から生まれ陸に上がった祖先の記憶が、この身体に刻まれているからなのだろうか──などと、少々夢見がちな思考も、今ばかりは許されるような気がした。
漆黒の闇に浮かぶ、水の惑星の美しき青、私たちはそのただ中にいるのだ。生きとし生けるものに恵みをもたらす生命の海、その神秘に暫し思いを馳せる。
「ね、……あれ、何だろう?」
センチメンタルな陶酔から意識を引き戻したのは、すぐ隣りで発せられた小さな囁き声であった。そう、空間の狭さは、一人一人に別個のシートを用意出来ないほどなのである。航空機のエコノミークラスでも、これに比べれば、十分にプライバシーが確保された環境であろう。
すなわち、私は忠誠を捧げる唯一の対象であるところの年若い主人──ルークと、ひとつのベンチシートに並んで腰掛け、窓の向こうを見つめているのだった。
世界を巡って視野を広げ、新たな知見を得て、己を見つめ直す贖罪の旅──それはなにも、地上での移動に限ったことではない。未知なる大海の底にもまた、異なる法則によって支配された別世界が広がっている。それを体感するコースを、旅程の一部に組み込んだのは、これがきっとルークにとって貴重な経験となり、ひいては、かけがえのない財となるであろう未来を期待しての私の判断だった。
かつて巨大水槽の魚たちを眺めながら、入浴の時間を過ごすことを好んだルークに、本物の海というものを教えてやりたい。自然に生きる魚たちの姿を見せてやりたい。そんな思いも、早速に興味を示しているらしいルークの反応を見るに、どうやら無駄にならずに済みそうだ。
私は首を傾げ、頭一つ分低いところにある少年の白い顔を見つめた。蒼くゆらめくほのかな光を受けて、白金の髪がちらちらと輝いて見える。それは、彼の纏う白のジャケットも同じであって、かつて巨大モニターの青白い光のみが照らす執務室に座していた、崇高なる指導者の姿を思い起こさせる。
しかし、彼を拘束し規定する白装束も首輪も、既に存在しない。今のルークは、ここへ来る前に立ち寄った街で私の見繕ってやった衣服を纏い、一心に窓の外を見つめる一人の少年以外の何者でもなかった。細い頸部を廻る襟元のベルトが留められることはなく、喉元からなめらかな鎖骨までが、揺らめく光の下にさらされている。
その頭が、ふと動いて、淡青色の瞳がこちらを見上げた。澄み切った清廉な水に似た瞳には、不思議そうな光が宿っている。
「ねえ、あれ」
「……どれでしょうか」
「あの、隅のところ──」
言って、ルークは片腕を上げ、窓の向こうを指し示した。それは、私と隣り合っている方の腕であったので、座席に肩を寄せ合っている関係上、触れ合った箇所から布擦れの音と感触が伝達する。この静寂と薄闇、そして神秘的な景色に包まれていると、そのようなことが、何故かいつもより明瞭に感じられてしまう。
「少々、お待ちを」
私は努めて平静を装いながら、手元のレバーを操作した。この暫しの海底旅行の目玉は、手元のレバーで小型艇のサーチライトを自由に操作し、思いのままに探索活動が出来ることなのである。予め設定された進路を進むだけとはいえ、このようなシステムがあれば、乗客も退屈せずに済むというものだ。まるで自分の意思で、海底探検をしているような気分に浸ることが出来よう。
