フラグメンツ -2-
人類を、卑劣なる神々のくびきから解放し、より高次の存在へと導く。
オルペウスの名を冠した騎士団の掲げる、そんなお題目を、己の使命として胸に留めている者は、実際、誰もいなかった。
リーダー格のメランコリィは、人類を導く高潔な使命感などとても持ち合わせていそうになく、ただ他人を弄んで面白おかしく過ごせればそれで満足らしかった。
ミゼルカは、己に役割を課すことで、自らの存在意義を見出そうとしている節があり、縋る対象は何でも良かった筈だ。
ダウトは一見、組織の目的に最も忠実であるかのように見える。しかし、彼も騎士団の理想に共鳴したというよりは、そのような壮大な夢を語るクロンダイクなる人物のカリスマ性に心酔してここにいるといった方が正しい。かの人物が一言命じれば、昨日までとまるで逆の使命を果たすことすら、彼は厭わないだろう。
ピノクルについては、言うまでもない。彼は自分を変えたかった。自己肯定感の拠り所となる「お守り」として、オルペウス・オーダーという組織に頼っただけで、その崇高なる目的などはどうでもいい。
高々と旗印を掲げつつも、そこに描かれた理想郷の是非を、己の頭で審議した上で組織に身を置いている子どもは、ひとりもいなかった。誰もが皆、別々の目的を抱き、あさっての方向を向いている。
否、案外、すべての組織の内側というのは、こんなものだろうか。別々の心を持つ、別々の人間が、ひとつの目標に向かうことなど、所詮は不可能なのだろうか。
それでは、とピノクルは思う。
フリーセルは、どうして、ここにいるのだろう。
彼の瞳には、いったい、どんな理想が映っているのだろう。
■
寮の廊下は、どこまでも同じ扉が続いているが、小さな番号表示を頼りにしなくとも、友人の部屋を間違えることはない。階段からの歩数を身体が覚えているから、目を瞑っていても、その扉の前でちゃんと足が止まる。
「──フリーセル? ちょっといい、」
扉をノックして、ピノクルは友人に呼び掛けた。返事はない。それ自体は珍しいことではなくて、あの友人はパズルや読書、あるいは空想に夢中になると、すっかり外界を遮蔽してしまうのだ。呼び掛けられても気付かずに、肩を叩かれてはじめて、そこに誰かがいることに気付くといった具合である。そんなことだから、どうも危うげで、幼馴染としては、放っておけない気持ちにさせられる。今回もまた、何かに没頭しているのだろうと予測しつつ、ピノクルはゆっくりと扉を開けた。
予測に反して、室内の灯りは消えていた。薄闇の中に、部屋の主の気配は感じられない。一応、軽く首を廻らせてみるが、簡単に見渡せる部屋のどこにも、姿を隠せる場所など、ありはしない。留守か、とピノクルは肩透かしを食らった気分で嘆息した。たいていの場合、フリーセルは談話室や他の学友たちの部屋に顔を出さず、自室にこもって過ごしているから、こういうすれ違いは珍しい。
まあいい、帰ってくるのを待たせてもらうとしよう。何の気なしに、ピノクルは寝台に腰掛けようとして、しかし、直前でふと、考え直して動作を止めた。きれいに整えられたシーツに皴を寄せては、あの潔癖な友人は良い顔をしないだろうことに、辛うじて思い至ったからだ。彼のいつになく冷たく蔑むような目に射られつつ、淡々と皮肉を投げつけられることを思えば、余計なことはしないに限る。長いつきあいの中で、どうやら自分もそれくらいのことは学んだらしいと、ピノクルは苦笑した。
とはいえ、そもそも、勝手に部屋に入っている時点で、友人の機嫌を損ねることになりはしないか、と問われれば、まったくもってその通りである。しかし、他に適当な居場所もないので、仕方あるまい。扉の外で待つというのは、礼儀には適っているかも知れないが、友人相手にするには、あまりに他人行儀であるというのがピノクルの考えだ。それについて、フリーセルの側も、特に文句を述べたことはない。単に、何を言っても仕方のないことだとして、諦めているだけなのかも知れないが。
