POG世界パズル遺産〜天空の都市篇〜
◇
どこからともなく、山間にケーナの音が響いた。情緒深く、もの悲しいホ短調の調べに耳を傾けつつ、沈み行く太陽に目を細める。アンデスの山々を紅く染め、天空の火球はゆっくりと、その巨体を地平へと沈めていった。悠然と翼を広げたコンドルの雄々しいシルエットが、黒点となって彼方を滑空する。
「……ふぅ」
素朴な石組で形作られた温泉に身を沈めて、ルークは深く息を吐いた。川沿いにひっそりと設けられた古い露天風呂は、頭脳集団POG関係者のみに開かれた憩いの場である。側近の言っていた通り、ぬるめの湯温は、温泉というよりはプールに近いものであるが、アンデスの急峻を仰ぎ見つつ自然の中に身を沈める行為は、心身を深く癒すものである。ぱしゃ、と水音を立てて、少年は両手で軽く顔を拭った。なめらかな頬を、水滴が伝い落ちて、唇を湿らせる。
「……今日は、いろいろあったな」
呟いて、ルークは瞼を下ろした。暫し、川のせせらぎと小鳥のさえずりに耳を傾ける。ふと、隣で水の跳ねる音がした。また、側近が足でも沈めているのだろう。この区画はPOG関係者以外が立ち入ることはないし、現在この地に滞在している該当者は二名のみなのだから、考えるまでもないことだ。いつも通りのこととして、ルークは気に留めなかったが、耳元を温い吐息が撫でて、反射的に背筋を強張らせた。
「ちょっ……ビショップ…!?」
無防備な耳元を手のひらで庇いつつ、隣に向き直る。頬がほのかに紅潮しているのは、湯に浸かっているためだけではあるまい。ふざけるのも、たいがいにしてくれと、口を開きかけたところで、しかし、ルークは硬直してしまった。隣で湯に身を沈めている者の姿を目の当たりにして、淡青色の瞳を大きく瞠る。
「ふえぇ」
のんびりとした啼き声。豊かな黒い体毛。穏やかな瞳。
隣に居座っていたのは、忠実なる側近ではなかった──いつの間にか、先のアルパカが、平然と湯に浸かっていた。鼻を鳴らして、実に心地良さそうである。そればかりか、じりじりとルークに身を寄せてくる。
「ふ……ふぇ…」
水の中、後ずさろうとするも、狭い露天風呂である。ルークはすぐに、角へと追い詰められてしまった。周囲を見回して、思わず側近の名を叫ぼうとしかけたところで、少年は辛うじてそれを堪えた。ひとりで入浴出来るといって、彼を宿に残してきたのは自分である。自信満々に出掛けておきながら、都合が悪くなったら助けを求めるなど、身勝手が過ぎるだろう。いつまでも彼に甘えていてはいけない──彼はそれで良いと言うかも知れないが、自分自身が、それを許さない。
アルパカは首を伸ばして、またルークの髪を食もうとする。危ういところでそれをかわした、そのときだった。
「……そうだ、」
少年の脳裏に、一つの奇策が浮かんだ。効果がどれほどのものかは分からないが、何もしないでいては事態に好転の見込みは無い。決意を固めると、ルークは大きく息を吸い、そして、水中に潜った。水を蹴り、獣から距離を取る。どうやら、顔を濡らすのは好まないらしく、アルパカは水中までは追ってこなかった。ひとまず、第一の読みは当たった──しかし、ずっと水中に隠れているわけにはいかない。息継ぎのために顔を出せば、また追い掛けられるだけなのではなかろうか? ──否、そこで、第二の読みである。
そろそろか、と頃合いをみて、ルークは水面に顔を出した。
「…っ、はぁ……」
詰めていた息を吐き、新鮮な空気を肺に取り入れる。目元を拭って見れば、アルパカは目標を見失って戸惑うように、辺りを見回していた。同じ風呂の中にいるというのに、こちらには見向きもしない。
「やっぱり……この髪で、認識していたんだ」
独りごちて、ルークは己の白金の髪に触れた。先ほどの潜水によって、それはすっかり水を吸い、重く顔に貼りついている。乾いているときこそ、ふわふわと柔らかく揺れ、アルパカと似ていなくもなかったかも知れないが、こうなってはもう、仲間には見えまい。そして、先ほど圧し掛かられた際に擦り付けられた匂いにしても、洗い流されている筈である。目論見が成功して、ルークはほっと安堵の息をもらした。
アルパカはといえば、どうやら獲物を諦めたものらしい。少しばかり落胆した様子で、静かに湯に浸かっている。豊かな体毛は、濡れてなおもボリュームを失わず、ルークは小さく感心を覚えた。
