POG世界パズル遺産〜天空の都市篇〜
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世界パズル遺産 〜天空の都市篇〜
──POGは世界のパズルの修復・保護に尽力し、貴重な財を次世代へ継承します。──
◇
雲とも、あるいは霧ともつかぬ、厚い乳白色の帯が、眼下を流れていく。標高約2000メートルの高地は、丁度、雲の通り道でもある。辺りを見渡せば、雲海からいくつもの高峰が聳え、はるか彼方まで、鋭角的なシルエットを連ねている。
緑豊かな渓谷の景色は、それだけでも十分に感嘆を誘うものではあるが、目的とするものは、今は雲の底である。視界が開けるのを、気長に待つほかはない。山の斜面に設けられた古い石段に腰を下ろして、少年は小さく息を吐いた。両手で頬杖をついて、途切れることのない雲海を淡青色の瞳に映す。
「……これじゃ、見えないかな」
ぽつりと呟かれた一言は、少し掠れて、溜息に溶けた。もちろん、山を下っていけば、目的とする場所へ実際に立つことは出来る。それはそれで、格別な体験が出来ることだろう。とはいえ、やはり一度は、その全貌を眼下に一望してみたい──小さな願いが、天に届いたのだろうか。ふと、流れゆく厚い雲が千切れ、覆い隠していた眼下の景色をあらわにしていく。
少年は、思わず身を乗り出して、薄い靄の向こうの景色に目を凝らした。やがてそれも晴れ、開けた視界には、周囲と同じく、緑豊かな尾根のひとつが姿を現す──否。そこに現れたのは、雄大なる自然の恵み、それだけではない。
およそ人工の建造物ひとつ見当たらないかのように思われた山々の中、ひっそりと身を隠すように、静謐なる石造りの街並みが広がっていた。あぁ、と少年は小さく感嘆の息をもらす。
空中都市、という呼称が、これほど似合う遺跡というのも、そうあるものではないだろう。四方に聳え立つ山々に囲まれ、山裾からは、その存在を知る術はない。外界から隔離された、かような地に、一つの都市を築き上げること──それを可能とした、この地の人々の高度な技術力には、感嘆せざるを得ない。
山の斜面を有効に活用する段々畑や、近隣の峰から水を引き入れる精緻な水路は、かつてここに生きた人々の暮らしを今に伝えるものである。この地に伝統的な石組みの技法でもって、カミソリの刃一枚分の隙間もなく形作られた住居と神殿は、今なおその堅牢な威容を誇る。
南米──アンデス山脈に、かつて栄えた帝国の遺産である。
都市が放棄されてから数百年の間に、遺跡にはすっかり草木が生い茂り、人工の建造物と自然が一体となった景観を創り上げていた。遺跡から少し上った高所にある、この見張り小屋からは、石造りの街並みを一望出来る。アンデスの雄大な山並みを背景に、遺跡の全容を俯瞰するには絶好のスポットだ。中でも、少年はある一点を注視していた。
「太陽と……月の神殿」
直線で構成された遺跡の中ほどに、一箇所だけ、円く曲線的に石の積まれた場所がある。太陽の神殿、あるいはシンプルに「塔」と呼ばれる一角である。
かつて、この地に根付いていた太陽信仰は、都市の設計にも大いに影響を与えている。農耕に不可欠の暦を持ち、高度な天文学的知識を備えていた彼らにとって、周囲に遮るものがなく、より太陽に近いこの高地は、天体を観察するのにもってこいであっただろう。それを裏付けるように、太陽の神殿に設けられた二つの窓は、夏至と冬至における太陽の精確な位置を考慮したうえで設けられている。遺跡の最も高い位置に目を転ずれば、そこには、岩を削り出して作られた日時計と思しき石柱が据えられているのが分かる。その素朴で重々しい佇まいは、どこか神聖ですらある。
この位置からでは見ることが出来ないが、近隣には月の神殿と呼ばれる一角もある。月もまた、太陽と並んで、かつての人々の信仰の要であった。
「これも……パズルか」
少年──POGジャパン総責任者ルーク・盤城・クロスフィールドは感嘆の息をもらした。建設から500年以上を経てなお、精緻に組み込まれたパズルは、その輝きを失っていない。そう、この地こそは、頭脳集団POGの誇る、歴史的傑作の一つであった。
