Zugzwang -1-






創造者の手、というものがある。
画家、彫刻家、演奏家、舞踏家、建築家──その両手でもって、新たな価値を創造するプロフェッショナルたちは、一目でそれと知れる手をしている。日々の創造的活動が、履歴として、手に刻み込まれているのだ。それは、見る者に、彼の創造性を感じさせ、その豊かな内面世界を想起させる。作り上げた作品のみならず、それを為した彼の手までも含んで、人々に感嘆を与える、ひとつの芸術的存在といってよい。
翻って、パズル制作という活動においては、残念なことに、その価値が正しく評価されてこなかったという印象が拭えない。パズルを生み出すのは、手ではなく、頭脳であるという認識のゆえであろう。しかし、頭の中のアイデア、それだけでパズルが現実世界に姿を現すものではない。構想と実物を繋ぐ橋渡しは、必ず必要となる。実際に手を動かし、図面を引き、模型を制作することによって、新たな視点が生まれ、脳内で弄繰り回していただけでは為し得ない発見を経て、パズルの完成度をより高めていくのだ。その一手間の過程を省くギヴァーは、まず存在しない。いかに才能に恵まれた者であろうとも、手を動かさなければ評価はされないし、更なる高みを目指すことは出来ないのだから──

そこで、一度思索を打ち切ると、頭脳集団POG極東本部長ヘルベルト・ミューラーは、長い黒髪を指先に弄った。地位ある者にのみ許された、しなやかな革張りの椅子に深々と身を沈める。男の権力を象徴するかのように広々とした執務室は、真紅の絨毯を敷き詰めた上に、彼の趣味によってアンティークの家具が設えられ、古城の応接間を彷彿とさせる。実際、ここは彼の城と表現して差し支えなかった。心地良いもののみを厳選し、お気に入りを飾り立てて並べた、理想の城である。きらびやかに輝くメタルチェスセットを満足げに見遣って、ヘルベルトは重厚なマホガニーのデスクの上に指を組んだ。
創作者の手というものに対する思い入れのほどを語る男は、また、己の手についても、並々ならぬ関心を抱いていた。端的にいって、ヘルベルトは己の手に自信があった。自分でも惚れ惚れとするような、冴え渡るパズルを制作する、美しい手だ。頭脳のよき相棒とでもいうべき両手を、ヘルベルトは慈しみ、丁寧にもてなすことを日課としていた。美なるものを創り上げる者は、また、美なる者でなくてはならない。譲ることの出来ぬ、彼の信条であった。そのための手間も、努力も、惜しむつもりは露ほどもない。
一日の終わりには、ただ己の手に向き合うためだけの特別な時間が確保されている。リラックス効果の高い上質の精油を垂らし、微温湯でもって両手を温め、筋肉の凝りをほぐすとき、日中に抱える煩わしい悩みは、すっかり心から追い出されている。手のひらを丹念にマッサージすれば、内も外も、次第に強張りの解けていくことが分かる。長い指の根元から先端までを、一本ずつ丁寧に揉み込む。手つきはあくまでも軽く、柔らかい。何に邪魔されることもなく、時間をかけて取り組み、一日の疲れを癒す、至福のひとときである。
手入れということでは、勿論、爪を忘れてはならない。かたち良く整って指先を護る爪は、また、ヘルベルトの自慢の一つであった。パズルの模型を製作するときと同等の精密さでもって、彼は爪を磨き上げ、どの角度から見ても納得のいくまで整える。余分な甘皮までも、繊細な作業でもって完璧に処理した指先は、男にしておくのが惜しまれるほどに美しい。
それらの作業を、ヘルベルトは他人任せにせずに、自らの手で行なう。なにしろ、彼にとっては頭脳と同等に重視すべき、ギヴァーとしての己の根幹である。そう易々と、他人に弄り回されるのは、気分の良いものではない。
美なるものを創り上げる者は、また、美なる者でなくてはならない──その精神は、こんな場面においても、変わらず適用される。すなわち、ヘルベルトの指先という「美なるもの」を創り上げる者は、彼のお眼鏡にかなう「美なる者」であることが、最低限の条件となる。
これを忠実に守ると、必然的に、自分自身でケアをするほかの選択肢は無くなってしまうのだ。この手に触れさせてやっても良いと思えるほどの人材に、ヘルベルトはこれまでに出逢ったことはなかったし、ならば、これからも出逢うことはないだろうと、半ば確定事項のように考えていた。
──そう、これまでは。