「ここにいたある、アルフォンス君」
「すっかりくつろいでるある」
「帰るある」
頭の上から聞き覚えのある声がして、ルークはそちらを仰ぎ見た。岩場に佇んでいたのは、先の双子である。片手にケーナを携えているところをみると、麓の村で観光客相手に演奏でも披露していたのだろうか。どうやら、アルパカは彼らのもとを逃げ出してきたものらしい。
「あ……さっきの」
呟くと、双子はそこで初めて気が付いたというようにルークを見遣った。それから、互いに顔を見合わせて、鏡映しのように首を傾げる。
「誰あるか」
「知らないある」
「今日のお客人は、白もふもふだけある」
あっけに取られているルークの前で、双子は協力して、アルパカを湯から上がらせた。
「アルパカは温泉に入らないある」
「温泉はカピバラに任せるある」
口々に紡ぎながら、双子はアルパカを引き連れて、再び山道を登っていった。
それを見送って、ルークは何とも言い難い複雑な表情で暫し、水の滴る己の髪を弄った。アルパカだけではなく、人間にまでも髪型によって識別されているとは──いったい、自分のアイデンティティの何割が、この髪に依存しているものだろうか? 一つ溜息を吐いて、首を振る。
はるか彼方の山並みを仰ぎ見れば、沈み行く太陽の残滓が、険しい稜線を影絵のごとくに浮き上がらせている。それも間もなく薄闇が覆い尽くし、月の時間が訪れるだろう。壮大なグラデーションを描く空を見上げて、少年の唇が小さく動く。
「……土産物は見つかった?」
どこへ投げ掛けたとも知れぬ、囁き程度の問い掛けだった。独り言であろうか──否。少年の声に応えるようにして、背後に、ひとつの影が現れる。今度こそ、慣れ親しんだ気配を背後に感じて、ルークは満足げに表情を緩めた。
「ね、……ビショップ」
「はい。ルーク様」
少年の背後に恭しく跪き、鳶色の髪の青年は頭を垂れた。年若い主人の入浴の間、忠実なる側近は、宿の付近で手ごろな土産物を探すことにしていた。その収穫のほどを、いつも執務室、あるいはバスルームでするのと同じように、落ち着き払った態度で報告する。
「この付近の谷に自生するサボテン……なかなか愛らしい外見ですよ。美しい純白の花を咲かせるそうです」
「いいんじゃないかな。日本支部の皆へのお土産は、それにしよう。カイトには、特別立派なのを」
承知いたしました、とビショップは一礼する。それから、音もなく立ち上がって、岩場に置いてあったバスタオルを広げた。同じタイミングで、ルークは湯から上がっている。ぽたぽたと滴を落とす、その白い肢体を、ビショップはそっとバスタオルで包み込んだ。慣れた手つきで、濡れそぼった頭、肩、背中、腕と水分を拭っていく。独りで出来るからといって拒むこともなく、ルークは側近の甲斐甲斐しい世話に身を任せた。本人よりもよほどその身体の扱いを知り尽くしたビショップの手にかかると、ほとんど何をされたか分からないままに、鮮やかな手並みで身支度が整えられてしまう。自分自身ですると、未だに背中を拭き残したり、髪を上手く乾かせずに、いつまでも肩に水滴を落としてしまうことを思うと、その技術には感嘆するばかりである。タオルと素肌の摩擦も感じさせぬ柔らかさで、ビショップは主人の四肢を丁重に拭った。
髪を軽くかき混ぜられながら、ふと、ルークは側近の片手に提げた大きな袋を見遣った。
「それも、土産物?」
「ええ。アンデスメロンです」
「それはアンデスとはまったく関係がないよね」
何食わぬ顔で日本の名産品を挙げてみせる側近に、ルークは至極冷静な言葉で応じた。その名称が「安心ですメロン」の省略形であることくらいは、日本支部のトップに身を置く者として、知識を備えている。主人の指摘に、失礼いたしました、とビショップは慇懃に詫びてみせた。
「今のは冗談です……本当は、真っ赤な仮面と、綺麗なポンチョです」
アンデスの春を讃える唱歌にでも登場しそうな、定番の取り合わせである。それにケーナを加えれば完璧だ。帽子を揺らし、太鼓を叩いて、祭りの行列は緑の山道を練り歩くことだろう。
「……誰に贈るんだい」
