春は黄金螺旋の夢 -2-






大理石の母は、温もりを持たず、優しい言葉を紡ぎ出しもしないが、確かにそこに存在し、少年を優しく受け止めてくれた。身をもたれさせることの出来る支えがある、それだけで、少年は自分が守られていることを感じた。
ひやりとした感触は、次第に肌に馴染んで、不思議な一体感を形成する。目を閉じれば、もう、どこまでが自分の身体であるのか、分からない。緩く、曖昧に、輪郭が溶けていく。

深い安堵の中で、泣き疲れた少年は、意識のまどろむままに任せた。



粛々と進行する一人称の映画を、まるで、劇場で独り、漫然と眺め続けているかのようだった。私は安全な位置から、哀れな少年の行く末を見届ける観客であり、そして同時に、映像の中の少年自身だった。その世界には、私しか存在しないのだ。だから、私は世界のすべてを知っていた。私が、世界だった。
どこまでも淡々と続くかと思われた物語は、ふっと途切れて、辺りは静寂の闇に包まれた。最早、スクリーンは続きを映し出すことをするまいと、私は悟っていた。退屈な結末を、確かめるまでもない。席を立ち、画面に背を向けたところで、私は、自分の身体に重さのないことを知覚した。あるものではなく、ないものを感じるとは、奇妙な話である。ならば、これも、幻だ。
気付いた時、私は今度こそ、力なく横たわる自分の肉体を認識した。煩わしい重みも、きちんと備わって感じられる。乖離していた思考と実感が、ブロックパズルを組むようにして、精緻にかみ合っていくのが分かる。高度なコンピュータの一種であるところの人間の脳というのは、機械と同様に、それなりの起動時間というものを要する。私は、意識が自然と覚醒に向かうのを待った。
──随分とまた、懐かしい夢を見たものだ。
そんな、他愛のない感想を抱く。実のところ、後半辺りから、私はこれが夢であることに、薄々気付いていた。奇妙に現実感を欠落した、断片の情景が、目の前に展開しては消えていく。それこそ、車窓を流れる景色を眺めるようなものだ。あれから何年経ったのだったか、今の私は、勿論、膝を抱えて涙を落とす脆弱な子どもではない。寝起きに特有の、靄の掛かった思考でも、それくらいのことは自覚出来る。心地良いまどろみの中で、私は軽く姿勢を動かした。
そこで、私はささやかな異変を捉えた。頭の下に、なにか、柔らかな感覚がある。何だろうか。瞼を上げるのも面倒だったので、私は確かめるように、頬を擦り寄せてみた。枕にしてはしっかりとしていて、弾力があり、温かい。そう、あの頃、大理石の聖母像に身を寄せながら、夢想していたのは、このような温もりに抱かれることではなかったか。それを、現実にまで引っ張ってきてしまうとは、どうやら、まだ夢の残滓が抜け切れていないようだ。私は小さく苦笑した。
それにしても、愛用の枕は、果たして、このような感触であっただろうか。確かめるべく、片手を持ち上げ、軽く揉み込んでみる。どこかで知っているような感覚が、指先に返ってきたが、それが何であるのかまでは、頭が回らない。はてと思いつつ、適度な弾力に指先を埋めていると、
「……やあ。おはよう」
「……おはようございます」
どこからか降ってきた声に、半ば自動的に応答してから、私はぼんやりと瞬きをした。ようやく、まともに目を開けて、己の状況を視認する。まず目に入ったのは、予想とは違って、寝室の天井ではなかった。
目の前には、見慣れたローテーブル。横たわった身体を沈み込ませるのは、寝慣れたソファ。そして、服装はといえば、寝巻ではなく、漆黒の制服姿。一つずつ、私は確認して、状況を把握した。どうやら、ソファで暫しくつろぐつもりが、そのまま眠り込んでしまったらしい。業務の立て込む月末には、よくあることである。
しかし、いつもとは何かが、決定的に異なる。
先程から頭を支える、枕やクッションとはまた違った、しなやかな弾力ある心地は、いったい何であろうか? そして、さほど離れていない位置で、上から降ってきた、年若い少年の声は、何を意味するのか──そこまで思考を馳せたところで、私の脳は、途端に覚醒した。
「……っ」
次の瞬間には、文字通り、ソファから飛び起きている。殆ど、反射的といっていい動きだった。寝床の中で確認した現在時刻が、起床予定時刻を1時間半過ぎていることに気付いて青褪めたときさえ、こうも切れ味の鋭い飛び出しは出来なかっただろう。咄嗟の瞬発力は、日頃のトレーニングの成果である。今や、怠惰なまどろみの残滓は雲散霧消して、心身のどこにも見つからなかった。それも当然であろう。
今の今まで寝そべっていた長椅子──精確には、その上を凝視して、私は掠れる声を紡いだ。
「……ルーク様」
ソファに腰掛けて、物珍しげにこちらを見つめているのは、白い少年であった。