「そんなところに立っていないで、入ってきたまえ。遠慮することはない」

軽く腕を広げて、ヘルベルトが声を掛けた先には、部屋の入口付近で所在なさげに佇む「客人」の姿があった。客は、少しばかり逡巡の様子を見せたが、失礼いたします、と呟いて、言われるままにデスクへと寄る。控え目に俯いたその姿を、ヘルベルトは正面から、じっくりと鑑賞した。
客人、という呼び方は、精確さに欠けているかも知れない。いくら高慢な態度に定評のある極東本部長といえども、デスクチェアにふんぞり返って客人を迎えるような非礼な真似はしない。相手は同じ組織内の人員、それも、役職を持たぬ目下の青年であった。本来であれば、ヘルベルトの「城」に招待されるような相手ではない。しかし、今ばかりは、正当なる理由の下に、扉の内へと招き入れられたのだった。

「君を招いたのは、ほかでもない──ひとつ、任せたい仕事があるのだ」

いかにも重大な通達を匂わせる口調で、ヘルベルトは声を潜めて告げた。相手は、硬い声でもって、はい、と応じる。頑なな雰囲気を纏っているのは、元々の生真面目な性質のゆえか、あるいは、少なからず緊張をしているのかも知れない。無理もあるまい、ろくに接点もない筈の、それも組織の上位者から、突然に理由もなく呼び出しを受ければ、誰でも不審に思い、戸惑うことだろう。あからさまに表情に出していないだけ、褒めてやっても良いくらいだ。
否、実際に、何らかの報酬を与えてやることも、やぶさかではない。それは正当な対価だ──何であれ、自分を愉しませてくれるものに対する報酬を、ヘルベルトは惜しむような人間ではなかった。特に、類稀なる美しさでもって、目を愉しませてくれるとあれば、なおのことである。

そもそも、この若者に声を掛けたのは、彼が稀にみる美貌の持ち主であったからだ。と言えば、あまりに即物的過ぎるといって、良識ある人々からは非難されてしまうだろうか。しかし、その姿を目の前にすれば、誰しも心を奪われ、もっと見つめていたいと欲し、出来ることならば二人きりで、親密に近付きたいと夢想することだろう。そして、ヘルベルトは、それが出来る立場にあった。誰に邪魔されることもなく、この美しい者を独占的に味わうことが出来るのだ。他のつまらぬ者たちには一瞥もくれずに、ヘルベルトは一目で、これと決めていた。
声を掛けると、若者は戸惑った様子もなく、素直にヘルベルトの部屋へついて来た。もとより、階級が上の者からの誘いを断るという選択肢は、組織内には存在しない。いっそ無遠慮なほどの視線を、ヘルベルトは客人の上に丹念に這わせた。
しなやかな鳶色の髪が落ちかかる面立ちは、霊感を得た芸術家が魂の限りを尽くして彫り上げた大理石の彫像のごとく、完璧な調和を誇っていた。白い頬に、伏せた睫が繊細な影を落とす。最上級の翡翠を思わせる瞳は、どこか物憂げであり、他人を固く拒絶しているようにも、また、強く求めているようにも見えた。均整のとれた長身が生み出す所作は、気だるげなほどの優美さで、見る者を幻惑する。引き締まった細身から醸し出される、禁欲的な空気が、彼を近寄り難い、高貴なものに見せていた。
その美青年は、律義にもヘルベルトの言葉の続きを待って、凛々しく背筋を正していたが、一向に続きが発せられないことを疑問に思ったのだろう。形の良い唇が、控えめに音を紡ぎ出す。

