春は黄金螺旋の夢 -1-






「それじゃ、僕らは温泉でばっちり、英気を養ってきますんで」
「お土産、買って帰りますわね」
「ビショップ様も、どうぞごゆっくり、お休みになってください」

そんな台詞を残して、本日の業務終了時刻ぴったりに、3人の部下たちは軽やかな足取りでもって、POGジャパンを後にした。明日から始まる連休を、彼らは念願だった温泉宿で過ごすことにしたらしい。本人らの言葉通り、たっぷりと休んで戻ってきたあかつきには、冴え渡る英気とやらで是非、活躍を見せて貰いたいものである。
「……さて、」
部下たちを見送ったところで、私は一つ、息を吐いた。明日、3月1日から始まる9日間──通称『黄金比週間(ファイ・ウィーク)』。頭脳集団POGの独自に定めた暦に基づく、いわゆる休業日である。通常、POG各支部は、それぞれの担当国および地域の一般的なカレンダーに従って活動しているが、組織における重要な祝祭日については、その限りではない。ゆえに、我々の拠点である日本の一般的感覚からいって、不思議な時期に連休が生じてしまうようなことになる。混雑を外せるから、かえってありがたい、と旅行好きの部下は言っていた。
とはいえ、そうした事情は、私にとってはさしたる関係がない。ゆっくり休んでくれという言葉を掛けられた直後にこう言うのも憚られるが──つまり、私に休みはない。
否、なにも、休日返上で労働を強いられている、という意味ではない。より精確に言えば──休みだろうと、そうでなかろうと、同じである。私は変わらず、いつものようにルークの傍に仕えるし、いつものようにパズルを作る。それが、私の日常の基本だからだ。習慣といっても良い。いくら休日とはいえ、顔を洗わなかったり、着替えをしなかったりする人間は、あまりいないだろう。同じように、私がルークの傍にいなくていい日はないし、パズルを作らなくていい日はないのである。どころか、「しなくていい」と言われても、それでは一日、何をすれば良いのだろうか。私はたちまち不安になって、いつも通りの日常を取り戻そうと努力するに違いない。ルークとパズル。それが、私を構成する基本単位だ。実際、今だって、私の足は迷わず、敬愛する上司の執務室へと向かっている。
そんな私が、連休だからといって、どこへ出掛けるということもない。正直なところ、そのような気にはなれなかった。ルークが黄金の腕輪を嵌めていた頃は、勿論、片時も目が離せなかった。その後にしても、主人と共に世界を巡る二人旅、敵対勢力との遭遇、戦い、POG再建──めまぐるしい事態は、私に温泉への現実逃避を許してはくれなかった。それもようやく一段落といったところであるが、今度は、どうやって休んだものかが分からない。こんな内情を、もしも部下に吐露したら、きっと仕事中毒といって哀れまれてしまうのだろう、と私は自嘲した。
「……おや?」
とりとめのないことを考えているうちに、自室へと到着してしまった。さて、私は、年若い主人の執務室へと向かう筈ではなかっただろうか。特に用は無いが、無いなら無いで、何か新しい用事を言いつけてはくれないかと、お伺いに参上するのである。そのつもりであったのに、無意識のうちに、足が自室へと向いてしまっていたらしい。あまり考えごとに夢中になっているからだ、と私は己を戒めた。
そして、踵を返すつもりが、何故か私の片手は、そのまま扉を開けていた。不思議なことがあるものである。ルークを訪ねるという予定は、どうなったのだろう。室内に足を踏み入れると、どこか安堵が胸を満たす。私はおもむろに、お気に入りのソファに身を預けた。そして、驚くべきことに、身体は勝手に、ずるずると姿勢を崩し、だらしなく横たわってしまう。
せめて制服を脱ぐべきである、という頭の片隅での警告を、私はあえて無視した。そんなことをすれば、まるで、このまますやすやと眠ってしまうつもりであるかのようではないか。そのようなつもりはない。これは、あくまでも、一時的な休憩なのだ。パズル制作中に、軽く辺りを散歩してみたり、茶を淹れてみたりするのと同じことである。ほんの数分程度のことだ。衣服が皺になる暇もあるまい。だいたい、本気で寝るつもりであれば、さっさと寝室へ直行している。だから、私は眠るつもりはない。ただ、横になって目を閉じ、精神統一を図っているだけだ。ルークの前へ出るならば、心身ともに万全の状態で臨まねばなるまい。それが礼儀というものだ。決して、だらけようとしているのではないのだから、咎められるいわれはない。
それにしても、これでは首が落ち着かない。枕代わりのクッションを求めるつもりで、伸ばした腕は、目標まで僅か届かず、空しく宙をかく。私はあっさりと、枕を諦めた。
明日は、何だったか──明日は、休みだ。ようやく身辺が落ち着いて、初めての休みだ。
ああ、一つだけ、したいことがあったではないか、と私は急速に沈みゆく意識で思った。

