Zugzwang -2-






そんな懐かしい記憶を、ヘルベルトが脳裏に蘇らせたのは、肌に爪の食い込む感覚を、久し振りに味わうこととなったからだ。

「……っ、離してください…」
「おやおや、君はいつから、私に命令する立場になったのかね、聖職者殿」

背後から腰に回された手に爪を立てて、黒衣の青年は拒絶の意思を示した。交渉の余地はないと伝えるかのように、きつく皮膚に食い込ませてくる。構わずに、ヘルベルトはもがく身体を抱きすくめた。その口元には、酷薄な笑みが浮かんでいる。
なんとかして腕を振り解こうと、ビショップは抗いながら息喘ぐ。

「いけません、こんな、……」
「つれないことを言う。焦らしているつもりか?」
「ちが、……」

拒絶の言葉は、最後まで紡ぐことが出来ずに途切れた。漆黒のコートの合わせに、男の片手が滑り込んだのだ。ヘルベルトの手は、インナーの上から淫猥に胸元をまさぐった。無遠慮な指先が、布越しに小さな性感を掠める。

「……っん、」

押し殺しきれない声がこぼれ、青年はぴくりと背を跳ねた。それに気を良くしたのだろう、ヘルベルトは手つきを変えて、探るように胸元を撫で上げる。ぞくり、とビショップは背筋を走るものに耐えた。男の指が、小さく盛り上がった胸の尖端を探り当て、確かめるように指の間に挟み込む。

「や、めてくだ、……っあ、」

それまでと違って、妙に優しげに、くすぐるように揉み込まれ、思わず上がりかける声を、青年は懸命に抑えた。柔らかな乳首は、布越しの愛撫に敏感に反応し、早くも男の指の中で硬く立ち上がる。インナーを押し上げるそれを揶揄するように指先で押し込み、ヘルベルトは囁く。

「そんなに触れてほしいかね。浅ましい身体だ」
「ぃ、や……、っく、」

尖端をかり、と爪先で擦られ、ビショップは堪え難いというように首を振った。身を捩って抗うが、きつく腰を抱き寄せる腕の拘束は外れない。爪を立てようとしても、上手く力が入らずに、皮膚を掠める程度の役にしか立たない。その間にも、男の指は、緩急をつけて執拗に、その箇所を弄び続ける。

「や、め……そこ、は」
「好きなのだろう。分かるかね、すっかり硬くなっているぞ」
「ん、……っう、ぅ」

震える指先を、咄嗟に口元に押し付けて、ビショップは己の声を封じた。ねっとりと纏わりつく男の指遣いは、肌に刻み込まれた記憶を容易に呼び起こす。いくら拒もうとしたところで、甘い快楽の予兆が脳を犯していくのを止める術は無い。口元に押し当てた指の合間からこぼれる声は、次第に嗚咽交じりになっていくのだった。
哀願の響きを宿し始めたそれにも構わず、ヘルベルトは執拗に、小さな性感を責め続けた。柔らかく、また硬く揉み込み、布地を擦りつけるようにして刺激を与える。摘んだ先端を、爪の先で、小さくくすぐる。押し潰し、円を描いて埋め込む。その度に、青年の身体はびく、びくともどかしげに震えるのだった。
ヘルベルトの指は、あくまでも一方の尖端のみを責め抜いたが、まるでこちらも触れて欲しいとねだるように、もう一方も小さく疼き始める。擦れ合う布地に敏感に反応して、浅ましくも快感を拾ってしまうのを、堪える術は無い。ぎり、とビショップは口元に押し当てた指を噛み締めた。その瞬間、手首が力強く掴まれる。

「自分で自分を傷つけるのは、感心せんな」
「っ、あ……」

ヘルベルトは有無を言わせず、青年の手を口元から引き剥がした。そのまま、指先をじっくりと検める。しなやかな指先に、噛み締めた痕が赤く残るのを見て、男は嘆かわしげに眉を顰めた。

「仮にもギヴァーの端くれとして、指は大事にしろと、教えなかったか? まったく、手のかかることだ」

溜息交じりに、ヘルベルトは掴み上げた手に唇を寄せた。ぴく、と指先が跳ね上がる。宥めるように、ヘルベルトは傷ついた指先を口に含み、噛み痕を柔らかく吸い上げた。

「……っ、ふ…」

器用に動く舌先が、爪の周辺を優しげになぞっていく。爪に守られた敏感な指先の柔らかな部分に、そっと歯を立ててやれば、その持ち主の唇から、押し殺した吐息がこぼれる。逃さず聞き取って、ヘルベルトは唇を歪めた。