「恐れながら──その任務、というのは、」

見た目に違わず、紡ぎ出される声もまた、心地良いまろやかさでヘルベルトの耳朶を包んだ。若々しく張りのある明瞭な発音を、微かに憂いを帯びた柔らかな吐息が包み込み、その声に深みを与える。

「まあ待ちたまえ。重要任務だ、事は慎重に運ばねばな」

軽く窘めてやると、若者はそれ以上、追及を重ねようとはしなかった。従順なことだ、とヘルベルトは唇の端に笑みを刻んだ。とはいえ、そろそろ本題に入りたいというのも正直な思いである。はやる気持ちを抑えて、ヘルベルトはまず、小道具のセッティングにかかった。デスクの中から、目当てのものを探り出し、机上に並べていく。さりげない所作でありながら、机に物を置く瞬間、僅かの音も立てないのは、彼のギヴァーとしての美意識のゆえであった。道具をいかに上手く使うか、美しく扱うか──パズル制作に携わる者として、常に念頭に置いておくべき課題である。指先まで神経の行き届いたなめらかな動作で、ヘルベルトは小道具を並べた。
手元を動かしつつ、そういえば、と口を開く。

「名は何という」
「……ビショップと申します」

長身を折って、若者は優雅な一礼を施した。礼法の教科書に見本として掲載するに相応しい完璧な振る舞いは、ただそれだけで、見る者の感嘆を誘う。

「そうか。よく似合っている」

それが本名であるのか、あるいは組織内での通り名であるのか、ヘルベルトは判断しかねたが、後者だとすれば、なかなかのセンスである。確かに、若者の立ち居振る舞いには、俗世間を離れて信仰の道を究める聖職者めいた清廉な趣があった。その感想について、評された本人は、特別な反応を見せなかった。ただ俯いて、ヘルベルトの作業を見守っている。
キューティクルリムーバー、オイル、スティック、フィンガーボウル、そして、手の込んだ装飾もきらびやかなチェコガラスの爪やすりと、ヘルベルトは慣れた手順で机上に並べた。準備が整ったところで、深々と椅子にもたれる。他人に命じるのに慣れきった態度でもって、ヘルベルトは片手を差し出した。

「さあ、始めてくれ」

命じる声は、この上なく、期待と高揚に満ちていた。

重要任務──自分の指先の手入れをさせるためにこそ、ヘルベルトは、若者を招き入れたのだった。
なにも、身辺の世話をさせるなら美しい者の方が良いといった、陳腐な理由だけではない。より、実用的な面での理由がある。これほどに見目麗しい若者であれば、当然、己の美に磨きをかける努力を惜しんではいまい。爪の先まで入念な手入れを欠かしていないだろうから、一連の手順に慣れている筈だと踏んでのことである。その技術を献上するという光栄なる機会を、ヘルベルトは、この若者に与えてやっても良いと思った。
命じられた若者は、しかし、感激にうち震えるでもなく、すぐさま跪くでもなく、ただ、差し出された手を訝しげに見遣った。詳細な指示を待っているのだろうかと思って、ヘルベルトは言葉を付け加える。

「普通に整えてくれれば良い。なにも難しいことはなかろう」
「……失礼。そのようなことは、不慣れなもので」

物憂げな表情で、若者が紡ぎ出した返答は、ヘルベルトには予想外のものであった。なにも、面倒事を避けたくて嘘を吐いているというわけではあるまい。この、職務に忠実そうな若者に限って、それは考え難い。
まさか、本当に、やり方が分からないというのか──ヘルベルトは思わず、椅子から身を起こした。