やや間を置いたのは、それが側近にとって、自分用の土産物なのか、それとも他人に贈るのか、ルークには見定めかねたからである。ただ、個人的な楽しみのために、限られた旅の資金を遣い込むことはないだろうという希望的観測から、ルークはそれらが誰かへの贈り物であるという推測の方を採用した。仮面にポンチョ姿でケーナを奏でる青年の姿は、少し見てみたいような気もしたが、それは、仮にもパズル視察という業務の合間に行なうことではない。
幸い、希望的観測は当たっていたようで、ビショップは朗らかな微笑とともに応える。
「仮面は、元・極東本部長へ」
「ああ……、彼はヴェネツィアン・マスク収集が趣味だったね」
自分の中では、土産を渡す対象リストからすっかり外れていた人間の名前を出されて、ルークは遠く思いを馳せるような目をした。こういうところが、自分にはない、側近の青年ならではの気の利くところだと思う。確かに、再雇用を視野に入れるならば、良好な関係を築いておくに越したことはない。そう思うと、土産物選びもまた、形骸化した義務というだけではなく、円滑な人間関係を構築するパズルのひとピースのように思えてくるのだった。
ビショップは、携えた袋から、もうひとつの土産物を取り出した。オフホワイトを基調に、紺と朱色で伝統的な幾何学模様を織り込んだ毛織物である。裾から下がる、色とりどりの房飾りが可愛らしい。
「ポンチョは勿論──」
見事な毛織物を両手に捧げ持ち、ビショップは静かに主人の頭を通させた。大判のポンチョは、少年の上半身をすっぽり覆ってしまう。白い素肌をふわりと包み込まれた、その愛らしい姿を前に、ビショップは満足げな表情を浮かべた。
「──あなたへ」
着慣れぬ民族衣装を被せられて、ルークは、暫し不思議そうに己の身体を見下ろしていた。軽く腕を上げて、生地を広げては、パズルにも似た幾何学模様のパターンを目で追っている。その度に、裾の房飾りが華やかに揺れ動く。
「……温かい」
小さく呟いて、少年は柔らかな毛織物の感触を楽しむように頬を擦り寄せた。満足げな主人の様子を、ビショップは微笑ましく見つめていたが、ふと、何かに気付いたように背後を見遣る。
「どうかした?」
「いえ……」
翠瞳に警戒の色を過ぎらせ、青年は注意深く、周囲の様子を探る。夕陽の残滓が僅かに射すばかりの、薄闇に包まれ始めた岩場に、人影は見て取れない。時折そよぐ、山からの風も穏やかなものである。のどかな景色のどこにも、これといって注意を引きそうなものはない。
ビショップ自身、それは確信というよりは、予感めいたものに近かったらしい。気のせいといって済ませてしまうのは容易いが、研ぎ澄まされた鋭敏な神経は、思考以前の段階で脅威の予兆を告げる。いったい、己が何に気を取られたのかを見極めるように、青年は瞳を眇める。片腕で、そっと主人の肩を抱き寄せた、そのときだった。
「ふえぇ」
「なっ……!」
いななきと共に聞こえたのは、猛スピードで迫り来る蹄の音であった。咄嗟に振り返った二人を、べきべきと何かのへし折れる暴力的な破壊音が襲う。土埃を上げて砕け散ったのは、浴場を囲っていた筈の木製の柵だ。素朴な囲いを体当たりで破壊して、乱入者は頭脳集団POGの所有する領域に足を踏み入れた。大きく身震いをして、豊かな黒の体毛から水滴を振り飛ばす──長い首、大きな瞳、鼻に掛かった啼き声。先ほど、山へ連れ帰られた筈の、あの黒アルパカであった。
しかし、先ほどまでとは、何かが異なる。穏やかな性質の家畜には似つかわしくない、この威圧感は何だろうか? 似たようなものを、どこかで感じたことのあるような──その正体を、ビショップが見極める前に、獣は二人に向けて突進した。
「──危ない!」
茫然と立ち尽くす主人を脇に抱えて、ビショップは大きく飛び退った。辛うじて、獣の突進から逃れる。柵をへし折るほどの勢いだ、まともに喰らえば、無傷では済むまい。しかしアルパカとは、このような好戦的な生き物であっただろうかと、青年の脳裏を小さな疑問が過ぎる。
そこで、ビショップは腕の中に抱えた白い少年に目を落とした。ルークの身を包む、柔らかな毛織物の手触りをなぞって確かめる。青年は、納得のいったように頷いた。
「なるほど……確かに、このポンチョの素材は、アルパカ100パーセント。……私としたことが、迂闊でした」
苦々しく眉を寄せて、ビショップは腕の中の主人を抱え直した。これでは、アルパカに対して、獲物がここにいると教えるようなものである。折角、ルークが機転によって相手の目をくらませ、難を逃れたかと思われたところであったというのに──己の浅慮を恥じて、ビショップは唇を噛み締めた。
