カンバスの回転 -1-
なんという美しい手つきで、キューブを操作するのだろうと思った。もしも、かの少年に心を惹かれることになった、転換点を一つ挙げよと言われたならば、それはおそらく、この瞬間になるのだろう。
頼りないほどの、か細い子どもの指に支えられて、キューブは恐ろしくスムーズな動きで回転する。多量のグリスを塗布しているわけでもあるまいに、それは、にわかには信じ難い、美しい光景だった。年齢に似つかわしくない、冷めきった無感動な瞳を物憂げに伏せて、少年はただキューブを胸の前に捧げ持っているように見える。その白い両手の中で、あたかも、ひとりでにキューブが回転し、あるべき姿へと巻き戻っていくような──見る者に、そんな幻覚を与える解法だった。
パズルというのは、ただ解くだけで満足しているうちは、何も分かっていないのと同じことであるといえよう。否、中途半端に分かった気になっているだけ、何も知らないよりもよほど性質が悪いかもしれない。
一つはっきりと言っておかねばならないのは、解法を知識として知っているとか、パターンを暗記しているだとか、技術を備えているだとか、そんな背景に頼ってパズルを解くのでは、決して、パズルと対話することは出来ないということだ。
制作者の丹精込めた作品としてのパズルに対し、人はそれに見合うだけの礼節と覚悟をもって臨まねばならない。ここでは、ただ解くのではなく、いかにして善く解くかということ、いかにしてそのパズルに最も輝かしい解法を与えるかということが主題となる。
パズルとの対話なくして、勝利を得ることは出来ない。その真理を知る者にとって、これは、戦いというよりは、パズルと人とが協調して一つの美しい結末を導いていく、崇高な儀式であるかのようにさえ思えるのだ。
その意味で、キューブを操る少年の姿は、あたかも地上に舞い降りた神の代理人であるかの如く、非現実的なまでに荘厳な光を放っていた。思わず跪き、祈りを捧げたいという思いを、抱かなかったといえば嘘になる。あと僅かばかり、アルコールが入って大胆な心地になっていれば、恐らく私は躊躇いなくそれを実行したことだろう。そうしていたとしても、後悔しないだけのものが、少年の纏う空気には織り込まれていた。
彼は、パズルを解いているのではない──と、私は直感的に理解した。これは、そのような一方的な関係だけでは、とうてい成り立つようなものではない。キューブが、あたかも自らの意志を持ったかのようにして動くなど──そこには、より上位の精神的交感が介在しているのではなかろうか。
パズルが、人の道具となるのではなく。人が、パズルの道具となるのでもなく。対等に尊重しあう関係が、そこには、結ばれているのではないだろうか。
言うなれば、今、彼は解答者としての立ち位置を棄て、パズルと心身を一つにしたのだ。キューブの回転もスムーズになろうというものだ──パズルと彼との間に、今やいかなる物理的抵抗も摩擦も、入り込む余地はないのだから。
現実離れした目の前の光景を、人々は固唾を呑んで見守る。先ほどまでの、ほんの余興を愉しんでやろうかといった程度の気楽な面持ちは、すっかりどこかへ置き去りにしてしまったらしい。驚愕、そして間もなく茫然へと、彼らの反応は面白いほど順調に推移して、現在に至る。
誰も、予期し得なかった。
こんなことになろうとは、あの時点では、誰も──私を含めて、誰も、僅かたりとも思ってはいなかったのだ。
■
「──クロスフィールド学院の、お墨付き。らしい」
POGジャパン研究施設内に設営された簡単なパーティー会場に、今宵は中堅構成員たちが一堂に会していた。定期的な情報交換を兼ねた懇親会という趣向である。その場で、「新入り」として紹介されたのは、およそこの場に似つかわしくない、年端も行かぬ白い子どもだった。
否、紹介という言葉には語弊があるかも知れない。メンバー全体に対して何らかの挨拶があったわけでもなければ、自己紹介をして回るでもなく、その子どもはただ、独りでこの場にいるというだけだったからだ。本当に、ただ立っている、というのが相応しい在りようだった。噂話好きな人々の遣り取りのおかげで、断片的な情報が耳に入り、私は彼が新たなる同志であることを知ったが、果たしてこれを紹介といって良いものか──ともあれ、私はその会場の隅の方に佇む少年に目を遣った。
