フラグメンツ -1-






君は、他人を怖がって、君は、独りを怖がった。
耳を塞いで、眼を閉じて、声を殺して、君は泣き叫んだ。
飢えて、冷えて、寂しくて堪らないのに、君は、与えられる一切を拒んだ。
君は、温もりが欲しかったが、温かい他者の存在は要らなかった。
君は、愛されたかったが、愛してくれる他者の存在は要らなかった。
君に必要なのは、君だけで、他者の存在は要らなかった。
それでも、いつか手に入ることを、信じていた。

君の欲しいものが、独りでは手に入らないことに気がついて、君は絶望した。
君は打ち砕かれ、君は敗北し、君は屈辱を受けた。
それでも、君は、どうしても。
上手くやることが、出来なかった。
他人は、怖いままだったし、触れられたくなかったし、要らなかった。
相変わらず、飢えていたし、冷えていたし、寂しかった。
満たされたいと、愛されたいと、望みながら、君はどこまでも、独りだった。
君は、君を好きだったし、君は、君を嫌いだった。
君の感情は、どんな他者も素通りして、必ず君に帰結した。
君がそれを向けることの出来る相手は、君しかいなかった。
君にとって、君だけが、生きた人間だった。

いつだって、君は、ぎりぎりのようにして生きていた。
誰も君を理解しないし、誰も君を救えない。
どうしようもなく、君は独りだ。
誰に触れられるのも嫌だといって拒みながら、君は、手が差し伸べられるのを待っていた。
君は愚かで、君の選択はいつも間違いだ。
君は哀れで、君の行為は悪いようにしかならない。
分かっていた筈だろう? 
君には誰もいないから、何も得ることは出来ない。
君の世界は、ただそこまででしかない。
世界は、君を受け容れない。
誰も、君を愛さない。
君は、独りだけで完成されたいと欲して、そして、夢を見続けている。

どうせ、無理なのにね。



■ ■




寮の裏手、クロスフィールド学院の有する広大な森を前に、ぽつりと置かれた木製ベンチに腰を下ろす友人の姿を見掛けたのは、ピノクルが三階の廊下の窓からふと外の景色を眺めたときだった。
差し込む陽光が昨日よりも明るい気がして、果たして青空に雲が一つでも浮かんでいるのか確かめようと、ピノクルは窓辺に寄った。予想通り、晴れやかな秋の天空には、なにひとつ光を遮るものはなかった。それを確認し、少し愉快な心地になる。
眼下には、無駄に思えるほどの広さの森、同じような木々の頭が延々と続き、ようやく地平のほうに、ぽつぽつと街並みを視認出来る。緩やかな丘陵は、途切れることなく、視界を端から端まで横切っていく。
堅牢な城壁に似た、境界線。ピノクルに視えるのは、そこまでの世界だ。その先に何があるのか、それは知らない。全寮制の学院は、それ自体ひとつの町に似て、施設内で全ての生活が完結する。昼夜を問わず、生徒の行動は厳しく管理されているから、その監視網をかいくぐって、森を越えた向こうまで足を運んだことがある者は、誰もいない。
たとえ、学院内で生徒が立ち入りを許された一番高い建物の屋上に上り、目を凝らしても、丘の向こうは視えないのだ。森の外れの礼拝堂に隣りあって聳える鐘楼からは、もしかしたら違った景色が望めるのかも知れないが、あの塔の入り口は堅く封鎖されている。加えて、閉ざされた内部から醸し出される不穏な空気は、礼拝堂に似つかわしくないまでに澱んでいるから、子どもにとっては、そもそも侵入してやろうという気勢を、はじめから挫かれてしまう。ピノクルの知る限り、あれに挑戦しようとした学友は一人もいない筈だった。
かつては、何としてでも学院の外を知りたがって、あれこれ試みては叱責を受けたものであるが、今はもう、ここはそういう風に造られているのだと理解して、受け容れている。
どうせ、いずれは学院を卒業し、正門をくぐって文字通り、外の世界へと旅立っていくのだ。そうすれば、丘の向こうだろうと何だろうと、どこへだって自由に行ける。急ぐ必要はない。

