幾何学的錯視 -2-




光に射抜かれた眼球の痛みが治まり、再びルークが目を開けられるようになるまでは、少々の時間を要した。片手を添えながら、ゆっくりと瞼を上げて、ルークは確かめるように二、三回瞬きをした。指の隙間から、淡青色の瞳がこちらを捉えるのを確認して、ビショップは片手を差し出しながら声を掛けた。
「さあ、行きましょう」
自分で言っておきながら、どこへ行こうというのか、特にビショップは当てがあるわけではなかった。しかし、どこであろうと、少なくともこの場に留まるよりはましであるように思えた。忌まわしいこの場に、これ以上留まる気はしなかったし、なにより、ルークを一刻も早く、あの男の支配下にある空間から逃がしてやりたかった。
しかし、差し出された手を、少年は俯いて拒んだ。
「……勝手に行けばいい。もう、上司でも部下でもないのだから」
言って、顔を背ける。まるで拗ねて強がりを言っているかのようであるが、そうではないことを、ビショップは説明されなくとも理解出来た。ルークは決して、自暴自棄になってこんなことを言っているのではない。純粋に、そう思っているから──そのまま、素直に口にしただけだ。それが、言われた相手にどのような感情を引き起こすものであるか、そんなことには、少しも考えを割くこともなしに。
うなだれる少年をじっと見つめて、ビショップはゆっくりと問い掛けた。
「……私が怒っているのが分かりますか」
かくり、と首を折るようにして少年は頷いた。それはそうだ、それくらいのことは、分かって貰わなくては困る──ビショップは小さく溜息を吐いた。
「いえ、質問を変えます。何を怒っているのか、分かりますか」
「……利用価値があるから、せっかく目を掛けて面倒を見てやっていた子どもが、迂闊なことをして失脚し、今まで投資した時間と努力を無駄にしたから」
「違います」
「……目の前で、下品な行為を見せられたから」
「間違ってはいませんが、正解ではありませんね」
いつもとは異なる、側近の冷たい声に、ルークはそろそろと顔を上げて、不可解げに首を傾げた。無垢なまでのまっすぐな表情──ああ、駄目だこれは、理解していない──分かっていたことながら、ビショップは嘆かわしく首を振らずにはいられなかった。精一杯に感情を堪えた声でもって、言い聞かせるようにゆっくりと紡ぐ。
「どうして、抵抗してくださらなかったのですか。拒絶して、くださらなかったのですか。あのような振る舞いを許すなど──」
「抵抗したら、もっとひどいことにしかならない。さっきの話し合いと同じだ。黙って言うことを聞いているのが、一番傷が小さく済む。そう思わないか」
「しかし、それでは」
「だって、そうならなかったじゃないか」
反論しようとしたビショップを、ルークはもどかしげに遮った。どうしてこんな簡単なことも分からないのだろう、と戸惑うような表情で続ける。
「そうならなかった──心配しているようなことには、結局、ならなかった。それでいいだろう──もう、この話は終わりだ」
何でもないことのように、ルークは面倒げに軽く手を振って言う。詭弁だ、とビショップは思った。後からならば、何とでも言えるというものだ。事が起こってからでは、取り返しがつかないというのに──それに、今だって、ルークは無傷で済んだわけではない。
こんなにも、立ち上がれないまでに、肩を震わせるまでに、柔らかな心を傷つけられておきながら──それを、何でもないことだと、言うのだろうか。それで構わないと、言うのだろうか。見えなければ、傷なんて無いのだと──そう言うのだろうか。
自分がどれだけ危険に身を晒しているか、この少年は果たして、分かっているのだろうか。たとえささやかで、目に見えなくとも、何度となく傷つけられれば、いずれ壊れてしまうことを、分かっているのだろうか。分かっていないならば、教えてやらねばならない。なおも食い下がって、ビショップは問うた。
「それでは、もしも」
「仮定の話はしない。無意味だ」
緩く首を振って嫌がるルークの意思を、ビショップはあえて無視した。普段ならば、その発する命令を絶対とし、己の領分をわきまえ、邪魔をせずに側に控えることを己の果たすべき役割と心得るビショップにとって、それは、滅多にあることではなかった。それでも、問わずにはいられなかった。
「もしも、命じられたら──あなたは、己の尊厳を棄ててもいいと、……」
「彼も馬鹿ではない。そんなことは、する筈が」
「答えてください」
肩を掴んで、逃れることを許さない。背けていた顔を上げて、ルークは忠実な側近の瞳を見つめると、一言、呟いた。
「……そうするしかない」
沈黙の降りた空間で、視線が交錯する。互いに決して、目を逸らそうとはしない、それは静かなる意思のせめぎ合いといってよかった。押し殺した声に少なからぬ非難の色を滲ませて、ビショップは問うた。
「そうまでして、ここにいたいのですか」
「違う。ここにいたいんじゃない──ここにいるしか、ないんだ。知っている筈だろう。ここで──この中でしか、僕は、いられない」
それなのに、どうして、そんなことを言うのか──どうしようもないのに、いちいちそんなことを言って追い詰めるのかと、ビショップは少年のまっすぐな瞳に責められているような心地がした。
譲れない、絶対的な前提条件を、それは間違っているといって否定されたら、いったいこの少年に何が残る──今更ながら、己の身勝手さに気付かされて、ビショップは苦々しい思いを噛み締めた。こんなもの、何を生み出すでもない、何の意味もない、くだらない八つ当たりに過ぎない。
力の抜けたビショップの手を、気だるげに肩から振り落とし、ルークは頭をふらつかせながら立ち上がった。片目を護るように手を添えて、何も言わずに側近の脇を抜けると、扉へと向かう。その後を、ビショップはすぐさま立ち上がって追うことが出来なかった。
諦めが悪い──聞きわけがない、子どもと同じなのは自分の方だと思った。
ただ、自分が見たくないだけなのだ──この少年が貶められ、汚されるのを、見たくない。
ルークが自分の所有物でも何でもないことは、よく承知している。護りたいなどと戯言を言うのも、こちらの勝手な自己満足だ。
自分が嫌な思いをしたくないからというだけで、罪もない少年を非難する──なんと滑稽だろう。
いくら言ったところで、ルークの意思を、行動を、思うままに変えさせることなど出来ない。思い通りにいくことなど、ここには何ひとつ、ないのだから。
まるで、無力ではないかと思った。何も──してやることが出来ない。
こういうとき、敬虔な信徒ならばそうするように、天を仰いで救いを求めることはせずに、ビショップは力なく俯いた。
何をやっているのだ、まったく──自嘲して、深く嘆息する。
暫しそうして、懺悔するかの心地に浸った後、ビショップはおもむろに顔を上げた。感傷を断ち切るように、無駄のない動作で立ち上がる。いつだって慌てることも取り乱すこともないと評判の青年は、やはりこんなときも優雅な振る舞いで、決して急くことなく、しかし迷いない足取りで、部屋を後にした。




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