年若い構成員、それ自体は珍しいものではない。パズルにおいて、一定のレベル以上の才覚を有すること、それだけを条件に、年齢などの制限は設けることなく、POGは誰しもに門戸を開放している。だが、それは末端のギヴァーに限った話である。いやしくも本部の敷地内に立ち入ることを許されるのは、これまでの活動を通し、組織にそれなりの貢献を重ねてきた者たちに限られる。そんな選ばれしメンバーたちの中にあって、十歳そこそこの少年の姿は、異様であるとしか言いようがなかった。
白い髪、白い肌、白い衣装、病的なまでに白に統一された格好にしてもそうであるし、紹介を他人の勝手な噂話に任せて自分からは一言も発することなく、子どもらしさの欠片も感じさせない無感動な蒼い瞳を伏せて突っ立っている様子も、近寄り難いものを感じさせる。
得体が知れない──私を含むこの場の全員にとって、彼の第一印象は、その程度のものであった。
きっかけは、ほんの些細な好奇心だったのだろう。酔って少しばかり羽目を外した連中の、つまらない思いつきであったように記憶している。歓談に加わるでもなく、隅の方で佇んでいる少年に、何かやらせてみようという話になった。本当にこの組織の一員となるに相応しい能力があるものか、試験しようというのだ。
ギヴァーたちの集いということもあって、適当なパズルはすぐに供出された。それは、ルービック・キューブの上位種──5×5×5の分割によって構成される、プロフェッサー・キューブと呼ばれる代物である。恐れを知らぬ誰かが、目の前にキューブを突き出してやると、少年は初めて顔を上げて反応を示した。無関心を装う者も、誰もこの会場の者は皆、密かに彼に関心を向けていたらしく、彼がキューブを手にしたのを合図に、全員の視線が一点に集中した。
そして、一拍を置いた次の瞬間には──これである。
それは、正しく、夢のような時間だった。
繊細に、そして勇壮に、彼の指はキューブを奏で、絡み合い、戯れ、言葉を交わし、気付けばもう、キューブは見事に面を揃え、完全なる秩序を取り戻している。
誰もが、呼吸さえ忘れ、その鮮やかな魔術に魅せられていた。気安く称賛の言葉を口にするような者は、一人もいない。それほどまでに、圧倒的であった。
言うなればその場を支配していたのは、興奮や感心、感動といった、輝かしい感情ではなく、むしろ──陰鬱な、畏れに他ならなかった。下手に動けば、魂を奪われてしまうかのような、張り詰めた静寂の中、人々は、目の前の少年を畏れていた。行き過ぎた能力を持つ者は、称賛を通り越して、異端として排斥される──かつて幾度となく、人類の繰り返してきた伝統的場面が、今まさに、眼前に展開していた。
トリックだ、と誰かが呟いた。決して大きくなかったその一言は、しかし、現実を認められずに畏れおののく人々の間には、確実に深く浸透した。あたかも、それで納得のいかないことは全て都合よく片づけられる、便利な魔法の言葉を、彼らは己に言い聞かせるように口々に囁く。
あんな子どもが、ありえない。ただの手品だ。ルールに反した、卑怯な行為だ。
互いに確認しあい、一体感と安心感を高めた集団は俄かに勢いづき、寄ってたかって一人の少年への誹謗中傷を始めた。
やれやれ──と、私はその現場から少し距離を置いて、事態の推移を傍観する体勢に入った。栄えあるPOG構成員ともあろう者たちが、なんと嘆かわしい振る舞いをするのだろうかと、礼節に欠けたその態度に思わず溜息が出る。
いったい、トリックというのならば、どのような仕掛けがあったというのだろう。その部分へ、具体的に言及する人間は一人もいない。構わないのだ、理由など、根拠など、分からなくても一向に構わない。何かタネがあるのだろう、その程度の認識でもって、人はまるで何かを見破ったかのような優越感に浸ることが出来る。
ひどく侮辱的な言葉を投げつけられながら、しかし、少年は反応を見せなかった。先ほどまでと、まったく変わらぬ在りようで、静かに佇んでいる。自分が今、この場の主役であるということを、果たして理解しているのかどうかも疑わしい。