寝台から踵を返すと、ピノクルは、恐らくここなら大丈夫だろうと判断して、重厚なデスクに腰を落ち着けた。机の上は、使いかけの筆記具が転がっていることもなく、整然としてきれいなものである。油断すると、すぐ机の上が出しっぱなしのノートや教科書、プリントの積み重なった雑多な山に占拠されてしまうピノクルにしてみれば、純粋に感心するばかりのことだ。きっと、我が友人は、ペンを挟んだままのノートを無造作に積み上げた結果バランスを崩し、全てを床にぶちまけるという愚行を何度も繰り返すような人間とは、脳の働きが根本的に違うのだろう。
それでは、フリーセルのデスクは何も置かれていない寒々しい姿なのかといえば、決してそうではないというのが面白いところである。むしろ、あれこれの物が置かれている、という意味だけで言えば、ピノクルと変わらないかも知れない。ただ、フリーセルのそれが、いずれも実用性を欠いた物品であり、かつ、意図的に整然と配置されているという点が、両者を決定的に隔てている。
大英博物館、というのが第一に浮かぶ印象だ。世界最大級の規模を誇る、かの博物館は、分類を問わず各地より集積した広範にわたる収蔵品のゆえに、その性質を一言で端的に表現することは不可能である。あるいは逆に、何に特化しているとも規定し難い、その漠然とした印象こそが、なによりの特色であるといって良い。とらえどころがなく、解釈を拒む。そういうところが、フリーセルとどこか似ていると、ピノクルは感じる。
異国の神々の小さな像、彩色された陶器の欠片、木製ブロック、錆びたブローチ。デスクに粛々と並べられた小物は、相変わらず奇妙な存在感を放っていて、見れば見るほど、ピノクルは、友人の趣味がよく分からない。試しに、一つを手にとってみようとして、再び、危ういところで自制する。寝台に座るのをやめたときと、理由は同じである。更に付け加えるとすれば、寝台の場合、まだ苦言を呈される程度で済むかも知れないが、こちらは問題のレベルが違う。手を出して触れる、どころか、出来る限り近づかない方が賢明というものだ。
万が一、手を滑らせて取り落とし、破損でもしたら、どういうことになるか──考えるのも恐ろしい。うっかり忘れて、取り返しのつかないことをするところだった。その前に踏みとどまることが出来て良かったと、ピノクルは胸を撫で下ろした。
これは、フリーセルにとっては、部屋に付属の家具や備品といったものとは、概念が違う。蒐集品(コレクション)、と呼ぶべきものだ。
蒐集家というのは、その世界に興味のない人間からは、およそ理解し難い存在である。思いもよらぬ、独自の価値観を抱いているから、時に、そのルールを知らぬ一般人との間に摩擦が生じることも否めない。ゆえに、ああいった輩は厄介なものである、というイメージでひと括りにされてしまいがちである──あるいは、実際に厄介なものである。
そして、フリーセルは、そんな蒐集家と呼ばれる類の人間だった。
前に一度、彼が切手コレクションの整理をする様子を勝手に見物していたとき、そのうちの一枚を、ピノクルが何気なく素手でつまみ上げた瞬間に、何が起こったか、恐ろしくて思い返したくもない。何のために、フリーセルが薄手の手袋を嵌めて、先端を薄く平らに延ばした専用のピンセットを慎重に構えているのか、当時のピノクルは、まったく無邪気なまでに、微塵たりとも、気に留めなかったのである。
忌まわしい記憶は、心の底に封印するとしよう。ただ、言えるのは、二つだけだ──ピノクルは、フリーセルのあんなに驚愕した表情を見るのは初めてであったし、また、まるで人間ではないものを見るかのような目を向けられたのも、初めてであった。
