カンバスの回転 -2-
歩調を合わせ、人影のない通路を並んで歩く。少年は今のところ抵抗する様子もなく、大人しくついてきている。決して脅しているつもりはないが、二度も成人の力で骨を軋まされた後に、しっかりと手を添わされるかたちで肩を抱かれているとあれば、哀れな被害者としては、大人しく従う以外の選択肢はないだろう。
可哀想に、と私は今更ながら、己の行為を棚に上げて他人事めいた感想を抱いた。
お互いに口を利くことも、視線を合わせることもない。奇妙な膠着状態に、ささやかな動きがみられたのは、無人の会議室に這入り、照明を点けたときだった。室内が煌々と照らされると、少年は咄嗟に、そこから顔を背けるような仕草をした。肩を抱いたままだったので、自然、こちらに身を寄せるかたちとなる。どうしたのだろうか──何かに怯んだような、逃れようとするような、その反応に私は首を傾げた。
白い壁に囲まれた室内は、余計な物のないシンプルな構成で、整然と秩序立って美しい。白いテーブルと椅子がきれいに並んでいるだけで、見渡しても特に変わったところはない筈であるが──と、そこで私は一つ思い当たることがあり、試しに彼に問うてみた。
「──眩しい、ですか」
その推量に、さして自信があるわけではなかったのであるが、片手で目元を庇った少年は、こくりと頷いた。なるほど、と私は手早くパネルを操作し、灯りの照度を落とす。辺りが薄暗くなると、少年は安堵したように腕を下ろし、こちらに寄せていた身体をそっと離した。
それで、私はこの少年に対する見方を一つ、変えなくてはならないことを悟った。彼の白金の髪は、人工的な脱色を経た場合にみられる筈の特徴的な光沢感を持っておらず、全体に曇りをかけたような、羊毛を思わせる柔らかな質感である。乳白の肌といい、淡青色の瞳といい、極めて色素が薄い。当初、私はそれをごく単純に、彼が英国出身であり、北欧の血統を色濃く継いでいることの証であるという風にしか捉えていなかった。
しかし、それならば、この程度の照明を眩しがることはあるまい。虹彩の色素量は、あくまでも表面的な特徴であって、それ単独で羞明に結び付くものではない。思うに──これは私のような素人が、外見的に判断出来ることではないが──彼の白い身体は、出身地がどうのといった要因とは無関係に発現する、先天的疾患のゆえであるのかもしれない。
だとすれば、髪や虹彩といったパーツに限らず、眼球内部に至るまで、同等の色素欠乏が起こっているとも考えられる。本来ならば、膜上の色素をもって遮光されるべき眼球内部が、その機構を欠いた状態で光に晒されるとあれば、堪え難い眩しさを感じるのは自明だ。頭から爪先まで、全身に及ぶ色素欠乏──その結果、何が起こるか、私も世間並みには心得ている。
思い起こせば、パーティー会場は演出上、スポット照明によってあえて陰影ある空間に形作られていたし、歩いてきた通路も薄暗かった。少年は会場でも、照明の届く範囲を避けるように隅に立って俯いていて、その時は単に目立ちたくないのだろう、暗いところが好きなのだろうくらいにしか思わなかったのであるが、事はそんな他愛のない話ではなく、より切実であったらしい。
そもそも、どういった行動を好むようになるかというのは、「その方が望ましい」という経験を重ねることによって獲得される、いわゆる広義の「学習」の成果である。迷路に入れられたネズミが、ある行き止まりにいつも餌が置かれていることを学べば、そこへ立ち寄るようになるし、逆に、ある分岐点で電気ショックを食らうことを繰り返せば、そのルートは選ばれなくなる。報酬と罰による、条件付け──つまり、そういうことだろう。
ごく淡い水色のガラス玉めいた彼の瞳、その内部では、おそらくは、光を十分に遮蔽することが出来ていない。通常より光線を過敏に感じ取ってしまうから、必然的に明るい場所を嫌い、暗い場所を好むようになる。天井からの強い照明が、真っ白な壁といい机といい見事に反射して眼に突き射さる、このような室内は、彼にとって恐怖以外の何ものでもないだろう。