今はただ──眠りたい。



およそ3週間分、日付が帯状に赤く染まったカレンダーを眺めて、少年は溜息を吐いた。何度見返しても、変わることはない、学院の重要な行事を印字した専用の暦だ。3月半ばまでのその期間には、特別祝祭休暇を示す記号が振られている。
英国が誇る名門クロスフィールド学院──その母体である頭脳集団POGにおいては、連綿たる歴史の中で、独自に築き上げてきたしきたりというものがある。例えば、それは、春を迎えるための儀式として、フェーヴ入りのパイを切り分け、一日限定の王を選出することであり、あるいは、そのイベントを含む約3週間を、祝祭日扱いにするということである。
なんでも、今でこそフェーヴによって選ばれた王の権力は一日限りの、あっさりとしたイベントであるが、かつては20日間にわたって、王のための饗宴が続けられたらしい。その名残を伝えようというのか、学院はこの時期に長期休暇を設定している──そんな背景を、カレンダーを捲る少年は勿論、承知していた。なぜこの時期が休みとなるのか、理不尽だといって、誰に訴えることも出来ないのだと、理解していた。納得のゆかぬ思いを、ぐっと堪え、諦念を滲ませた表情で、少年は3月最初の日付を見つめた。

他のパブリック・スクールであれば、イースター休暇にあたるこの期間、学院の生徒たちは暫し、学生寮を離れ、愛する家族のもとで過ごすことになる。
──あなたの帰ってくる日が、待ち遠しいわ。
共用の電話越しに聞く母の声は、優しく弾んでいた。帰省の相談のために、少年は久々に、唯一の家族である母親と連絡を取っていた。
──駅まで、迎えに行ってあげますからね。そう、2時の列車。家に着いたら、お庭を見て頂戴。スノードロップが咲いて、とても可愛いの。温かいお部屋で、お茶をしましょうね。あなたの好きなお菓子を作っておくわ。楽しみにしていてね。
ありがとうございます、お母様、と少年は子どもらしい無邪気さで応えた。しかし、溌剌とした声音とは裏腹に、翡翠の瞳には、微かな陰りが落ちる。少年は、胸元でそっと、小さな手を握った。
──温かくなったら、丘へピクニックに行きましょう。あのストーンサークル、あなた昔から、好きだったでしょう。それから──それから──
母親の語る、休暇中の計画は、留まるところを知らなかった。もう、自習時間で、部屋に戻らなくてはいけないのだと理由をつけて、少年は受話器を置いた。待っているわね、という母の声が、耳に残って、離れなかった。

休暇を前に、寮内は、どこか浮ついた雰囲気だった。入学以来、厳しい規律を叩き込まれ、集団生活にも慣れた優秀な子どもたちとはいえ、まだ家族が恋しい年齢である。久々の帰省が、楽しみでないわけがない。トランクに荷造りをしながら、期待に顔を輝かせて、友人同士、休暇中の計画を語る。駅で待っている、と言った母親の優しい声を思い出しながら、少年もまた、荷物をまとめた。