財を守る結界として、依頼者の想いに相応しいパズルを制作し、これを管理する──神聖なる比率をシンボルに掲げる頭脳集団POGの、古来より連綿と受け継がれてきた理念である。結界として言うならば、ここは正にモデルケースといって良いだろう。なにしろ、住民が都市を放棄して以来、500年近くその存在が知られていなかった、幻の都である。断崖の上、雲海に沈んだ立地条件からして、結界と呼ぶに相応しい。「新大陸」を「発見」し、破壊と略奪の限りを尽くした征服者たちの手を逃れ、こうして遺跡が現存することこそ、その何よりの証である。
もちろん、結界は立地条件によってのみ成立するものではない。財を守るのは、パズルの力である。太陽神を崇める宗教都市ともいわれる、この天空の街は、日常的に住民の生活を保障すると同時に、巨大なパズルでもあった。少し手入れをすれば、現在でも十分に稼動する筈だ。太陽と月の運行をテーマとしている辺り、依頼者であろうこの地の王族の意向をよく取り入れている。己と同じ「塔」の名を冠した神殿の遺跡を眺めて、ルークは目を細めた。
「……良いパズルだ」
高地に特有の、やや肌寒い微風に、暫し目を閉じて髪を遊ばせる。列車とバスを乗り継ぎ、何時間もかけてやって来た甲斐があった。POG管理官に復帰し、組織の今後を今一度任せられたルークは、時間を作っては、かつての偉大なる『賢者のパズル』に自ら足を運び、これを検分することにしていた。これまで、殆ど外界と接触せずに、データとしてのパズルを操ることのみを己の世界としていた16歳の少年は、初めて知った「旅」というものを、ことのほか気に入ったらしい。
執務室の巨大画面で鑑賞するだけで十分であるとして、現地に足を運びもせずに、何もかも分かったような気になっていた、かつての己を思い起こして、ルークは苦笑した。それでは何も見えていなかったのだと、旅の体験は彼に教えてくれた。「まるで本物のようだ」と感じるためには、まず、その本物を知っていることが前提なのだという、当たり前のことである。そんな当たり前のことさえ、幼き「塔」は知らなかった。
頭脳集団POGの数千年に及ぶ活動、その歴史の中で生み出された数多のパズルは、今なお世界各地に痕跡を遺し、あるいは、現在も結界としての役割を果たし続けている。こうして先人の偉業に触れる度に、ルークはそれを受け継ぐ者としての強い使命を胸に刻むのだった。
緑豊かな山の空気を、大きく肺に取り入れる。幼い頃、丘の柔らかな草の上で友人と遊んだ、ひと夏の記憶が、懐かしく胸に蘇った。あの頃のように、いくつもの初めての景色を、これからもひとつずつ、知っていきたいと思う。
すっかりリラックスしていた少年の身体が、不意に強張ったのは、背後に何かの気配を感じたからだ。時を同じくして、耳元を生温い吐息が撫でる。弱い箇所を掠められて、ルークは思わず背を跳ねた。
「ちょっ……ビショップ…!?」
何をふざけているのかと、少年は非難の声を上げつつ振り返った。別行動の筈だったというのに、いつ戻ってきたのだ──それに、声も掛けずに。そんな追及の言葉は、しかし結局、紡がれることはなかった。背後の定位置に佇んでいたのは、忠実なる側近ではなかったからだ。
いったい、どこから現れたものだろうか? それは、黒い体毛をした、一頭の獣であった。一瞬、ロバかと思ったが、明らかにシルエットが異なる。首が長く、頭部の小さい姿かたちは、どちらかといえばラクダに近しい。なにしろ特徴的なのは、顔まわりを残して、全身を覆い尽くす、羊めいた豊かな体毛だ。手を埋めたならば、きっと柔らかく沈み込んで温かいに違いない。顔つきは穏やかで、大きな瞳は濡れたように艶めいている。
「ふえぇ」
鳴き声もまた、羊めいた穏やかなものだ。獣は一声を上げると、思わぬ展開に目を瞬いているルークに向かって、勢いよく体当たりをした。あっけなく、少年はその場に押し倒される。
「ふえぇ」
