幾何学的錯視 -1-
「それでは──失礼いたします」
POGジャパン最高責任者としての任務の解除──突然の通告にもおよそ動揺の色を見せることはなく、面談を終えたルークは落ち着き払った様子で一礼した。
側近を伴って退室しようとする、白い少年の背中に、極東本部長ヘルベルト・ミューラーは声を掛けた。
「待ちたまえ──久し振りに会ったのだ、もう少し愛想よくしても良いのではないかね」
「……ルーク様、行きましょう」
上段に構えて命令を下すことに慣れきった男への嫌悪感もあらわに、ビショップは少年を促す。しかし、ルークはその場に立ち止まると、何も言わずに振り返った。忠実な側近が何かしらの言葉を口にしかけるのを、片手を挙げて制する。為すすべなく、ビショップは不本意ながら黙るほかなかった。
「そう、良い子だ」
歩み寄ると、ミューラーは年若い元POGジャパン総責任者を見下ろして言った。
「人体に隠された黄金比を知っているか? 教えてやろう」
ことさらに優しげな仕草でもって、男はルークの肩に手を掛けた。少年の未成熟な骨格を確かめるように、手のひらを這わせていく。肩から撫でおろし、肘を辿って、手首を握る。
「肩と、肘と、指先──それに、指の関節」
白い指の一本一本まで執拗に撫でさすられながら、ルークは反応らしい反応を返すことはなかった。先程の面談と同様に、感情を伺わせぬ冷めた瞳を伏せて、男の手のなすがままに身を任せる。抵抗の意思も見せないが、かといって、少なくとも愛想よくする気もないらしい。
構わずに、ミューラーは少年の腰に腕を回して引き寄せる。危うく非難の声を上げかけて、しかしビショップは辛うじて自制した。主人の言いつけには従わねばならない。ルークにも何らかの考えがあるのだろう──せめて拳を握って、目の前で展開する忌まわしい光景に堪える。
「臍の位置は身長を黄金比に分割するというが、どうだろうね」
淫猥な手つきで、男は抱き寄せたルークの薄い胸、脇腹をゆっくりと撫でまわし、腰から腹へ、腹から大腿へと緩急をつけて辿る。うごめく指先が腰骨の辺りを揉み込んで探る様子は、とても直視出来たものではなかった。
「少し痩せたか。君に総責任者の任は重すぎたようだな。戻ってゆっくり休むといい──ああ、君の部屋だった所は私が貰い受けてしまったのだったか。構わんよ、シャワーと寝台はいつでも自由に使いたまえ。代わりといっては何だが、私も君を自由に使わせて貰うがね」
首元のベルトに指を掛けて引かれると、為すすべなく顔を上げるほかはない。上向かされた不自然な体勢で、ルークは健気にも、そのガラス玉めいた瞳で男を見据えた。男の指が、愛でるように少年の白い頬を伝い、固く閉ざされた唇をなぞる。
「君のような生意気な子どもは、嫌いではないよ。完全に、叩き壊して泣かせてやりたくなる」
触れるばかりに顔を寄せて、ミューラーは愉悦の表情を浮かべる。相変わらずの無感動な瞳で、少年は僅かに眉をひそめたように見えた。
男は、少年の忠実な側近へと視線を投げると、揶揄するように話し掛けた。
「ビショップ、『これ』はどんな風に啼くんだ。知っているんじゃないか、仕事熱心な君なら。夜な夜な、奉仕して差し上げているのだろう?」
「……その辺りにしておいていただけますか」
「なんだ、知らんのか。それでは、後で直截、確かめることにしよう。それとも、今ここで試してみようか」
唇を歪めて宣言するなり、男は少年の肩を乱暴に突き飛ばした。よろめいたルークがバランスを崩して背後の机上に倒れ込むと、身を起こす暇を与えずに覆いかぶさる。
身体を打ち付けた衝撃に目を瞑って堪えていたルークは、男の指が己の衣装に掛かるのを察すると、反射的に首を起こして何らかの拒絶の言葉を紡ごうとしかけたが、しかし、結果的にその意図は達成されなかった。
「…………っ」
瞼を開けた瞬間、あからさまに身を竦めると、小さく苦鳴をこぼして、ルークは顔を背けた。男の無情な腕を払って抵抗する筈だった細い両手は、その役を果たすことはなく、何かを防ぐように顔の前に交差して掲げられる。少年の可憐な唇は声にならない苦鳴を堪えてわななき、焦燥のままに乱れた息を継ぐ。
一連の反応を冷徹な眼で見下ろして、真上の照明を振り仰ぐと、ミューラーは得心のいったように眼を細めて呟いた。
「光、か──哀れなものだな」
言って、少年の震える腕を無慈悲にも掴んで引き剥がす。振り払おうと、ルークは身を捩るが、精一杯の抵抗も易々と抑え込まれてしまう。頤に指を掛けて強引に上向かされると、薄い瞼を透過する僅かな光量にさえ、ルークは怯えたように身を強張らせた。頑なに閉ざした瞼からは、滴が溢れ、なめらかな肌を伝い落ちる。
