さよならノーチラス -2-
──正直なところ、私は密かに案じていたのだ。まるで、己の過去の過ちを再現して、傷口を掘り返すような、そんなものに相対して、ルークは果たして、大丈夫なのかと。つまり──耐えることが、出来るのかと。
もちろん、側近の私とて、彼の犯した過ちは、償うべきものとして客観的に評価しているつもりだ。腕輪に呑みこまれていたとはいえ、ルークに全く、罪が無かったと言うことは出来ない。彼は過去の己に対面し、まっすぐに向き合って、悔い改めねばならない。だからこその、贖罪の旅である。
それは、痛みを伴うが、しかし、逃げてはいけない。ルークが、ルークとして在るために。受け容れなくてはならない、痛みだ。
分かっている──重々承知している。
しかし、なにも、今でなくても良いではないかと思うのだ。もう少しだけ、ルークが旅を通して、強い心を養ってからであっても、過去に向き合うのは遅くはないのではないか。折角、自然に治癒しかけていたものを、解決を急ぐばかりに余計な手出しをして台無しにしてしまうなどということは、あってはならない筈だ。
あまりに過保護であるとして、笑われてしまうかも知れないが、どうしても不安を拭うことは出来なかった。どうか、ルークがこれ以上、傷つかずに済むようにと、それだけを祈りつつ、重い足を運んでいた。
愚者の塔(タワー・オブ・フール)とやらは、見たところ、クロスフィールド学院内に設置された愚者のパズルの塔とそっくりそのままであった。重厚な石造りの塔は、レプリカとはいえ、どこか禍々しい雰囲気でもって見る者の不安感を煽り、数知れぬ挑戦者による血塗られた歴史を彷彿とさせる。
『塔を上りし者に福音の鐘は鳴る』──入口のレリーフに刻まれた文言も、ご丁寧にそのまま再現されている。アトラクションの仕様としては、地下迷路はカットされ、塔に這入ってリフトに乗るところからコースが始まるらしい。
「リフトを乗り継いで最上階を目指す……構造も同じですね。しかし、まさかあの回転歯車の仕掛けは」
「大丈夫っスよ! 我々はヒトを傷つけるような野蛮な組織じゃないんスから」
どこかで聞いた台詞であることについては触れずに、私は頭上を仰ぎ見た。同じ構造のフロアが幾重にも連なった、その頂上に荘厳な釣鐘を認めて、軽く目を眇める。部下の言葉を信じるならば、このパズルにトラップは仕掛けられていないということになる。それでは、緊張感という、本来のパズルの面白みを構成する重要な要素の一つが抜け落ちてしまうような気がするが──などと思案していると、「体験してみるのが一番!」と、半ば強引にリフトに押し込まれた。ルークと二人で。
重く軋んだ音を立てて、鳥籠めいたリフトがゆっくりと上昇する。オリジナルのパズルでは、その用途上、一人乗りであった筈だから、そこはペアで楽しめるようにと改造を施したらしい。それにしても、狭い。必然的に身体が密着し、首のあたりを柔らかな白金の髪がふわふわと掠めてくすぐったい。
と、私は俯いたルークの両手が、小さく拳を握っていることに気がついた。どこか頑なな空気を纏って、少年は肩を強張らせている。それが、小刻みに震えているように見えたのは、あるいは、ただの気のせいであっただろうか。
「……ルーク様」
髪に隠れて、表情は見て取れない。私は自然と、少年の肩に手を置いた。何も言わずに、ルークはこちらの胸に静かに身をもたれた。鎖骨の辺りに、ちょうど額が押し当てられる。ほのかな温度と重さを、肌に感じた。
こういうときのルークの内側を支配するものが何であるのか、それくらいのことは、私も承知していたから、あえて言葉は掛けなかった。ただ、安心させてやるように、柔らかな髪をかきまぜると、きゅ、と腰にしがみついてくる。まるで暗闇に怯える幼子のような、そんな様子を私は痛ましく見つめて、やはり時期尚早であったのではないかとの思いを強くした。
今、ルークの胸の内には、あの忌まわしいパズルにまつわる記憶がまざまざと蘇っては、柔らかな傷口を抉っている筈だ。一人で塔を上り、横たわった石の床の冷たさ。刻一刻と迫る、決別の時。ほんの僅かの間の、友情の交流。何もかもを炎の渦へ突き落とす、絶望。