思わずこぼれてしまった小さな悲鳴は、先ほどの獣の鳴き声とよく似ていた。それをどう解釈したか、獣は四肢を折り畳んで、押し倒した少年に圧し掛かる。丁度、身体を起こそうとして、石段に四つん這いになっていたルークは、そのまま地面に組伏せられる格好となった。
背後に獣の荒い息遣いを感じて、ルークは身を強張らせた。何が起こるか分からないが、とてつもなく嫌な予感がした。
「ぅ、あ……っ」
少年は仰け反って苦鳴をもらした。見事な白金の髪を、獣が噛んで引っ張ったのだ。仲間と勘違いでもしているのだろうか? 確かに、ふわふわとした獣の体毛には、どこか親近感を覚えたが──ルークは必死で抵抗を試みたが、背中にどっしりと腰を下ろした獣はびくとも動かない。
そのうち、衣服を咥えて引っ張られるに至って、いよいよ少年の頬から血の気が引いていく。シャツを脇腹から捲り上げられ、乳白の素肌がさらされると、ルークはふる、と肩を震わせた。目の端に涙を浮かべて、助けを求める。
「やっ…いやだよ……!」
「こら、お客人に乗っちゃダメある」
割って入ったのは、冷静な声であった。次の瞬間には、ずっと背中から腰に圧し掛かっていた重みが、ふっと途切れている。機を逃さずに、ルークは獣の下から這い出した。
「な……何だったんだ……」
束縛を逃れたところで、少年は息を整えつつ、身を起こした。捲り上げられた衣服を直して、振り返る。先ほどの黒い獣の両脇に、佇む二つの人影があった。
それは、東アジア風の民族衣装に、高々とメキシカンハットを被った二人組だった。まだ年若い、おそらくはルークと同年代であろう少年である。特筆すべきは、その容姿であった。片方は金色、片方は藍色という髪色の違いこそあれ、二人はまったく同一の姿かたちをしていた。ご丁寧にも、肩に乗せた、愛らしい短毛のモルモットまで瓜二つである。
彼らは、慣れた様子で速やかに動物を引き離し、興奮を鎮めさせた。彼らの家畜ということなのだろうか。まだ幾分か茫然としつつ、ルークは己に圧し掛かっていた豊かな体毛の獣を見つめた。見慣れない動物だが、いつかテレビコマーシャルで見たことがある──これは、確か──
「ミ……ミラバケッソ…?」
記憶を手繰り寄せて、ルークは呟いた。それに応えるように、獣の飼い主と思しき二人は、こちらへ向き直る。家畜の黒い体毛を撫でてやりつつ、彼らは代わる代わる口を開いた。
「アルパカある」
「誇り高きアンデス男子、アルフォンス君ある」
「アルパカ乗りたいあるか」
「アルパカ乗っちゃダメある」
ダメある、と声を合わせて、双子は頭を振ってみせる。むしろ乗られていたのはこちらの方なのだが、とルークが言うより前に、彼らは近辺で草を食んでいた一頭の動物を呼び寄せた。格好はアルパカによく似ているが、こちらは一回り、体が大きい。豊かな体毛に覆われた、その背中を、双子はぽんと軽く叩いてみせた。
「リャマ乗るよろし」
「お代はサービスある」
乗るある、乗るあると両側から誘われるままに、気付いたときには、ルークはリャマに乗せられ、遺跡を探索することになっていた。動物の背中に鞍は装着されていなかったが、代わりにふかふかとした体毛が絨毯の役割を果たし、なかなかの乗り心地である。石組の道を、リャマはゆったりとした足取りで進んだ。
「これ、太陽をつなぐ大切な岩ある」
「太陽、とても神聖なものある」
リャマを先導しつつ、双子は簡単な遺跡のガイドも始めた。あれは何々、これは何々と指差される度に、ルークは興味深げに視線を向け、へえ、と頷いてみせた。大半は既に知っている情報ではあったが、そんなことを言うのは興醒めというものである。
双子は、先ほどルークが高台から眺めていた太陽の神殿に至ると、その石組のひとつを指し示した。
「これ、オウムガイのマークある」
「不届きな観光客が刻んだある」
「いや……それ、POGが作ったときの…」