「──ああ、しかし、身体に教えてやったことの方は、しっかりと覚えているらしい」
「……っ」

ヘルベルトの嘲笑に、ビショップは何ら、言葉を返すことが出来なかった。
男の手の為す、巧妙で無慈悲な愛撫は、ビショップの理性を麻痺させ、取り澄ました仮面をすっかり剥ぎ取ってしまう。胸元の箇所で感じることを、かつて若者の無垢な身体に教え込んだ男の指先は、その扱いを当人以上に心得ていた。今や、ビショップの肌はしっとりと汗ばみ、紅潮した頬、濡れた目元には隠しようのない情欲の色が浮かぶ。熱っぽい吐息をこぼして、青年は懇願した。

「や、……もう、ぁ、」
「まだ上着も脱がないうちから、少々はしたないのではないかね」
「だ、れのせいだと、……」
「もちろん、罪深い聖職者殿のせい以外にあるまい。触れてもいないうちから、こうして立ち上がっているではないか」

耳元に囁きかけつつ、ヘルベルトは放置していたもう一方の乳首を摘んだ。あ、とか細い吐息がもれる。同時に揉み込んでやると、ビショップは拒むように首を振ったが、男の巧みな愛撫から逃れる術は無い。意識の全てが、男の指遣いを追って、与えられるものを逃すまいと、貪欲にも感じてしまう。快楽の波が高まったところで、決定的な刺激を与えずに焦らすような、男の無慈悲な愛撫に、もどかしさを募らせるばかりだ。

「う、ぁ……ん」

脚に上手く力が入らないのだろう、無意識のうちに背後の男にもたれるようにして、ビショップは甘やかな声をこぼした。腰に回って、きつく自由を奪っていた筈のヘルベルトの腕が、今は逆に、青年のふらつく身体を支え、立たせてやる助けとなっていた。いつしか、ビショップはその力強い腕に身を任せていた。
とうとう、その膝も、持ちこたえられずに、かくりと折れる。男に抱き支えられる格好でもって、ビショップは、ずるずると床にへたり込んだ。

「やれやれ、情けないことだ。もう降参かね」
「…………」

嘲りの眼差しで見下され、青年は無言で面を伏せた。しなやかな鳶色の髪が落ちかかって、表情は伺えないが、肩は微かに震えている。昂った身体的な理由というよりは、恥辱のゆえに打ちひしがれ、立ち上がることが出来ずにいるのだろう。
深々と溜息を吐いて、ヘルベルトはその傍らに膝をついた。生意気な青年が、また何か憎まれ口を叩くより前に、肩を貸してやり、立ち上がらせる。そのまま、ヘルベルトは当然のように、部屋の奥の扉へと進路をとった。重い足取りで、それに従いながら、ビショップは呟く。

「……早めに、済ませていただけますか。明日も、立て込んでおりますので」

まるで、せがまれて仕方なくトランプゲームでも始めようというかのような、そっけない口調であった。可愛げのない青年の態度に、ヘルベルトはやれやれと溜息を吐く。

「情緒のないことを言う……ああ、照れ隠しというやつか」
「違います」

即座に否定してみせる声は冷ややかで、僅かの熱も、甘さも感じさせない。他人の肩を借りておきながら、一方でそんな態度を取るビショップが、ヘルベルトは可笑しくて堪らなかった。いったい、この青年の中で、その辺りの矛盾はどのように処理されているのか、少々気になるところである──毛嫌いする相手と寝台を共にする気分とは、いかなるものであろうか。

「君が無駄な抵抗をしなければ、事はより迅速に進んだと思うがね」
「っ……それと、これとは、」
「もう、黙りたまえ」

言って、ヘルベルトは、また何か生意気な台詞を紡ぎかけたビショップの口を、唇で塞いだ。一方的に話を切り上げられて、青年は不服な様子であったが、それ以上の文句を発することはなかった。唇をこじ開けるヘルベルトに応じて、素直に舌を差し出す。自然と互いの頭を抱いて、ぬめる柔肉を押し付けあった。