こういう珍しい移動手段に乗り込む場合、おおむね少年というものは、自分で運転したいなどと無理を言うものであるが、ルークはそんな我儘で保護者を困らせることはなかった。むしろ私の方が、密かにその願望を抱いていたくらいである。いくつになっても、乗り物を操縦するという体験には心躍るものがある。ことに、それが珍しいマシンであるとなれば、なおのことである。
世界に名だたる頭脳集団POG幹部の権力を有効活用して、操縦桿を握れないものかと私は画策したが、ルークの手前、身勝手な行動は慎むことにしたのだった。せめて、その代わりというわけではないが、ライトの操作権は私が専門に掌握している。スリルには欠けるが、これはこれでなかなか楽しいものである、というのが新たな発見といえば発見だろうか。
手元のレバー操作と連動して、海底に投射された光線が、滑るように移動する。サーチライトは、狙いを違わず、ルークの指した方向に広がる闇を捉えた。
「……沈没船の、残骸。でしょうか」
陽光の届かぬ深海の闇の中、人工灯に白く照らし出されたのは──崩壊した木箱。海藻のまとわりついたあれは、食料品を詰めていた荷袋だろうか──あちこちに折り重なる無残に破砕した木片が、その災禍の苛烈さを物語る。おそらくは、嵐に巻き込まれでもして、そのまま海の藻屑と消えたのだろう。果たして、乗員らは無事に脱出出来たのだろうか。いたましいことであるが、この様子では、おそらくは──胸の内で、死者の魂の安らぎを祈っている自分に気付いて、私は苦笑した。
「あっ……魚だ」
小さく身を乗り出して、ルークが弾んだ声を上げる。なるほど、沈没船の残骸の間を、見慣れぬ細長い魚が悠然と漂っている。重力を感じさせぬ泳ぎはなめらかで、木片の隙間を器用にくぐっていく。朽ち果てたものと、今を生きるものと──それは、なかなかに絵になるコントラストであった。
「ここが、彼らの巣なのでしょうね。木片は、丁度良い隠れ家になります」
「それじゃ、あの下にも、隠れてる?」
窓に貼りつくばかりにしてはしゃぐルークの姿に、私は自然と笑みをこぼした。もっと周囲を探索してみようと、ライトを方向転換させようとした、そのときだった。
「────!」
手元のレバーを放り出して、隣の少年を抱き寄せたのは、咄嗟の反射的行動であった。細い身体を腕の中に収めるとほぼ同時に、「それ」は起こった。
「う、わ……っ」
船体が、強く横殴りにされたかのような衝撃だった。危うくベンチから投げ出されかけたルークの、小さな悲鳴が上がる。私は彼を離さないように、腕の中にしっかりと抱き締め直した。頭上に点灯した赤色灯の光が船内を染め上げ、ものものしい警告音が緊急事態を告げる。
岩場か何かに船体を擦りつけているのだろうか? 最初の一撃ほどではないが、小型艇は上下にがたがたと揺さぶられ、それまでのスムーズな水中移動の面影もない。せめて身体に受ける衝撃が少なく済むよう、私は覆い被さるようにして身を寄せ、年若い主人を守った。
《なんだ、何が起こっている!?》
《わ、分かりません……制御不能です! 間もなく限界深度! こ、このままでは……!》
《なんとかして浮上させろ!》
スピーカーから聞こえる遣り取りは切迫し、それも激しい雑音にかき消されがちになる。緊急事態──脱出口はどこか。反射的に避難ルートを探しかけて、私はその無意味に気付いた。扉を一枚隔てた外は海底である──どこへ逃げられる筈もない!