「あっ……あの瞳…」
少年の驚愕に満ちた声が耳を打つ。つられるようにして、忠実なる側近は獣の方を見遣った。ルークの言葉が、何を指しているのかを、一目にして理解する。豊かな黒の体毛に埋もれたアルパカの頭部──その大きな瞳は、禍々しい赤色に輝いていた。
「あれは……まさか、」
「アルパカが…リングを……!?」
見れば、体毛に埋もれた長い首を、黄金の輝きが一周している。なんてことを、とルークは声を詰まらせた。
「オルペウス・オーダーの残党が、こんなところにまで……」
「ともかく……今は、彼を落ち着かせることが先決です」
理性を失い、衝動に突き動かされるばかりとなった獣を前に、ビショップは慎重に間合いを測った。相手の出方を伺いつつ、浴場脇の広く開けたスペースへと誘導する。建設途中で放棄されたものか、ところどころに巨岩の積まれた、石畳の運動場である。身を隠せそうな石積みの前で、青年は腕の中に抱いていた主人を、そっと地面に下ろした。
「……隠れていてください。すぐに、終わらせますから」
アルパカの動向から目を離さずに、手振りでルークを背後へと逃がす。少年の気配が十分に離れていったところで、ビショップは改めて、リングに呑み込まれた哀れな獣に相対した。
「二度と言わず、三度までもルーク様を狙うとは……それなりの覚悟があってのことでしょうね」
鋭い光を宿した瞳は、たいていの相手であれば、睨めつけられただけで慄いてしまうであろう気迫に満ちていた。たとえ異国の動物であろうとも、その眼光に込められた警告の意図を本能的に読み取るのは、そう難しいことではあるまい。しかし、獣は撤退を選択しなかった。むしろ、青年と張り合うように、長い首を伸ばして鼻を鳴らす。両者とも、一歩も退く様子を見せずに、威嚇の視線が交錯する。緑麗しきアンデスの渓谷は、途端に剣呑な空気に包まれた。
均衡を破り、先に動いたのは、アルパカの方であった。彼は、何故か今度は突進せずに、奇妙な動きをみせた。斜め前方へ数メートルを移動し、そこでぴたりと立ち止まる。それ以上は近づこうとはせずに、アルパカは対峙する青年を見据えた。紅く輝く瞳は、どこか底知れぬ意図を感じさせ、あたかも謎をかける出題者(ギヴァー)であるかのようだ。予想外の展開に、注意深く身構えつつも、ビショップは訝しげに眉を寄せた。
「何です……? 陽動のつもりですか、」
「……パズルだ」
青年の疑問に、背後から小さな声が答える。相対する獣から意識を逸らさずに、ビショップは声の主を振り仰いだ。身を隠していた筈の、歪な石積みの壁の上に登って、ルークは両者の戦いを見つめていた。
「パズル…? いったい、」
危険だから隠れていろと諌めるのも忘れて、ビショップは主人の言葉の意味をなぞった。パズルもなにも、辺り一帯は純然たる浴場である。石を積み、一部に湯を引き入れた構造はシンプルなもので、それらしいものなど、どこにも見当たらない──否。
「まさか、」
はっと気付いたように、青年は足元へと視線を向けた。カミソリ一刃通さぬ緻密な石積みの伝統を感じさせる、石畳の地面──そこへ、升目を描くようにして縦横に走る、この溝は何だ? やや歪んではいるが、自然や偶然の造形物ではない。そこには確かに、制作者の意図が宿っていた。升目の全体像と、アルパカの立ち位置を把握したとき、ビショップは驚愕とともに、その答えを口に出していた。
「ライトニング・ポジション──!」
ライトニング・ポジション。
主として一対一で行なわれる、陣取りゲームの一種である。チェスのナイトの動きでもって、交互に任意の升目へ移動することによって、手番が進む。プレイヤーは、移動した升目から、縦・横・斜めの8方向の升目を、己の陣地とすることが出来る。既に相手の陣地となっている升目にぶつかると、その1升の色を変え、これ以上は先に進まない。これを続けて、最終的により多くの陣地を獲得とした者が勝者となる。
このゲームがライトニング・ポジションと呼ばれるのは、通常、電光によって色の変化するパネルの上で戦いが行なわれるためである。パネルの色は、現在その升目がどちらのプレイヤーの陣地にあるかを意味し、ゲームの進行とともに大きく様相を変えていく。