「ん……ぅ、……っは、ぁ」

積極的にヘルベルトを求めてくるビショップの振る舞いは、情熱的であるというよりは、まるで自分自身を傷つけようというような痛々しさしか感じられなかった。気付いていながら、ヘルベルトはそれを指摘することはしなかった。巧妙な舌遣いは、ビショップを追い詰め、思考を麻痺させていく、甘やかな毒だ。その毒を、ヘルベルトは求められるまま、たっぷりと注ぎ込んでやった。
もつれ合うままに、二人して、柔らかな寝台の上へ倒れ込む。ヘルベルトは無抵抗の青年を仰向けさせると、その上に跨った。闇色のコートの前を大きく開き、ダークグレーのインナーを捲り上げる。どこか他人事のように、ビショップは茫とした瞳で、その作業を眺めていた。
よく鍛えられ、禁欲的に引き締まった上半身にあって、さんざん弄られた乳首は鮮やかに色づいて男を誘う。焦らすように、ヘルベルトは乳暈を引っ掻いた。ひくり、とビショップは仰け反って応じる。何気ない愛撫も、布越しの刺激で過敏になったそこには、あまりに直截的に響くのだった。ヘルベルトは身を屈めると、赤く震えるそれを口に含んだ。

「ん、あっ……」

咎めるように、上ずった声がもれる。ちゅく、ちゅくと品のない音を立てて、男は唇の間のものを転がす。

「やめ、っ……、ん…」

温く、柔らかく、たっぷり唾液を擦りつけられたと思うと、ざらついた舌が絡みついて擦り上げる。その間にも、男の指はもう一方を慰めるように揉み込み、薄皮を引っ掻いて刺激を与える。予測のつかない愛撫に翻弄され、ビショップは切なく喘ぐことしか出来なかった。ヘルベルトの唇の端に、酷薄な笑みが刻まれる。

「っ、く、ぁう……!」

不意に強く吸い上げられ、青年は大きく背を跳ねた。思わず瞑った目元から、一粒の滴がこぼれ落ちる。忙しない呼吸を継ぐビショップを見下ろして、ヘルベルトは小馬鹿にするように唇を歪めた。

「妙に感度が良いではないか。夜な夜な触って、自分を慰めているのかね」

青年の痴態を哂って、ヘルベルトは忙しく上下する胸をねっとりと撫でさすった。

「──それとも、あの子どもに触らせているのか?」
「な、」
「否、そこまで勇気のある男ではなかったな。これは失礼した」

手のひらで大きく撫でさすったかと思えば、指先でくすぐるように弄ぶ。弱い箇所を吐息で責め、甘噛みする。緩急をつけた愛撫は、息つく間も与えずに、ビショップを翻弄した。男の手になぞられた肌は、熱く熱を持ち、もっと触れて欲しがって、より敏感になっていく。一方で、施されるものにどっぷりと浸って酔いしれながら、一方で、足りない、足りないといって貪欲に求めるのを、止めることは出来ない。腰骨の辺りを執拗にまさぐられながら、ビショップは己の内から湧き起こるもどかしさに息喘いだ。
急に放り出されて、それきり見向きもされない乳首が、触れられてもいないのに小さく疼く。男の硬い指が、そこを捏ねてくれることを、今か今かと待ち望んでいる自分に気付いて、ビショップは愕然とした。ともすれば、懇願の表情で、相手に浅ましい視線を送ってしまう自分の姿が、ありありと想像出来た。そんな醜態を晒す前にと、青年はきつく目を閉じた。
気取られぬよう、そろそろと己の胸元へ指を伸ばす。そっと押し込もうとしたところで、しかし、試みは目ざとく見つけられてしまった。

「勝手な真似は、謹んで貰おうか」

手首を掴み上げて、ヘルベルトは高圧的に窘めた。哀れな自慰の現場を取り押さえられたビショップは、反省の色もなく、むしろ、邪魔をした男を責めるように、反抗的な視線を向ける。