「なに? それでは、いつも爪はどうしているのかね」

信じられぬといった表情で問えば、若者は平然として、爪切りを、などと答える。嫌な予感は、どうやら大当たりであった。いよいよヘルベルトは、眩暈を堪えるように額に指を遣った。

「いかんな。実にいかん。その爪の悲鳴が聞こえるようだ」

舞台俳優のごとく、大げさな所作でもって詠嘆する先達を前に、何を言っているのだろうとでもいうように、ビショップは不審げに眉を寄せた。この若者は何も分かっていない──これは、ひとつ教育の必要があると判断し、ヘルベルトは腰を上げた。使命感めいた思いに突き動かされるまま、後輩の肩に手を掛ける。僅かにたじろぐ相手の反応に構わず、ヘルベルトは真正面から言い聞かせてやった。

「美しい者は、爪の先まで美しくあるべきだ。天より大いなる財を与えられておきながら、磨き上げることを怠ってどうする。美なる者の、これは、義務といってよい」
「……はあ」

いまひとつ熱意に欠ける若者の応答も、ヘルベルトの計画に水を差すことは出来なかった。思い立てば行動は迅速で、ヘルベルトは机上に並べたネイルケア用具一式に向けて、誇らしく手を広げた。

「いいだろう、私が教えてやる。特別授業だ、心して聞け」

本来、それを用いて手入れを施されるのはヘルベルトの方であった筈なのだが、立場が逆になろうと、構いはしなかった。より完成された美を目指すという、崇高なる目的意識の前には、いずれも些細な違いであるに過ぎない。今、大事なのは、輝きを秘めた原石を磨き上げてやることに他ならぬ。
突っ立っている若者の肩に手を掛けて、半ば強引にソファに座らせる。道具一式をローテーブルに並べて、ヘルベルトはその隣に腰を降ろした。肩が触れ合うばかりの距離感に、ビショップは慎ましく身を引きかけたが、ヘルベルトは構わず、その手を取り上げた。眼前へと引き寄せ、ほう、と溜息を吐く。

「なかなか良いかたちをしている……美しい骨格だ」

骨ばった手の甲、長く伸びる指を確かめるように辿って、男は囁く。思わぬ展開に戸惑ってか、若者は表情を隠すように俯いてしまった。手が引き戻されないのを良いことに、ヘルベルトはじっくりと、掴んだそれを鑑賞した。
持ち主の美貌に相応しく、それは非の打ちどころなく整った男の手だった。一般に、日々生活の中で酷使される手指は、負荷が掛かりやすく、捻挫や脱臼がつきものである。気付かぬうちに負傷して、適切な対処をせずに自然治癒に任せるものだから、指は次第に歪み、ずれて、曲がっていく。
しかし、目の前にある青年の手は、ほとんど骨格の歪みがなく、指先までしなやかなラインが続いていた。まっすぐに伸びる、器用そうな指先は、緻密な図面を引くか、あるいはピアノを演奏でもするのがよく似合う。肉の薄い掌は、優雅な品格と、禁欲的な深い知性を醸し出していた。名匠の手になる彫刻作品として、デスクの上に飾っておくのも悪くない、と想像してヘルベルトは小さく笑った。

「それでは──始めるとしよう」

囁いて、指先を絡める。そっと、息を呑む音がした。優しく促されて、ぎこちなく指を開く己の手元を、ビショップの翠瞳は、じっと見つめていた。





「どうも、手仕事というのは、我々の組織には縁遠いとみる向きが多い」

若者の爪の生え際にキューティクルリムーバーを塗ってやりつつ、ヘルベルトは気だるげに呟いた。

「努力の跡が表に出ることを嫌い、あたかも大した労もなく、時間も掛けず、気まぐれによって作品が生まれたかのように振る舞いたがる。どう思うかね」
「……良いことではないでしょうか」