「ただし、ここは岩場──勿論、地面の色は変わらない。ゲームの状況は、頭の中に描いて把握するしかないと──そういうことですね」
課せられたルールを把握して、ビショップは小さく頷いた。目まぐるしく変わる盤面の状況を精確に把握しないことには、勝利への道は遠い。一つの升目の記憶違いが、致命的なミスを誘うことになる。いかに冷静な判断力を保つか──これは、己との戦いでもあるのだ。
いずれにしても、こちらに拒否権は無い。主人を守るためには、いかなる勝負であろうと、ただ立ち向かうだけである。幸い、記憶力に関してはそれなりの自信がある。負けられない──決して、負けるわけには、いかない。ストールを風に翻し、ビショップは顔を上げた。
「POGが誇る賢者のパズルの麓で交える一戦──良いでしょう。パズルタイムの、始まりです」
──ご覧になっていてください、ルーク様。
心中で、ただ一人の敬愛する主人に祈りを捧げて、青年はパズルを開始した。
◇
「ふえぇ」
「くっ……やってくれますね」
相手を小馬鹿にしたような啼き声を上げ、アルパカは余裕の態度を見せる。対して、青年の表情は厳しいものであった。獣を相手に、負ける筈がないという驕りが、油断を招いたのだろうか。10ターンを終えたところで、ビショップは劣勢に立たされていた。こちらの意図を全て読み切っているとでもいうように、アルパカは絶妙な位置へと移動してくる。青年の賭けは、その度に、あえなく潰されてしまうのだった。
これもリングの力か、とビショップは唇を噛み締めた。所詮は、腕輪も持たぬ凡人、消えるばかりの屑星──かつて、他人に向けて投げつけた台詞が、今となっては己の胸を抉る。獣に圧倒されているという事実は、焦燥を誘い、判断ミスを招きかねない。一手ごとに陣地が反転し、状況が目まぐるしく変容する、この目隠しパズルにおいて、それは命取りとなるだろう。精神的優位は、すなわち、盤上での優位に直結する。勝利するのは、最後まで平静を保っていた者──それが、頭脳戦のセオリーである。その意味で、自分が焦りを覚えているという意識そのものが、更にビショップを追い詰めていく。状況は、確実に悪循環を辿っていた。
どうした、お前の番だぞとでも言うように、アルパカは傲慢な顔つきで鼻を鳴らした。言われるまでもなく、青年は思考を回転させていた。どこだ──どこへ移動すれば良い。相手の二手先までを読み、最適と思しき手を絞り込んでいく。歪んだ升目が刻まれただけの岩場に、相手と己の陣地の色分けを脳内で重ね合わせてのシミュレーションは、確実に脳を疲弊させていった。
黄金比にかなう脳の持ち主であれば──あるいは、リングを嵌めたならば、このような計算などするまでもなく、未来を見通せるのだろうか? それは──そのビジョンは、いったい──
「……っ、くしゅ、」
背後で、可愛らしい小さな音がした。没入していた思考から引き戻され、ビショップは咄嗟に後を振り返った。岩壁の上では、白い少年が戦いを俯瞰している。ただ、今やルークは背中を丸め、哀れに身を震わせていた。アルパカのポンチョこそ纏ってはいるが、下には何も穿いておらず、髪も濡れたままなのだ。そんな状態で、夕方の冷え込む空気の中、岩の上に登っていれば、身体が冷えもするだろう。
身を縮めて、ポンチョの中に隠れようとするが、覆いきれない白い脚を冷ややかな風が撫でる度に、少年はふるりと肩を震わせる。それでも、岩陰に隠れようとしないのは、戦いを見届けようという固い意思の表れであろうか。
「──ルーク様!」
それを認めた瞬間、ビショップは考える暇もなく走り出していた。パズルの勝敗に、構っている場合ではなかった。今、重要なのはそんなことではない。湯上がりの主人を放置するなど、自分は何と愚かだっただろうかと、過去の己を烈しく責め立てる。すぐにでも、彼を温めなくてはならない。それこそが、自分の役割である。パズルも、アルパカも、今のビショップにはどうでも良かった。
脇目もふらず、ルークの元へと駆け出す。しかし、走る青年に並んで、ふっと隣に現れたものがある。漆黒の影のような、それは──
「なっ……!?」
隣を見遣って、ビショップは驚愕に目を瞠った。並走しているのは、例の黒アルパカだった。対戦相手がパズルを放棄するのを見て、彼もまた、戦いを棄てたのだ。獣は、横目で青年を一瞥すると、不敵に顔を歪めてみせた。震える白い獲物のもとへと、一直線に駆けていく。