反論をしない、という事実は、糾弾者たちにとっては、己の正義をさらに確信するための格好の材料となった。自分の罪を認めたのだと、勝手な解釈でもって、無言の少年を嘲弄し、罵倒する。
だが、この場合、下手に反論をしないというのは、ある意味で正しい対処であるように思えた。いくらタネも仕掛けもないといって手の内を示し、調べさせたところで、疑惑を完全に拭い去ることは出来ない。きっと、見つからないような巧妙なトリックを用いたに違いないと、彼らの妄想をさらに強化するばかりの結果になるだろう。手品だということを証明するには、タネを見つけさえすれば良いが、手品でないということを証明するのは、何をもってしても不可能だ。そして、無実を証明しない限り、有罪の証がなかろうとも関係なく、糾弾は止まない。
こうなれば、集団の暴走は拡大するばかりである。それを見越して、あえて何も反論をしないという道を取ったのだとすれば、なかなかの策士であるといえよう。何も見えていないような、何も聞こえていないような、何も考えていないような、人形めいた無表情でいて、その内側にはいかなる思いが渦巻いていることか──私は少しばかり、興味がわいた。
いずれにしても、これはやり過ぎだ。数に物を言わせて己の優位を確信した人々は、哀れな少年を取り囲み、完全に愉悦の表情を浮かべている。鬱屈を晴らす、格好の獲物を見つけたといったシチュエーションだ。醜悪な包囲網から、後ずさることさえせずに、少年はその場に立ちつくす。穢れなき天の御使いの背に翼はなく、この醜悪な地上から飛び立って去ることは叶わない。
最後の一線を踏み越えて、とうとう誰かの突き出した粗野な右手が、その腕を無造作に掴む。勢い任せに引かれた弾みで、少年の手からキューブが転がり落ちた。美しく繊細な動きを見せた少年の腕に敬意の欠片さえ払うことのない愚かな者どもにとって、そのまま幼い身体を引き倒し、地に伏させることはいとも容易い。今まさに、そうして白い衣装が汚されるかというとき──やれやれ、どうして人は、自分には決して手に入らぬもののあることを知ると、潔く諦めるのではなく、対象を自分のところまで貶めることで憂さを晴らすことしか、しないのだろう──その直前。
だから、孤立無援の少年の前に、私が己の身体を割り込ませるのは自然なことだった。年若い者への理不尽な暴力に義憤を覚えるような純粋さは自分とは無縁のものであるが、美しいものが貶められるのを黙って見過ごすというのは本意ではない。
あたかも、白熱する議論に挙手をして発言を求めるかのような、場にそぐわぬ紳士的な態度でもって舞台に現れた介入者に、一同は胡乱な眼を向ける。
「──やめておきませんか。そこまでしなくとも、もう十分でしょう。相手は子どもだ」
思ってもいない台詞を吐いて宥めにかかるが、どうやら相手は大人としての自覚に乏しいらしく、聞く耳を持たない。うるさい、お前は馬鹿にされたと思わないのか、などと言って憤る。
自分より優れた者がいるという事実だけで、馬鹿にされたといちいちプライドを刺激されているようでは、まともに生きていけるとは思えないのであるが、この場合、相手が子どもというのが、悪いようにしか作用しなかったのだろう。
才能に溢れ、未来を約束され、夢と希望に満ちた、年若い者。既にその時代を通り越してしまった者たちにとって、若さは決して手に入らぬ妬むべき対象であり、自分たちを追い詰める恐るべき脅威である。特に、かつて神童と呼ばれ、自他共にその才能とやらを過信した結果はといえば、名を上げるでもなく、大勢の似たような境遇の者の中に埋没するつまらぬ駒の一つになってしまった者たちにとって、かつて身の回り全てが自分のために輝いているように見えた、無邪気で愚かで幸福な少年時代を思い起こさせる相手は、羨むべきものであり、憎むべきものに他ならない。
やれやれ──今一度、私は胸の内で溜息を吐いて、彼らを説得するための方向性を微妙に変えることにした。彼らは、この少年の力を認めることは出来まい──それならば。
「赦してやりましょう」
赦す──その言葉が発せられたとき、周囲の荒々しい空気が、ふと鎮まったように感じられた。
