Solver Lovers(プレビュー版)
■A giver is a machine for turning coffee into puzzles
[Bishop&Maze]
甘く、ほろ苦い芳香が、空間そのものから立ち昇るようだった。
エスプレッソマシンの力強い抽出音は、道端で耳にすれば建築現場の騒音と変わりなかったであろうが、優しく上品な香りに包まれて聴けば、極上の音楽にほかならない。スチームを当て、きめ細かなフォームミルクを作るときの、独特の甲高い共鳴音は、どこか甘やかですらある。
適度なBGMがかかった店内では、読書をする者、物思いに耽る者、端末に向かう者と、それぞれに思い思いの時間を過ごしている。
一人客が多く、ちらほらと見える二人連れにしても、お喋りに夢中になって騒ぎ立てるような真似はしない。座り心地の良いソファに腰掛け、リラックスした態度で、淹れたてのコーヒーを愉しむのだった。
ガラス越しに射し込む陽光は、落ち着きある木製テーブルと、その上に並ぶ二つのカップを穏やかに照らした。
一つは、厚手の陶器のマグカップ、もう一つは、細かく砕かれた氷がきらきらと光を反射する、透明のToGoカップ。共に濃緑のロゴマークを配した、シンプルなデザインである。
そのうちの一つに、指が掛かる。
マグカップの取っ手に掛かったのは、長く、形の良い男の手である。骨ばった指が、静かにマグを持ち上げる。危うげのない、洗練された所作であった。
湯気の立ち昇るマグを、口元に寄せる。
何ということもないその仕草は、しかし、最上級の美酒を味わう場面であっても通用するほどに、高い品格を醸し出してやまない。
指先まで神経の行き届いた振る舞いは、ただそれだけで、身についた礼法と深い教養を証し、見る者を惹きつける。まして、それを為すのが端正な若者であれば、なおのことである。
しなやかな鳶色の髪の下、慎み深く目を伏せた面立ちは上品に整い、若くして落ち着き払った典雅な人格を感じさせる。睫の影の落ちる肌のなめらかさは、男にしておくのが惜しまれるほどである。
チャコールグレーのジャケットに黒のインナー、細身の黒のジーンズという出で立ちは華やかさとは無縁であるが、青年のストイックに引き締まった長身には、この上なくよく似合った。
着こなしをより洗練されたものへと高めているのは、首元に巻かれたラベンダー色のストールであろう。何気ないアイテムでありながら、この青年が身につけただけで、それは都会的な印象の小道具へと昇華されるのだった。
微笑するセイレーンの描かれたマグをゆっくりと傾けて、彼はカフェ・ラテを口に含んだ。
その一挙一動を、青年の向かいに座った女性は、どこか陶然とした様子で見つめるのだった。自分のアイス・カフェ・ラテで喉を潤すことにも思い至らないらしく、透明カップの中身は手つかずのままである。上品に爪を塗った細い指は、机上に組まれたまま、今暫くは、動くことがないだろう。
こちらもまた、人目を惹きつける容姿の女性であった。凛として整った顔立ちは、自立した女性ならではの矜持を感じさせ、すっと背筋を伸ばした姿勢も清々しい。
知性と華やかさを併せ持った美貌には、エレガントな装いがよく似合う。手入れの行き届いたたおやかな金髪が、華奢な背中を緩やかに覆って艶めく。意志の強さを感じさせる碧眼は、今ばかりは、夢見るように光を揺らめかせていた。
机上に組んでいた指を解いて、軽く頬杖をつくのは、静かな胸の高揚の表れであろうか。そんな無意識の仕草も、彼女が目の前にしている情景を思えば、万人の共感を得ることが出来たに違いない。
正面からの視線を特に気に留める様子もなく、カフェ・ラテを味わった青年は、瞼を下ろして暫し、その余韻を堪能した。満足げに一つ息を吐くと、ゆっくりと目を開ける。
おそらくは、その瞬間を鑑賞する機会に恵まれた者は、誰しも陶酔の溜息を吐かずにはいられなかったであろう。繊細な睫に縁取られ、物静かな光を宿す青年の瞳は、極上の翡翠めいて、澄んだ色艶を誇る。触れるどころか、直視することすら罪深く思わせるほどの、高潔なる美の結晶が、そこに存在していた。
マグカップを置いて、青年は落ち着き払った声を紡ぐ。
「今日はお付き合いいただいて、ありがとうございます……旅立つ前に、一度ゆっくり、お茶をしたいと思っていたのです」
「こ、光栄です……」
どこか気恥ずかしげな調子でもって、女性は応える。目の前の相手に、あまりに熱心に視線を注ぎすぎていたことに、我に返って気付いたのだろう。