制作者のサインだよ、とは言えず、ルークは胸の内だけで呟いておいた。元々は財を封じるという実用的な目的のために築かれた空中パズル都市であろうとも、500年後の人間にとっては、雄大な歴史のロマンを感じさせる謎の遺跡であるにほかならない。これが巨大な結界であることを知る者は限られるし、別に大々的に宣伝することでもないとルークは思う。パズルは、ただ、相応しい者に解かれることを待つものだ。それを陰で支えることこそ、自分たちに課せられた使命であることを、ルークは知っている。
そういえば、と話題を逸らすようにして、少年は双子の肩に乗る小動物を指した。
「その、モルモット……可愛いね」
体長は20センチメートルほどであろうか。丸く折れた耳と、大きな瞳が愛らしい。これか、と双子は鏡映しのように同じ仕草で、肩の上の小動物を撫でた。
「こっちではクイというある」
「クイと啼くからある」
へぇ、と感心するルークに、双子は付け加えて解説した。
「非常食ある」
「丸焼きある」
「ふえぇ」
聞かなければ良かった、とルークは肩を落とした。その後も、終始この調子で、双子によるガイドは続けられていった。
「そろそろ、降りるよ。ありがとう」
遺跡を一周し、コンドルの神殿と呼ばれる祭壇の前に至ったところで、ルークは双子に申し出た。心は感謝の思いで一杯であった。現地の動物に乗って遺跡を巡るなど、なかなか出来る経験ではない。少し高い位置から眺める景色も、一歩ごとに身体の上下する感覚も、なにもかもが新鮮であった。こんな貴重な体験が出来たのも、彼ら双子のおかげである。礼を述べて、ルークはリャマの背から降りようとした。しかし、地面に足がつく前に、その動作は双子によって阻まれることとなった。
「待つある」
「料金払うある」
彼らは、少年をリャマの上に押しとどめて言った。思わぬ展開に、戸惑ったのはルークである。
「えっ……乗るの、タダだって……」
先程、彼らは確かにそう言った。だからこそ、ルークは彼らの厚意に感謝し、その言葉に甘えることにしたのだ。困惑を隠せない少年に対して、双子の方はいたって冷静なものである。眉ひとつ動かさずに、同じ顔で口々に説明する。
「乗るのはタダある。でも」
「降りるのもタダとは言ってないある」
「降りるのは1000ソルある」
「ふえぇ」
そういえば、側近が旅の注意点として、そのようなことを言っていたような気がする──ルークは記憶を掘り起こした。観光客で賑わう土地には、それを狙う商売人が集まり、中には詐欺まがいの方法で金銭を巻き上げる者たちもある。彼らはプレゼントといってミサンガを巻きつけてきたり、艶やかな鳥と一緒に写真を撮るよう勧めてきたり、乗るのはタダといってラクダに乗せようとしたり、ありとあらゆる手段を用いる。しかる後に、巧妙に料金を請求してくるのである。
私たちも注意しましょうね、と生真面目な顔で進言する側近を、そのときのルークは、心配性だなと一笑に付した。別に、観光旅行に行くわけではないのだ。あくまでも、目的はPOGの手になるパズル遺跡の視察である。観光客のように、浮かれた気持ちで警戒心が緩み、古典的な手口に引っ掛かってしまうなどという心配とは、無縁であろう。少なくとも、そのときのルークは、そう信じていた。
それが、実際にはこのありさまである。1000ソルといえば、雑誌『月刊パズルプリンス』が50冊は買えてしまうだろう。降りるに降りられず、リャマの背中に跨ったまま、世間知らずの少年は途方に暮れた。
「僕、そんなお金、持ってない……」
旅費の管理は、彼の忠実なる側近が一貫して引き受けていた。小銭程度ならば、ルークも念のために携えてはいるが、双子の請求する金額にはとても足りない。ジャケットの内ポケットから、一握りの硬貨を差し出してみせ、少年は懸命に事情を説明した。だが、残念ながら、いくら誠意が伝わったところで、それで許してくれる相手ではなかった。
「なら」
「身体で払うある」
言って、双子は懐から何かを取り出した。それは、二つの黄金の腕輪であった。かつてこの地に栄えた文明は、金銀の精錬技術を持ち、豊かな黄金の財宝を有することで知られていた。これもまた、その遺産であろうか。巨大な両眼と鋭い嘴を強調して彫り込まれた意匠は、知恵の象徴たる猛禽を象ったものらしい。かの有名な地上絵に似て、素朴ながらも、どこか畏怖を感じさせる意匠である。