すべては、ルーク自身の為したことだ。いかなる言い訳も、通用しない。その痛みは、当然の報いとして──享受しなくてはならない。だが、そのために、ここでルークを突き放すことは、私には出来なかった。小さく震える少年の肩を、掴んで引き離すことは、出来なかった。
寒い、と掠れた声が吐息交じりに紡ぐ。確かに、陽光の射さぬ石造りの塔の内部は、外界よりも幾分か体感温度が低い。とはいえ、それだけの理由によって、ルークが震えているのでないことは明らかであった。支えてやらねば、今にも、足下から崩れ落ちそうな気がした。
私は、彼に分かるように、両腕でもってしっかりとその身体を抱き締めた。
「大丈夫ですよ。……怖いものは、もう、何もありません」
耳元に囁きかけ、静かに背中を撫でる。この温度が、少しでも、ルークに伝われば良いと思った。凍える彼を、包んで温めてやることが、出来れば良いと思った。それは、誰より近くに在りながらも、今まで私が彼に与えてやることが出来ずにいたものだ。
その空白を、今更埋めることが出来るとは思わない。しかし、これからは違う。
私はこうしてルークを支えるために、共に旅に出たのだ。私がルークの隣に立つのは、彼を護るためであり、私に腕があるのは、彼を抱き締めるためであり、私に脚があるのは、彼を支えるためであり、私に声があるのは、彼を慰めるためであり、私の胸が熱いのは、彼を温めるためだ。
あなたのために、私がいる──それを伝えたくて、背中をゆっくりと撫でさする。
「大丈夫、ですから」
先ほど、深海の小型艇で、焦燥に満ちた私の胸の内を、ルークは大丈夫だと言って鎮めてくれた。同じように、私もまた、少しであっても構わないから、この少年の心を軽くしてやりたい。安堵の材料として、私をすっかり、使い切って欲しいと思うのだ。
「…………」
腕の中で、小さくルークが頷いたような気がした。
リフトは7階に到達し、多少の振動を伴って停止した。
「……私が先に参ります。ここでお待ちを」
そう言い残して、ルークが頷くのを確認すると、私は慎重な足取りでもってリフトを降りた。さて──オリジナルでは、ここで鋭い刃を備えた巨大な歯車が迫る仕掛けとなっていた。恐怖と焦燥を煽り、解答者のまともな判断力を奪う、忌まわしいトラップである。
逆に言えば、これをクリアできるということは、そうした恐れや焦りをまったく感じることのない人間──ファイ・ブレインであることの証明になる。こうしたパズルで鍛え上げれば、理想の頭脳を持つ存在を、きっと作り出すことが出来る。我々はかつて、そう信じていた。今となっては、愚かしいばかりである。
いずれにしても、腕輪も持たぬ凡人であるところの私は、職務上多少の自己統制の術を心得ているとはいえ、人並み程度の警戒心や恐怖心を備えているのであり、いったいいかなる仕掛けが施されているものかと、心身に緊張が走るのは当然のことである。一般客向けのアトラクションであることからして、危険性のないだろうことは分かってはいても、先が読めないものに挑むという不安に変わりはない。
一つ深呼吸をして、覚悟を決める。私の後にはルークがいるのだ。彼を危険にさらすような失態は許されない。たとえこの身を犠牲にしてでも、我が主を護る、それが私の役目である。出来る限りの心構えをして、いざ一歩を踏み出した、その瞬間。
「あっ……」
背後で小さく聞こえた少年の声は、単なる驚きの表現であったのか、それとも、先を行く側近に対しての警告のつもりであっただろうか。たとえ警告であったとしても、それが意味を為すことはなかった。ルークが声を発したときには、壁面のスリットから勢いよく噴射した冷水が、狙いを違わず、挑戦者の顔面を直撃していたからだ。
「…………」
ぽた、ぽた、と滴る水が、足下を円く濡らしていく。頭から盛大にかぶった水の、髪から、顎から滴るままに、私はその場に立ち尽くしていた。何が起こったのか分からない。否、理解はしているが、認めることが出来ないといった方が精確だろうか。どういうことだ──これは、どういう──
「どうっスかー? これなら安全でしょー! ははっ」