そう言いつつも、気付けば遠くの街並みに目を吸い寄せられている自分を認めて、ピノクルは小さく苦笑した。外の世界への興味関心は、学友たちも皆、同程度に抱いているものだと思うが、その好奇心を満たす方法として、たいていは、書籍だとか通信端末だとかで、向こう側の情報を得ようとする。ピノクルとしても、敷地内の巨大な図書館は日々、大いに活用させて貰っている。学院内に入ってくる情報は、門を越える時点でかなり検閲を受けて、制限された範囲内のものであるとはいえ、それでも膨大な量に上る。外の世界の大枠を把握するのに不足はないだろう。今のうちに知識をつけておくことが、後々、学院を出ていくときに役立つだろうことは、大いに予測出来る。
だから、そういう現実的な対処をせずに、こんな風に景色を眺めて夢想する、今の自分は、まるで子どもじみている。森の向こうの広い空を、一羽の鳥が横切っていくのを目で追いつつ、ピノクルは思った。
ただ、個人的実感としては、データを眺めてあれこれと解釈を見出すのも、風景を眺めて思いを馳せるのも、そう変わらないような気がする。どちらにしても、出てくるものは同じ、もともと自分の内にあったものだ。何をきっかけとするかの違い、だけでしかない。世間的評価としては、データに基づく考えはより高級であって、ぼんやり空を眺めて浮かんだ思いなどはとりとめのない、つまらぬものと見做されがちであるが、同じ人間から出てくるものに、それほどの違いがあるものだろうか、と思う。
いいのさ、たまには夢見ることも必要だ──結論づけると、ピノクルは暫し、窓枠にもたれて遠景を眺めた。何も、いちいち知識の裏付けを求めなくとも、閉鎖的な学院を離れて外に憧れる、この思いが本物であることに変わりはない。何事も、一番大事なのは、そういう根拠なき純粋な思いの強さであって、人の唯一の原動力であることを、ピノクルはそれこそ、データで知っている。
窓枠に置いた左手首を、何気なく見遣って、少年は微苦笑を浮かべた。制服の袖に隠れた、その下に嵌っている黄金の輝きは、ピノクルの「思い」を強化してくれる、「お守り」だ。こんなものをつけるだけで、実際、振る舞いに自信をつけて、クラスメイトの間でも上手くやっていくことが出来ているわけだから、いかにヒトというものが思い込みや勘違いに突き動かされているものか、よく分かる。
たとえ紛い物であろうとも、本人が信じている限り、それが真実であり、本物だ。正しいと思う、だから、正しい──そう思うと、まるで自分の言動のすべてが、権威ある何者かから後押しをされているような心地がして、悪いものではなかった。

「それ」が目に入ったのは、いい加減、無為に空を眺めるのを切り上げて、窓辺から離れようとしたときだった。眼下の芝生にぽつりと設置された小さなベンチは、視界の隅には入っていたかも知れないが、意識の方には全く入っていなかったとみえる。遠くにばかり意識を奪われていたので、そんな建屋のすぐ間近に、見知った顔がいることにも気付かなかった。否、精確にいえば、見知った後頭部、というべきだろうか。少しばかり窓から身を乗り出して、ピノクルは今一度、そのシルエットを確認した。
独りでベンチに座り、先ほどまでのピノクルと同様に森を眺めているのは、あの少しばかり引っ込み思案の学友──フリーセルだ。
珍しいな、とピノクルは思った。別に良い眺めが見られるわけでもない、何かの間違いで置き忘れられてしまったような、その古びたベンチに誰かが座っていることも珍しければ、インドア派の友人が日射しの下で時間を過ごしていることも珍しい。
彼は独りでいるとき、たいてい何かしらの本を読んでいるのであるが──時代小説、医学書、評論、絵本と、ジャンルはおよそ無秩序であって予測がつかない──しかし、見たところ、今は手ぶらである。天気が良いので、たまには外で読書をしたくなった、という経緯では、どうやらないらしい。
考えてみれば、木陰ならまだしも、この日射しにさらされつつ、光を眩く反射する書籍の白いページを捲っていくのは、なかなかに目が疲れそうな作業である。人並み程度に合理的思考を持ち合わせている筈の我が友人が、あえてそういう行為に挑むとは思えない。
それでは、待ち合わせかとも思ったが、ピノクルはすぐにそれを打ち消した。友人のことを、何から何まで全て把握しているとは思わないが、フリーセルはおよそ、誰かを呼び出すことも、呼び出されることもない人間であるといっていい。そういう、厄介事とセットになっていそうな人間関係というのは、彼が最も嫌うところだ。
彼は、約束を交わさない。精確にいえば、約束がふいになることを嫌って、それを避ける。はじめから呼び出しなど受けないようにと、人間関係を制限する。さすがにそれはどうなのか、とピノクルも思うが、妙なところで頑なな我が友人に限っては、それが当たり前なのだ。
不便はないのかといえば、そもそも、ここの生徒といえば四六時中、同じ敷地内で一緒に生活しているわけであるから、あえて時間と場所を指定して待ち合わせるという必然性は、はじめから薄いだろう。転入生でもない限り、殆どの生徒が昔からの顔見知りなのだから、誰々を見かけなかったか、と問えば、行方はすぐに知れてしまう。それでなくとも、適当に歩いていれば、そう経たずに探す相手を見つけられるというのが、日常における実感だ。
ちょうど、窓の外を見下ろしたら、友人の姿が目に入った、というように。