《気圧……酸素レベ…低下……めて危険……!》
途切れ途切れのアナウンスが、焦燥と危機感を煽る。脳裏を過ぎるは、先ほど目にした、沈没船の見る影もない残骸。水圧に負けて、ぐしゃりと潰れる小型艇の、哀れな最期を幻視する。どうすればいい──どうすれば。
「……なにか、いる」
鼓膜を打ったのは、ほんの小さな声であった。警報と雑音が響き渡る船内で、それが焦る私の耳に届いたのは、偶然か、それとも、彼の言葉の一つでも聞き逃すまいとし続けてきた、かつての訓練の賜物か。
見れば、腕の中のルークは、顔を上げてじっと窓の外を見つめている。この状況下で、その白い面からは、慌てた様子も怯えた気配も感じられない。ただただ、落ち着き払っている。
年若い少年とはいえ、さすがはかの頭脳集団の頂点の座にあった指導者であるということか。その冷静な姿を見て、私は少しばかり余裕を取り戻した。確かに、むやみに慌てふためいたところで、事態が好転するものとは思えない。年下の少年に教えられてしまうとは、成人として恥ずべきことであるかも知れないが、私はルークの態度によって安堵を得た。そして、少年の指す「なにか」に目を凝らしてみる。
既にサーチライトは機能しなくなっていた。試しにレバーを動かしてみるが、闇に投射される白い光はどこにも見当たらない。この衝撃で機器が破壊されたか、あるいは、余計な動力を削減すべく、コントロールセンターの方で回路を切られているのだろう。窓の向こうは、深遠なる闇の世界である。
いったい、この先に何が──それをルークに問おうとして、しかし、これは達成されなかった。船体が再び、突き上げるように大きく揺れたのだ。思わず目を閉じ、ルークの頭と背を抱き締める。
《来たぞ、奴だ!》
《潜水艇防御装置、稼動します!》
防御装置──確か、有事に備えて、船体の外壁には電撃による防衛機構が備わっていると聞いた。連続的な破裂音、その度に、閉ざした瞼を通して、鋭い光が瞳を射抜く。強烈な電撃でもって、いったい、何と戦っているのか。「奴」とはいったい──
「……オクトパス!」
鼓膜を打ったのは、密やかな驚嘆の声であった。それにつられて、おそるおそる目を開ける。腕の中のルークは、瞬きもせずに窓の方を見つめている。その視線を追って、私が窓の外に見たものは──生々しくうごめく、巨大な触手。窓に貼りつく、グロテスクな吸盤。深海に潜む、海の魔物──巨大なタコが、その触手で船体を捕らえていたのだ。
連続的に苛烈な電撃を喰らって、怪物はとうとう、力尽きたようであった。ずるずると吸盤が剥がれ、触手が離れていく。その巨体は、ゆっくりと海底へ沈んでいった。
《撃退したか!?》
《は、はい…! しかし、もう予備電源が……引き上げるまで、ぎりぎり保つかどうか……》
続いていた震動は治まり、小型艇は水中を浮遊する元の在りようを取り戻した。しかし、コントロールセンターで交わされる遣り取りは、依然として切迫したものだ。安心するにはまだ早い。知らず、私は緊張に喉を鳴らした。
もしも、動力不足となれば、小型艇はあの怪物と同様に、ゆっくりと深海へと沈む運命である。救援は間に合うだろうか──光の届かぬ闇の中、小さな機体を見つけて掬い上げることが出来るだろうか。果たして、それまで船内の酸素は保つのだろうか。怪物の攻撃によってダメージを負った船体が、水圧に負けてへしゃげる方が、早いのではなかろうか──思い浮かぶのは、いずれも最悪の状況ばかりであって、背筋を怖気が走る。
逃げ場のない密室、外は絶望の闇──小刻みな腕の痙攣を隠そうとして、しかし、どうしても止めることが出来ない。
ここで──終わり、なのか。どうして、こんなことになってしまった。腕の中の小さな存在を、私は必ず守ると、誓ったというのに──こんなところで。
神の書をめぐる一連の戦いがひと段落して、すっかり油断していたのだろう。その危険性を吟味することもなしに、こんなものに気軽に乗り込んでしまった、愚かしい過去の自分を絞め上げてやりたい。事態をどうすることも出来ない自分のふがいなさに、視界が滲んだ。