階下から、自慢げな部下の声が響いて聞こえる。大丈夫ですか、と案じるような者の声も交ざっているが、それもどこか、必死に笑いを押し隠す雰囲気が感じ取れる。
「……ビショップ」
背後からのどこか頼りない呼び掛けによって、私はようやく硬直状態から抜け出した。素早く踵を返すと、不安げな表情で今にもリフトを降りかけているルークを、有無を言わさずその中に押し戻し、自分もまた乗り込む。
リフトは再び、地上へと降下していった。その間、乗客の間に会話はない。遣り取りといえば、白い手がそっと持ち上がって、私の濡れそぼった髪に触れようとするのを、手首を掴んで押し止めた程度である。無言のまま、リフトは地上に到着し、私たちは大笑いで腹を抱えている部下たちに迎えられた。
「あっはは、ビショップ様、見事にやられましたねえ! あそこまで真正面とは、いやはや、僕らとしても想定外っス。さすがはビショップ様、オイシイとこ持ってくっスね!」
喜んで手を叩いている道化の青年の方へと、私は迷わず足を向けた。他の部下から差し出されるタオルを手に取ることもせずに、ゆっくりと歩み寄る。浮かれきった彼は、こちらの接近の意図に気付きもしない。
「いや、こいつは最高のPVが出来そうっスよ! まさしく、水も滴るイイ男ってわけで……」
「ダイスマンさん」
まだ調子の良いことを言って続けている青年に、私は穏やかな声でもって呼び掛けた。珍しく敬称付きで呼ばれた道化師は、はい? と不思議そうにこちらを見て、そして、表情を凍りつかせた。彼の顔から表情と血の気が引いて行く代わりに、私は極上のアルカイック・スマイルを浮かべた。状況が状況であれば、それが老若男女を問わず、見る者を蕩かせてやまないことを、自分でも経験的に知っている。そのとっておきの微笑でもって、静かに告げる。
「……後で、お話があります」
「…は、……」
息の抜けるような声でもって若者は応じ、もしかすると魂も抜けてしまったのかも知れないが、私はあくまでもにこやかな表情を保ったまま、それでは、と会釈して離れた。周囲から、おそるおそるといった様子で差し出されるタオルを今度こそ受け取り、ルークの傍へと戻る。
「水滴が飛んでしまったでしょう。失礼いたしました」
言って、私は広げたタオルを少年の頭にかぶせようとした。降下する狭いリフトの中で、私の髪を伝った水滴は、ルークの顔や肩を少なからず濡らしてしまった筈だ。自分の顔や頭を拭くよりも、主人の方が優先されるのは当然のことである。
だが、その動作は、結局完了しなかった。ルークが緩く首を振って、タオルを押し戻したからだ。
「僕はいい。……お前の方を、拭かないと」
そのまま、ルークはタオルを私の頭に掛けた。上から手で押さえ、水分を吸わせていく。背伸びをして、真剣な眼差しで髪を拭っていく少年の行動に、私は少なからず驚きを覚えずにはいられなかった。
「ルーク様、そのような……」
「疲れる。座れ」
短く命じられるままに、私は条件反射的にその場に跪いた。跪いてから、それはルークに髪を拭かれるという状況を受け容れることとイコールであると気付いたが、既にどうしようもない。ルークはその場に膝をついて、作業に丁度良い位置関係に満足げな様子である。こうして、主人に頭を拭かれるという驚くべき体験を、私は畏れ多くも享受したのだった。
タオルを扱うルークの手つきは、はっきり言って、上手なものではなかった。手際が悪く、まだ毛先からぽたぽたと落ちる滴が止まないし、そんな風にごしごしと擦っても、内側までは拭いきれない。布地の濡れた部分と乾いた部分を、適当にずらすなり裏返すなりして効率的に使うという発想もないらしい。あんなに器用にパズルを制作する、その同じ手で、どうしてこんなにぎこちないのだろう──答えは簡単で、彼は他人の髪どころか、自分の髪でさえ、その手で乾かしたことがないためだ。
いわゆる日常動作というものは、日々繰り返すがゆえに慣れて上達していくのであり、試行錯誤の積み重ねで成り立っている。その「日常」という文脈に、そもそも位置していなかったルークが、不慣れな仕事に手間取るのも無理はない。どう考えても、私が自分でした方が効率が良いのは明らかであった。