──何を見ているのだろう。
斜め上からベンチを見下ろしているうちに、ピノクルは、専らそれが気になりだした。友人の目前には、ただ森が広がるだけで、特に面白そうなものはない。せいぜい、ピノクルがそうするように、外界への思いを馳せる手がかりとなる程度だ。
彼もまた、この限られた、囲まれた、隔絶された世界に、何らかの感傷的な思いを抱いているのだろうか? 明瞭に区切られた境界線に、何を思うのだろうか? 一度、訊いてみたいような気がした。
もしくは、あの様子では、何も見ていないのかも知れない。舟を漕ぐでもなく、脚を揺らすでもなく、ただ座っている以上の何でもないというような態度である。微動だにせず、ベンチと一体化している。目の前で手を振って、何の反応もなかったとしても不思議ではないと思えるくらいの、それは、心ここにあらずと描写しても良さそうな在りようだった。似たような様子は、彼が、母親の墓碑の前に座り込んで何時間も過ごすときにも見て取れる。深い思索に耽っているのか、無我の境地にあるのか、それは、外から見ていても判断がつかない。
いずれにしても、友人たちの間でも、特に時間を有意義に過ごし、静かに活用することにこだわりを持っているように見えるフリーセルが、まるで無為に、年季の入ったベンチに身を預けている光景は、不思議だった。不思議なこと、というのは、ピノクルの中で、イコール、見逃せないこと、と変換される。これは、まあいいやといって通り過ぎるには、少々惜しいようだという直感があった。
分からないこと。知らないこと。新しいこと。
決まりきった面子で、隔絶された空間を舞台に繰り返す、代わり映えのしない退屈な日常で、それらは貴重な刺激であり、娯楽である。日々、周囲の変化を観察し、何か新たな情報はないかと探しているピノクルにとって、その意味は更に大きい。
好奇心が芽生えると、ピノクルの足は勝手に階段へと向かい、それを軽快に駆け下りていった。

裏庭に出ると、先ほどのままに、ベンチに座っている友人の後ろ姿があった。もしかしたら、目を離している隙にいなくなってしまうかも知れない、と思っていたピノクルは安堵の気持ちをおぼえたが、何故そこで自分が安堵するのかは、よく分からなかった。
友人の後姿越しに、眼前の景色を眺める。こうして、同じ視点に立ってみても、やはり、前方に鬱蒼と広がる森は、ただの森である。こんな風に、ずっとベンチに腰を下ろして眺めるに値するほどの、何らかの価値があるとは思えない。その行動の理由は、本人に直截、問いただすほかないだろう。
といって、そこから友人の名を呼んで振り返らせつつ、片手を上げて気さくに近づくなどという、こうした場面で一般に適切であろう行為を、ピノクルは選択しなかった。どうでもいいクラスメイト相手ならば、そうしたかも知れないが、相手はフリーセルだ。ピノクルにとっては、幼い頃からの学友であり、かつ、今は同じオルペウス・オーダーのメンバーでもある。ともに黄金の腕輪を許し与えられた、特別な同胞だ。その自覚を忘れずに、ことは慎重に運ばねばならない。
足音を忍ばせ、そっと、背後から近づく。途中で気付いて、振り返って来ることを予測していたが、もう二、三歩のところまで近接しても、その様子はない。自然、緊張と高揚とがないまぜとなって、鼓動が高まる。
そんな風に、ぼんやりしていると危ないよ──警告してやるつもりと、少々のいたずら心でもって、ピノクルはそろそろと親友の肩に向けて手を伸ばした。息を殺し、タイミングを見計らって──掴んだのは、華奢な肩ではなく、ベンチの背だった。両手を掛けると、遠慮なく、肩越しにのぞきこむ。

「やあ。何してるの」
「見ての通り。日光浴」

──まさかの、冷静な声が返ってきた。
驚きも逡巡も見せないどころか、ピノクルに視線を向けさえせずに、フリーセルは即答した。てっきり、驚くなり慌てるなりするものと期待していたのに──その反応に不意を打たれて、むしろ驚いたのは、ピノクルの方である。
子どもじみた学友の接近には、どうやら、かなり前から気付いていたらしい。こういうことをしそうな奴と、言いそうなことを、予見していたとしか思えない、落ち着き払った反応だった。
この上ない気まずさの中で、ピノクルは、木製ベンチの背を掴んでいた手を、そろそろと離した。