ぎり、と拳を握り──その爪が、辛うじて皮膚を突き破る前に止まったのは、震える腕にそっと触れるものがあったからだ。それは、ほんの僅かな接触でしかなかったが、明瞭に感じ取ることが出来た。
「……ルーク、様」
「……大丈夫」
腕の中の少年は、そう言って、私の腕を軽く握った。それだけで、不快な腕の痙攣は、嘘のように治まっていた。
「大丈夫だ」
もう一度、ルークは小さく囁いて、じっと私を見上げた。ものものしい赤色灯の下でも、その淡青色の瞳は、変わらず澄んだ光を宿していた。状況も忘れて、私はその瞳に惹きつけられた。
うるさく鳴り響いていた鼓動が、少しずつ、鎮まっていくのを感じる。ぎこちなく、私は片手を持ち上げて、少年の白金の髪を梳いた。柔らかく、温かな感触。いつも頭を撫でられるときそうするように、ルークは心地良さそうに目を細める。
ああ──この瞳だ。
この瞳が、私を生かす。
きっと、最期の刻まで。
きつく握っていた拳を解いて、私は出来る限りの穏やかさでもって、少年の手首に指を掛けた。振り払われる気配はない。そのまま、場違いなほどに丁重な動作でもって、白い手を引き上げる。みずみずしい肌に包まれた、しなやかなルークの右手──その甲に、私はおもむろに唇を寄せた。なめらかなものに、唇が触れた瞬間、しんと音が静まり返った気がした。
触れ合せていた時間は、一秒もなかったであろうが、私にとっては永遠にも等しい時間であった。目元から落ちる滴が、ルークの手を濡らしてはいけないから、その前に離れた。
代わりに、私は今一度、少年の身体を抱き寄せた。ルークは抵抗することなく、こちらの胸に身をもたれてくる。いつもの重さと、温かさ──慣れ親しんだ感覚を丁寧に味わって、私は自然と目を閉じた。微かに鼻腔をくすぐる甘やかな香りを追い求めて、柔らかな髪に頬を擦り寄せる。
──あなたを、最期まで、私は。
《限界深度突破! こ、これ以上は……!》
切迫した音声を背景に、心は極めて落ち着いていた。恐れることは何もない。私は私の最も大切な存在を、この胸に抱いている。ルークもまた、応じるようにして、その腕を私の背中へと回した。私は、ルークを守り──ルークは、私を赦すだろう。
たとえ、このまま二人、深海へ沈み行こうとも。
腕の中の少年の白い面を、私はそっと掬い上げた。ルークもまた、思いは同じなのだろう。眠りに落ちたかのように、安らかに目を閉じた無垢な表情は、いっそ神聖ですらある。指先で触れた唇は、柔らかくみずみずしい。その感触だけ、私は覚えておきたかった。首を傾げ、引き寄せられるようにして、唇を触れ合わせようと──
《こ、これは…!?》
瞬間、辺りは眩い光に包まれた。ルークは目を開け、窓の外を見遣る。つられて私も、そちらに顔を向けた。
「…あぁ、……」
それは、あまりに幻想的な光景だった。分厚い球面の向こう、深遠なる海底から、いくつもの光の粒が舞い上がり、船体を包んでいく。白く、またほのかにイエローグリーンに点滅する光の泡は、見る者に温もりと安堵を感じさせた。その正体も不明であるのに、これは害を為すものではないと、直感的に理解出来た。なんて温かく──柔らかい。あまりの美しさに、私は声を失って、光の円舞に見入った。
《船体が……浮上していきます…! 基準深度通過…コントロールが戻りました!》
《よし、そのまま引き揚げろ!》
歓喜と安堵に満ちたコントロールセンターの遣り取りが、遠く耳に聞こえる。私は、ずっと張り詰めていた精神の緊張を解いた。濡れた目元を、さりげなく拭う。安堵に包まれて、ともすればまた、目頭が熱くなりそうだった。
窓の外の光景をじっと見つめるルークの、光に照らされた白い面に、静かに話し掛ける。
「……不思議なことが、あるものですね」
「うん。……来て良かった」
このような事態に遭っていながら、「来て良かった」と言えてしまう、ルークはやはり、敬愛すべき私の主人である。実感して、私は自然と笑みがこぼれた。ルークもまた、小さく微笑んだ。深海の闇から、澄み切ったアクアマリンのグラデーションを経て、輝くばかりの水面へ──そして、小型艇は眩しい陽光に包まれた。
ハッチが開き、密室から解放された私たちは、某国の最新鋭の海上基地に降り立った──のではなかった。