しかし、私はルークの手からタオルを取り上げようとは思わなかった。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられ、引っ張られながら、思わず笑みがこぼれるのを止められなかった。
「……こんなところで、いいかな」
「ええ、十分です。ありがとうございました」
本当は、十分ではない。乱された髪を整えるべく、軽くかき上げてみると、水滴が指を伝い下りて、まだ拭い足りない部分がよく分かる。だが、私の気持ちの上では、これ以上ないほどに満たされきっていた。
ルークが手ずから、この髪を拭ってくれた──ぎこちなく動く細い指の感覚を、思い出すだけで胸にこみ上げるものがある。頭から盛大に水をかぶるはめになったことも、今となっては、寛大な心で許せそうな気がするほどだ。否、むしろ、感謝したいくらいである。後ほどのダイスマンとの面談は、当初の予定を変更して、彼を労う内容としよう。それ以外にないではないか。
初めての仕事を成し遂げたルークは、どこか誇らしげな様子で、こちらに可憐な笑顔を見せる。
「濡れたのをちゃんと拭いてやるのは、主人の責任だから」
少年の言葉に、私は胸の内で首を傾げた。さて、主従とはそのような関係性を持つものであっただろうか。己の仕える相手の手を煩わせるなど、従者としてはまずあってはならぬ、恥ずべきことではないかと思うのだが。少なくとも、年若い少年の忠実なる従者で在り続けようとしてきた私の実感としては、そういうことになる。
否──それとも。浅薄な己の考えにとらわれかけたところで、私は気付いた。主従関係のかくあるべき姿を語ることが出来るのは、なにも仕える側だけに限った話ではないのだと。私が従者で在り続けたのと同じだけの間、ルークは主人として在り続けたのである。彼なりの主従観とでもいうべきものを確立するのに、それは、十分なだけの時間であったことだろう。そうして発されたルークの言葉に、私がそれは違うなどといって反駁する権利はない。
類まれなる頭脳を有する聡明な少年の発する言葉は、時に、凡人の理解を超えたところにある。表層の意味合いだけで、理解した気になるのは浅はかであるとしかいえない。考えてみようではないか。そう、たとえば、頭を拭くという行為を通じて、親密なコミュニケーションをとり、主従の絆を深めることは、それなりに有益であるようにも思われる。相手に己の首を差し出すという姿勢は、服従を誓う意思表示とも受け取れるだろう。あるいは、私の知らぬだけで、そこには何らかの歴史的、儀式的な意味合いでもあるのかも知れない。
などといった、こちらの小さな疑問を読んだように、ルークは朗らかに言葉を続ける。
「飼い主の心得だって。この前、テレビの『愛犬パズル☆ワン』で言ってた」
「…………」
無邪気な笑顔のルークに、私は咄嗟に返す言葉もなく、微笑を保つのが精一杯であった。そういえば、愛犬と共にアスレチックパズルに挑戦する、あるいは、天才犬がパズルを解いてみせる、といった日常動画を集めた視聴者投稿型テレビ番組を、ルークはホテルで面白がって見つめていたように記憶している。最近、テレビ鑑賞という新たな娯楽を覚え、熱心に知識を吸収しつつある少年は、こちらの心境を知ってか知らずか、しみじみと腕組をした。
「本当は、身体を洗ってやるところからなんだけど、図体の大きい犬だと大変だよね」
「……そうですね」
その言葉にどこまでの意味が含まれているのかについて、今は深く追究することはしないでおいた。単純に、犬を飼ってみたいという話であれば、実に微笑ましいことである。何も問題はない。生き物に関心を示すようになるというのは、少年にとって大きな進歩だ。いずれ、そうして動物と触れ合い、世話をするという体験もさせてやりたいものだと思う。きっと貴重な人生経験となることだろう。
一方で、「図体の大きい犬」が暗喩であるとすれば──思いを馳せかけたところで、私は緩く首を振ってそれを止めた。今は考えまい。ただ、分かるのは、いずれにしてもルークが興味を示したことならば、私は出来る限りそれを叶えてやりたいし、たとえばそれが犬なのだか他の何かだかを洗って世話することだとすれば、喜んでそれに協力するだろうということだ。尻尾を振って、喜んで。