白い光の下に晒された、胸を上下させて苦痛に喘ぐ少年の表情を舐めるように鑑賞して、ミューラーは満足げな笑みを浮かべた。
「良い顔をするではないか──ぜひとも声も聞きたいものだ」
そのまま、片手に納まる細い首に、ぐ、と指を食い込ませる。少年の身体はびくりと跳ね、唇は悲鳴めいた吐息をこぼす。抵抗を試みてもがく四肢は、しかし、視界を奪われた状態でやみくもに動かそうとも、何ら用を為すものではなく、暴虐を押し止めるには至らない。
男の器用に動く片手でもって、首のベルト、留金と順に外され、白い衣装は難なく暴かれていく。乱れた衣装の合間から、陽光に晒されることのない乳白の肌へと、とうとう男の手が這入り込み──止まった。
否、止めざるを得なかった。
固く掴まれて骨を軋ませる己の手首と、横合いから伸ばされたその腕の主を、男は煩わしげに一瞥して、ゆっくりと少年から身を離した。それから、腕を振り払うと、ビショップもまた簡単に手を離し、一歩後へ退いた。
少年の忠実な側近に容赦なく掴まれた己の手首を軽く回して様子を見つつ、ミューラーは問い掛けた。
「つつしみたまえ。自分の立場を忘れたか? 我々の崇高なる序列は絶対であると、誓ってPOGに加わったのではなかったのかね。上司の楽しみの邪魔はしないものだ」
ビショップは答えない。ミューラーはつまらなそうに肩をすくめると、机の上で身を起こすことも出来ずに乱れた息を継ぐ少年へ視線を向けた。
「この子どもの方が、余程ものを分かっているようだ。私が一言、命じてやればどんなこともするだろうな──どうしてやろうか、君は何がお好みかな」
酷薄な笑みを浮かべる男の問いに、ビショップはやはり答えることはせずに、しかし、少年を護るように一歩前へと踏み出す。ミューラーは芝居がかった動作で両手を挙げると、あっさりと数歩下がってみせた。
「そう怖い顔をするな、冗談だ。私はそれほど暇ではないのでね」
言うと、未練なく踵を返す。悠々と立ち去りながら、ミューラーは小馬鹿にするように片手を振った。
「──精々、負け犬同士、仲良く慰め合うんだな」
捨て台詞を残し、その姿が扉の向こうに消えてようやく、ビショップは視線を切った。暫し目を閉じて、意識的に深く呼吸した後、背後で横たわったままの少年へと、ゆっくり向き直る。
照明から隠すように、己の身体を盾にして、ビショップはルークの身体を抱き起こした。少年の固く閉ざしたままの瞼は、濡れ光る睫を微かに震わせ、薄く開いた唇が継ぐ呼吸は、未だ安定には至っていない。いつも一分の隙なく纏う純白の衣装に包み護られているべき、細く頼りない頸部、乳白の肌が鎖骨の下まで暴かれたその姿は、あまりに痛々しく、ビショップは唇を噛み締めた。
肩を抱いて立たせようとするが、しかし、上手く力が入らないのか、少年はすぐに膝を折ってその場にしゃがみこんでしまう。十分な遮光性を持たないのに、天井の光源を無防備に直視してしまったその眼球は、いま暫くは使い物にならない筈だ。せめて、はだけた衣装を直してやろうと伸ばされた側近の手を、ルークは首を振って拒んだ。
自分で自分を抱くようにして、ルークは冷たい床にうずくまる。無遠慮にかき回されてしまったものを、何とか溢れないよう、己の内に懸命に留めようとしている、そんな風に見えた。精密に組み上げられ、決まった手順と規範を愛するルークの脳は、こんな風に力ずくで調和を乱されることにひどく弱い──そのルールは、衣装一つをとっても厳密に定められて、例外というものがない。
少年の頼りない背中は、隠しようもなく震えていて、ビショップは痛ましく眉をひそめた。出来ることならば、すぐにでもその肩を抱き、大丈夫だと言って安心させてやりたい──しかし、それは叶わない。誰も触れるなと、その穢れなき白い全身で、少年が叫ぶように訴えていることが分かるからだ。抱き寄せたところで、ただの自己満足に過ぎず、ルークをいっそう追い詰めることにしかならない。
「……風呂に、……」
入りたい、と言いかけて、ルークは気付いたように途中で口をつぐんだ。先ほど言われた通り、彼の好んだ見事な夕陽を望むバスルームは、既に彼の所有物ではない。この敷地内に有していた、殆ど全ての権利を、ルークは今日をもって、失ったことになる。
聞こえなかった振りをして、ビショップは傍らに跪くと、少年の心身が落ち着くのを辛抱強く待った。