控え目な態度ながら、若者は明瞭な語調で答えた。翡翠の瞳を上げ、質問者をまっすぐに見つめる。

「どれだけ苦労したか、どれだけ時間を掛けたか、そんなことは、パズルの出来とは無関係です。あたかも、それによって何らかの価値を付与するべく、ことさらに吹聴するのは、滑稽かと」

上位者を相手に、なかなかはっきりと物を言う。それは、恐れを知らぬ年若い者ならではの浅はかな振る舞いであるともいえたが、ここで叱責してやろうとは、ヘルベルトは思わなかった。若者らしい潔癖な哲学を、むしろ心地良く耳に受け容れる。
促して、ビショップの指先をフィンガーボウルに沈めさせつつ、ヘルベルトは囁く。

「ああ。しかし、実際にはしていることを、していないといって虚勢を張るのも、また滑稽だ」

若者の指先が、ぴくりと跳ねる。フィンガーボウルの水面に、小さな波紋が立った。存外に分かりやすい性質をしている、とヘルベルトは内心で愉快に思った。動揺を表出してしまったことが不覚であったのか、ビショップはそれきり、口を噤んでしまう。握ったままの手首から、ヘルベルトの掌へ、少しばかり早い脈拍が、伝い感じられた。

「愚者は学ぶことを恥とし、賢者は学ばないことを恥とする──まさしく、その通りではないか。……さあ、そろそろ良いだろう」

湯から上げさせれば、指先はすっかり温まり、繊細な薄皮も柔らかく水分を含んでいる。静かに触れて、それを確かめると、ヘルベルトは一つ頷いた。

「パズルを創造する、手の仕事というものは、もっと評価されてしかるべきであると、私は思うね。頭脳と同等に、手の先までもギヴァーの誇りとし、日々、これに磨きをかけねばならない。比喩としてだけではなく、爪の先まで……そう、このように」

細いスティックの先端へ、ヘルベルトは器用にコットンを巻きつけると、青年の柔らかくなった爪の根元に押し当てた。生え際の薄皮を、そっと引き剥がす。そんなところを弄られるのは初めてなのだろう、若者の白い面に、ぴくりと動揺の色が走る。無意識のうちに引き戻されかける手を、ヘルベルトは窘めるように、手首を握り込んでとどめた。

「大人しくしておいて貰えるかね。手元が狂ってしまってはいけない」
「……申し訳ありません」

頭を垂れ、素直に詫びてみせる態度には、好感が持てた。微妙に強張ってしまった若者の指先を、ヘルベルトは優しく支えて、繊細な作業を始めた。傷つけてしまわぬように注意を払いつつ、甘皮を押し上げていく。他人の指先を整えてやるのは初めてであるが、これはこれで、なかなかに面白い。なにより、自らの手で、美なる者を輝かせてやるという目的意識は、自分で自分の爪を整えているとき以上に、心を浮き立たせるものがあった。
見れば、若者は緊張の面持ちで、微動だにせずに身を硬くしていた。まるで、少しでも動いたら命はないとでも脅されたかのように、息を詰めているのが分かる。生真面目なことだ、とヘルベルトは苦笑をもらした。
すべての指について、余分な薄皮を除去し終える頃には、ビショップの整った面立ちには、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。たっぷりとオイルを塗ってやり、マッサージを施しながら、ヘルベルトは労わるように声を掛けた。

