カンバスの回転 -3-




結論から言うと、どうやら、目隠しごときでは、彼にとって何ら足枷となるものではなかったらしい。少年の手は、先ほど見せたのと同様に迷いなく、キューブを自在に操って美しい軌跡を描く。その様子を、私は陶然とした心地で独占的に鑑賞する。
ああ、そうだ──いかなる芸術鑑賞にも優れて心身に満ちる、この感覚。危うい愉悦に浸りながら、あらゆる情動の開放へと、加速度的に昇りつめていく。圧倒的な、白く眩いまでの歓喜──感動。
パズルが美しく解かれる様を見るのが好きだ。だから、与える。解答者の資格を有する者に、問題を提供する。
さあ、解いてくれ、圧倒的な美しさで──見たいのは、それだけだ。パズルは自己表現でもなければ、そこに何らかのプライドを持っているわけでもない。言うなれば、自己満足。他人を駒として巻き込んで、踊らせ、結局は自分が満足するための、性質の悪い趣味だ。褒められたものではない。
とはいえ──ヒトの人生というのは、そのもの、自己満足で、性質の悪い趣味にほかならないとは思うのであるが。

迷いなく鮮やかに色を揃えていくキューブの回転は、一瞬たりとも見逃せないほどに美しく、また、途方もなく刺激的だった。解放へと一歩近づくごとに、心臓を緩やかに締めつけられるような、もどかしいまでの感覚が這い上がって胸を満たす。昂るものを、とても抑えきれずに、唇から熱い吐息がこぼれる。
この少年は──素晴らしい。今度こそ、私は確信していた。
驚嘆すべきその頭脳を、今、己の腕に抱きかかえているのだという事実は、いっそうに陶酔の感覚を呼ぶばかりであった。すぐ目の前にある、この頭の中で今まさに、キューブはあらゆる角度から死角なく投影され、手元にあるものと同様、もしくはそれ以上に詳細な、もう一つのキューブを形作っている。思考実験の中のそのキューブを高速回転させ、手元を連動させることで、彼は視覚の助けを借りる必要もなしに、全て視えているかのように操作を続ける。正しく──神の眼と、言って良いのではないだろうか。
そういう、素晴らしい仕組みを持った脳が、こうしてここに存在するということ、それ自体に一種の崇高な感銘をおぼえる。なるほど、「黄金比の脳」を血眼になって捜す者たちがいることも、こうしてみるとよく分かる話である。このような能力を見せつけられては、信仰に似た思いを抱いてしまうとしても、不思議ではない。
その驚異の脳から命令を受けて活動するのは、簡単に抱きすくめてしまえるほどの、未成熟な細い身体だ。こんな身体で、常人を超えた脳の働きについていけるものか、他人事ながら少々心配になる。厳重に護られてしかるべきものが、なぜかそうなっていないという、今にも均衡が崩れてしまいそうな危うさを感じてならない。
そして、その危うさが──愛しい。
崇高なものは、完全であってしかるべきだ。
しかし、崇高なものにあってこそ、完全ではない、欠落した部分が──心を惹きつける。
いつの間にか、目隠しをするというよりも、しっかりと胸に抱くようにして、私は彼と一体になっていた。身体を、意識を寄せ合って、呼吸も、鼓動も、温度も、一つに重なり合うのを感じた。同じ場所から、同じキューブを、違う方法で、見つめていた。

夢のような時間はほんの1分にも満たず、少年はおもむろにキューブの回転を止めると、無言でこちらに差し出した。名残惜しいながら、私も身体を離して少年の視界を開放する。恭しくキューブを受け取ると、結果は分かり切ってはいるものの、念のためにその配置を確認する。
それにしても、見事なものだ。改めて、感嘆せずにはいられない。言うまでもなく、立方体のいずれの面も、きれいに一色に揃って、再び完全なる姿を取り戻していて──否。残りの面を確認すべく、キューブを裏返してみた瞬間、私はそこで手を止めた。
出来上がったキューブは、しかし、完全ではなかった。否応なしに、その箇所へと目を引きつけられる。5×5×5の配列の中、二つのキューブだけ、揃っていない。あまりにも明瞭に、異なる色彩でもって、周囲から浮いている。鮮烈に塗り分けられたキューブだけに、それは、残酷なまでの宣告だった。
未完成──解法の失敗。パズル愛好者ならずとも、これを見れば、誰でも一目で理解するだろう。
解答者の少年は、座ったまま肩越しに振り返って、じっとこちらを見上げている。その無垢な表情に、何と言って応えたものか──思案したところで、言うべきことは、一つしかない。小さく息を吐いて、心を固める。
少年の物言いたげな瞳に、私は微笑んで言った。
「──正解。お見事です」