「……ばれてた?」
「ひとつの可能性として、予想していただけ。その通りになって、むしろ驚くほどだね……でも、気配には気付かなかったよ。良い密偵になれるんじゃないかな」
「それはどうも」

気配は消せても、行動を読まれていては、密偵失格だろう──淡々と紡がれる友人の台詞に、ピノクルは深く息を吐いた。
どうも自分は単純すぎるのか、フリーセルには行動を見通されがちである。どちらかといえば、観察眼に優れ、状況を俯瞰したり、他人の行動に分析を働かせることを得意分野としているのはピノクルの方の筈なのだが、それがフリーセル相手となると、まるで利かない。逆に、彼の瞳の前に、何もかも見通されているような気にさえなる。一瞬でも、彼を驚かせようと思った自分が馬鹿だったと、ピノクルは己の浅はかさを悔いた。
それにしても──日光浴。

「意外だね。なんか、イメージと合わないっていうか」

ピノクルは、友人の答えた行動に対する、素直な感想を述べた。あのインドア派のフリーセルに限って、無意味に外に出ていることはない筈だというのは、どうやら勝手な思い込みであったらしい。いつも冷めた風のある友人だが、こうして身近に自然に触れようとは、情緒深い一面もあるものだ。ピノクルは、小さな感心をおぼえた。
確かに、今日の季候は、その余暇にはぴったりである。空は晴れ渡り、注ぐ日射しは温暖で、時折そよぐ清涼な秋風が心地よい。軽く腕を伸ばして、ピノクルは新鮮な空気を存分に肺に取り入れた。土と緑の匂いに、ささやかな解放感を味わう。これならば、友人の隣に腰を下ろして、自分も暫し、太陽の恵みを享受しても良いような気がした。
しかし、ピノクルの思いに反して、当のフリーセルは浮かない表情である。ベンチの肘掛けにもたれ、物憂げに頬杖をついたその姿は、「気持ち良さそうだから、思わず外に出てきてしまった」などという、はしゃいだ気持ちを微塵も感じさせない。むしろ、いつもより沈みがちに見えるのは、気のせいだろうか。折角の日光浴というなら、もっと、リラックスした様子を見せるなり、楽しそうにするなり、すれば良いと思うのだが──ピノクルは首をひねった。
不審に思う気持ちが伝わったのか、フリーセルは、やはりぼんやりと木々を眺めながら、言葉を付け加えた。

「鬱対策」

何だって、と反射的に訊き返すような間抜けな真似を、ピノクルは寸でのところで堪えた。友人の口から紡がれた、硬いフレーズは、およそ、光に満ちたこの場面には相応しくないように聞こえた。返す言葉もなく、ピノクルは、物憂げな友人の横顔を見つめた。柔らかな金髪の掠める、その唇が、付け加えるようにして紡ぐ。

「──といった方が精確かな。家系的に、どうも僕も、そのリスクが高いようだから。心を病まないように注意しなさい、とのお達しが出ていてね──そんな忠告、笑い話みたいだろう? その意味で、外の空気を吸って、光を浴びるのは、悪くない」

言って、フリーセルは片手を目の上にかざした。遮るもののない陽光の下、彼の金色の髪は殆ど白といっていいくらいに、光に溶けている。今日の日射しは、遮光レンズを掛けているピノクルにも眩しいと感じられる程度のものであるから、直截に光線を受けている友人にとっては、少し辛いのかも知れない。
気持ち良さそうな陽光に誘われて、などというのではなく、半ば義務的に、光にさらされなくてはならないというのでは、浮かない気分にもなろうというものだ。青空を見上げて、ピノクルは目を細めた。

「ふうん。面倒なんだね」

日光浴を楽しむ友人の姿を見て、単純に微笑ましいと思った己の浅慮を反省するとともに、彼の心境を思い遣って、ピノクルは眉を寄せた。フリーセルは緩く首を振ってみせる。

「それほどでもないよ。医者の手を借りなくてはならない、となれば厄介だけれど、それはまだ、必要ないわけだし。危険信号が出れば、自分で分かるよ──自分のことだからね」