「緊張したかね」
「はい……少しばかり」
「無理はない。今日はこのくらいにしておくとしよう……なに、続けていけば、すぐに慣れる」
「……“続けて”?」

何気ないヘルベルトの言葉に、引っ掛かるものがあったのだろう。ビショップは、意を問うように視線を上げた。翡翠の瞳を、ヘルベルトは間近で覗き込んで告げる。

「また、ここへ来い。教えてやらねばならないことが、山積みだからな」

若者は、暫し瞠目していたが、

「……はい」

小さく、しかし、はっきりと応えて、頷いたのだった。





ヘルベルトは己の技術を、実地で若者に惜しみなく教えた。彼の手は素直で、ヘルベルトを困らせることはなかった。お気に入りの薔薇のハンドクリームを、ヘルベルトは気前よく、若者に贈呈した。自らの施しによって、青年のしなやかな手がより美しく、磨き上げられていくのを見るのは、彼のささやかな楽しみとなった。
見目麗しい若者の指先を整えてやるというだけではなく、ヘルベルトの本来の目的は、自分の爪の世話をさせることであった。もちろん、それも忘れてはいない。若者は覚えが良く、教えたことをすぐに吸収した。普段、部下の成長を喜ぶようなタイプでは間違ってもないというのに、ビショップが着実に己の技術を吸収していくのを見るのは、気分が良かった。やがて、互いに指先を整えあう仲となるのに、そう時間はかからなかった。
擬似的な兄弟関係ともいうべきものを通して、目下の者を教育するというシステムは、POGにおいては、珍しいものではなかった。古代ギリシアの宗教結社にまで遡ることの出来る、伝統的な教育方式である。そうして、数千年の歴史を誇る頭脳集団の誇るべき知識や戒律は、脈々と受け継がれてきたのだ。
礼のつもりであろうか、ビショップは度々、ヘルベルトに紅茶を淹れた。あまり上手ではなかったが、自分専属の美しい給仕人を得たというだけで、ヘルベルトは満足を覚えた。紅茶を味わい、軽く雑談をして、指先の手入れをする。それが、二人を繋ぐ儀式であった。少なくとも、はじめのうちは、そんな遊びのようなものであるに過ぎなかった。
境界を、最初に踏み越えたのが、どちらの側であったのか、ヘルベルトは記憶していない。起こったことだけを見れば、それは、年長者であるヘルベルトが、無垢な若者を誘い込んだということになるのだろう。しかし、何も、無理を強いたわけではない。ビショップの側も、密かに望んでいたからこそ、そういうことになったのだと、そんな解釈は、あまりに都合が良いだろうか。いずれにしても、ヘルベルトは己の行ないを悔いることはなかったし、今でも、それが間違いであったとは思わない。いずれ、そうなると決まっていた──そして、その通りになった。ただ、それだけのことだと思う。





その日も、いつも通りの儀式を行なうべく、二人は手を重ねていた。これまで手に掛けてきた、その成果としての青年の指先を、ヘルベルトは丹念に辿って愛でた。長く、骨ばった指を握り込み、付け根を押し込んで刺激する。

「……っ、ん……」

緩急をつけて施されるマッサージに、ビショップは微かな吐息をもらした。一度、手を休めて、ヘルベルトは問う。

「痛むかね」
「いいえ……どうか、続けてください」

殊勝に首を振る青年の意思を尊重して、ヘルベルトはマッサージを続けた。時折、ビショップは眉を顰め、押し殺した吐息をもらす。仮に、その儀式を誰かが見ていたならば、二人を包む空気に淫猥なものを感じて、頬を赤らめたかも知れない。
敏感な指先を愛撫されながら、ビショップの表情は少なくとも表面上、変わらぬ平静さを保っていた。しかし、微かに強張った指先から伝い知れる脈拍は、いつもよりも心なしか速い。そっと撫でた手のひらは、柔らかく熱を持ち、彼の内なる戸惑いと期待感を教える。いくら表情に出さなくとも、手は無防備なまでに、ありのままの内心を表明してしまう。若者の整った面持ちが、ヘルベルトには、なんとも脆い仮面であるように感じられるのだった。

「だいぶ良くなった」

マッサージを終えると、若者の瞳が微妙に揺れている。その内心が、ヘルベルトは手に取るように分かった。そして、これまで彼を教育してきたときと同じように、それに応えてやりたいと思った。
美しく整ったその手を、己の作品のように矯めつ眇めつして、ヘルベルトは満足げな笑みを浮かべた。その指先を、さりげなく口元へ導く。繊細な指の先端を、ヘルベルトは、おもむろに口に含んだ。