心からの称賛の言葉を受けて、当たり前のように、少年はこくりと頷く。
彼はもう理解しているのだろうが、出題者の責務として、最後に己の意図と解法を説明するのが、解答者への礼儀というものである。その理念に則り、私は色の揃っていない箇所のキューブを指し示して解説する。
「この二つのキューブを、入れ替えておきました。会場で拾ってから、ここに来るまでの道すがら」
言いながら、該当の列を半回転させた状態で、出来た隙間に指を掛け、ぐ、と軽く力を込める。少しのコツさえ心得ていれば、使い込まれて内部機構が摩耗したキューブを分解するのに、特別な道具は必要ない。二つのキューブは簡単に外れ、私はそれを入れ替えて、元の位置に嵌め込んだ。全てのキューブが正当な場所に納まることとなり、5×5×5の全ての面が、それぞれあるべき一色に染まる。いよいよ真の意味で、キューブの完成である。
この入れ替えの仕掛けを承知していたならば、今のようにキューブを外して元に戻すところまで、解いて貰っても構わなかったのだが──そこまで考えてから、相手が非力な子どもであったことを思い起こして、私は苦笑した。その細い指では、たとえ正解を分かっていようとも、嵌め込まれたキューブを外すには力が足りない。下手をすれば、爪を割るなり関節を痛めるなりしてしまっていただろう。そうならなかったことには、身の程をわきまえた少年の思慮深さに感謝するほかはない。
危険なパズルを出題しておいて何を言うのかと、良識ある人々からは叱られるかもしれないが──パズルとは元来、多少の危険を伴うものである。そういった面での手加減だとか容赦だとかは、神聖な勝負の場においては、相手が子どもであろうとも、一切無用であるとする、それが私の信念だ。
それに、物理的に不可能であった以上、キューブが元の位置に納まっていなくとも、解法には何ら瑕疵を与えるものではないし、その栄誉を損なうものでもない。正解である──見事なまでに。

入れ替えに気付かなければ、いつまで経っても完成しないパズルに悪戦苦闘し、永遠に囚われることになる──これは、そういう仕掛けだった。
こういうことをするから、仲間のギヴァーからは「性格が悪い」「ひねくれ者」「聖職者面した悪魔」などと、大層なありがたい称号を頂いている私である。
とはいえ、何もヒントを与えなかったわけではない。それでは、勝負としてあまりに不公平すぎる。キューブを手渡す時、私は、「全ての面の色を揃えろ」とは一言も言わなかった。そして、このキューブを二回目に解くこととなった少年に対して、「状態はあのときのままではない」「そのままでは面白くない」といった趣旨の言葉も掛けている。あれは、なにも一度組み上げた状態から色の配列がバラバラにされているだとか、目隠しという条件をつけるだとかの表面的な仕様だけを指していたのではない。構成パーツ自体の入れ替え、それも含んだ上での表現である。
それを、理解して貰えるものとは──正直、思っていなかった。もしかしたら、というささやかな希望が無かったといえば嘘になるが、精々、確率は五分五分といったところだろうという予測だった。
それを、鮮やかに、当たり前のようにして、この白い少年は塗り替えてしまった。白く──すべて白く、彼の色に染め上げてしまった。

この少年は──私のパズルを、解いてくれる。
こともなげに、美しく、解いてくれる。
そのシンプルな事実は、今や、抗い難く私を支配していた。
そういう存在に、出逢うことなどないだろうと思っていたのに、ここでこうして、出逢ってしまった。
出逢ってしまったからには──離れられない。