他人事のように熱のない口調で、フリーセルは語る。自分のことくらい、自分で何とか出来る──出来なくてどうする、と、固い意志の込められた台詞だった。
──多分、それは正しいのだろう。ピノクルは思う。その繊細な感受性でもって、他人のこころを普通より敏感に感じ取ってしまうフリーセルが、何より身近な自分のこころを把握出来ない筈もない。きっと、彼にとって、己の精神状態の管理は、身体の健康管理をするのと同じ程度に、日常的で、当たり前のことなのだろうと想像する。
──当たり前のこと。
そういう風に、生まれたから。
そう在るように、はじめから、決まっているから。
そういうことに──なっている。
それに対して、精神医学領域の知識に欠けるピノクルが、あれこれ口出しの出来ることはないし、そもそも、そういう権利がない。友人の言うとおり、自分のことを一番に把握していられるのは、自分をおいてほかにないのだから。
それでも、分かっていても、ピノクルは大きな溜息を吐くことを止められなかった。どうしても、口にせずには、いられなかった。

「面倒だよ」

溜息とともに吐き出した言葉は、先ほどと同じではあったが、より確信に近かった。己の発した言葉に引き寄せられる格好で、ピノクルは続ける。

「自分で、自分の面倒を見ないといけない。投げ出すことが、許されない。誰かに助けを求めることが、出来ないなんて──面倒だ」

唐突とも思える言葉を受けて、フリーセルは初めて、肩越しに振り返った。少し首を傾げ、戸惑うようにピノクルを見上げる。投げかけた張本人であるピノクル自身も、同じく不思議な心持ちだった。
確固たる意志のもとに、発した台詞ではない。友人に反論したかったのではないし、彼をたしなめるなどという目的があったわけでもない。だいたい、何をたしなめるというのだ──フリーセルの言葉に、何ら誤りは含まれていなかったと、ピノクルはよく承知している。この上なくシンプルで、よく理解出来る話だった。
承知して──納得した、筈だった。
それでも、思うままに、声に出してしまった、というのが正しい。分かっていても、ピノクルには、ただ、そういう友人の在りようが、「面倒」であるように思えたのだ。当たり前のように、フリーセルがそうするのを、歓迎されたことではないと、感じたのだ。ただの感想であって、そこに、深遠な理由などはない。データの裏付けもない。論理的解説もない。
だから、意を問うようなフリーセルの視線にも、何も返す言葉を持たなかった。互いに、暫し顔を見合わせる。
フリーセルは、少し唇を動かしかけて、しかし、何も言わずに視線を落とした。何を言いかけたのか、ピノクルは解る気がした。
「皆、そうじゃないか」──と、言いたかったのだろうと思う。面倒というのなら、フリーセルに限ったことではなく、皆がそれに当てはまってしまう、と。ピノクルにしろ、『騎士団』のメンバーにしろ、学院の生徒の誰にしても。それはまた、正しく、ピノクル自身が言いたかったことでもある。
自分で、自分の面倒を見る。
心を病んではいけないように。
病に臥せってはいけないし、弱音を吐くことは許されない。
投げ出すこと、縋りつくこと、助けを求めることは、許されない。
「完璧」であれと。
「天才」であれと。
望んでもいないものを負わされ、望ましいありようを期待され、少しも逸脱することが許されない、自分たちは──面倒だ。選ばれし者の証である、黄金の腕輪を嵌めた手首が、今は、少し重く感じられた。
自分たちを造った誰か、自分たちを欲する誰か、誰かのために、自分を管理し、面倒を見なくてはいけない。もしも、自分のためにするのであれば、それは当たり前のことで、それどころか喜びですらあって、少しも面倒などではないのに。
自分のためにならないのに、自分の面倒を見るのは──面倒でしかない。
どこかで、自分たちは、自分を自分だけのものではないと、意識している。
この自分は、誰かに還元される定めであると、認識している。
自分を養育する義務を負っているのだと、理解している。
自分は、自分でありながら、他人なのだと、知っている。
身体のすべては借りもので、精神構造も借りもので、確かに自分だといえるものは、ほんの僅かなのだと──解っている。
この学院に寄せ集められた者の、それが、規定された在りようだ。

「……なんか、変なこと言った。ごめん」

頭をかいて、ピノクルは小さく呟く。これではまるで、興をそぐような真似をして、フリーセルの邪魔をしているだけだ。折角、彼がこうして精神の安定を図っているというのに、まるで配慮がない、自分が恥ずかしい。
自分の出来ることで、自分の心身の健康を守ろうとしている、友人の姿勢に文句をつけたかったわけではない。そこのところを伝えておかねばと、ピノクルはベンチの脇を回り込み、友人の隣に並んで腰を下ろした。隣の彼に、そして、自分自身に言い聞かせるようにして、紡ぐ。