「これ嵌めるある」
「二重付けがおしゃれある」
口々に言って、双子はそれぞれにルークの腕を取った。慌てたのはルークである。
「ま、まさかそれ……オルペウス・リング…!?」
「さて、なんのことあるか」
「ただのお守りあるよ」
有無を言わせずに、双子は少年の袖を捲り上げ、手首を出させた。ルークは懸命に振り払おうと試みるが、いったいどこをどう押さえ込まれたものか、指先に少しも力が入らない。双子は涼しい顔で、そう力を入れているようにも見えないというのに──どうやら、彼らは東洋流の体術の遣い手とみえる。せめて、ルークは頭を振って抵抗の意を示した。
「やっ……やだ、腕輪はもう嫌だよ…!」
「大人しくするよろし」
「さっきの続きをされたいあるか」
双子の片割れが視線を向けた先には、先ほどルークを襲った黒アルパカが、機を狙うようにしてじっと佇んでいる。主人の許しが出れば、すぐさま、圧し掛かる準備は出来ているのだろう。獣から熱っぽい視線を向けられて、ルークは怯えたように身を竦めた。その反応を、双子は揶揄してくすくすと笑う。
「貴殿ら、よくお似合いあるよ」
「きっと、白と黒のもふもふの子ども生まれるある」
「灰色のもふもふかもしれないある」
「ふえぇ……」
双子は一旦、ルークから手を離すと、懐からスケッチブックを取り出した。ペンを走らせつつ、生まれてくる子どもの毛色談議に花を咲かせている。観光客向けに似顔絵商売でもしているのか、さらさらと描き上げられたイメージイラストは、なかなかの腕前である。アルパカの豊かな毛並みの質感が、よく表現されている。日々、動物の世話をし、慣れ親しんでいる者だからこそ描ける表現である。
ただ、少年とアルパカの間の子どもという設定でありながら、予想図はただのアルパカそのものであって、いったい自分の遺伝子はどこへいってしまったのだろうと、ルークは妙に冷静な頭の片隅で思った。彼の思いをよそに、双子はスケッチブックを閉じると、家畜に対してするように、ルークの腹や背中を撫でまわし始めた。
「元気で賢い仔アルパカ増やすある」
「10頭は産んで欲しいある」
「ここをアルパカの楽園にするある」
続々と話が具体的になっていく。どうやら、彼らは本気であるらしい。ルークはいよいよ、己の身の危険を覚え始めた。
果たして、忌まわしきリングに身を捧げるか、あるいは、アルパカの慰みものとなるか──いずれにしても、重い選択である。そうこうしている間にも、さあどうする、と双子は両側からじりじりと決断を迫る。ルークは懸命に思案していたが、やがて、力なく俯いた。だめだ、と呟いて、緩く首を振る。
どちらも選べないというのだろうか──否、そうではない。ゆっくりと、ルークは面を上げた。
「……だめだよ。何て言われても、リングは嵌めない。過ちは、二度と繰り返さないって、約束したんだ」
苦渋に満ちた選択であろうに、それを語る表情は、穏やかに澄み切っていた。後悔とも、諦念とも異なる、それは誇りに満ちた選択であることを窺わせる。何もかもを受け容れるような微笑は、神聖ですらあった。
確かに、腕輪を嵌めさえすれば、自分自身は助かるだろう。しかし、その代わりに、かけがえのないものを傷つけ、失ってしまう。何よりも辛い結末が、待ち受けている。そのことを、少年は身をもって知っていた。決断に、悔いは無かった。
「それなら」
「アルパカと契るある」
言って、双子は少年の衣服に手を掛けた。リャマに跨らせたまま、息の合ったコンビネーションで、ジャケット、シャツと器用に剥いでいく。抵抗することなく、ルークは身を任せた。衣服の下に丁重に護られていた、乳白の肌が、遮るもののない光の下にさらされていく。
腰を浮かせられて、下着まで取り去られると、跨った獣の体温と体毛の感触を、直に内股に感じる。冷ややかな風が素肌を撫でて、ルークは背筋を震わせた。温もりを求めて、跨ったリャマの背中にそっとうつ伏せると、頬を、胸を、内股を擦り寄せる。
「お客人は毛皮がお好みらしいある」