さて、ルークのおかげで頭はなんとかなったものの、すっかり水を吸ってしまった衣服の方はどうしようもない。濡れた布地が肌に貼りつく感覚は、なんとも居心地の悪いものであるし、脱いでおいた方が乾きも早いだろう。
湿り気を帯びたストールとジャケットを脱ぎ、適当に吊るしておいてくれるようにと部下に預ける。それからシャツもと手を掛けたところで、私はそれに代わる何を着るつもりなのかということに気付いて、危ういところで止めた。
「よ、良かったら……どうぞ」
何故か頬を染めて、メイズが差し出してきたのは、黒地の胸元にオレンジで「Solver Lovers -Tokyo Puzzle LandSea-」とのプリントも鮮やかなTシャツであった。土産物屋から調達してきたものらしい。自分では決して買うことはないであろう商品であるが、背に腹は代えられない。ありがとうございます、と私は厚意を全面的に受け容れることにした。もしこれがオレンジ地であれば、あくまでも遠慮を通したかも知れないが、黒ならばまだ、そうひどいことにはなるまい。黒衣には定評のある私である。
早速に着替えてみると、派手に見えたTシャツも案外、この場には相応しいコスチュームであるように思えて、レストルームの鏡の前で私は暫し感心を覚えた。浮かれた場所には浮かれた服装が似合うということだろうか。郷に入っては郷に従えともいう。頭に耳だの角だのを生やした仮装道具など、いったい買ってどうするものかと常々疑問に思っていたが、ここはテーマパーク──夢の世界である。非日常である。日常と同じであっては意味がない。人々は耳だの角だのを生やし、ポップな格好をすることで、味気ない日常から解放され、束の間の自由を謳歌するのだ。構造としては、仮面舞踏会、カーニバルと変わらない。
さすがに私は着用する気にはなれないが、ルークだったら、この白猫の耳などが似合うのではないだろうか──屋台に並ぶ髪飾りを見物しつつ、彼のもとへと戻った。
ルーク様、と背後から声を掛けようとしたところで、彼が部下の青年と何か言葉を交わしていることに気付いて、私はそれを取り止めた。少年は、なにやらくすくすと笑って、随分と楽しそうである。誰とでもすぐに打ち解けてしまう調子者の道化師と違って、私は気の利いたことを言って子どもの心を掴む術を知らないから、ルークのこうした表情はあまり目にする機会がない。
いったい、彼らは何を話しているのだろう。自然、私は足音を潜めると、彼らの背後の物陰に身を隠した。
「……それじゃ、ルーク様。今日はお楽しみいただけたっスか?」
「うん、ありがとう。来て良かった」
弾んだ声で応えるルークは、無邪気で素直な少年そのものである。満足げな様子に、私は軽く安堵を覚えた。異国の旅を一時保留にしてでも、これならば、立ち寄った甲斐があるというものだ。少しでも、ルークを楽しませ、貴重な体験をさせてやれたならば、それは回り道などではなく、旅の立派な過程のひとつに数えることが出来るのだから。
ただ、ルークの言葉は、それで終わりではなかった。彼は、ふと息を吐くと、穏やかに続ける。
「遊園地って、大人が子どもの気持ちになって楽しむところだよね。ビショップ、楽しんでたみたいだから。良かった」
言って、何かを思い出したように、ふっと微笑む。その表情は、庇護を受けるばかりの無邪気な少年といった、先ほどまでの印象とは、微妙に異なる。少し細められた淡青色の瞳は、その奥に深い慈愛を感じさせた。そんな表情で語る対象が、今ここにはいない側近であるという事実を、私は受け容れるのに暫し時間を要した。遅れて、彼の言葉の意味を理解する。自分の楽しみではなく、他人の楽しみをまず気に掛けた、ルークのその言葉が、私の中に染み入って広がる。驚くほどに、戸惑うほどに、それは、温かかった。
道化の青年は顎に指を当てて、ここにはいない上司を語る。
「やー、でも実際、ここだろうとどこだろうと、あの人は楽しいんじゃないスかね。ルーク様のお隣にいられるなら、どこだって」