「お帰りなさいっス! お楽しみいただけたようで何よりっス!」
「お疲れではありませんか? どうぞ、お飲物を」
潜水艇から降り立った私たちを出迎えたのは、そんな部下たちの拍手と歓声であった。周囲を取り囲むのは、リアルな、しかしそれゆえに、計算し尽くされた映画セットを思わせる、作り物の岩山。視線を転ずれば、真新しいガラス窓の輝きも美しい土産物屋、カラフルな幌を張った屋台、岩山を削り取った空間を活かしたレストランが、それぞれに存在を主張している。どこからともなく鳴り響くのは、いかにも浮かれたBGMだ。
POGを運営主体として近日オープン予定の、夢と冒険のテーマパーク──東京パズルランドシー。その目玉となる予定のアトラクション、『海底2万パズル』の、今日は内覧会であった。旅の途上にあった私たちは、是非にと請われて一時帰国し、この新生POGを代表するともいえる施設を視察することにしたのだった。
『海底に眠る2万種類のパズルの謎を解こう! 小型潜水艇ノーチラス号に乗って、神秘の海を探検! そこに隠された謎とは…!?』──そんなロマン溢れるアトラクションと聞いて、私たちは、ノーチラス号なる奇妙な小型艇に、意気揚々と乗り込んだのだ。その艦名は、古典語でオウムガイを意味し、貝殻の描く螺旋は、神聖なる黄金比を表すPOGのモチーフとして馴染み深い。パークの目玉のアトラクションとして、力を注ぐのも分かる話である。ともあれ実際は、この通り、パズルどころではなかったのだが。
部下から手渡された紙コップの、鮮やかに着色されたオレンジジュースには口を付けずに、私は呟く。
「……確か、新アトラクションのオープニング宣伝動画に使う、とのことでしたか」
「いやあ、おかげ様で良い絵が撮れたっスよ。これで千客万来、間違いなし!」
「その、最後の辺りは、少し……残念ながら、カットさせていただくかも知れませんけれど……で、でも、素晴らしかったですわ! 真に迫ったお二人の表情…!」
ダイスマンは自慢げに胸を張り、メイズは何故か頬を染め、フンガは大きく頷いている──彼らは、ことの重大性を認識していないのだろうか? 私はカップを持ち直すと、努めて冷静に、彼らに苦言を呈することにした。
「しかし、あなたがた……それどころではないのでは? 無事に帰還出来たから良かったものの、あのような事故が起こるようでは、実稼働は危険過ぎるでしょう」
先の防御装置の一撃で、我々は難を逃れることが出来たものの、怪物を仕留めたという証拠はないのだ。いつまた、あのおぞましい触手でもって襲いかかって来るものか分からない。相手が突然変異体の一匹であるのか、それとも群棲しているのかさえ不明である。
タコという生き物は、高い知能を有することで知られる。試行錯誤を重ねるうちに学習し、より巧妙な攻撃を仕掛けてくるかも知れないのだ。防御装置を備えてさえいれば安泰というものではないだろう。何かあってからでは遅過ぎる。ヒトとパズルと明るい未来をモットーに掲げる、夢のテーマパークで事故など、まずあってはならない。安全管理はどうなっているのか。
追及に対し、すぐさま謝罪の言葉が出るかと思いきや、何故か、彼らはきょとんとしている。おそるおそる、といったように進み出たのは、ぎこちない笑みを浮かべたダイスマンである。
「……え、ええと。何か不具合が? あ、ライトが上手く回らなかったとかっスかね?」
見当違いのことを言う彼に、盛大な溜息を吐いてやりたい気持ちを堪えて、私は根気よく説明した。
「ですから……コントロールが利かなくなったり、怪物に襲われたり……ルーク様に万一のことがあったら、どうするつもりだったのですか。まったく、無事に帰って来られたのが奇跡ですよ」
瞬間、彼らの表情に、何かに気付いたような色が走った。驚くような、少し気まずげなような──しかし、それが何であるのかは、私の知ったことではない。彼らは慌てたように、大げさな身ぶり手ぶりでもって、何事かを告げてくる。
「あ、あの、それは演出でして…」
「というか、その、実際は1ミリも海に潜ってなんていな」
「僕は満足だよ」