「それで、自分の力で、フリーセルが元気にやっていけるのなら、良いことだよね。僕も嬉しい」

「天才」を求める人々と、それは同じ期待かも知れない。ピノクルもまた、友人としてのフリーセルを必要とし、元気であってほしいと願っている。何かあれば、どうしたの、大丈夫、と、ついつい口出ししたくなる。
そもそも、フリーセルをオルペウス・オーダーに引き入れるという案に、ピノクルが積極的に賛成意見を表明したのだって、そうすれば少しでも、彼を楽にしてやれるのではないかと思ってのことだった。既にリングをつけた学友たちは、皆、堂々たる自信と誇りに満ちているように見えたし、ピノクル自身、おどおどとしていた自分が内側から変わっていくのを感じた。これなら、フリーセルにも勧めたいと思った。
いつも俯いてしまいがちな彼に、前を向いて、背筋を伸ばして、迷いない足取りで、歩いて欲しかった。それは、ピノクルの勝手な思いの押しつけであって、余計なおせっかいと言われれば、それまでの話である。他人のことは言えないな、とピノクルは心の中で苦笑した。
何を言いたいのか、というような視線を向けるフリーセルに向き合って、ピノクルはその肩に片手を置きかけ、しかしやはり、少し目標地点をずらしてベンチの背にかけると、言った。

「でも、もし、手に負えなくなったとしても。それは、君の力不足とかじゃないから。助けてくれって、言って良いんだからね」

至近距離で瞳を見つめつつ、はっきりと言いきる。
自分で、自分の面倒を見るということに、この友人は、ことのほか、頑な過ぎるような気がした。まるで、自分の心すら管理出来ないようでは、失格だとでもいうような、それが──心配だった。
自分ではどうしようもなくて、上手く出来なくて、他に助けを求めたら、その時点で──失格なのだと。もしかしたら、大人たちの判断では、そういうことになるのかも知れない。出来損ない、という評価を、受けることになるのかも知れない。あるいは、フリーセルは既に、そういう評価を下されかけたことがあったのだろうか。失格だという言葉を、投げつけられたことが、あるのだろうか。だから、それを懸命に回避しようとするのだろうか。
けれど、ピノクルは、友人としてのフリーセルが、そうして独り苦しむというのは──見ていられない。それが望ましくないことだからというだけの理由で、彼が、誰にも心を打ち明けられないというのは、納得がいかない。ましてや、そのためにますます思い悩んで、自己嫌悪に陥って、抜け出せなくなってしまったらと、最悪の想定が思考を巡って離れない。
そうやって、友人を失うのは、ごめんだと思った。フリーセルに限って、そんなことはないだろうと、笑われてしまうかも知れないが、失ってからでは遅いのだ。彼は、少なくともピノクルにとっては、かけがえのない大切な親友だ。
それに、「そんなことはない」と、いったい、誰が言い切れる。フリーセル自身であっても、それは断言出来るものではないのだ。あいつなら大丈夫だ、今までだってそうだったし、これからも──と、誰もがそう思ったならば、本当に彼は、孤立してしまうではないか。そうして、悪意なき偏見によって彼を独りにさせる、無邪気な集団の一員に、ピノクルはなりたいとは思わない。
だから、せめて、自分だけは、フリーセルを「信じないで」いてやるのだ、とピノクルは思う。彼に心得があろうと何だろうと、フリーセルの悩み相談には、自分が乗ってやる。弱音を吐くなら、慰めてやる。
親友に対する、それが当たり前の、ピノクルのルールだ。たとえ、フリーセルが嫌がったとしても、友人関係にある以上、これには従って貰わなくてはならない。

「僕は、君を信じないから。君が、独りで何でも出来るなんて、思わないから」

なにをばかなことを言っているのか、と呆れた目を遣られることを覚悟の上で、ピノクルは言った。一笑に付されるかも知れないが、それでも構わないと思った。
しかし、予想に反して、フリーセルは失笑するでもなく、皮肉を返すでもなかった。僅かに目を瞠って、言葉を忘れたように、ピノクルをまっすぐに見つめる。
今度こそ、驚かせることが出来たのだろうか──どうやら、さすがの友人でも、この行動は予測出来ていなかったとみえる。頭の片隅の、妙に冷静な部分で、ピノクルは小さく愉快な心地を抱いた。
フリーセルは、何と言って応じるだろうか。反応を待つ──そこで、つい至近距離で不躾に見つめてしまっていたことに、ピノクルは遅れて気付いた。いつも冷静で無駄口を叩かない、この友人相手だから、ちゃんと聞いているのか、ちゃんと伝わっているのか、心配だったのだ。
ピノクルは、自分の言葉の扱い方には、それほど自信があるわけではない。相手を怒らせても構わない軽口であれば、あることないこと紡ぎ出せるが、真剣な話となると、特に苦手だ。だから、距離を詰めて、視線を合わせた。原始的な方法、しかしそうすれば、足りなくとも補えるだろうと思った。伝えられる、ような気がした。
視線を逸らすことなく、そのままに、フリーセルは暫し、思案の様子をみせた。いつもならば、静かに、そして少しよそよそしく返される筈の冴えた応答が出てこないことが、その戸惑いを表していた。
幾度か瞬きをした後で、ようやく、ぽつりと呟く。