今にして思えば、あれほど致命的なことを仕出かしておいて、よくぞ友情が決裂しなかったものだと、不思議なほどである。そこは、互いに、選ばれし名門クロスフィールド学院の子どもとしての自覚が、最後の理性を守った結果なのかも知れない。とはいえ、出来ることならば、あんなシチュエーションは、二度と味わいたくないものだというのが、ピノクルの正直な感想である。
どこから手に入れてくるのか、飾られた考古学趣味なミニチュアの数々は、紛れもなくフリーセルの重要なコレクションであるからして、手出しは厳禁である。他に何か、適当な時間つぶしになりそうなものはないか──視線を動かしたところで、ピノクルは、デスクの片隅に置かれた地味な書物の存在に気付いた。壁の大きな本棚には、頭の痛くなりそうなタイトルの書籍が、きっちりと分類されて収まっているが、この一冊だけ、デスクに出ているのはどうしたわけだろう。
丁度、読んでいる最中なのだろうか、と予測するのが普通である。ただ、見れば、タイトルも何もなく、しかしそれなりの厚みを備えたハードカバーである。装丁からして、もしかしたら、書籍ではなく、白紙のノートなのかも知れない。より精確に言えば──フリーセルの手によって、白紙に何かが書かれたノート、ということになろうか。
余計なことはすまいと、決めたばかりだというのに、その感心な心がけは、早くも消え去っていた。好奇心の前には、いかなる心掛けも、たちまち意味を失ってしまう。今のピノクルにとって、何より優先すべきは、友人に関する新たなデータを仕入れるという作業だった。
音を立てずに、そっと、その重厚なハードカバーを手に取る。片手にずしりとかかる適度な重みが、見かけ倒しではないその装丁の頑健さを教える。後ろの方を開けると、薄い罫線の入った真っ白のページが目に飛び込んで、予想通り既製の書籍ではなくて、自ら筆記するためのノートであることが知れた。
およそ持ち運びに優れているとはいえない、その風体が物語るように、講義や研究の記録用のノートでないことは明らかだ。そうした、携帯するものとは違って、これはデスクに据え置き、一日の終わりに一度、ページを広げる帳面であることが相応しい。日々の記録、日記帳と推測するのが妥当だろう。
今一度、意味もなく周囲を確認してから、ピノクルはノートの中ほどに指を掛けた。小口の白さも眩しい、未だ開かれざる後半と違って、こちらはよく見ると、ページの角が丸みを帯び、あるいはインキを吸ってたわみ、幾度となく開いて使い込んだ形跡が漂う。いったい、我が友人は、毎日、何を書き綴っているのだろうか──その頭の中を覗き見るようで、期待感と少しの背徳感に、鼓動が高鳴る。
いよいよ、その中の一ページを開いて、ホローバックをしならせる。見開きを目の前にして、第一にピノクルが抱いた感想は、ごくシンプルなものであった。
──なんだ、これ。
日記帳かと思ったが、勘違いだったのか、と一瞬思った。ノートの中身が、想像していた様式とはだいぶ、異なっていたからだ。
罫線に沿って、美しく整列する、抑制の利いた文字列で構成された紙面は、一見して、印刷物かと思うほどに秩序立っていた。よく見れば、万年筆特有の筆記線の強弱、僅かに滲んだインクの濃淡を認めることが出来るが、それにしても、微かな表情といった程度である。のびのびと筆を走らせたという印象は、微塵もない。
誰に見せるものでもないというのに、こんな風に気を払って書くなど、ピノクルには理解し難いことである。しかし、実際、こうして他人に見られているわけであるから、それは正しかったということか、とピノクルは妙な納得をした。
言うまでもなく、フリーセルは読者を意識してこのように書いたわけではなくて、自分自身が読み返しやすいために、あるいは、単純に彼の潔癖な性格のゆえに、こうなったということであろう。
夜更けにデスクに向かい、几帳面にこれを書きつけている友人の姿を想像して、知らず笑みがこぼれる。
ぱらぱらとページをめくり、目に留まったところで、ピノクルは、ある一日の記録を読み始めた。