そうかな、とルークは頼りなく小首を傾げる。彼を後押しするように、ダイスマンはそうそう、と大きく頷いてみせた。まったく──本人のいないところで、好き勝手に言ってくれる。調子者の部下の言動に、私は小さく溜息を吐いた。しかし、行動に反して、胸の内に憂いや苦々しさはない。あえていれば、照れ隠しといったところだろうか。むしろ、心は弾んでいた。立ち聞きをしていた関係上、表立って喜びを表明出来ないのがもどかしいくらいだ。
ルークに歳相応の娯楽を体験させてやろうとした、私の思惑。彼はただ、その提案に乗っただけだと、そんな風に私は解釈していた。その裏に、彼なりの別の思いがあるなどと、想像することすらしなかった。はじめから、考えより除外していたのだ。ましてや、彼が何らかのかたちで、側近を思い遣っているなどと──そのようなことは、想定の内にはなかった。
ルークを特別扱いせずに、普通の少年らしく扱うというのが目的であった筈なのに、実際のところ、相変わらず彼を特別視してしまっている自分に気付いて、軽く苦笑する。出逢った頃からずっと、私はルークが世界でたった一人の相手のみを追い求める後姿ばかりを見つめてきたから、まさか彼がこちらに気遣いを見せる日が来ようとは、思いもしなかった。もちろん、いずれはそうして、他者に自然と優しい気持ちを向けられるルークの姿を見てみたいとは思っていたが、こんなにも早く、それも、対象が自分であるというのは、奇妙な心地である。
「…………」
降参するように、額に手を遣って、深く呼吸する。まだ何か言葉を交わしている二人の声は、既に耳に届かなくなっていた。鳴り響くうるさい鼓動が、何もかもをかき消してしまう。
もしも立ち聞きではなく、ルークに先の台詞を面と向かって言われていたら、溢れるこの想いを自制出来た自信がない。そこは、まだ大人としての面目を保っていられたという意味で、この状況に感謝すべきところだろう。
心臓よ、鎮まれ。
しかし、止まるな。
自分に言い聞かせて、私は眼を閉じた。
鼓動が十分に落ち着くのを待ってから、適当にその辺りを散歩してきた振りをして、私は何食わぬ顔で年若い主人の元へと戻った。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさーい。おお、お似合いじゃないっスか! すごい溶け込んでるっスよ。なんかこう、年に一度の家族サービス頑張っちゃう的な浮かれた感じが」
「……それはどうも」
褒めているつもりなのだか何なのだか分からない部下の青年の言葉を軽く流して、私は定位置であるところのルークの傍らに立った。頭一つ分低い位置から、淡青色の瞳がこちらをじっと見つめているのを感じる。初めて見る側近のカジュアルな格好が、どうやら面白いらしい。興味深げに眺めて、ルークは「良いな」と一言呟いた。
そこからが大変で、何気ない感想を聞きつけた部下たちの手によって、少年は浮かれた柄のTシャツを着せられるわ、頭に耳をつけられるわ、首からポップコーンバスケットを提げられるわの着せ替え人形状態となってしまった。
「はいルーク様、これもどーぞ!」
「まあ、よくお似合いですわ!」
「これは愛らしい……」
無抵抗の少年が大人たちによって好き勝手にコーディネートされる様子を、私は傍観していたのであるが、なるほど彼らの言う通り、それはそれは愛らしい姿である。
愉快なキャラクターの描かれた裾の長いシャツを纏い、先ほど私が見かけて彼に似合いそうだと思ったあの白猫かなにかの耳をつけ、所在なさげにバスケットを抱えて立ち尽くすルークは、まるでパズルの世界から抜け出してきた妖精のように可憐であり、パークの美しく設計された海や山、聳え立つ城、ファンタジックな街並みと見事に調和している。このまま、彼を主役に映画が一本撮れてしまうのではなかろうか。
考えることは皆同じようで、部下たちはルークをあちこちに連れ回しては、絶景をバックにカメラを構え、あるいは携帯端末のレンズを向けている。これもPVに使うのだろうか。あるいは、単に個人的感情によって行動しているのかも知れない。遠目に眺めていると、走り寄ってきたのは道化の青年である。
「ビショップ様は、撮らなくて良いんスか? お宝映像っスよ」