上位の者が、下位の者に対してすることによってのみ、成立する行為。憐れみを向け、施しを与え、寛大な心でもって接すること。それは、相手を強固に支配下に置くことにほかならない。
無駄に高いプライドを競う彼らは、それゆえに、この優越感をくすぐられる提案に心を惹かれたものらしい。少年へ向ける敵意の視線が、その性格を別のものへと変えていく。
ああ、実にまったく、ばかばかしい──そんな私的な感想は欠片も表情に出すことなく、あくまでも柔和な態度でもって、彼らに語りかける。
「いずれにしても、クロスフィールド学院直々の推薦とあっては、無下には出来ませんよ。それに、見たところ彼には、自分の意志というものがないようだ──哀れではないですか。パズルを解くことしか出来ない、それしか知らない、哀れな子どもだ。道具と同じですよ。我々とは違う。少なくとも、先ほどのパフォーマンスは皆さんご覧の通り、お飾りの人形としては適材ではありませんか。我々はこれまで通り、自分の仕事をするだけです。上手く使わせて貰うとしましょう」
スピーチを終えて見渡せば、聴衆は完全にこちらに心を傾けていた。なるほど、確かにその通りだ、こんな子ども相手にばからしい──先ほどまでの自分たちの態度も忘れ、余裕を取り戻した表情で、そんな苦笑を交わし合う。私もまた、彼らとは異なる安堵の思いで表情を緩めた。
唯一の懸念は、他に手がなかったとはいえ、このような公衆の面前で侮辱を受けた少年が何らかのアクションを見せることであったが、それはどうやら杞憂だった。自分が今、話題の中心となっていることを、果たして分かっているのだかいないのだか、彼の無感動な表情は変わらずそのままで、キューブを取り落とした己の手を、じっと見つめて突っ立っているだけだった。意志のない人形という表現も、これでは、あながち的外れでもなかったかのかもしれない。
飽きっぽい人々の興味が既に少年から離れていくのを見て取って、私は静かに身をかがめると、足元に転がっていたキューブを拾い上げた。
なにも、本当にトリックの存在を疑ったわけではないが、何とはなしに一列を回転させてみる。これといった異常はなく、キューブは当たり前のように、当たり前の回転をした。彼の白い手を離れてみれば、それは、何の変哲もない、ただのキューブに過ぎなかった。
見れば、少年はいつの間にか顔を上げて、感情を伺わせないガラス玉めいた瞳でこちらを見つめていた。キューブを返せとでも言いたいのだろうかと想像しつつ、友好的態度でもって歩み寄る。あんな演説をしておいて、友好的も何もないだろうと我ながら苦笑するが、少年の眼差しには敵意は無かった。かといって、好意がある筈もないのであるが。
正面から相対すると、私は少年の目線に合わせて腰を折った。
「──痛みますか」
先ほど掴まれた腕の辺りを、そっと労わるように触れながら耳打ちする。予想外の質問だったのか、少年は一瞬、戸惑うような表情を過ぎらせると、俯いてふるふると頭を振った。
下手をすれば痣になりそうな程度には、荒々しく掴まれていたように見えたが、なるほど、健気なことである。他人に弱味は見せまいと、子どものくせに、なかなかに強情なところがあるらしい。
そんな様子を、私は微笑ましく見つめる。見つめながら、片手の中に収まる華奢な腕を、容赦なく握り締めた。
「……!」
予告なしの暴力的行為に、少年はびくりと全身を強張らせると、声もなく苦悶の表情を浮かべた。身をよじって逃れようとしたところで不意に力を抜いてやると、あっけなくバランスを崩す。倒れ込みそうになる頼りない身体を、片腕で抱き留めるのは容易だった。
「ああ、これはいけない。どこかで休まなくては。私でよければ、お送りしますよ。さあ」
誰も注意を払ってはいないだろうが、念のため周囲に聞こえるようにアピールしつつ、少年をいざなう。表情の希薄な白い面には、今度こそ紛れもなく、驚愕の色が表れていた。信じられない、といったように碧眼を瞠る少年を前に、なんだ、子どもらしい表情も出来るのだな、と場違いな感想が頭に浮かんだ。促すように、優しく、かつ有無を言わさずその肩を抱いて、私と少年は会場を後にした。