間もなく3月とはいうものの、未だ春の訪れを拒むように、空にはどんよりと重く雲が垂れ込めていた。灰色の腕を下ろして、街をすっぽりと覆わんとする。陰鬱な天気は、しかし、家族との再会を胸に、足を弾ませる生徒たちの明るい面持ちの前には、さしたる妨げとはならなかった。
同じ列車で寮を後にし、学友たちは停車駅ごとに、ひとり、またひとりと、それぞれの帰路につく。はしゃいだざわめきが、メンバーの欠ける度、次第に勢いを失い、やがて、沈黙へと至る。ボックス席には、最後に少年がひとり、残された。鳶色の髪の少年の面持ちは、どこか、緊張が滲んでいる。友人もなく、ひとりきりで小さな旅をする不安もあろうが、物憂げな翠瞳は、それよりも、他の考えに囚われているようでもあった。車窓を流れる、変わり映えのしない田園風景と灰色の空を、少年は見るともなしに眺めていた。
「ちょっと前、失礼するよ」
不意に頭上から降ってきた声に、少年ははっとして顔を上げた。丁度、向かいの席に、乗客が腰を下ろそうとしていた。くたびれたコートを羽織り、年季の入った帽子を被った、初老の紳士である。自然と、少年は頬杖をやめ、行儀よく姿勢を正した。見ず知らずの相手であろうとも、年長者の前で居ずまいを正すという当然の礼儀は、厳しい上下関係に基づく寮生活の中で心身に叩き込まれている。この制服を纏う限り、休暇中であろうとも、学院の一員としての誇りを常に胸に抱き、各々が母校の代表として、その名に恥じぬ行ないをせよ──寮監に指導されるまでもなく、学院の生徒は誰もが、その自覚を備え持っている。
「クロスフィールド学院の生徒さんかい」
向かいに座った乗客は、まだ幼いとさえいえる少年が独り、旅の途上にあることに、興味を抱いたらしい。眼鏡をずり上げると、少年の纏うクラシカルな制服を物珍しげに眺めて、そう問うた。
燕尾服を彷彿とさせる、仕立ての良い漆黒の上着、糊の利いたシャツの襟元を飾る、ヴェルベットの優美なリボン。半ズボンからふっくらとした膝を覗かせた少年の姿は、行儀の良い居ずまいとあいまって、そのまま貴族の子弟の肖像画として美術館に収められても通用しそうである。
ともすれば、小さい身体には不釣り合いになりがちな堅苦しい制服を、少年は難なく着こなしていた。躾の良さを感じさせる、すっと背筋を伸ばした姿勢や、何気ない中にも指先まで神経の行き届いた丁寧な仕草は、既に一人前の紳士といってよい。上品に整った面立ちは愛らしく、柔らかそうな白い頬を、鳶色の髪がふわりと撫でる。翡翠を思わせる大きな瞳は、利発さと繊細さを兼ね備た少年の性質を伺わせた。
いかにも、自分は学院の生徒であると、上品な発音で礼儀正しく述べる少年に、男は、なるほどといったように頷く。
「これも何かの縁だ。ひとつ、助けてくれないかな」
紳士は肩を竦めて、手にしていたタブロイドを寄越した。何かと思って紙面に視線を落とした少年は、すぐに男の意図を理解した。
「どうしても、このクロスワードが解けなくてね」
眼鏡の奥の目を気恥ずかしげに細めて、彼は頭をかいてみせた。新聞に欠かせぬ娯楽の伝統、クロスワードパズル──卵料理が湯気を上げる朝食の席に、三つ揃いのスーツで現れ、紅茶を嗜みつつ新聞に目を通し、テーブルの片隅でクロスワードパズルを解く英国紳士のステロタイプは、なおも健在である。
この男性の場合、長距離移動に際しての退屈しのぎとして、スタンドでタブロイドを買い求めたものらしい。差し出されたパズルには、ところどころ、お世辞にも整っているとは言い難い筆跡でマス目が埋められているものの、まだまだ空欄の方が多い。見れば、難易度を示す星印が、最高レベルである5つ、並んでいる。苦戦するのも、無理はない。
なあ、頼むよ、と紳士は懇願してみせた。突然のことに、少年は戸惑いを隠せない。
英国の誇る名門クロスフィールド学院が、世界中から小さな天才たちを「コレクション」していること、脳を活性化する目的でパズルを活用した教育に力を入れていることは、広く世間に知られている。各界を取り仕切る大物が、ことごとくクロスフィールド学院のOBであり、学院を卒業することは、半ば、将来の成功を約束されたものであるという信仰は、未だ根強い。厳格な規律を重んじる修道院めいた秘密主義と隔離主義によって、内情が窺い知れないこととあいまって、俗世間からは、密やかに、しかし常に、一定の注目を集めている。
制服姿で、たまに街を出歩けば、好奇の目を向けられることに、少年は既に慣れっこであった。礼儀を知らぬ輩に、勝手に写真を撮られたこともある。しかし、声を掛けてくる者は、一人としていなかった。
誰もが、恐れていたのだ。自分たちとは違う、天才と呼ばれる、「異常な」子どもに関わって、厄介なことになってはたまらない。人々は、遠巻きに見つめこそすれ、決して、一定以上の距離に近づいて来ようとはしなかった。
その点、この人物は恐れを知らないらしかった。まるで、友人にアドバイスを求めるような気楽さでもって、パズルのヒントを求めてくる。田舎者なのだろうか、と少年はいささか失礼な感想を抱いた。身なりは質素であるし、髪もぼさぼさであるから、その可能性は高い。とはいえ、困っている相手を助けるというのは、誇り高き学院の生徒として、忘れてはならぬ心がけである。最初こそ戸惑ったが、良いですよ、と少年は快く、差し出された新聞を受け取った。
大衆向けの娯楽程度のパズルであれば、実際のところ、少年にとって、暇つぶしにもならない。なにしろこちらは、毎日のように課せられる、あらゆるパズルによって、心身を鍛え上げられているのだ。他愛のないクロスワードを、少年はざっと流し見るだけで、答えに辿りついてしまった。しかし、目の前の相手は、なにも答えを知りたくてアドバイスを求めてきたわけではあるまい。あくまでも、自分の力で解きたい筈だ。ペンシルを片手に首を捻る、眼鏡の紳士を冷静に観察して、少年は推測した。
「どうだい、少年?」
「……そうですね。まず、ここを見てください、」
結局、少年は適切なヒントを与え、男を答えへと導いてやった。全てのマスを埋めた男は、出来た、と子どものようにはしゃいだ声を上げた。
「この一瞬が、たまらないんだ」
無邪気に喜ぶ男に、何度も礼を言われ、少年は悪い気がしなかった。何の役に立つかも分からぬまま、それが課題だからというだけの理由で、必死にパズルに取り組んできた、その努力が、少し報われたような気がした。
パズルは、人を喜ばせる──パズルが解けると、人は、嬉しいのだ。そんな、当たり前のことが、何故だか新鮮に感じられた。