穢れなき白を身に纏うこの少年は、しかし、白い部屋には──居ることが出来ない。白い机を、見ることは出来ない。白い光を、浴びることは出来ない。
それが、私には、まるで不条理な掟であるようにしか思えなかった。
照度を落としてみると、寒々しい会議室には適度な藍色の陰影が落ち、どこか感傷的な気分を誘う雰囲気ある空間となった。慣れない景色であるが、悪くない。
ともあれ、舞台は整った。ようやく、落ち着いて話が出来る──一つ椅子を引いて、少年に腰掛けさせると、私はそのまま深々と頭を下げた。
「彼らに代わって、非礼をお詫びいたします。どうか赦してやってください。彼らは自分が何をしているのか、分かっていないのです。所詮は哀れな愚者のしたこととして、どうかご寛恕を」
先ほどの、場を収めるためだけの空しいスピーチとは違い、これは私自身の正直な思いであった。他人の愚かな振る舞いについて、私が頭を下げる必要は、本来ならば皆無であるとはいえ、同じPOGの一員である以上、そうするべきだと思ったし、そうしたかった。
この少年に、POGをこんな低レベルの組織であると思われたくないという気持ちもあったが、なにより、彼を慰めてやりたかった。あんな仕打ちを受けるのは、本来ならば、あってはならないことであると教えたかったし、それを分かっている人間が、ここに一人でもいるということを伝えたかった。
十分な間を置いてから、ゆっくりと頭を上げると、白い少年は例の無感動な瞳でもって、こちらをじっと見つめていた。何らかの応答をするとか、感情を表すだとか、こうした場面であるべき反応が、一切うかがえない。
果たして、こちらの意図は通じているのだろうかと、少々不安になってきた頃、ようやくその唇が小さく動く。
「……どうして」
やや掠れ気味に紡がれた、それが、初めて聞く少年の第一声だった。もしかすると、彼は外界とコミュニケートする手段を欠落しているのではないかと思っていただけに、少年らしい声を聴くことが出来て、少しばかり安心する。糸口は掴んだ、後は手繰っていけば良い──とはいえ、喋れることと、話が通じることとは、また別問題ではあるのだが。
シンプル過ぎて理解しかねる少年の問いに、私はひとまず問いを重ねて返す。
「どうして、とは?」
「……続きを、するんじゃないのか」
そう小さく口にして、少年はこちらを見上げた。固く結んだ唇、睨めつけてくる瞳は、無感動なようでいて、そうではないということに、私はそろそろ気付いていた。そこには、微かにうかがい知れる感情があり、確かな意思がある──そう思ってみると、彼の振る舞いは、何かを堪えて受け容れようという覚悟の表れにも見える。
しかし、それがいったいどういう意思に基づいているのかといえば、そんなことまでは分かる筈もない。彼の言う「続き」が何のことであるのか、あまりにも漠然としている。本人は自明であると思っていて、説明する気もないらしいことが、また相互理解を妨げるものである。
ああ、やはり、こういう子どもとのコミュニケーションは難しい──要領を得ない少年との会話に、私は胸の内で苦笑した。
「申し訳ありませんが、私は特別に洞察力に長けた人間ではありませんので……凡人にも分かるように、説明していただけるとありがたいのですが」
丁重な物腰で依頼すると、少年はますます困惑の表情を浮かべた。なるほど、どうやら彼の希薄な感情表現にあって、驚きと戸惑い、苦痛あたりは自分にも読み取れるようだ、などと私は呑気な感想を抱いた。
暫しの逡巡の後、その彼は、ぽつりと呟く。
「痛く、するんだろう」
──どういうことかと、問い直すことは、出来なかった。少年の小さな一言は、瞬間、私の声を詰まらせるには十分だった。こちらの反応には気付いた様子もなく、瞳を伏せたまま訥々と、彼は言葉を続ける。
「ああいうことがあると、いつもそうだ。おかしいと言って、皆が石を投げてくる。……連れ出したのは、そのためだろう。ここで、続きを。痛いことを、するために」