しどろもどろの彼らの言説を遮ったのは、爽やかな少年の一声であった。手すりにもたれ、白金の髪を潮風に遊ばせながら、ルークは朗らかに微笑してみせた。
「刺激的だったよね……特に、あの大タコ。うん、近くにたこ焼きの屋台も設置したら?」
「それは良いお考えです! さすがはルーク様!」
少年の提案に、部下たちは両手を合わせて感激のほどを表明した。どうだろうか、タコの怪物に襲われた後にたこ焼きとは、私には悪い冗談のようにしか思えないのだが──単に、ルークがあのファストフードをことのほか気に入っているというだけの、個人的理由で推薦しているとしか思えない。それはそれで、別に構いはしないのだが。
エキサイティングな海底旅行を反芻するように目を閉じて、ルークは詠嘆する。
「ちゃんと、海底に2万種のパズルも設置されていたし……これは人気が出そうだ。そう思うだろう、ビショップ?」
「はっ。……ルーク様がそう仰るならば」
なにかがうやむやにされたような気がしないでもないが、忠誠を誓った主人の言葉に対して、異論のあろう筈もない。私は恭しく一礼を施した。
なるほど、確かに、あのような神秘的な海底世界を見物出来るというのならば、それは多少の危険を冒してでも、挑む価値があるというものだ。東京湾がかように澄み切って美しく、パズルや沈没船の残骸がオブジェのように散在し、不思議な魚たちや怪物が潜む未知の世界であるとは、私も自分の目で確かめなければ、およそ信じられなかっただろう。この体験を、広く人々に共有して貰いたいという思いは、何も私がPOGの一員であるがゆえの商業意識のみに由来するものではあるまい。どうやら、なんだかんだといって私はそれなりに、このアトラクションを気に入ってしまったらしい。
そんな側近に、ルークは優しげな視線を向けて頷くと、オレンジジュースのカップを呷った。満載の氷で冷やされた甘ったるいジュースを、美味そうにごくりと喉を鳴らして飲み下す、年若い少年の姿は実に清々しい。まるで、友人と遊園地に遊びに来てはしゃぐ、無邪気な子どものようだ──「ようだ」ではなく、そのものといった方が精確だろうか。陽光の下、こんな風に笑うルークを目の前にすることが出来るとは、かつては思いもしなかった。自然、私は目を細めて、白い少年の輝くばかりの姿を見守った。
そうこうしている間にも、部下たちは早速画面を覗き込んで、先ほどの潜水艇の内部に設置されていたカメラによる映像を確かめている。一部始終が撮影される、とは乗船前に聞いてはいたが、まさかあのようなアクシデントの中でもカメラが回り続けていたとは、驚きである。それで臨場感溢れる映像が撮れたというのならば、組織の一員として喜ぶべきことであろうか。
わいわいとディスプレーを指して、部下たちは随分と盛り上がっている様子である。少し気になって、私は彼らの背中に声を掛けた。
「それにしても、一般の方ではなく私たちがモニター、そしてプロモーションムービー出演など……内輪で完結しすぎではないでしょうか」
警報が鳴った瞬間の様子をコマ送りで鑑賞していた彼らは、こちらの疑問に対し、とんでもないと首を振る。
「いやいやいや、お二人だからこそのあのリアクションっスから! 一般人じゃ、こうはいきませんって。このPVをもってすれば、東京パズルランドはファミリーからカップルまで楽しめる夢の世界ってアピールばっちりっスよ!」
「そうですわ、大人からお子様まで、お二人のように親子仲良く……い、いえ、ご兄弟……ご友人……恋人……主従……? ええっと」
「とにかく、高い注目度は期待出来るかと」
3人が3人揃ってそう言うということは、そういうものと受け取って良いのだろうか。まさか己の姿が、こうして全世界に配信されるものとは、予想外の展開である。街中を歩けば、男女を問わず、他人から熱烈な視線を向けられることに慣れている私であるが、画面越しに見つめられるというのは、少々奇妙な感覚を覚える。どうもフィルムというものには少しばかり、黒歴史とも言うべき苦い記憶があるのだ。
「まあ……名前を言ってはいけないあの映画の二の舞にならなければ、それで何よりですね」
「んん? パズラっスか?」