椅子の背後を離れて、改めて少年の前に立つ。慣れない会合に顔を出したうえ、あれこれとしつこく絡まれて疲れたのだろう、彼は少しぼんやりとした瞳で、それでもこちらを無視せずまっすぐ見上げてくる。素直すぎるほどに無垢なその反応が、彼の纏う、ともすれば崇高なまでの無機質な雰囲気を、子どもらしい愛らしさで和らげるものだから、実に微笑ましい。
そういえば、この少年の名前を、未だ知らないということに私はようやく思い至った。気付くのが遅すぎると言われればその通りであるが、何とはなしに、彼に名前など必要ないような気になっていたのだ。
事前に名簿資料が流されてきた筈であるし、今日も歓談の中で話題に上っていたのであるから、当然、把握していてしかるべきなのであるが──残念ながらその時点では、彼のパズルを解く姿の美しさなど知る筈もなかったから、ただの新入りの個人情報などには興味を持たずに素通りしてしまった。
名前を知ったところで、この少年のことが何か理解出来るというわけではない。しかし、近づくことは出来る。確固たる位置に置いて、見つめることが出来る。ただ単に、社会的に便利な記号として用いる必然性によって問うのではない。私は、この少年の名前を心から知りたかったし、呼びたいと思った。
礼法に則り、紳士的に頭を垂れて問う。
「名前を。聞かせて貰えませんか」
人の話を聞いていなかったのか、などといって気分を害した様子もなく、少年は無言でこちらを見つめた。そして、暫しの間を置いてから、可憐な唇が開いて、その音を紡ぐ。
「……ルーク」
慣れ親しんだ、チェスピースの一つと同じ名前を、彼は口にした。
塔──あるいは、城。
盤上を縦横に支配し、セブンスランクで敵を打ち負かす戦車。
クイーンに並ぶ、メジャー・ピース──単独で敵王を討ち取る者。
なるほど、と私は納得の心持ちで頷いた。
白のルーク──この少年に、これほど相応しい名はないように思えた。密かに胸の内で呟いて、その高潔な響きに酔う。

一つの目的を達成したところで、もう一つの関心事を、私は口に出して問うた。
「どうして、POGへ?」
パズルしか、出来ないから──そんな単純な理由では、ない筈だと思った。そんな自虐的で消極的な理由ごときで、彼の進む道が決まるものとは思えない。その頭脳を活かす術はいくらでもあっただろうに、年若くして、このような世界に身を投じるとは──そこには、いかなる意図があったのだろう。私は純粋に、知りたいと思った。
ルークは僅かに、その碧眼を眇めると、今度はさして間を置かずに声を紡ぐ。
「約束、したから」
それだけ、短く答えた少年の表情には、己の為すべきことを抱えた者に特有の、決然たる意思が宿っていた。
約束。
そう言って口に出したとき、微かに彼が滲ませた感情は、いったい何だっただろうか。懐かしむような、嘆くような、責めるような、慈しむような、諦めるような、祈るような、響きがそこにはあった。
いずれにしても、ルークはそれ以上の言葉を紡ごうとはしなかった。約束というのが、いつ、誰と交わしたもので、どういった内容であるのか、そんなことまで説明する必要はないということらしい。こちらとしても、無理に聞き出そうとは思わない。
十分だ──約束などと、そんな子どもっぽい無邪気な理由でもって、彼はここにいる。それが分かったというだけで、もう十分だ。この時点で、私の意思は決まっていた。

膝を折り、その足下へ恭しく跪いてみせると、ルークは不思議そうな目をして、しかし何も言わずにこちらを見つめた。
己の心臓の上に手を置いて、私は告げる──たった今から、忠誠を誓った相手に。
「私は、あなたを護ります」
それが、己の為すべきことであると、私は確信した。類稀なる才に恵まれたこの少年は、確かに、強く美しい──しかし、一人で立つには、あまりに穢れを知らず、白く脆い。心ない者によって、簡単に手折られてしまいかねない危うさを内包している。誰かが支えとなり、護ってやらなくては──ルークという、この輝かしい存在、そのものを。そして、全てを捧げてその役割を負う者が自分であったならば、どれほど良いかと思うのだ。
誰より近く、見つめていたい。誰より深く、理解していたい。誰より優しく、触れていたい。
そうして私は、彼を護って進みたいと、心からそう思う。
あなたのために、先に立つ。
あなたのために、道を開く。
あなたが、動けるように。
あなたが、戦えるように。
あなたの舞台を、整える。
あなたのための、──駒となる。
それが、私の意思だ。

顔を上げてみると、年若い我が主は、あっけにとられたように目を瞠っていた。
少年の唇が動いて、どうして、と声を紡いだ。微笑みでもって、それに応える。
「あなたのパズルは、美しいから。……それでは、いけませんか」
言って、静かに身を起こし、玉座へと進み出る。芝居がかった動作で、私は少年の繊細な手を丁重にとった。キューブを連続で解いたために、酷使した細い指先は、熱を持って少しばかり赤くなっている。人形めいた冷たい印象とは異なり、その白い手のひらはしなやかで、温かかった。
口づけるばかりに顔を寄せて、私は歓迎の意を表す。

「ビショップと、お呼びください。ようこそ、POGへ──あなたの盤上へ」





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ビショップさんは優雅で無自覚な変態さんという認識です。ガクリ。

2011.11.18

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