幾何学的錯視 -3-




おぼつかない足取りで通路を進む少年の姿は、すぐに見つけることが出来た。その肩に、ビショップは何も言わずに手を伸ばすと、そっと後ろから抱いて支えた。振り向くことなく、ルークは足を止める。
「……ついて来なくてもいいんだ。僕の側にいたって、もう、何も意味はない。僕は独りで良い」
言って、ルークは手を振り払おうと試みたが、逆に強く引き寄せられてしまう。忠実な側近は、強情な子どもを諌める教師の口調でもって、溜息交じりに告げる。
「あなた独りで、何が出来るというのですか」
「──それは、憐れみか」
透けるような瞳が、無礼な部下をまっすぐに射抜く。睨めつけられながら、ビショップは怯むことなく、むしろ長身を屈めて目線の高さを合わせると、ふっと微笑んでみせた。
「そうですね。正直に申しまして、私は哀れなあなたが好きですよ。惨めなあなたが好きです。誰にも助けて貰えない、理解して貰えない、訴えることも出来ない、無力でかわいそうなあなたが、とても好きです」
歌うように優雅に、淡々と紡ぎながら、乱れたままだった白い衣装を慣れた手つきで直していく。そんなことも自分の指では出来ないルークは、黙ってそれを受け容れた。
最後に、首のベルトを嵌めてやって、ビショップは身を起こすと、静かに告げた。
「そんなあなたでなければ、私は側に仕えたりしませんよ」
ルークはガラス玉めいた瞳で一度、ビショップを見上げてから、何も言わずに視線を逸らした。俯いてしまって、表情は伺えない。
見捨てないでくれ──などと、この少年は、決して口にすることはないのだろう。それで良い、とビショップは思う。同じように、自分もまた、ルークに向かってその言葉を発することは、決してしないと思うからだ。
組織に見限られ、ギヴァーの資格を剥奪されるとなると、殆どの者は見苦しくも必死に弁明し、赦しを乞う。そういう彼らを、ビショップは職務上、幾度となく間近で見てきたし、自ら彼らに非情な宣告を下してきた。顔色一つ変えずにギヴァーたちを裁くビショップは、どうやら陰で血も涙もない悪魔扱いされているらしいが、本人としては、それに異を唱えるつもりはない。その通りだと思うからだ──なりふり構わず組織にしがみつこうとする彼らの心境に、ビショップは同意することも、同調することも、同情することも出来ない。
たぶん、彼らの気持ちとやらは、自分には一生理解出来ないのだろうと思う。ビショップにとって、POGはそのような、何を置いても優先すべき絶対的存在などではないし、それによって自尊感情を高めるための装飾でもない。そんなものに縛られ、己を歪めるのは御免だ──我が主たるルークもまた、同じ思いでいることを、忠実な側近は心得ている。
ルークはここで──POGの中でしか、生きられない。けれど、そのために泣いて命乞いをすることは、きっと、しないのだろう。静かに──最後まで静かに、受け容れるのだろう。それが、ルーク・盤城・クロスフィールドという少年だ。ビショップの仕える、ただ一人の主人だ。

ひとまず、私の部屋に来ますか、と言ってビショップは少年をいざなった。提案に、ルークも素直に頷いてみせる。
「パズルも、取り上げられてしまったから。何かあれば、貸してくれ。落ち着かない」
いったい、自分はこの少年に何だと思われているのだろう──「出題者」、ギヴァーとしてそれなりに仕事をこなしてきたつもりだったビショップは、ルークの物言いに苦笑した。何かあれば、どころではない。パズルなんて、この頭さえあれば、いくらでも作り出せる。出来あいのものではない、彼のためだけの新しいパズルを、好きなだけ献上出来る。身の回りの世話をしてやる時間の方が多いから、忘れられてしまいがちであるが、どうやら、そのことを改めて、教えてやる必要があるようだ。
それにしても、他にも心配することがいくらでもあるだろうに、まずパズルとは──呑気というべきか、切実というべきか。敬愛する唯一の主人の耳元に、ビショップはあきれ半分に囁く。
「パズルさえあれば、あなたは良いんですね」
悪いか、というようにルークは側近を横目で見遣ると、ふいとそっぽを向いた。子どもっぽい拗ねかたが微笑ましい。
「パズルを解いて貰えさえすれば良い、なんていうふざけた奴もいるようだがな」
「いえいえ──めっそうもない」
軽口を交わしながら、しかし実際、これから、どうするつもりなのかとビショップは思いを馳せた。そんな側近の心中を読んだかのように、ルークは静かに、しかし迷いのない声を紡いだ。
「つまらない地位などくれてやる。そんなものとは関係なしに、いかに手出ししようとも、約束は、果たされる──どうあっても、必ず」
はるか彼方を俯瞰する瞳でもって、予言めいた確信を語るルークに、ビショップは小さく頷いた。知っている、これは遠い未来の予言などではない。結末へ向けて、既に世界は──動き始めている。何人たりとも、止めることは出来ない。
それは、ルークの指す、おそろしいほど精密なチェス、そのものだ。彼の指が、最初のポーンに触れた瞬間から、盤上は彼のものだ。敵のいかなる進軍も、攻撃も、退避も、全ては彼の手の内にあり、気付かぬ間に──呑まれている。いつしか、一歩も動けないまでに、支配されていることに気付くのだ。そうなれば、どんな手を打とうとも、美しいまでに圧倒的な侵攻を防ぐ手立てはない。
そして、ルークは必ず勝利する。犠牲を払いながら、急所を晒しながら、傷つきながら、堕ちながら、勝利する。
それを、ビショップは知っている。結末を疑ったことは、一度もない。
そして、ルークが欲する、「その先」の世界を、ビショップもまた、見てみたいと思うのだ。白く、美しい世界に立つルークを、見つめていたいと願うのだ。
「お供いたしますよ──最後まで」
囁きに、当然だ、と小さく応える声が、聴こえたような気がした。




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#7でルークを見る極東本部長の眼があまりにいやらしかったので…ビショップさんがおそろしいほど反抗的な目つきだったので…。

2011.11.20

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