「……助けてくれるのかい」
「それは、……分からないけど」

偉そうに宣言しておきながら、なんとも頼りない台詞しか返せずに、ピノクルはもどかしい思いを抱いた。実際のところ、自分に何が出来るといって、特に考えがあったわけではないのだ。ただ一方的に、己の立ち位置を表明したに過ぎない。
そんなものを唐突に言われたフリーセルの側としても、戸惑う以外に反応出来まい。案の定、友人は物憂げな様子で、

「うん。僕も分からない」

と言って遠くを見つめた。それきり、関心を失ったように、ピノクルに視線を向けない。俯いて、胸元に下げたペンダントを弄っている。
それなりに真剣であっただけに、少々哀しいものがあるが、失笑されなかっただけ、まだ良かったと思うべきなのかも知れない。役立たずで、情けない、力不足を実感して、ピノクルは肩を落とした。
やるせない思いが、伝播したのだろうか、フリーセルはふとピノクルに顔を向けて、付け足すようにして口を開く。

「君が面倒見の良い、親切な人であることは分かったよ」

それは、もしかしたら、この内向的な友人にしては珍しい、彼なりの慰めの言葉だったのかも知れないが、残念ながら、ピノクルの心を軽くするには至らなかった。そんな風に、性質の問題として一般化されてしまっては、まるで意味がない。そうではないのに──しかし、だからといって、何なのかといえば、上手く言い表せない。ますます落ち込む思いで、ピノクルは気だるく首を振ってみせる。

「……そっか」

どちらともなく、口を閉ざした。二人並んで座りながら、交わす言葉もなしに、無為に脚を揺らす。ふと、ピノクルは、並んで置かれた友人と自分の手に目を遣った。
ベンチに添えられた友人の片手は、もう随分とそうして風にさらされていたのだろう、いつにもまして血の気を失っている。元々の皮膚の色素の薄さもあいまって、その均一な白さは、あたかも造り物のように感じられた。日射しは暖かいとはいえ、丘から吹く風は、秋の冷たい空気を含んでいる。じっとしていれば、末端から熱を奪われていくのは、当たり前だ。実際、制服のシャツの上からベストを着用しているピノクルにしても、風が吹くと、少し肌寒さを感じていたところである。まして、ずっと外に出ていたフリーセルは、すっかり冷えきってしまっていてもおかしくはない。
手を伸ばしたのは、特に深い意図があってのことではなかった。触れたら、きっと冷たいのだろうと、思ったら自然に手が動いていた。長袖の下に腕輪を隠した友人の手を、包み込むようにして、上から重ねる。
触れた瞬間、隣の友人の肩が、その指先と一緒に、小さく強張るのが分かった。遅れて、咎めるような瞳がこちらに向けられる。ただ、ピノクルの思いつきの行為に、フリーセルが返してきた反応らしい反応はそれだけで、手を振り払うことも、文句をつけることもなかった。だから、ピノクルも、友人の手を握って、離そうとはしなかった。
触れた指先は、想像した通り、熱を失って冷えきっていた。けれど、造り物のように頑なではなくて、しなやかな感触が心地よかった。
皮膚を撫でていく風から、護るように手を重ねていると、触れあった部分を通して、次第に熱が馴染んで伝達していくのが分かる。やがて、互いの温もりが近しくなると、まだ冷たい箇所を探して、また握り直す。奪われた体温を、少しでも埋め合わせて、暖めてやりたかった。
どれだけの間、そうしていただろう。客観的にいえば、さほど長い時間ではなかった筈だ。分け与えられた熱が、少なくとも表面的には、冷たかったフリーセルの指先をすっかり包み込んでいた。
案外、とフリーセルは溜息を吐くように呟いた。

「冷えていたんだね。触れられるまで、気がつかなかった」

他人事のように言って、ピノクルに繋がれた自らの片手を見つめる。その淡々とした振る舞いが、あまりに無感動すぎるようで、ピノクルは、少し気にかかった。
確かに、フリーセルは感情表現の豊富な性質ではない。抑圧している、というわけでもないのだろうが、およそ人前で情動をあらわにする姿というものを見せることがなく、いつも控え目で、喜怒哀楽の振れ幅が小さい。しかし、それを踏まえたうえで、それなりに親しい付き合いをしてきた仲間としてみても、目の前の友人の態度には、どこか噛み合わない、常にはない、違和感がある。
危うい──とでもいうべきだろうか。具体的に、何がどうしてそうなのかと、医者のようにデータや言葉で説明することは出来ない。それ以前の、直感、あるいは予感とでもいうべきところで、ある種の異変を、ピノクルは捉えていた。この友人を、独りでここに残していってはならないと、己の内で警告が鳴る。取り立てて、具体的なイメージで、恐れるべき何があるというわけでもないのに、それは、気のせいといって済ませるには、あまりに鮮烈だった。