「私の、身体をどうしようと、……私の勝手、でしょう」
「君のではない。これは、私のものだ」

ここまで手入れし、教育してやったのは私なのだからな、と男は唇を歪めた。それから、ふと気付いたように、付け加える。

「ああ、それでなくとも、君の心身はもう、君のものではないのだったか──大事なご主人様に、献上したのだろう? あの白い子ども、」

そこで一旦、言葉を切って、ヘルベルトはわざとらしく間を置いた。ゆっくりと、歌うように、その名を口にする。

「ルーク・盤城・クロスフィールド」
「…………」

ひくり、と青年の背が震える。その少年の名が、忠実なる側近にとって、どのような効果を及ぼすものであるか、ヘルベルトは正しく承知していた。喉元に刃を突きつけられたように、あるいは、頭から冷水を浴びせかけられたように、ビショップはすっかり硬直している。分かりやすい反応を得て、ヘルベルトは愉快気に目を細めた。

「あれは明日、伯爵の御前へ出るのだったか。御言葉を賜るために、三日前から、身を清めている。純白の衣装を纏い、飲み食いを控え、他者との接触を断つ──それが、掟だ」

だから、と、ヘルベルトは一旦言葉を切って、ビショップの耳元に触れるばかりに唇を寄せた。吐息交じりに、熱っぽく囁きかける。

「……寂しいのだろう、」
「……っ」

馬鹿にされたと思ったのだろう、ビショップは健気にも、鋭く男を睨め上げる。翡翠の瞳には、強い意思の光が宿り、とても先ほどまで、快楽に蕩けていたとは思えない。まったくもって、あの白い子ども絡みのこととなると、面白い反応をする──身も心も捧げた忠誠心とは、こういうものを指すのだろう。それは、新しい玩具のように、ヘルベルトの嗜虐心を絶妙に刺激した。忠実なる側近の頬を、そっと撫で、妙に優しげに問い掛ける。

「──ご主人さまのことが、気に掛かるかね」

甘い誘惑を拒むように、ビショップは顔を背けた。それでも、呼び起こされる想いを、堪えることは出来なかったのだろう。震える唇が、敬愛する年若い主人の名を、微かにこぼす。

「……ルーク様、」

縋るような、祈るような、切なる声だった。敬愛する主人以外には、決して向けられることのない、澄み切った想いだった。それを確かめて、ヘルベルトは小さく鼻を鳴らした。

「──ならば、呼び寄せてやろうか。今すぐにでも、ここへ」

言って、通信端末を取り上げる。返事を聞くより前に、指先は既に、画面を操作し始めている。突然のことに、狼狽したのはビショップである。翠瞳を驚愕に見開き、声を詰まらせる。

「なっ…、や、やめてくださ、」
「黙っていたまえ。向こうに筒抜けだぞ……ああ、私だ」

止める間もなく、通信端末を耳に当てて語り始めるヘルベルトを、ビショップは絶望的な目で見つめた。愉悦の表情を浮かべつつも、ヘルベルトはいたって平然として声を紡ぎ出す。

「おやおや、未来の支部長殿が自ら、通話に出てくださるとはな。こんな大事な時というのに、お付きの者は、どこをほっつき歩いているのだか……知りたくはないかね、彼が今、どうしているか」

なめらかに言葉を紡ぎつつ、男は青褪めたビショップを横目で見下ろすと、酷薄な笑みを浮かべた。

「私の部屋まで来れば、それが分かる。否、わざわざご足労いただくのも申し訳ないな。映像を送ってやろう」
「……!」

咄嗟に腕を上げて、ビショップは向けられるレンズから顔を庇った。そんなことをしても、何の役にも立たないというのに、もつれる舌で懸命に哀願する。

「見ないで……見ないでください、ルーク様」

嗚咽交じりに震える声を紡ぐ青年を、ヘルベルトは冷めた眼差しで見つめていたが、一つ、深い溜息を吐く。

「……冗談だ。本気にしたかね」

呟いて、シーツの上に端末を投げ出す。示して見せた画面には、通話相手ではなく、付属のパズルゲームが表示されている。浮かれたミニキャラクターの隣でブロックが点滅する画面を、ヘルベルトは電源を落として切った。
ビショップは暫し、茫然としていたが、諮られたと知って、喘ぐように声を絞り出す。

「あ……あなたという人は、」
「良い刺激になったようではないか。身体は正直だな」

青年の肉体を舐めるように鑑賞して、ヘルベルトは鼻で笑ってみせた。レンズの先にルークの瞳を感じたとき、ビショップの情欲はかき消されるどころか、より情熱を増したことを、ヘルベルトは見抜いていた。屈辱的としか言いようのない仕打ちに、血の気を失っていた青年の頬が、かっと紅潮する。男は更に、挑発を続けた。