「いえ……私は」
「あ、それとも、隣に一緒に写りたいとか」
「それは違います。……映像は撮らない主義なので」
過ぎ去って今は無い日々の記録を眺めて懐かしむ趣味を、私は持たない。まるで、自分の脳に記録しておくべきものを、取り出して外部に預けてしまっているような居心地の悪さを感じるからだ。そうして、あれこれの外部装置を身の回りに増やして鈍重になっていくというのは、私の好むところではない。いつどこへでも飛び立てるよう、出来るだけシンプルに、身軽でいることは、私が長年の間、念頭に置いてきた理想像である。
などといった背景までは、きっと伝わってはいまいが、ダイスマンはまるで全てに得心がいったとでもいうように、深々と頷く。
「なるほどなるほど。確かにそんなことしだしたら、ビショップ様のことだから、ルーク様のおはようからおやすみまで撮り続けなくちゃいけなくなりますもんね。そりゃあいくら容量あっても足りませんわ。じゃ、心のメモリーにしっかり焼きつけてってくださいっス」
ぺらぺらと喋るだけ喋って、彼は「それでは」と持ち場に戻っていった。いったい私は彼らに何だと思われているのだろうか。しかし、言われるまでもなく、私はルークの一挙一動を見つめ、一つも逃すことなく、その姿を記憶に留めるのだった。
旅に出てから、日々、新たに出会う周囲の物事を吸収し、少しずつ成長していく少年の変化を、見守り続けている──否、それは、もうずっと前から、当たり前のようにして続けてきたことだ。初めて出逢った日から、私はルークを見つめていたし、その全てを記憶しておきたいと思った。
違うのは、観察者の心の持ちようだ。かつては、純潔の美なる存在を、畏怖の念でもって崇め奉り、それがどうか永遠に変容することのないようにと、封印の祈りを込めて。今は、一人の少年が広い世界を知る手助けをし、その変化と成長を、一緒になって喜ばしく祝うために。スタンスは大きく転換したが、私が誰より近くでルークを見つめ続けることに変わりはない。
今までも、そして、これからも。願うことが許されるのならば、最期に瞼を閉ざす、その瞬間まで。私は、ルークと共に在りたい。
人々に囲まれて、はにかんだような笑顔を見せているルークの元へと、私はゆっくりと足を運んだ。気が付いて、少年は顔を上げる。淡青色の瞳が、私を捉える。ビショップ、とその可憐な唇が、私の名を呼ぶ形に動くのが分かった。その傍らに立つと、私は少しずれかけていたルークの付け耳の位置を直してやりつつ、部下らに問う。
「少し、見て回らせていただいてよろしいでしょうか?」
「どうぞどうぞ、もちろんっス」
さりげなく右手を伸ばして、私はルークと手を繋いだ。少し驚いたように、少年はこちらを見上げてくる。目を丸くしている彼に、私は穏やかに微笑みかけた。
「行きましょうか」
促してみると、ルークは素直に、こくりと頷いた。繋いだ手を、躊躇いがちに、きゅ、と握り返してくる。
「……うん。行こう」
手を取り合って歩き出す、今の私たちは、いったいどんな風に見えるだろうか。親子、兄弟、友人、──あるいは。
この関係を、いかなる言葉で表すことが出来るのか、私は知らない。きっと、呼び表す名前などは、どこを探しても無いのだろう。私にとって、ルークはただ一人、ただ一度の存在だ。何に代替させることも、出来はしない。我々は、我々二人であって、他の何でもないのだから。
どこに行こうかな、とルークはきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。微笑ましく、私はその少年の溌剌とした表情を見つめる。
──どこへでも。胸の内で、私は応えた。
私はあなたを連れていきたい。
あなたに私を連れていって欲しい。
どこへだって、構いはしない。
あなたと歩くなら、それ自体が目的になってしまう。
どこへ向かうのかも忘れて、いっそ、目的地になんて永遠に着かなければいいとさえ思うほどに。
あなたと並んで共にいたい。
歩くような速さで。
テーマ:お題出しったー(改訂版)より、「遊園地で、泣きながら手の甲にキスをするビショルクをかきましょう」でした。
2012.07.08