■ ■
今日は、「私物」という単語を、二回も口にした。
ひとつは、資料室に居合わせた下級生に、タングラムの在り処を訊かれたときだ。見当たらなかったので、「私物でよければ」と自分のものを貸してやった。もうひとつは、遊戯室に集っていたときだ。新たなボードゲームに目を止めたクラスメイトが「先生も気が利くもんだね」と感心してみせたので、それは自分が資料として持ち込んだ私物であることを教えた。
同じ単語を、一日に二回も口にしたということ。二回目のときに、それに気付いて、これは書き留めておかなくてはいけないと思った。他の単語では、こうはいかない。あくまでも、「私物」という単語だから、こうも意識に引っ掛かる。
「私物」なんていうものが、まるで当たり前に存在しているかのように振舞う、そんな自分が、可笑しかった。だいたい、この学院内に、生徒の「私物」などは存在しない。生活に必要なものは、すべて学院側から与えられる。それらは一時的に貸与されているだけであって、個人の所有物とはいえない。
(学内で手に入れたものは、何だってそうだ。備品しかり、知識しかり。有形・無形を問わず、「自分のもの」とは言い切れない……そもそも、生徒自体が、学院の「所有物」じゃないか?)
そういう意味で、私物というのは、日記くらいのものかも知れない。
自分のものではない日記帳に、自分のものではない万年筆で記した記録。しかし、それは間違いなく、自分のものだ。この手で創り出した、ただ一つの、自分だけのものだ。
とりとめのない空想、それに、他愛のない会話。それもまた、数少ない、「私物」になる。それらは、書き留めなくては、儚く消えてしまうものだ。しかし、時に心を動かす、ささやかな財でもある。
形のない、そんな小さな欠片に、形を残してやること。その結果としての、日記帳だと思う。
■ ■
面倒なこと考えてるなあ、というのが、まず思い浮かんだ感想である。確かに、言われてみれば、自分たちにはペン一本の所有権すらない。そんなことを、これまで深く考えたことのなかったピノクルにとって、フリーセルのその視点はなかなかに斬新で、面白い。というよりも、いちいちそんなことを考えているらしい、友人の思考回路が面白いと思った。
フリーセルは、他の友人たちと違って、思ったことをすぐに口に出すタイプではないから、彼がいつも独りで何を考えているのか、こちらからは、およそ信頼性のない推測を働かせることしか出来ない。秘密主義というわけではなかろうが、ちょっとした思いつきでも、もっと喋ればいいのに、とピノクルなどは思う。
実際、こんな風に、面白いことを考えて、記録しているではないか。日記帳を相手にするなら、学友を相手にしたっていい筈である。その方が、きっともっと面白いし、新たな発想も生まれるというものだろう。
この後にも暫く、「私物」論は展開されていたが、ピノクルは、それらを軽く流し見るにとどめた。次の日付に移って、目を通してみると、そちらもやはり、友人の理屈っぽさの遺憾なく発揮された小論文が展開されていて、そのまた次の日も、同じ具合であった。出版でもするつもりかね、とピノクルは延々と続く文字列を前に、あきれたような思いで独りごちた。
日記といえば、その日に何をしたか、という行動リストの記録だと思っているピノクルから見れば、フリーセルのこれは、日記ではなく、アイデア帳とでもいった方が正しい気がした。なにしろ、一番期待していたことだというのに、いくらページをめくっていっても、ピノクルの名前が登場しないのである。ほとんど毎日、半ば勝手にとはいえ行動を共にしているのだから、何か書かれていても良さそうなものだというのに──逆に、さして親しくもない筈の、ダウトがああ言った、メランコリィがこうした、などと書かれているのを目にして、余計に気分が落ち込む。日々、それなりに目新しく、面白いことをやっているつもりのピノクルとしては、自分の存在は書き残すにも値しないものだろうか、などと嘆きたい気分になるのもいたしかたない。