「年端もゆかぬ子どもに、己の痴態を晒して、恥じるどころか興奮するなど……よくもそれで、聖職者を名乗れるものだ」
「そ──それ以上、侮辱すれば、」
「侮辱? ……っは、これは傑作だ」

肩を竦めて、ヘルベルトは嘆かわしげに首を振った。嘲りをたっぷりとまぶして青年を見下ろす、その視線には、いっそ憐憫の情さえ漂っている。

「ご主人様に愛して貰えない寂しさを、私で紛らわそうというような男に、払うべき敬意などあるものかね」

言い放たれた言葉に、ビショップは声を失った。何も、言葉を返すことが出来なかった。分かっていながら、この男は、自分を抱くのかと思った。その内心を読んだかのように、ヘルベルトは青年の胸の中央に口づけた。

「──私としては、構わないがね」
「や、めてくださ……ちが、う」
「ああ、確かに、違うな」

しなやかに引き締まった脇腹を、ヘルベルトの手は淫猥に撫でさすった。

「少なくとも、身体の方は、私でなくては満足出来ないようだからな」
「っ、あ……」

どうして、この男の指は、いつもそのとき触れて欲しいところを知っているのだろう。そして、予期する以上のものを、与えてくれるのだろう。敵わない、とビショップは茫と熱に浮かされた頭で思った。
まるで自分がこの男の手の内にあるということが、屈辱でならなかった筈なのに、回数を重ねるごとに、こうして肉体は悦んで男を歓待する。他の相手ではこうはいかない。桁外れに甘美な悦びを、一度でも知ってしまえば、繰り返しそれを求めずにはいられない。熱く、硬く、男のかたちに貫かれたがって、腹の底が疼く。無慈悲な指遣いが、ふとした折に肌の上に蘇って、背筋を痺れさせる。ひとりでは、鎮めることは出来なかった。
自分でも知らずにいた、この身の奥の灼けつくほどの熱を、無遠慮に拓いて呼び覚まし、狂おしいまでの焦燥を教え込み、圧倒的な解放感を貪欲に求めずにはいられないようにさせた、ヘルベルトの所業が憎かった。人格的には微塵たりとも尊敬出来ぬ相手の前で、自らすすんで服を脱ぎ、横たわって、弄ばれることを望まずにはいられない自分が、惨めで、汚らわしかった。
目を伏せれば、滲む視界に、乱れた自分の衣装と、さらされた忌まわしい肢体が映る。唇を噛んで、ビショップは目を背けた。最早、何も考えたくはなかった。





男を受け容れる方法をよく教え込まれた身体は、既に熱く蕩け、征服されるのを待ち詫びていた。ヘルベルトの長い指が内側を探ると、青年はもどかしげに腰を揺らす。

「ん、ぁ……」

甘やかな吐息とともにこぼれる切ない声は、早く拓いてくれといって男を誘う。

「そう急かすな。ちゃんと与えてやると言っているだろう……我慢の足りん身体だ」

望むように、ぐ、と押し込んでやると、声もなく身悶える。熱く締めつける柔肉を、ヘルベルトは丹念にじっくりと拓いた。

「──ここが、悦いのかね」
「ん、ぅ……、ご存じ、でしょう、……あぁ、」

男の長く骨ばった指が、内部でうごめく度に、ビショップの唇から切ない吐息がこぼれ落ちる。弱い箇所を知り尽くした指先は、巧妙に青年の肉体を奏で、音色を高めていくのだった。与えられる快感と、己の悩ましい声に煽られて、青年は悦楽の渦に身を蕩かした。肌を伝い走る、甘やかな痺れを、もっと与えて欲しかった。
こんなところか、と呟いて、ヘルベルトは一旦、手を引いた。この先に待つものを予期して、ビショップは密かに唾を呑み下した。それから、改めて己のだらしのない姿に思い至る。下は脱がされているものの、上半身は捲り上げられたインナーがそのまま胸元にわだかまり、コートなどは羽織ったまま、肩から落としてすらいない。殆ど、脱がせる手間を省略したとしか思えぬ扱いであった。