「──させません!」
戦いの場は、高度な頭脳戦から、より原始的な力と力のぶつかり合いへと移行した。獣の魔の手から主人を守るべく、忠実なる側近は、並走するアルパカに掴みかかった。走力では敵わないということを、瞬間的に判断しての先制攻撃である。豊かな体毛を掴み、引き摺られるようにしながらも怯まずに、まずは突進を止めさせる。すかさず足払いを掛けるが、予想外に俊敏な身のこなしでもって、アルパカはそれをやり過ごしてみせた。小さく舌打ちをして、青年は体勢を立て直す。
激しくもみあいながら、ビショップはもう片腕で、アルパカの長い首を押さえ込もうと試みた。しかし、相手もそう大人しく捕まってはくれない。
「……っ!」
瞬間、反射的に飛び退っていなければ、獣の吐き飛ばした強烈な胃液を含む唾液を、見事に顔面に浴びることになっていただろう。穏やかな性質のこの動物が有する、ほぼ唯一の攻撃手段を、ビショップは危ういところでかわした。あれを顔面にひっかけられてなお、戦意を喪失せずにいるというのは、なかなかに精神的に厳しいものがあるといえよう。
とはいえ、間合いを取られてしまっては、飛び道具を持たないビショップの側の分が悪い。両者は睨みあったまま、じり、じりと間合いを測った。隙を見ては、青年は攻撃を仕掛けようとするが、その度に、獣は唾を吐きかける仕草を見せて威嚇する。急がなくては、こうしている間にも、ルークの体温は奪われつつあるというのに──苛立つ気持ちを抑えて、ビショップは一歩、踏み出しかけ、
「……!」
そのまま、足を滑らせた。先ほど、獣が吐き捨てた唾を踏みつけたのだ。いざ走り出そうとしかけていたところであっただけに、バランスを崩して倒れ込みかけるが、そこはなんとか堪える。間抜けに転倒することだけは免れたが、靴は片方脱げてしまった。屈辱を噛み締める青年をせせら笑うように、アルパカは「ふえぇ」と啼いてみせた。
「……ビショップ」
心細げな声が耳を打って、青年は俯いていた面を上げた。岩場の上から、ルークがこちらを見つめている。安心させるように、ビショップは微笑んだ。
「すぐに参ります……いま暫く、お待ちを」
あたかも、この場が晩餐会会場であるかの如く、完璧な礼法に則った優雅な一礼を施す。それは、何の根拠もない、口先だけの言葉であったかも知れない。ただ、敬愛する主人を安心させるためだけの、嘘偽りであったかも知れない。それでも、忠実なる側近の振る舞いは、彼の真摯なる思いのほどを感じさせ、見る者の胸を打つには十分であった。
面を上げると、ビショップはもう片方の靴も脱ぎ捨てた。石積みの上に立ち、軽く足首を回す。その表情に、先ほどまでの苦渋の色は無い。端正な面は微笑を讃え、翠瞳は穏やかに澄み切っている。
「ふえぇ」
今更、何をするつもりかと、アルパカは挑発的に鼻を鳴らした。そして、それが彼の最後の呑気な啼き声となった。
「……!?」
視界から、突然に青年の姿を見失って、獣はうろたえた。いったい、どこへ姿を消したのか? 否、それよりも、このスピードはいったい──おろおろと辺りを見回すアルパカの背後に、ふっと漆黒の影が落ちる。
「──こちらですよ」
静かな余裕に満ちた声に、獣は慌てて振り返りかけ、そして、そのまま動きを止めた──止めざるを得なかった。長い首を、しなやかに、そして確実に、青年の腕が廻って固めていた。
「ふ……ふぇ……」
悔しげに、獣は細い啼き声を上げた。己の身に何が起こったのか、未だに理解出来ずにいるのだろう。念入りに相手の動きを封じつつ、ビショップは、こんな場面においても非の打ちどころのない上品な笑みを湛えた。
「なぜ急に、と不思議にお思いですか。……実は、私は常日頃から、格闘ヒーローにありがちな超重い靴を履いて、身体を鍛えているのですよ」
耳元に囁いて教えてやると、アルパカの赤く光る瞳に戦慄が走る。それは、敗北を悟った者の瞳だった。乱れたストールを片手で整え、青年は、ゲームの最後の台詞を告げる。
「……チェックです」
「……ふえぇ」