「早く温めて差し上げるある」
双子にけしかけられた黒アルパカは、一歩一歩、ルークの乗るリャマへと近づく。こちらも心得たもので、リャマは足を折り畳んで地面に座り込んだ。かつて太陽神へ生贄を捧げたという、一枚岩の祭壇の上で、今まさに、奇妙な儀式が執り行われようとしていた。一糸纏わぬ少年の白い肩を、しなやかな大腿を、雲間から射す陽光が照らしてきらめかせる。なめらかなその背中の上に、黒い影を落として、アルパカはゆっくりと覆い被さった。
間近に感じる獣の息遣いに、ルークは肩を強張らせ、きゅ、と拳を握る。その緊張を解きほぐすように、アルパカは背骨に沿って優しげに舌を這わせた。そして、少年のほっそりとした腰の上に、いよいよ身を沈め──かけたところで、動きを止めた。否、止めざるを得なかった。
「…………」
緊張に青褪め、きつく瞼を閉じていたルークは、いつまで経っても予想した衝撃が訪れないことで、そろそろと薄目を開けた。そこで目にしたのは、今にもこちらに覆い被さろうとした体勢から、先に進むことが出来ずにもがいているアルパカの姿だった。
見れば、その長い首には、何かが巻きついている──ラベンダー色のそれは、見覚えのあるストールであった。
「……させませんよ」
「ふえぇ」
低く呟く男の声が耳に届くや、アルパカは一声啼いて、ルークの上から身体をどけた。遮るものがなくなり、眩しく降り注ぐ陽光に、ルークは目を眇めた。逆光の中に、黒い影が佇んでいる。それを認めて、少年は小さく声を上げた。
「ビショップ……」
「ご無事でしたか、ルーク様」
アルパカの首を拘束していたストールを解きつつ、応えたのは、しなやかな長身を黒の衣装で固めた青年であった。穏やかな微笑を浮かべて、主人の安否を問う姿は、このような場面にあっても優雅な品格を醸し出し、一流の執事を思わせておよそ非の打ちどころが無い。
「……ひとまず、これを」
リャマの背中で震えるルークの背中に、ビショップは己の羽織っていた上着を、そっと掛けてやった。騎士道物語の一場面のごとく、その振る舞いは高潔であって、忠誠心に満ち溢れていた。
少年の身体に軽く触れて無事を確かめると、彼はアルパカに向き直り、翠瞳をすっと細めた。物静かな中にも鋭さを秘めた眼差しで、獣を射抜く。形の良い唇を動かして、彼は一言、「ふえぇ」と告げた。
おそらくは、それで意図が通じたのであろう。アルパカは戦慄に足を震わせ、二、三歩と後ずさる。飼い主の双子の元へと、彼は怯えたように駆け戻っていった。
鮮やかな手並みでもって、狼藉者を遠ざけた青年は、改めて年若い主人の手を取った。
「さあ、参りましょう」
囁いて、獣の背中から抱き降ろしてやろうとする。その手を、しかし、ルークは控えめに押し止めた。
「でも……リャマから降りるのは、1000ソルだって」
不安げに、ルークはリャマの持ち主である二人を見遣った。双子は傷心の黒アルパカを慰めるように撫でてやっていたが、料金の話が出るや、ここぞとばかりに、前へ歩み出た。
「払うある」
「乗り逃げはダメある」
当然の権利と言わんばかりに、二人は手を出して催促する。払うある、払うある、と同じ顔で交互に主張する双子に、どうやら妥協の二文字はないらしい。ビショップは苦々しげに眉を寄せていたが、ふと溜息を吐くと、リャマに跨った主人に視線を落とした。己の浅慮のために、かような窮地に陥ってしまったことを悔いているのか、ルークは固く唇を結んで俯いている。悔恨のただなかにある少年に、ビショップは小さく耳打ちをした。
「……楽しかったですか。リャマ散策は」
側近の問い掛けに、ルークはひくりと肩を震わせた。身勝手な行動を責められるとでも思ったのだろうか、そろそろと上げた瞳は、どこか不安げに揺れている。可憐な唇が、暫し逡巡してから、小さく開く。
「……うん」
「ならば、払いましょう」
貴重な体験で喜びを得たならば、それは正当な対価である──決断は早かった。青年は懐から財布を取り出すと、200ソル紙幣を5枚数え、双子の金髪の方に手渡した。微々たる差異ではあるが、何とはなしに、こちらの方が兄らしく、落ち着いているように見えたからである。