「……こんな、格好で……、」

ビショップは居心地悪げに身じろいで、せめてコートから袖を抜こうとする。その腕を、ヘルベルトは上から押さえ込んだ。何をするのかと、非難がましい翠瞳が、男を見上げる。

「服が、汚れ……」
「構わんだろう。私には、この方が大いに好ましいがね」
「……良いご趣味、ですね」

ビショップは荒い息の下から、悪趣味な男を睨めつける。それさえも、ヘルベルトにとっては、心地良い刺激でしかなかった。潤んで艶めく翠瞳の鋭い視線を、むしろ愉悦の表情で受け止める。
ヘルベルトは、ビショップに衣装を脱ぐことを許さなかった。普段、一分の隙なく纏って崇高なる業務にあたる誇り高き闇色の衣装は、今やぐしゃぐしゃに乱され、汗ばむ身体の下敷きとなってわだかまっている。あたかも、そうすることで衣装ごと青年を蹂躙しようというような男の意図を感じて、ビショップは眉を顰めた。行為を続けようとするヘルベルトに、再度抗議する。

「いや、です……待って、」

身じろいで、男の腕を振り払おうとするビショップの抵抗を、ヘルベルトは首筋に噛みつくことで封じた。獲物は反射的に身を強張らせ、大人しくなる。黙らせた上で、十分に甘噛みを施してから、ヘルベルトは身を起こした。気だるげに、長い黒髪をかき上げる。

「それに──穢れきった身体には、相応しいではないか」
「なっ……」

突然の侮辱的な言葉に、ビショップは反駁も忘れて瞳を瞠る。汗ばむ頬に貼りついた鳶色の髪を、男は優しげに払ってやりつつ、囁きかける。

「好きでもない男に抱かれて悦ぶ、こんな汚らわしい身体で、恥ずかしくはないのかね」
「あ……あなただって、欲情、しているのでしょう……私に」

口の減らない若者が、せめてもの抵抗で睨め上げてくるのに、男は余裕の笑みで応えた。

「そうだな。君と同じく、ね」
「っ、ん……!」

ぐ、と秘所を押し開かれ、あてがわれたものの硬度に、ビショップは悲鳴めいた息をもらした。反射的に逃げかける獲物の腰を、ヘルベルトは慌てず掴んで引き寄せる。青年が何事かを訴えかけるのにも構わずに、男は腰を揺すりたてて、無造作に自身を捻じ込んだ。

「あ、ぁっ……!」

悲痛な苦鳴を上げて、青年は大きく仰け反る。その間にも、入口をこじ開けた、その熱く硬い尖端が、容赦なく内壁を擦り立てていく。待ってくれとでもいうように男の肩に掛かって、押し返そうとするビショップの手を、ヘルベルトは容易く振り払い、柔肉の間に身を沈めた。

「っ、く……、」

引き裂かれるばかりの苦痛と圧迫感に耐えるように、青年はきつく目を閉じ、声もなく唇をわななかせる。悲鳴を上げまいとするのは、せめてもの自尊心の表れであろうか。

「……良い顔をする」

涙を滲ませて息喘ぐ青年の頬を、ヘルベルトは優しげに撫でさすって呟いた。閉ざした瞼が震えるが、どうしても、それを上げることは出来ないらしい。かろうじて目を開くことが出来るまでには、暫しの時間を要した。
は、と切迫した息を吐いて、ビショップは男を睨め上げた。

「か、勝手に、挿れな……」
「ほう、それは実に面白い意見だな。ここを使うのに、いちいち許可が必要だとは──もっとも、こちらは素直に悦んでいるようだが」

言って、あえて無造作に姿勢を動かす。何とか受け容れたものが馴染みかけたのを台無しにするように揺すられ、上がりかけた声を、ビショップは顔を背けて押し殺した。ひたすらに苦痛を耐え忍ぼうというような青年の表情に、ヘルベルトは苦笑をもらした。宥めるように、ゆっくりと言い聞かせる。

「つまらぬ意地を張るものではない。このまま終わっても良いのかね」

なまめかしく動く腹筋を撫で、下腹部を強めに擦ってやると、ビショップは苦しげに息を詰める。それでも、なおも頑なに唇を噛み締めるのは、最後の矜持を守ろうとでもいうのだろうか。