思い出したように自分のカップに視線を転じ、そそくさと手を伸ばす。彼女の落ち着かぬ内心までも承知しているかのように、青年は穏やかに微笑を浮かべた。
そうして向かい合う男女は、それなりに親しい間柄にあるようでもあり、また、一定の距離と節度を守って相対しているようにも見て取れた。
両者がタブレット端末を前に議論を交わしていれば、純然たるビジネスシーンに見えただろうし、ただ互いを見つめて微笑んでいれば、今後の親密な関係への発展を予感させたことだろう。
その意味で、二人のテーブルの中央に置かれたものは、何とも判断し難いものであった。
そこにあったのは、シュガースティック。それだけであれば、カフェにあって当たり前の調味料である。ただし、一本や二本ではない。テーブルの中央に、それは一山を築いているのだった。
注意深い者であれば、それが店内のコンディメントバーで提供されているシュガーとは異なる銘柄であることに気付いただろう。実際、これは店で調達したものではなく、彼らが持ち込んだ私物であった。
青年は、長く整った指先にそれらを弄び、何らかの吟味をしているらしかった。飲み物に投入するつもりだろうか。しかし、彼のカフェ・ラテは、提供された段階で既にたっぷりと糖分を含んでいる。そこへ更なる砂糖を、しかもこれだけの分量、加えようというのは現実的なアイデアではあるまい。
仮に彼が稀代の甘党だったとして、同じシュガースティックの中からどれを使おうか迷いでもするように、手に取っては矯めつ眇めつすることの理由にはならないだろう。傍から見れば、まったく意味不明の行為である。
そんな姿さえも絵になるのは、背景が洒落たカフェであるということと、なにより、この青年自身の備えた稀有な美貌のためであるといってよかった。美しい所作でもって、青年がシュガースティックを摘まみ上げる様子を、向かいの女性も、憧憬の眼差しで見つめていた。
やがて、彼はシュガースティック同士を格子状に組み合わせ、器用に立体を作り始めた。
設計図もなしに、片手で基礎を支え、もう片手で高さを出していく、その指先の動きに迷いは無い。細部にまで神経の行き届いた精緻な挙措は、オーケストラを率いる指揮者の、優雅にして大胆な演技を彷彿とさせた。
シュガースティックの立体は、次第に、幾何学的なシルエットも美しいピラミッドを形作っていく。慎重に指し込みつつ、青年は独りごちた。
「ルーク様は、四十八本で作っていらしたのですが……難しいものですね」
「あっ、こちらがずれて……」
小さく声を上げて、差し出した女性の手が、危ういところでオブジェの崩壊を留める。二人はほっと安堵の息をもらした。
それから、小さな作品を支える互いの指先が触れ合っていることに気付いたらしい。女性は慌てて手を引っ込めた。どぎまぎとした様子で、落ち着かなげに、胸元で指先を握って俯く。大げさともいえるその反応に、青年は目を瞬くと、苦笑交じりに頭を垂れた。
「……これは、失礼」
「い、いいえ……」
上ずった声で応える、その頬は少女のようにほのかに染まっている。照れ隠しにか、金髪の毛先を弄る仕草もぎこちなく、その内心の動揺を教えるばかりである。
お互いの反応が可笑しかったのだろう。二人は、気恥ずかしげに微笑み合った。
「……なーんなんスかね、あれ」
仲睦まじげに向かい合う美男美女を、道端から窓ガラス越しに眺めつつ、溜息混じりに呟いたのは、針金細工めいた細長い手足の若者──ダイスマンであった。
ユニークなフェイスペインティングと相まって、どこか道化師を思わせる所作でもって、苦々しげに首を振り、肩を竦めてみせる。
「すっごいオーラ放ってるセレブカップルがいるって、通りすがりに聞いたもんだから覗いてみたら、これっスよ。やってらんないね」
同意を求めるように、彼は隣に佇むいま一人を見遣った。こちらは、褐色の肌の巨漢である。若者の軽口に調子を合わせることはせずに、難しげに眉を寄せ、店内の様子を窺っている。まるで対照的な両者は、同じように窓ガラスに貼りついて、店内の男女に気付かれぬよう留意しつつ、事態の推移を見守るのだった。
窓一枚を隔てて、すっかり優雅で落ち着いた雰囲気を醸し出す店内の男女は、なにやら一言二言の遣り取りをしては、控えめな微笑を交わす。その様子を眺めて、腕組をしていた大男──フンガは、感心したように呟く。