「グラシアス」
金髪は素直に礼を述べた。ともあれこれで、ひと段落である。と思いきや、見れば隣で、双子の片割れがまだ手を出している。
「こっちも1000ソルある」
悪びれた様子もなく、少年は主張する。それはないだろう、とビショップは抗議しかけたが、正当な対価は支払うと、今さっき決めたばかりである。結局、こちらにも同じだけの謝礼を支払った。グラシアス、と双子は揃って笑顔を見せ、それを大切そうに懐に仕舞った。
「これでご飯が食べられるある」
「もう少しで非常食に手を出すところだったある」
多少の家畜を所有しているとはいえ、このような土地での暮らしは、決して余裕のあるものではないのだろう。もしかしたら、親もなく、兄弟二人だけで、観光客相手に生計を立てているのかも知れない。つましい暮らしぶりを伺わせる少年たちの会話を聞けば、合計2000ソルの出費も、決して無駄遣いではなかったように思えてくる。
主人をリャマから抱き下ろしてやったところで、ふとビショップは、先ほどから気になっていたことを問うてみた。
「……ところで、あなたがた。どこかで、会ったような」
リャマを撫でていた二人は、その問い掛けに対して、ぴたりと動きを止めた。それから、静かに首を振ってみせる。
「気にするなある」
「この世には同じ顔の人間が4人いるというある」
そう言い残すと、双子は踊るような軽やかな足取りで、リャマとアルパカを連れて山を下っていった。彼らの後姿を見送りつつ、ビショップは緩く首を振って呟く。
「……別人でしょうね。言葉遣いが違いましたから」
「そうだね。顔も、衣装も同じだったけど」
「あるいは、四つ子だったのかも知れません」
私たちも下山するとしましょう、と側近は少年を抱いたまま足を踏み出しかけたが、辛うじてルークが「その前に服を」と言って止めさせた。まさか、一糸纏わぬ姿で抱き上げられたまま、宿へと戻るわけにはいかない。その辺りの常識感覚もまた、ルークが最近になって身につけたものの一つである。少しばかり名残惜しげに、ビショップは主人を一枚岩の上に下ろした。
その辺りに落ちていた衣装を、ルークは拾い上げ、淡々と身につけていく。着替えにしても入浴にしても、側近の手を借りずに自分ひとりで行なうようになったのは、やはり旅を経験してからのことだった。はじめのうちこそ、ビショップは何かというと手伝いを申し出てきたものであるが、今では主人の意向を尊重して、ただ傍らで辛抱強く見守るのみにとどめている。
「……戻ったら、まず風呂に入りたいな」
シャツを被ったところで、ルークは小さく呟いた。これは、「大事な話」をするためではなく、単に旅の疲れを癒すための入浴である。側近は、承知いたしました、と一礼した。
ここまで来て、風呂に入らないわけにはいくまい──遺跡の麓の村、アグアス・カリエンテス。その名は、“熱い水”を意味する。
「名前の通り、温泉に入れますよ。プール、といった方が近いかも知れませんが……アンデスの山々に囲まれた自然の中、なかなかに心安らぐものです」
「詳しいね」
「ええ。先ほど、入ってきましたので」
「…………」
別行動の間にそんなことをしていたのか、とルークは淡青色の瞳を上げて側近を見つめた。その視線をどう捉えたか、ビショップは弁明するように両手を広げた。
「どうか誤解なさらないでください。決して、己の楽しみのためではありません。下見です。ルーク様が浸かられる湯に、万が一にも間違いがあってはなりません。湯温、水質、効能、周辺環境……これらの観点において、果たして、ルーク様のお身体に相応しい湯か否かということを、私はあらゆる角度から身をもって検証し」
「もういいよ」
「はっ」
溜息交じりのルークの一言に、忠実なる側近は深々と頭を垂れた。いずれにしても、わざわざそこまで下見をしてくれたというのならば、間違いはあるまい。ありがたく、自然の恵みに浸からせて貰うとしよう、とルークは石段の山道を下り始めた。