似たようなものを、かつて一度、感じたことがある。
あれは、幼いフリーセルが母親を亡くして、まだ間もない頃のことだったように記憶している。教養課程における、造形の実技の時間でのことだった。先端の鋭利な工具で木片を穿つ作業の最中、誤って指を傷つけてしまったとき、フリーセルは一言も声を上げなかった。机を汚してしまった、何か拭くものはないかと、問われた隣の生徒が、むしろ、傷口から伝い流れる鮮血を目の当たりにして狼狽してしまい、それでようやく異変に気付いた教師が駆け付けたほどだ。痛いだろう、と周囲から同情の声を掛けられても、最後までフリーセルは、机に落としてしまった血痕だけを気にしていた。
痛々しい思いで、その血まみれの指を見つめていた一人だったピノクルとしては、まるで他人事のように落ち着いたフリーセルの態度は、到底、理解できるものではなかった。なにか、見てはいけないものを、見てしまったような、空恐ろしい気さえした。今にして思えば、それは、戦慄というのに近かったのではないかと思う。

あのとき抱いた思いは、今この胸に渦巻くものと、同じでは──なかっただろうか。友人が、なにか遠いもののように感じられて、そのまま失ってしまいそうな、そんな予感では──なかっただろうか。
──否。
得体の知れない不安を、ピノクルは頭を振って追い払った。何もこんなときに、そんな昔話を思い起こすことはない。関係のないエピソードを無理やりに繋げて、何かを分かったような気になるのは、身勝手にもほどがある。
我が友人は、ただ、人より少しばかり、ストレートな感情表現に欠ける性質というだけだ。生まれながらの個性の一つで、何も悪いなんてことはない。フリーセルが、おかしいなんて──そんなことは、ない。
なぜなら、彼は、フリーセルなのだから。
「組織」に参入して、腕輪を貰ったばかりだから、少しばかり精神のバランスが崩れることはある。それも、次第に落ち着く筈だ。何も心配することはない。胸の内の思いを、表面上は上手く覆い隠して、ピノクルは友人の手を取ったまま立ち上がった。

「戻ろう。いつまでもこんなところにいたら、風邪ひくよ」

あくまでも明るい調子で提案すると、フリーセルは大人しく頷いたので、そのまま手を引いて立たせてやる。

「ありがとう」

小さく呟く友人の態度は、いつになく素直なもので、ピノクルは自然と微笑ましい思いを抱いた。
そうして改めて見ると、フリーセルの元々白い頬は、血の気が引いて、少し青褪めているようにさえみえた。殊勝げに伏せた睫が、繊細に震えて影を落とすから、余計にそう感じさせるのかもしれない。
あれだけ指先が冷えきっていたということは、身体もだいぶ凍えてしまっているのではないだろうか。先の反応を見るに、少しずつ熱を奪われていったから、本人は気付いていないのかも知れない。
思案するや、ピノクルは友人の頼りない肩を抱き寄せていた。手を重ねたのと、それは、ピノクルにとっては、大きく意味合いの変わらない行為だった。ただ、フリーセルの側にとっては、そうでもなかったらしく、腕の中の身体は、あからさまに固まってしまっていた。
抵抗されないのをいいことに、その白い頬をそっと撫でると、やはり指先にひやりとした感触があり、思った通りだ、とピノクルは胸の内で頷いた。己の肩に預けさせるように、軽く頭に手を置いてやりながら、言い聞かせる。

「今度からは、ちゃんと温かい格好して出なよ。心の前に、身体壊しちゃ、どうしようもないからさ」

まるで子どもに向かって言うようで、ともすれば友人は気分を害するだろうかとも思われたが、予想に反して、フリーセルは大人しく頷いてみせた。ただ、その瞳は決してピノクルの方を見ようとはしなかったし、俯いた表情は、何かを堪えるようだった。
固く結ばれたフリーセルの唇は、それ以上の何も紡ごうとはしなかった。その胸の内が、いかなる思いに満たされているのか、ピノクルには知る術はなかったが、今一度、肩を抱く腕に無言で力を込めると、友人を促して寮へと足を向けた。




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