「帰省かい、少年」
「はい。母が、駅で待っていて」
パズルを通して、二人の乗客の距離は、年齢差をものともせずに縮められた。パズルに取り組む様子を見れば、相手がいかなる人間であるか、だいたいのところが分かるものだ。これまでの人生で蓄積してきた、あらゆる知識、あらゆる経験を総動員して、人はパズルに挑む。何が得意で、何が苦手か、何を知っていて、何を知らないか、どこから解き始め、どこで解き終えるか、早いか、遅いか、粗雑か、丁寧か──問題に没頭すればするほど、解答者自身がさらけ出されていく。
そうして男を観察した結果、少年は、相手が信用に足る人物であるという結論に至った。目の前の人物は、今は新聞を畳み、代わりにクロッキー帳を開いて、なにかペンシルを走らせている。
「お家は、どこの辺りかな?」
問いに、少年はある地方の一都市の名を挙げた。ああ、そこなら知っている、と紳士は嬉しそうに顔をほころばせる。
「初夏の朝焼けが、見事だった。青空のグラデーションを映し込んだ湖面が、静かに光を反射して──」
懐かしい記憶に思いを馳せるようにして、男は感嘆した。彼の見つめた情景が、少年もまた、脳裏に鮮やかに描き出されるようだった。あの場所へ、これから帰るのだ──自然と、胸が高鳴るのを感じた。
「観光でいらしたんですか?」
「そうだね、というか……」
言って、彼はクロッキー帳を捲った。新たな白紙のページを開き、向かいの少年にも見えるように、膝の上に置く。そして、男はペンシルを繰り出すと、迷わず紙面に走らせた。薄クリーム色の平面世界に、みるみるうちに、陰影が生まれていく。
「……あ、」
目の前で描き出されていくものを、少年は息をのんで見つめた。いつしか、引き込まれるようにして、向かいへ身を乗り出す。こんな感じかな、と男が手を止めたとき、そこには、美しい自然に囲まれた故郷の情景が、ありありと描き出されていた。穏やかな陽光を反射してきらめく湖が、画面に大きく横たわり、遠景にはなだらかな丘陵が連なって、木々の合間に、巨石文化の遺跡が霞んで見える。とても、素人の趣味のスケッチというレベルではない。まるで、実物を目の前にしているかのような精密さで、記憶の中の風景を描き上げるとは──少年は、目の前のくたびれたコート姿の男を、まじまじと見つめた。
「──ここには、絵を描きに行ったんだ」
たった今、描き上げた作品を指して、紳士は気恥ずかしげに呟いた。題材を探して、世界中をあちこち飛び回るから、妻にはあきれられるばかりでね、と苦笑する。どうやら、見た目とは違って、相手はひとかどの人物らしいと少年は感じ取った。しかし、だからといって別段に、それを鼻にかける様子はない。親しみやすい、どこか無邪気な子供のような印象は、最初から変わることがなかった。
また新たなページを捲り、緩急をつけて筆を走らせながら、絵描きの紳士はのんびりと雑談を続ける。
「お母さんは美人かい?」
「はい」
「だろうなぁ」
少年の愛らしく整った面立ちを鑑賞して、男は感嘆の息を吐いた。でも、僕の妻も、とても可愛い人なんだよ、と慌てたように付け加える。可笑しいような、誇らしいような気持で、少年はくすくすと笑った。
「庭の手入れをして、お菓子を作って、待ってくれているそうです。母は、コンフィチュールを使った焼き菓子が得意で、……」
庭のスノードロップのこと、暖炉の傍でのアフタヌーンティーのこと、丘のピクニックのこと。気付いた時には、少年は休暇中の計画を、とうとうと語っていた。相手もまた、微笑ましく頷きながら耳を傾ける。もしかしたら、彼も少年時代に、寄宿舎生活を送ったのかも知れない。懐かしい我が家へ、久し振りに帰れるというときの、あの浮ついた気分。報告したいこと、聞きたいこと、やりたいことが一杯で、何から手を付けたら良いかと途方に暮れてしまいそうな、贅沢な悩み。それは、同じ体験をした者同士、自分のことのようによく分かち合える。
身ぶり手ぶりを交えた少年の話を聞いて、紳士は慈しむように、眼鏡の奥の目を細めた。
「楽しみなんだね」
はい、と少年は迷いなく頷いた。目的の駅が近づいてくるにつれて、どこか胸が落ち着かず、どくどくと騒がしい。これは、家に帰れるのが楽しみであるからにほかならない。何でもないような振りをしていたけれど、幼い少年にとって、母との再会は、待ち遠しくてならなかった。小さな我が家が、懐かしくてならなかった。
「とても、楽しみです」
気恥ずかしげに頬を染めて、少年は微笑んだ。