弱弱しく啼く、それは、降参の印であっただろうか。獣の大きな瞳から、禍々しい輝きが失せていく。時を同じくして、その首元で、小さく乾いた音が鳴った。見れば、黄金の首輪に亀裂が走り、ばらばらと砕け落ちていく。それを認めて、ビショップは獣から腕を外した。拘束を解いても、アルパカは大人しく、その場に留まった。
「……さあ。山へお帰りなさい」
背中を押してやると、アルパカはビショップと、そして岩の上のルークを静かに見遣った。穏やかなその瞳に、どこかもの悲しげな、しかし、慈愛に満ちた光を感じたのは、観察者の気のせいであっただろうか。それから、アルパカはゆっくりと、もと来た道を戻っていった。己の壊した柵を越えて、山の方へと去っていく、その後姿を、ビショップは目を細めて見送った。
「……手ごわい相手でした。アルフォンス君」
対戦相手への敬意を込めて、ビショップは軽く瞑目した。願わくは、腕輪から解放された彼に、平穏な日常のあらんことを──この地を照らす太陽と月に、青年は素朴な祈りを捧げた。そして、脱ぎ捨てた靴を拾いつつ、己の在るべき場所へと向かう。
「お待たせいたしました」
巨石の上に座り込んだルークを、忠実なる側近は、背後から静かに抱き締めた。すっかり冷たくなってしまった、濡れた髪に頬を擦り寄せる。腕の中で、ルークは小さく身を縮めた。
「寒い……」
掠れた声を紡ぐ唇も、血の気を失ってしまって痛々しい。そっと指先でなぞってみれば、柔らかな弾力が返って来るが、およそ温もりは感じられない。確かめるように、少年の頬を撫でて、ビショップは眉を顰めた。
「……失礼いたします」
ポンチョの裾から覗く白い膝を、手のひらで包み込むように触れると、そこも熱を失っていることが分かった。そのまま、ふくらはぎ、引き締まった足首へと、マッサージを施すように撫でさする。くすぐったいのか、ルークは小さく吐息をこぼして身じろいだ。構わずに、ビショップの手はルークの肌の冷えた箇所を探しては、優しく撫でて温もりを与えた。
「っん……、」
ポンチョの裾の房飾りをかき分けて、長い指が大腿を伝い上がる。触れられるほどに、身体の芯から湧き起こるものを感じて、ルークは上がりかけた声を堪えた。側近は、あくまでも温もりを分け与えているだけで、何もやましい気持ちはないといった風情を装っているから、やめろといって咎めることも出来ない。勝手に意識しているだけだと言われればそれまでであって、ルークの分が悪い。それまでの寒さとは別のものによって、少年は小さく肩を震わせた。
可愛らしい反応に、ビショップは優しく微笑むと、主人の腰に回した腕を引き寄せて、より身体を密着させた。骨ばった手がポンチョの中へ潜り込み、腹から胸を優しく撫で上げる。逃れることを許さない、無遠慮ですらある手つきは、着実にルークを追い立てていった。
「……土産物、が、」
息喘ぐようにして、掠れた声を紡いだのは、肌に立ち昇るものから、せめて気を逸らそうという試みだっただろうか。ルークの言いたいことを察して、青年はああ、とその辺りに投げ打っていた土産物の包みを見遣った。
先のバトルの最中に、土産物の真っ赤な仮面は獣に踏み潰され、無残な残骸と化していた。仮面であったことすら、その欠片からは想像するのが難しい。しかし、折角の買い物が無駄になったといって、ビショップは嘆くことはしなかった。
「これくらい、大したことではありません。きっと、こんな土産物など必要ないのだという、天の思し召しでしょう。考えてみれば、別に彼に特別これといって義理立てる必要などありませんでした。おかしな勘違いをされても困りますし、土産の話は、無かったことにしてしまいましょう」
笑顔で提案する青年に対して、そんなことで良いのだろうか、とルークは怪訝な表情を見せる。関係者に対する土産物の配分まで心配するようになるとは、この少年のかつての在りようからは想像もつかぬ、目覚ましい成長ぶりである──ビショップは眩しいものを見るように目を細めた。指導者として、組織の人員を気に掛ける態度が身についてきたのは、良いことである。とはいえ、それとこれとは話が別だ。それを分からせるべく、ビショップは少年の耳元に囁いた。
「……何も、お気になさらなくて良いのですよ。あなたが無事でいてくだされば、それだけで十分なのですから」
さあ、参りましょう、とビショップは主人の手を取って立たせた。自然な振る舞いで肩を抱いて引き寄せ、冷えてきた微風から主人を庇う。