「ふむ、良い雰囲気だ。確かに、ハリウッドスターの逢い引きめいたものを感じないでもない」
「そうかなあ」
「嫉妬か?」
どこか不満を声に滲ませるダイスマンに対して、フンガはからかうようにして問う。いやいや、と若者は肩の辺りで軽く手を振ってみせた。
「んなわけないっしょ。でも良いなあ、席替わってくれないかなあ……メイズ」
「……そっちか!」
■
(中略)
■
「お待たせしましたっスー!」
「ごちそうさまです」
ダイスマンは調子よく片手を振り、フンガは畏まって頭を下げる。戻って来た二人は、ビショップらのテーブルを囲む空席に腰を下ろした。
彼らが席に着くのを待って、三幹部の上司たる青年は、おもむろに口を開く。
「さて、それではメンバーも揃ったことですし……ミーティングを始めますか」
普段、会議室で定時に宣言するのと同じ口調でもって、ビショップは静かに告げた。思いがけない言葉に、首を傾げたのはダイスマンである。
「へ? こんなところで仕事の話っすか?」
今にもラテをすすろうとしたところで、きょとんとして目を丸くする若者に、ビショップはやれやれと首を振って応じる。
「なんのために、あなたがたのコーヒー代を出したとお思いですか。タダでは帰しませんよ」
「やっぱり気前が良いのかケチなのか分かんないっスね!」
仰け反って嘆くダイスマンの頭を、「失礼なこと言ってんじゃないわよ!」とメイズがはたく。一方で、ミーティングと聞いて、なにやら顔を青ざめたのはフンガである。おそるおそる、といったように問い掛ける。
「ま、まさか、また大喜利……」
「それでは第一の議題です」
精一杯に異議を申し立てる部下らを鮮やかに無視して、青年は何事もなかったかのように司会を続行する。いつの間にか、その机上には手帳と筆記具が広げられ、準備は万端である。
スターリングシルバーのペンシルを手の中で一回転すると、ビショップは重々しく宣言した。
「まずは……ルーク様のお召し物について。旅に出る以上、これまで通りというわけにはゆきません。思うところのある方、どうぞ」
どうやら、今回は大喜利形式ではないらしい。最大の懸念事項であった、その部分について、ひとまず三幹部はほっと安堵の息をもらしたのだった。
肝心の議題も、なかなかに興味深いテーマであるといえた。あの白い少年の私服については、彼らもそれぞれに一家言ある。カフェのリラックスした雰囲気もあいまって、いつになく独創性に富んだ、積極的な議論が交わされたのだった。
その後、ルークに見せるべき名所旧跡ランキング、味わって欲しいおすすめの名物料理、効率のよい移動手段の豆知識──そんな風に、議題は続いた。ミーティングの名を冠した、単なる旅の相談事であるのは明らかであった。
それでも、彼らは驚くほどに真剣になって、白熱の議論を交わした。はたから見れば、ランチミーティングに勤しむベンチャー企業の若き幹部らといった様子に見えたことだろう。
「……なるほど。たいへん、参考になりました」
司会進行を担いつつ、三者の意見に耳を傾け、熱心に記録を取っていたビショップは、満足げな言葉とともに手帳を閉じた。それを合図に、場の空気がほっと緩む。
気付けば、ミーティングを開始して一時間強が経過していた。喉を潤すコーヒーの残りも、もう少ない。
「うーん。なんていうか、」
最後の一口をすすると、ダイスマンは一つ伸びをしながら呟いた。
「皆、好きっスよね。ルーク様のこと」
「そうだな」
「そうね」
「そうですね」
少し照れたように、あるいは、当然だと言わんばかりの平然たる顔で、テーブルを囲む面々は頷いた。全員の賛同を得て、それがミーティングの結論となったのだった。
「最後に、もうひとつ。手を貸していただきたいのですが──」
ここで、ビショップは三人の部下らに、ある申し出をした。その内容に、彼らははじめ、意表を突かれたようであったが、三人とも快く協力を了承した。上司からの言葉ということを差し引いても、それは、さしたる負担ではなかったし、なにより、彼らにとっても、好奇心をそそられる提案であったからだ。
ありがとうございます、と今一度感謝の意を述べると、早速、ビショップはその準備に取り掛かった。
[ to be continued... ]
POG格言「ギヴァーはコーヒーをパズルに変える機械である」 ほのぼのPOG短編集『Solver Lovers』収録の一編です(→offline)
2012.08.06