2時丁度に、列車は目的の駅に滑り込んだ。少年は、荷物を片手に席を立つ。向かいの紳士は、もう暫く先まで乗っていくとのことだった。題材を探す旅というのも、なかなか大変なものらしい。
「こうしている間だって、一生懸命、探しているんだよ。僕の専門は風景画だけど、素敵なモデルに出逢えたら、それだって大切な収穫だ──こんな風に、ね」
いたずらっぽく微笑んで、紳士はクロッキー帳の1ページを差し出して見せた。そこに描かれていたものを知って、少年は再び、驚かされることとなった。頬杖をついて、車窓を眺める横顔、行儀よく座った姿、はにかんだ笑顔──そのページには、少年自身の姿が、軽やかなタッチで写し取られていたのだ。
いつの間に、と少年は頬が熱くなるのを感じた。これでは、街中で勝手に写真を撮られるのと同じではないか。しかし、不思議と、怒る気にはなれなかった。柔らかく繊細な筆致で描き出された自分の姿は、なんとも優しく、温もりに満ちていたからだ。それは、制作者の穏やかな眼差しを、そのままに感じさせた。
少年の面持ちから、いたずらが大成功であったと確信したのだろう。こうやって、人をちょっと幸せにするのが、大好きなのだと、絵描きは誇らしげに胸を張った。
「君も、人を幸せにするパズル、好きだろう?」
一緒に解いたクロスワードを思い出しながら、そうですね、と少年は笑った。この愉快な紳士のことは、家に帰ったら、是非とも母に話して聞かせよう、と思った。
「それじゃあ、少年。楽しんでおいで」
手を振る男に別れを告げ、プラットフォームに降り立った少年は、期待に瞳を輝かせて、辺りを見回した。乗り降りをする客たちの間に、懐かしい姿を探す。母は、どこで自分を待ってくれているのだろう。人ごみにまぎれて、なかなか見つからない。トランク片手に、少年は忙しく辺りを見回しながら、プラットフォームを練り歩いた。足取りが、次第に早まり、靴音に焦りが滲む。
降りる者は降り、乗り込む者は乗り込み、やがて、列車は扉を閉めた。ゆっくりと、再び動き出す。
共に降りた人々は、目的地へ向けて、それぞれに歩き出している。誰もが、少年の脇を通り過ぎ、あるいは背中を向け、遠ざかっていく。静寂の駅に、少年は独り、取り残された。
2時の列車、という約束だった。電話の最後に、母は何度も確認した。迎えに行くから、待っていなさい、と言っていた。
きっと、急用でもあって、少し遅れているのだ。何も、心配することはない。すぐに、自分の名を呼んで駆け寄り、ごめんなさいねと言って優しく抱き締めてくれる。自分に言い聞かせて、少年はベンチに腰を下ろした。トランクの中から、古典語のテキストを取り出して、少年は迎えを待つことにした。