「すぐに、お食事にしましょう。なにか、身体の温まるものを──そうですね、」
顎に指を当てて、軽く思案顔を見せた青年は、ふと、いたずらっぽい微笑を唇に刻んだ。
「ここは名物、クイの丸焼きをいただきましょうか」
「ふえぇ」
双子の肩に乗せていた愛らしいモルモットの姿を思い起こして、ルークは小さく悲鳴をもらした。それに対して、ビショップは驚いたように目を瞠る。
「おや、ルーク様、いけませんね……早速アルパカ語をお使いになるのは、たいへん結構ですが、今のお言葉は少々、大胆に過ぎます。そのようなはしたないこと、むやみに口になさるものではありませんよ。ええ、勿論、お気持ちは分かっております。仰せのままに、後ほど宿で、ゆっくりと」
極上の微笑を浮かべると、ビショップは恭しく、主人の手の甲に口づけた。いったい、彼はどこまでが本気なのだろうかと、ルークは掴みきれないまま、曖昧に頷いた。青年は満足げな様子で、年若い主人の肩を抱き、今宵の宿の方へと足を向けた。
◇
「……アルパカの楽園計画は、失敗のようだな。ウー」
メキシカンハットを脱いだ藍色の髪をアンデスの微風になびかせて、少年は平坦に声を紡いだ。傍らに立つ、同じ背格好のいまひとりに、横目で視線を投げかける。
「仕方あるまい、アルフォンス君はよくやってくれた。ノー」
かり、とトウモロコシを齧って、金髪の少年は応えた。
世界三大穀物の一つであり、南米原産のこの野菜は、僅かに腹を満たすばかりであった小型の原種から、古来よりの交配によって、主食に足る豊かな実りを得るに至った、品種改良の代表例である。家畜の改良も同様で、同じ祖先を持ちながらも、労働力としてのリャマ、体毛を得るためのアルパカと、今はその特性によって明瞭に区分されている。
そうした先人の優れた育種技術の伝統を受け継ぎ、誕生させた黒アルパカ──個体名・アルフォンス。彼は、双子の所属する『組織』の最高傑作といってよかった。身体は頑健にして、知能レベルも他所のアルパカとは一線を画する。更にリングによって能力を引き上げられた獣は、この地において、まさに無敵といってよかった。
「そのアルフォンス君を打ち破った男、そして」
「アルフォンス君が見初めた白もふもふ、か」
同じ顔をした少年たちは、眼下に視線を投げた。彼らの立つ岩山の絶壁、そのはるか下方の川辺では、黒衣の青年と白いポンチョの少年が、寄り添って歩んでいる。青年は少年を己の陰に隠し、労わるように背中を撫でてやっている様子が分かった。
「まるで、つがいのようだ」
「引き離すことは、そう容易ではない」
金髪の少年は、また一口、トウモロコシを齧ろうとしたが、それより先に、もう片割れによって手首を掴まれる。彼は隣の弟を一瞥したが、何のつもりかと問うことも、手を振り払うこともなかった。それをいいことに、藍色の髪の少年は、握った手首ごと、兄の手の中のトウモロコシを引き寄せ、それに吸いついた。張りのあるコーン一粒一粒の瑞々しい風味を、目を閉じて味わう。
今日の観光客は世間知らずで、支払いが良かったため、夕食代わりのトウモロコシは、ちゃんと二本ある。それにも関わらず、当たり前のようにして、同じ一本から食べようとする弟の振る舞いを、兄は咎めるでもなく、黙って見つめていた。
満足したらしい弟が、トウモロコシから口を離したところで、金髪の少年は問う。
「あのつがいの間には、何が生まれると思う」
「決まっている。最強の駒」
よどみなく、歌うようにして双子は台詞を続けた。もう豆粒程度の大きさとなった、白と黒の人影を、目を細めて見つめる。示し合わせたかのように、ぴったりと同じタイミングで、双子は口を開いた。
「クイーンだ」
頭上には、淡く輝く白銀の月と、それを包み護る漆黒の闇が広がる。顔を上げ、天を仰ぐ二人の少年の瞳が、一瞬、深紅の光を宿した。
「……彼らとは、また相まみえることになるだろう」
金髪の方が呟き、同意するように、もうひとりが頷く。鏡映しと見紛うかの息の合った呼吸で、二人はゆっくりと片腕を上げた。夜空へ向けて、ひとつ、指を鳴らす。静寂の尾根に、小気味の良い音が響いた。それを合図に、少年たちは軽やかなステップを踏むと、アンデスの深い闇に姿をくらませていった。
双子らとは3期でまた相まみえることになるだろう(希望的観測)
2012.11.07