言って、問い掛けるようにこちらを見上げる碧眼は、哀しいほどに静まり返っていた。分かりきったことを、確認しただけというような、まるで他人事めいた表情。それは、これから「痛いこと」をされようかという子どもがする顔としては、およそ不健全であるように思えた。
どうやら、深い考えなしに行なった、自分の先の行為は、この少年の心をひどく傷つけたらしい。否、それとも、はじめから傷しかなかった、と言うべきだろうか。先程のような事態に、彼は今更何も感じないまでに慣れていて、だから、大人数に取り囲まれて糾弾されるようなシチュエーションにあっても微動だにせず、感情のない人形のように見えたのだ──だからといって、何をしても良いということには決してならないが。
普通に考えて、あの悪意の渦の中から助け出してやった恩人に対して、当たり前のように疑いなく加害者候補として扱うなど、無礼であることこの上ない。しかし、この少年は、それを心から信じているようにみえる。そうしないわけがないと、思いこんでいる。そうしない人間なんて、いないのだと、最初から考えより除外している。
被害妄想といってしまえば簡単だ。だが、彼の場合──それが、単純に、現実だったのだろう。彼にとっての世界は、向けられる悪意だけで構成されていたのだろう。そういう生い立ちの子どもに対して、普通の感覚を期待するという方が、無理な話だ。
何か言おうと思って、一歩踏み出すと、少年は反射的にびくりと身体を竦ませた。こちらが危害を加えることを、最早、前提として確信している反応だ。これでは、うかつに刺激しても悪いことにしかなるまい──どうしたものか、考えあぐねていると、少年が細い声で、一つだけ、と言う。
「……やるなら、それらしい顔でやってくれ。優しく笑いながら、痛くされるのは、嫌だ……怖い」
ぎゅ、と自分自身の肩を抱いて、そんな懇願をする少年の姿は、少なからず私の心を乱した。先程、部屋の照明を点けた瞬間に縋りつくようにされたときと同じく、その仕草は純粋に庇護欲をかき立てるものがある。理不尽な暴力を受けること、それ自体を怖いとは言わなかったのが、いっそうに哀れだった。
同時に、一度目に群衆に囲まれて腕を掴まれたときには何の反応も示さなかったのに、私が不意に同じことをしてやった二回目については驚愕の反応を見せたことの理由も判明した。予測出来る行為、理解出来る行為について、彼はいちいち何かを感じることはしないのだ。自分がどうして他者の神経を逆撫でしてしまうのか、そうなった相手はどういう思いで何をしようとするのか、彼は全てを承知している。だから、その才能への嫉妬で傷つけられることについては、幼いこの少年は既に慣れきって、当たり前になって、感覚が鈍麻している。
だからこそ、どうして自分が危害を加えられるのか分からないというシチュエーションは、彼を混乱させ、怯えさせる。なるほど、確かに、先ほど私が彼の細い腕を捻ったのは、嫉みからでも怒りからでもなかった。それでは何だったのかと問われると、自分でも上手く説明出来ないが、あえて言うならば、それは衝動であり、かつ、優しさのつもりだった。
否──愛しさ、といった方が正しいだろうか。いずれにしても、我ながら意味不明である。そんな当人でも説明出来ないようなことを、いくらこの少年の頭脳が優れていようとも、理解出来る筈もないのだから、彼の困惑はいかばかりであったかと、思うと実に申し訳ない心地にさせられる。
こんな風に、怯えさせたかったのではないのだ。安心してくれとまでは言えないが、少なくとも、こちらにその意思は無い。せめて、少しでも伝えたくて、私は膝を折った。不安げにこちらを見る少年に、ふと微笑んでみせる。
「しませんよ──痛いことは、しません」
視線の高さを合わせて、分かるようにゆっくりと、言い聞かせる。はたして、信じて良いものかどうか、少年は暫し迷う様子を見せた。それはそうだろう、ついさっき、優しく労わるようなことを言いながら容赦なく腕を捻り上げた人間の言うことである。簡単に信じろという方が無理な話だ。