「……強情な男だ」

だが、嫌いではない、とヘルベルトは唇を歪めた。焦らすように、小刻みに突き上げる。

「っ、あ、ぁ…っ」

眉を寄せ、もどかしげに身を捩る、その肉体はあからさまに、決定的な刺激を待ち侘びていた。

「正直になりたまえ。今更、何を隠す必要がある」
「……っく…、」

葛藤を噛み殺して、青年は背筋を震わせた。乱れた息を継ぐ唇が、ふと、掠れた声を紡ぎ出す。

「……ください」
「それでは分からんな」

潤んだ翠瞳が、縋るように、無慈悲な男を見上げる。それから、ビショップはきつく瞼を下ろした。

「も、っと……すべて、……壊して、」

嗚咽交じりの、悲痛な懇願だった。護ってくれる誰かではない、何もかもを打ち砕く、圧倒的な力こそ、青年は欲してやまなかった。切れ切れの哀願に応えて、男はビショップのしなやかな脚を掴み上げた。前触れなく、深々と腰を打ちつける。

「あっ、あぁ…!」

感極まった声を上げて、青年は仰け反った。だらしなく開いた唇は淫猥に濡れ光り、切なげに男を求める。

「……お気に召したようだな」

ビショップの反応が、満足のいくものだったのだろう。ヘルベルトは唇を歪めると、青年の腰を掴んで、激しく揺すり立て始めた。

「ぅ、あぅ、そんな…あ、っ」

奥まった箇所をリズミカルに突き上げられるごとに、こぼれる声は切迫の色合いを濃くし、耐え難い苦悩の表情を滲ませる。抗うように首を振り、シーツに押しつけて鳶色の髪を乱すのは、そうでもしなければ、意識が飛びそうな圧倒的な焦燥をやり過ごせないのだろう。己の身に湧き起こるものを恐れ、無力にも赦しを乞うように涙を落とす。それでも、離すまいとするようにヘルベルトの腰に絡めた脚は、いっそうに強く男を引き寄せるのだった。

「や、待っ、あ、っ…!」

自分が何を口走っているのか、ビショップは既に、理解を放棄していた。烈しく突き立てられるものに、呼吸がついていかない。心臓が破れそうに脈打ち、何も聞こえない。どうにかなってしまいそうな恐怖に全身を襲われ、ビショップは必死に助けを求めた。
待ってくれというのに、こちらの都合に構わずに、非情な男の欲望は、いっそうに硬く、烈しく、柔肉を貫く。そして、この身の内奥に隠し守ってきたものを、突き崩して、滅茶苦茶にする。壊し、汚し、刻みつけて、忘れられなくしていくのだ。自分の身体が、変えられてしまう。それは、とても恐ろしいことのように感じられた。死んでしまう、と思った。
ぐ、と手を握られて、ビショップは、いつの間にか、自分を責め立てる男の腕に縋りついていたことに気付いた。痛いほどに強く、ヘルベルトは指を絡め、ビショップの両手をシーツに押し付けた。

「っ、は、あぁ…っ」

先程まで胸を支配していた、圧倒的な孤独と恐怖が、溶け消えていくのを感じた。ビショップもまた、外れないように、相手の手をしっかりと握った。それでも足りずに、ぎり、ぎり、と爪を立てる。痛みを感じていない筈もないだろうに、その手が振り払われることはなかった。

「あっ、あァ……!」

いよいよ、なりふり構わず相手に縋りついて、青年は泣き叫んだ。腰をくねらせ、貪欲に男を求める。応えて、ヘルベルトは力強く内奥を突き上げる。熱く濡れて滑る身体を、無心になって打ちつけ合った。共に昇りつめ、そして、共に墜ちた。





「っは、……は、ぁ」

ぐったりと力の抜けた四肢を投げ出して、ビショップは乱れた呼吸を継いだ。頬を熱く、伝い落ちるものがある。今はただ、流れ落ちるままに任せた。熱も、衝動も、煩わしいもののすべてを、身体から追い出すことが出来れば、安らかに眠ることが出来ると思った。
自分のものではない指先が、頬を撫で、こぼれた滴を掬う。振り払うことなく、ビショップは瞼を閉じた。溢れ出るものが枯れるまで、心地良い闇に抱かれていたかった。
鳶色の髪を、手遊びに軽く梳きつつ、ヘルベルトは気だるげに呟く。