スノードロップは、春を告げる草だ。花が咲いたら、もう、春はすぐそこまで来ている。昔、母が教えてくれた。それならば、何故、こんなにも空は暗いのだろう。頬を撫でる風は、切れそうに冷たいのだろう。
残りページも少なくなったテキストから、一旦手を離して、少年は凍えた指先を握り締めた。芯まで冷え切った指は、自分のものではないようによそよそしかった。温めるつもりだったのに、むしろ、包んだ手のひらの熱まで奪われてしまいそうで、少年は背中を丸めた。テキストに並ぶ古典語の美しい配列が、滲んで見えた。
あれから、一時間が経ち、二時間が経った。母は現れなかった。ホームの柱に掲げられた大きな時計を、何度仰いだことか知れない。テキストの内容は、ちっとも頭に入らなかった。寒風に凍えながら、心臓はうるさいくらいに、熱く脈打っていた。
少年はテキストを閉じた。色を失った唇を、ぐ、と噛み締める。潤んだ目元を無造作に拭って、少年は二時間振りにベンチを立った。

──ごめんなさいね。
電話越しの台詞は、本来であれば、優しい腕に抱き締められながら聞く筈だった。けれど、感じるのは、耳に当たる冷たい受話器の感触だけだ。
──急に、体調を崩してしまったの。あなたが帰ってくるからって、はりきりすぎたみたい。とても、迎えには行けないわ。お茶も、ごちそうも、出来ないの。ごめんなさいね……
少年は俯き、黙りこくっていた。その沈黙をどう捉えたか、彼の母は、とりなすようにして続ける。
──二日、いいえ、一日、待って頂戴。明日は、ちゃんと、迎えに行ってあげますからね。必ず──必ず──
噛み締めていた少年の唇が、ふとわなないて、吐息をこぼす。それは、回線の向こうの相手にまでは聞こえなかったであろう、微かな溜息だった。
「いいえ、どうか、療養に専念なさってください。僕は、寮に居残ります。だから、大丈夫です……それでは、ごきげんよう、お母様」
健気な言葉を紡ぎ出す少年の、愛らしい面立ちが、すっかり血の気を失っていることも、小さな肩が可哀想なくらいに震えていることも、その声音からは、窺い知ることは出来まい。受話器を置くや、少年は、かくりと膝を折ってしゃがみ込んだ。私物を詰め込んだトランクを、指が白くなるほどにきつく、握り締める。決して声を上げることなく、少年は涙を落とした。