「……っ」

突然のことに、若者の身が硬直するのが伝い感じられた。小さく吸い上げるだけで、ヘルベルトはすぐに、その指先を解放してやった。ほんのささやかな接触であったが、心構えのなかった側には、よほど衝撃であったのだろう。声もなく、ビショップは茫然とした面持ちで相手を見る。あまりのことに、非難する余裕もなくしてしまったらしい。苦笑して、ヘルベルトは若者の頬を撫でた。翠瞳を瞠って、ビショップは微かに唇を震わせる。

「……なぜ、」

「美しいと思ったのでね。味わいたくなった」
覆い被さるようにして、ヘルベルトは青年に身を寄せた。抵抗はない。軽く顔を上げさせ、唇を重ねると、ん、と小さく吐息がこぼれた。押し当てては離れ、また押し当てて、形の良い唇の弾力を確かめる。閉じ合わされた柔肉の合間に舌を這わせてやると、ふる、とビショップは首を震わせる。敏感な反応に満足して、ヘルベルトは一旦、顔を起こした。男を見上げるビショップの翠瞳には、憂いとも期待ともつかぬ情動が浮かぶ。

「これも……ですか、」
「ああ、そうだ──それに、これだけではない」

若者の頬に落ちかかる鳶色の髪を、ヘルベルトは軽く指先に絡めた。くすぐるように撫でてやると、ビショップは切なげに目を伏せる。唇からこぼれ落ちる吐息は、既に、隠しきれない熱をはらんでいる。耳朶を含むばかりに唇を寄せて、ヘルベルトは囁いた。

「──教えてやろう」

はい、とどこか陶然とした眼差しで、若者は答えた。





手指に為したのと同じことを、ヘルベルトは、ビショップの全身に施した。素直な若い肉体は、その呑み込みの良さでヘルベルトを悦ばせた。はじめは一方的に導かれ、教え込まれるばかりであったものが、やがて教師に深い満足を与えられるようになるのに、さほど時間はかからなかった。ヘルベルトもまた、青年から限りない悦びを引き出してやり、彼自身とともにそれを堪能した。美しく整えられた爪が、堪らずにヘルベルトの腕を、背中を引っ掻く感覚さえも、甘美なひとときだった。
新たな「儀式」を通して、ヘルベルトは、この若者について、一つの新たな発見をした。あの物憂げな翡翠の瞳は、決して、他人を拒んでいたのではない。ただ、彼に応えられるほどの人間がおらずに、冷え切ってしまっていただけなのだ。つまらぬ周囲の者どもを、彼は見下し、見限り、見捨てていた。それでありながら、自分が身を任せられるような、偉大な存在を強く欲していた。
その渇望を、ヘルベルトは丁度良く、埋めてやることが出来た。若くして組織の上部へ登り詰め、自信と野心に満ち、壮麗な作品(パズル)を創り上げるヘルベルトの存在は、若者にはきっと、眩しく鮮烈なものに映ったことだろう。身を捧げ、寵愛を得ることを、何よりの歓びとして感じたことだろう。

しかし、それも長続きはしなかった。若者は組織内で頭角を現し、順調に階級を上っていった。彼自身が上位者となる過程で、かつてヘルベルトに見出していた幻想は、次第に色褪せていったのだろう。むしろ、虚構の仮面に騙されていた愚かな己を恥じるように、ビショップはヘルベルトを避けるようになった。嫌われたものだ、とヘルベルトは溜息を吐いたが、その心を取り戻そうとは思わなかった。そんな必要はなかった。
あの頃、ヘルベルトが授けた教えは、ビショップの内で今も息づいている。何も知らなかった、無垢な頃には、戻れない。たとえ表面上の関係が、すっかり様変わりしたように見えても、それがある限り、ヘルベルトはいつまでも、青年を己のものとして束縛することが出来るのだった。





[ next→ ]



















back