「ひどい格好だ。脱がせてやろうか」
「いいえ──結構です」

掠れた声で応えると、重く軋む身体を叱咤して、ビショップは身を起こした。他人の手を煩わせるのは主義に反する──せめて、自分の世話は自分でするというのが、青年の譲れぬ意思であった。乱された衣装にようやく手を掛けることを許可され、ビショップは汗ばむ身体からコートを落とした。どちらのものともつかぬ体液が染み入り、ぐしゃぐしゃに皺が寄って、ひどいものである。深く溜息を吐いて、中途半端に捲り上げられていたインナーも脱ぎ捨てる。
その裸身を、ヘルベルトは隣でだらしなく寝そべって鑑賞した。若者の脱ぎ落した闇色のコートの裾を掴んで、手繰り寄せる。

「この服で、あの子どもの前に立つのだな。情欲まみれの身体を隠して、涼しい顔をして」

手にした漆黒の衣装を、つまらぬもののように放って、ヘルベルトは唇を歪めた。

「どれほど、深い闇に沈めたところで──隠し通せるものではないぞ」
「……余計なお世話です」

それきり、会話を拒むように、ビショップは寝台に潜り込んだ。出来るだけ距離を置こうというのか、隅の方で背を丸める。
寝台を軋ませ、ヘルベルトはそちらの方へとにじり寄った。背後の気配に気付かぬ筈もないだろうに、若者は振り返りもしない。それは、かえって都合が良かった。
禁欲的に引き締まったラインも美しい青年の背中に、ヘルベルトは丁寧に口づけを落とした。

「触らないでください」

煩わしげに身じろいで、ビショップはそっけなく言い放つ。先程まで、あれほど熱く求め合った仲とは思えぬ、手のひらを返したような態度に、男は軽く苦笑した。

「冷たいものだな。君には情緒というものがないのかね」
「……そういうのは、嫌いです」

なだめるように、男はビショップの肩に手を掛け、優しく撫でさすった。

「慰めてやっているのだ。素直に受けたまえ」
「……いやです」
「そうか。では、勝手にさせて貰うとしよう」

子どもを寝かしつけるように、ゆっくりと肩を撫でてやりつつ、頸椎に、肩甲骨に、背中の中央に、口づける。なめらかな皮膚を押し上げる頸椎のかたち、ひとつひとつに、唇を押し当てた。
頑なに背を向ける青年の肩が、小さく震える。押し殺した嗚咽がこぼれ始める。それを揶揄することはせずに、男は黙って、穏やかな愛撫を続けた。

「……私は、」

ふと、掠れた声がこぼれる。ヘルベルトは一度、愛撫を止めて顔を起こした。目の前で小さく震える青年の肩は、ひどく頼りなく見えた。
嗚咽を押し殺して、ビショップは紡ぐ。

「明日は、ルーク様の大切な……それなのに、私は、こんな、」

汚らわしい、と青年は己の肩を抱いて呻いた。白くなるほど力の込められたその爪が、ぎり、となめらかな肌に食い込む。そのまま皮膚を突き破ろうとするのを、なだめるように、上から男の手が重ねられた。

「私のせいにしてしまえばいい」

ひくり、と首を竦める若者の耳元に、ヘルベルトは甘やかな言葉を注ぎ込んだ。

「全て、私の責任だ。君を罪の道に引き摺りこんだのも、汚して貶めたのも。悪魔の誘惑であれば、仕方あるまい……そうだろう、聖職者殿」

優しげに呼び掛けて、ヘルベルトは青年の肩から、そっと手を外させた。抵抗はない。引き締まった肩に、軽くついた爪痕を、男は丁寧に慰撫した。暫し、ビショップは口を噤んでいたが、言いくるめられるかたちとなったのが気に入らなかったのだろう。小さく呟く。

「お断りします。……悪魔の勧めに従うというのも、癪ですから」

口の減らない応答に、ヘルベルトは軽く苦笑した。

「やれやれ。厄介な若造だ」

腰に腕を回して、身を寄せる。迷惑そうに身じろぐのは無視して、青年の身体を腕の中に収めると、ヘルベルトは心地良い気分で目を閉じた。






[ Zugzwang…チェスにおいて、自ら不利となる手を指さざるを得ない局面。また、相手をそのように追い込むこと。 ]




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お誕生日おめでとうございます!

2012.12.27

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