元気に出ていった筈の少年が、日も暮れた頃に、荷物を抱えて戻ってきたのを見て、学院の教師である尼僧はたいそう驚いた。少年は落ち着いた様子でもって、母の具合が悪くて家に帰れないという事情を説明し、休暇中に寮に留まりたいという希望を述べた。
家に帰って、看病をしてあげたらどうか、きっと子どもの顔を見るだけでも、親には嬉しい筈だという一般論を、尼僧は口にしかけて、危ういところで止めた。そんなことを、この聡明な少年が分からぬ筈がないということに思い至ったのだ。まだ幼いとはいえ、誇り高きクロスフィールド学院の生徒である。駅までの迎えなどなくとも、独りで家に帰るのは、何も難しいことではない。しかし、少年は引き返した。彼がそれを選択した以上、他人が口を挟めることではない、と尼僧は結論づけた。
食事の世話について請け負うと、少年はほっと安堵の表情を浮かべ、ありがとうございます、と礼儀正しく一礼した。母親に約束を破棄され、哀しくない筈もないだろうに、そんな複雑な家庭の事情などは、欠片も伺わせない。翠瞳に利発な光を宿した少年は、付け加えて申し出た。
「礼拝堂の鍵を、お借りしてよろしいですか。母のために、祈りたいのです」
あくまでも健気な少年の振る舞いに、尼僧は胸が締め付けられるようだった。糸杉の立ち並ぶ墓地を越え、礼拝堂へ向かう小さな背中を、案じるように見送った。

「僕は、寂しくなんて、ありません」
祭壇の前に跪いて、少年は呟いた。揺らめく蝋燭の灯が、白い頬を柔らかく照らす。
「僕は、泣きません。我儘も、言いません。独りでも、平気です」
頭上には、完璧な美と調和の源たる比率を宿したオウムガイのシンボルが、高々と掲げられている。学院の母体である頭脳集団が理想として崇める、神聖なる意匠だ。
目を細めて、少年はそれを見上げた。
「今年も、同じことになったという、だけのことです。最初から、分かっていました」
年齢に似つかわしくない、どこか諦めたような苦笑を浮かべて、少年は緩く首を振った。
休暇の度に、母は、帰っていらっしゃいと言う。迎えに行ってあげる、お菓子を作ってあげると言う。その約束は、一度も果たされたことがなかった。今度こそ、今度こそと、それでも毎回、期待を捨てきれずにいる自分は、なんて愚かだろうかと少年は思った。どうせ無駄になるのに、荷造りをして、何時間も列車に乗って、母が迎えに来てくれるのを、いつも同じベンチで待つ。二時間が経ったら、家に電話をして、やはり今回も同じ結末になったことを、母の口から聞かされる。同じことの、繰り返しだ。
「母は、僕に帰って欲しくないのです。アフタヌーンティーの約束も、ピクニックの計画も、どんなに楽しそうに喋っていても、僕には分かります。……僕は、母を悲しませたくありません」
けれど、と少年はここで初めて、声を震わせた。
「……結局、母は、言ってくれませんでした。誕生日、おめでとう、と」
あれだけ楽しそうに、休暇中の計画を語る彼女が、大事なイベントである筈の息子の誕生祝いについては、一言も触れなかった。そのことだけで、少年には、母の胸の内が分かってしまった。
「母は……僕が、大きくなるのが、嫌なのでしょうか。そんな僕を、家に入れるのが嫌で、いつも、病気になるのでしょうか……僕は、どうしたら、良いのでしょうか」
縋るようにして、少年は問いを重ねた。答えは、どこからも返らず、空しい静寂が満ちるばかりである。どれだけパズルが出来たって、一生懸命に本を読んだって、何も分からない自分は、まるでちっぽけな存在だと思った。もっと勉強をして、大人になれば、答えが分かるのだろうか。しかし、それでは遅いのだ。
少年は、ふらりと立ち上がった。引き寄せられるようにして、祭壇の脇で柔和な微笑みを浮かべる聖母像に近づく。その白い足元に、少年は恭しく跪き、爪先に接吻した。大理石の、冷たくなめらかな膝の辺りに、頬を擦り寄せる。感触は硬く、触れるほどに熱を奪われたが、心は暖かかった。いつしか、そっと身体をもたれかけさせていた。
「……お母様、」
礼拝堂に、少年の押し殺した嗚咽が響いた。




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