一つ溜息を吐いて、ページを繰る指先を休める。
まあ──これが、大事な物なのだろうな、というのは、ピノクルにもよく分かった。
本人も書いているように、これは、本来ならば消えてしまうものに、かたちを与えて残したものだ。この日、このとき、こういうことを考えた人間の存在したことを、証するものだ。何も持たない筈の子どもが、正しく一から自分の手で創りあげた、──オリジナルだ。
整った筆跡を、なんとなく、指先でなぞってみる。それで何が分かるとも思えなかったけれど、少しだけ、これを書きつけた親友の心境に、己を重ねることが出来るような気がした。重ねたい──理解りたい。
「──興味深い記述でもあったのかい。あまり、紙面に油脂をつけないでもらいたいんだけど」
「うわぁ」
背後からの声に、手の中の物を落としかけて、ピノクルは危うく踏みとどまった。ここで日記帳を取り落としたら、今度こそ、儚い友情は決裂してしまう。それだけは辛うじて回避して、ピノクルは一つ、安堵の息をもらした。ばつの悪い思いで振り返ると、いつからそこにいたものか、悠然と腕を組んだフリーセルの冷めた瞳に相対する。おそるおそる、日記帳をデスクの上に戻しながら、ピノクルはぎこちない笑みを拵えた。探るように、声を潜めて問い掛ける。
「怒った?」
「別に」
短い返答は、どう考えても、友好的な態度と解釈するには不適切であった。加えて、フリーセルは、これ以上見たくもないとでもいうように、ピノクルから顔を背けた。怒ってるじゃないか、とピノクルは胸の内で嘆きつつ、懸命に弁明を紡ぎ出す。
「その、さ。別に秘密とか、恥ずかしいポエムとかじゃないんだから。隠さなくても、いいじゃない。気にしないでよ」
盗み読んでいた側の言うことではないな、という冷静な自己批判には気付かぬ振りをして、ピノクルはなんとか、場の空気を取り繕うべく努力した。いつも、クラスでくだらない雑談をするときのような調子で、明るく発した声は、しかし、白い室内に空々しく響くばかりだった。肝心の、友人からの反応がない。
これはまずい、本気で怒っている、とピノクルの脳裏で警報が鳴った。
ふと、フリーセルが俯いていた顔を上げて、僅かにピノクルに向けた。熱を感じさせない瞳に、横目で見据えられると、あたかも心臓まで掌握されたかのような感覚で、背筋が固まった。得体の知れぬ緊張感に、思わず唾を呑み下す。
あたかも、哲学的命題を思考するかのような風情で、フリーセルは額に指を当てると、裁かれるのを待つ哀れな友人に向けて一言、口を開いた。
「……どこまで読んだ、」
これは重要な問いである。ここでいかに回答するかによって、あるいは、今後の自分たちの友人関係は大きく分岐するかもしれない。それくらいのことは、ピノクルにも分かったが、かといって、どう答えれば最も効果的にフリーセルを宥めることが出来るのかというところまでは、残念ながら頭が働かなかった。
得意の口八丁で、あれこれ策を弄したところで、フリーセル相手では、なぜかいつも上手くいかない。いっそうに墓穴を掘るばかりである。だから、正直に、ありのままに答えることにした。
「えっと、私物がどうとか。……ていうか、そんなに読んでないよ。正直、小難しくて、よく分からなかったし」
素直な感想である。友人の日記帳を手にして、主にピノクルがしていたことといえば、自分の名前がいつ登場するかと、ページを繰って検索していたことくらいである。そうじっくりと内容を読んだわけではない。そんな時間はなかったし、たとえ時間があったところで、書かれた内容が終始あの調子では、途中で根を上げたことだろう。
下手に取り繕わず、正直に答えたことは、どうやらフリーセルにも伝わったらしい。そうだろうね、と呟いて、一つ溜息を吐く。そこには既に、先ほどまでの凍てついたような雰囲気は感じ取れない。許してくれたのだろうかと、ピノクルもまた、密かに胸をなでおろした。