構わない、なにもすぐに信用されるものとは、こちらとしても思ってはいない。
それに──あるいは。
この相手に対しては、言葉などよりも余程、分かりやすい意思疎通の方法があるのではないだろうか。彼が最も流暢に操る、言語を超えた、共通言語があるのではないだろうか。
試してみようか、と私は思った──否、はじめから、そのつもりだったと言うべきかも知れない。なるほど、少年の言うように、私は正しく「続きをする」ためにこそ、彼をここへと連れ出したのだ。意味するところは違えど、考えてみれば、可笑しな話だった。
まったく──我ながら手に負えない。
諦め半分に緩く首を振って、己の内なる欲求を正直に認めると、私は少年に相対した。
「その代わり、見せてください」
言って、キューブを取り出す。先程、少年が全ての面を揃えて解いたばかりの、あのキューブである。だが、もちろん、状態はあのときのままではない。
「これでも、ギヴァーの端くれなもので……お気に召すかどうか、分かりませんが」
いつの間にか、完全にバラバラに戻されたキューブを見て、少年の瞳に光が灯る。清廉なる挑戦者──真の解答者の瞳とは、こういうものを指していうのだろう。合図してから解くようにと言って手渡すと、彼は一度キューブ全体を回して眺め、それから、じっと一点を見つめた。
完全なる静止、己の精神世界への没入。声を掛けるのも躊躇われるような、その様子は、あたかも神聖な儀式を描いた絵画のように、現実離れした高潔さを感じさせた。なんと純粋で、白く、侵し難い──その脳内では、既に、パズルとの対話が開始しているのだろう。
ああ、やはりこの子は、パズルを愛し──パズルに愛されている。そんな風に、見る者に感じさせずにはいられない姿だった。そんな彼だから、私も久々に「出題者」としての熱意めいたものを触発されてしまう。
「ただ──そのままでは、面白くありませんね」
いかにも思案に暮れるような芝居がかった振る舞いで顎に指を当てて、私は呟いた。どうやら、この稀有な少年との出逢いによって、余計な熱意まで刺激されてしまったらしい。我ながら単純なことであると、苦笑せざるを得ない。
私はふとした思いつきを実行に移すべく、彼の座る椅子の後ろへと回り込んだ。失礼、と断ってから腕を伸ばし、背後から身体を寄せて、その頭を優しく抱きすくめる──否、なにも私に少年愛の嗜好があるというのではない。精確にいうと、私の手は少年の両目を覆い隠し、その視界を完全に奪っていた。
目隠し状態でのルービック・キューブの解法──純粋なパズルというよりは、どちらかというと曲芸に近いかもしれない。バラバラの状態のキューブを見て、その配置を記憶した後、視界を遮断した中で操作、配置を完成させる。通常より難易度が格段に上がることは、言うまでもない。
この相手には、これくらいの条件を課しても良い筈であると、私の中のギヴァーとしての感覚が教えていた。解答者のレベルに合わせた、適切なパズルを造ってこその出題者である。パズルをめぐる神聖な挑戦において、過不足があってはならない。
同時に、この少年の解法を、間近で見つめていたいという欲求があったことも確かだ。自分のパズルが解かれる様子を、文字通り、解答者の視点で眺める──そうある機会ではない。まして、解答者は、自分の知る限り最も美しくキューブを操る者である。この少年が見せてくれるだろうものを思い描くだけで、熱いものがこみ上げ、久し振りの高揚の気配に、胸が躍る。
逃すわけにはいかない──逃してなるものか。今一度、手のひらをそっと少年の瞼に押し当てる。
「──よろしいですか」
耳元に問うと、少年は微かに頷いて応えてみせた。そう──それでこそだ。自然、高まる気持ちを抑えられない。彼は彼で、早くパズルを解きたがって焦れているのだろうが、こちらとしても、そろそろ限界だ。
一つ、静かに呼吸を置いてから、私は告げた。
「では──どうぞ」