「……Sレベルの最高機密をあっさりと口にしないでいただけますか」
上司からの苦言を気にも留めずに、若者は意気揚々と園内マップを広げて見せる。
「パズラのアトラクションもあるっスよ! 伝説の腕輪を求めて古代遺跡をトロッコで爆走、火責め水責め岩責めののち、ぐるんと一回転…乗っていかれます?」
「結構です」
私は即座に断った。万が一にも、向こうで土産物を見物しているルークにまで話が伝わったら一大事である。好奇心旺盛で、今一つ危機管理意識に欠けるルークのことだ、初めての乗り物に興味を示してしまわないとも限らない。
かような恐ろしいものに、我が唯一の主人を乗り込ませるわけにはいかないのだ。先のようなアクシデントが、いつ起こるとも知れないではないか。同じ危険な状況といって、それがパズルであれば対処のしようもあるが、純然たる物理現象に手出しの出来る筈もない。海底の体験で、十分に学習済みである。
「えー勿体ないっスよー? コレ、オープンしたら一番人気間違いなしのアトラクションなのにー」
青年は文句を垂れていたが、こればかりは譲るわけにはいかない。スピードを肌に感じるという行為は、私も嫌いではないが、というか好きな方であるが、回転だの落下だのは良くない。断じて良くない。人の道に反する行為とさえいって良い。
ルークには、そのような刺激はまだ早すぎる。私の愛車の後ろに乗せて、少しずつ、そう、時速20キロ辺りから慣らしていくのが一番であろう。そうして、やがては身体全体で風を切り拓きながら荒野を走り抜ける喜びというものを、教え込んでやりたいと思う。もちろん、私の後ろで、腰にしがみつかせながら。
私は彼のために、二輪車だろうが潜水艇だろうがティルトローターだろうが、命じられるままに操縦してみせよう。地の果て、海の底、空の向こう、否それどころか、宇宙の彼方まで、私はルークに付き従い、彼の手となり足となり、傍に在り続けるだろう。
誓ったのだ、この少年と共に旅することを──そう、それは人生という名の旅であり、辛く険しい道のりも二人で手を取り合い力を合わせて切り拓くのであり、眩しい太陽を、鮮やかな夕焼けを、満天の星空を、神聖な夜明けを、私たちは身を寄せ合いながら繰り返し眺めるのだ。同じ景色を見つめ、そして、お互いを瞳に映す──ああ、そして私たちの旅とは、人生とは、ここから一歩ずつ進み出すことを知り──
「ね、あれは?」
溌剌とした少年の声が、私を現実に引き戻した。見れば、いつの間にか傍に来ていた我が年若い主人は、ダイスマンの袖を引いて、何事かを訊ねている。愛らしい仕草である。16歳の男子のすることではないだろうという世間からの声など、私には聞こえない。純白のジャケットから細い指を覗かせ、甘えるように肘に絡める仕草に、どうして鼓動の高鳴りを覚えずにいられるだろう。出来ることならば、それが私のためだけに向けられたものであったならば、更に喜ばしいことであるが、ともかく、我々は彼の指した方を見遣った。
「おお、お目が高いっスねルーク様! あれこそ、東京パズルランドシーの裏名物……愚者の塔(タワー・オブ・フール)っス!」
「……ちょっと待ってください」
大きく手を広げてポーズを取るダイスマンと、目を丸くしているルークの間に割り込むかたちでもって、私は異議を申し立てた。遣り取りが少年に聞こえぬよう、声のボリュームを最低限に落として耳打ちする。
「……どういうことです? POGは変わったと──これからは、“ヒトとパズルと明るい未来”をモットーに、健全なるパズル啓発活動を行なう、その一環としての、この施設であった筈でしょう。そこに、あの忌まわしい愚者のパズルなど、」
「いやいやビショップ様。いやいやいやいやビショップ様。考えてもみてください、ヒトは何を求めて遊園地に来るんだと思います? 非日常っス。スリルっス。ちょーっと危険なくらいが、刺激的で楽しいってもんっスよ」
「いや、しかし」
「行ってみようよ」
私の肘に指を掛けて、愛らしく首を傾げたルークの一言が、こちらの続ける筈だった言葉を奪い去った。完全に目を輝かせている。断る術は──ない。
道化師に先導されて、我々は因縁の塔へと足を向けたのだった。