「ごめん。勝手なことして」
「別に。怒ってないって、さっきも言ったよね」
嘘だ、と思ったが、ピノクルはあえて異を唱えることはしなかった。こんなことで怒る自分ではない、とフリーセルが思いたがっているのなら、それに乗ってやるのが思い遣りというものだ。それに、言われてみれば、フリーセルの態度は、怒っているというのとは、少し違ったような気がした。淡々と抑制された声や、物憂げな瞳の奥に、あったのは激情というよりは──それは、もっと他の──思いを馳せて、ピノクルは、今一度口を開いた。
「でもさ。なんかフリーセル、……辛そうだったから」
特に深い考えなしに、ただ、思ったままを言っただけだった。それなのに、口に出すとなぜか、すっと胸に落とし込まれて、違和感なく噛み合うようだった。友人の様子を伺うと、よほど予想外の台詞であったのか、声もなく、まじまじとピノクルを見つめている。なんだ、自分で自分の気持ちにも気付いていないのか、とピノクルは苦笑した。
「大事なものに触られて、心配だったんだよね。壊されたり汚されたりしてたら、どうしようってさ。俺が言うのも何だけど、たぶん大丈夫だよ。もう触らないから、安心して」
励ますように言って、降参のポーズで両手を挙げてみせる。おどけた格好が可笑しかったのか、フリーセルは戸惑うような表情から、ふっと笑みをこぼした。ああ、ようやく笑った、とピノクルは胸の内がほのかに温まるのを感じた。
自分の持ち物というのを、過剰と思えるほどに大事にする、フリーセルの性質をピノクルはよく承知している。ついつい乱暴に取り扱ったり、うっかり落としてしまったりして、あれこれ失くしたり壊したりしてばかりの少年たちと違って、フリーセルは本当に、物を大事にする。
乱雑なクラスメイトたちの所持する、妙に真新しい備品の数々は、何か失くす度に教師に嫌味を言われながら調達しているものであるが、フリーセルの私物は、何であれ、丁寧に年月を経た風合いを醸し出して統一されている。所有者本人に、馴染んでいる、というのはこういうことを言うのだろうか。長い年月を共に過ごした、それらの物は、フリーセルにとっては、大切な友人といっても等しいものなのだろう。それゆえに、そうした持ち物が、他人に易々と触れられることを好まない。単に潔癖というのではなくて、そこには、彼なりの深い思い入れあってのことである。
まして、毎日書きつける日記帳などは、並々ならぬ愛着を持っている筈で、それを他人の手が取り上げているとなれば、わき起こる感情は、怒りというよりは不安を置いてほかにない。そんなことは、あり得ないと頭で分かってはいても、もしその手がページを破ったら、あるいは、窓から外に放り投げたら、と心配せずにはいられない。物を大事にするというのは、そういうことだと、ピノクルは友人を通して理解している。
ゆっくりと、フリーセルはデスクに歩み寄り、ピノクルの脇に立った。デスクの上に戻された重厚な帳面に、そっと片手を乗せる。白い指先が、あたかも何かを読み取ろうかというように表紙を撫でて、静寂の中、それは神聖な儀式であるかのような光景だった。軽く瞼を閉じて、いったい、我が友人は何を思うのだろう──慈しむような指先から、何を感じ取るのだろう。犯し難い高潔な横顔を、ピノクルは目を細めて見つめた。
ふと、日記帳から手を離すと、フリーセルは隣の友人に向き直った。
「ところで、何か用だったんじゃないのかい」
「ん、ああ。特に用ってわけじゃないんだ。なんとなく、話したくて」
そう、とフリーセルは小さく頷く。
「だったら、一緒に夕食に行かないか。そろそろ時間だ」
友人からの、珍しい誘いの言葉は、彼なりの和解のしるしであったのかも知れない。行く行く、とピノクルははしゃいだ声で応じて、二人して階下の食堂へと下りていった。