状況を理解するや、私がまず取り掛かったのは、真摯なる謝罪であった。それ以外には、いかなる行動も思いつかなかった。全身全霊が、私に謝罪と猛省を要求していた。当然のことである──畏れ多くも、敬愛する上司の膝に頭を預けて、眠りこけていたのだ。これで平然としていられる人間は、よほど神経が図太いか、愚かであるかのいずれかだ。私は、そのどちらにも、なりたいとは思わない。
「たいへんな失礼を、……」
私は急いで、ルークの足元に跪いた。指導者の純白の衣装は、膝の上に載せていた重しのせいで、大きく皺が寄ってしまっている。私は胸を引き裂かれるような心地がした。汚れひとつない崇高なる衣装を、かように汚すなど、赦されざる行為である。
主人の膝を不当に占有した罪。主人の前で眠りこけていた罪。それらは、いずれも厳罰に処すべき非礼な行為である。まして、それが二つ重なってしまえば、最早、いかなる弁明も意味を為さない。
ことに、後者の罪は重い。いかなる事情でこういったことになったのか、混乱した脳では今ひとつ思い出せないが、どういった理由があれ、ルークと身体的接触をしながらにして熟睡していたとは何事だ。私はこの白き指導者を前にしたときはいつも、意識の全てを彼に傾けるべきであると信じている。余所見や考えごとの入り込む余地はない、それが、忠臣としての誇りですらあった。
すなわち、膝を借りるなら借りるで、はっきりと明晰な意識を保ち、神経を研ぎ澄ませて、荘厳なる心持ちで、じっくりと、それを味わうべきであった。夢の世界に旅立つなど、言語道断である。そのあまりの勿体のなさに──否、そのあまりの罪深さに慄きつつ、私は丁寧に、少年の脚を覆い護る衣装を払った。あたかもベッドメイキングに臨むかのように、きっちりと生地を撫で、引っ張り、皺を伸ばしていく。
16歳の少年は、背丈こそ子どもの域を脱しているものの、まだどこか未成熟な危うさをはらんでいる。しなやかな脚は、みずみずしい若枝に似て、細く頼りない。柔らかな大腿は、とても成人の頭一つ分の重量を支えるのには適さない。重かっただろう、痺れてしまったかも知れない、どころか、筋を痛めたおそれもある。早急に、確かめておかねばなるまい。私は崇高なる使命感を抱いた。
「おいたわしい──」
痛ましく眉を顰めて、私は少年の両の大腿に、そっと手のひらを沿わせた。労わりを込めて、静かに撫でさする。くすぐったいのか、ルークは小さく身じろいだ。どうか、動かないでください、と小さく告げて、私は少年の大腿を軽く押さえ込んだ。
ゆっくりと、腰から膝までのラインに手を添わせ、上から下、下から上へとなぞっていく。ほっそりとした身体の輪郭は、あくまでもなめらかで、手のひらに感じる弾力が心地良い。無礼者の頭によって圧迫されていたであろう箇所、それから内股へと、私は指先でマッサージを施すことにした。まるでピアノでも奏でるかのように、緩急をつけた微細な動きでもって、しなやかな大腿を解きほぐす。己の失態を取り戻さねばと、私は必死だった。だから、気がつかなかった。
「……ビショップ、」
可憐な唇が、吐息混じりに側近を呼ぶ。少し掠れた声は、何かを咎めるような響きを含んでいた。手元を休め、顔を上げた私が目にしたのは、困ったようにこちらを見下ろす淡青色の瞳だった。心なしか、ルークの肩は強張り、腰が引けている。それから私は、少年の足元に跪いて熱心に大腿を撫でさすり、顔を寄せて揉みしだく男の姿が、客観的に見ていかなるものであるかに思い至った。
「…………」
私は一度、ルークに背を向けた。その澄んだ瞳の前に、これ以上、己の姿を晒すわけにはいかなかった。床に両手をつくと、重力に任せて頭を垂れ、深く息を吐く。そのまま、魂までも吐き出して、ふっと事切れてしまいそうだった。それはそれで、良い幕引きであるかも知れない。
いつまで経っても頭を起こさぬ側近を、不審に思ったのだろう。背後から、不思議そうな声が問い掛ける。
「どうしたの」
「いいえ。少々、自己嫌悪に陥っているところです」
あるいは、各方面に向けて土下座をしているところである。私もようやく、日本の伝統的習慣に馴染んできたようだ。その体勢で、ゆっくりと鼓動を落ちつけ、呼吸を整える。などというと、簡潔な描写であるが、実際にはそれは容易ではなかった。頭部と頬、手のひらで堪能した、あの柔らかな感触が、まざまざと蘇っては、私を苦しめる。
まるで、胸が大腿に締め付けられるかのようだった。いっそ、そのまま締め殺して欲しい。全身が、あの大腿の感触に包まれ、きつく締めつけられながら息絶えるならば、私は後悔はしない。などと、真剣に思うほどに、私は動揺しているらしかった。当分、面を上げられそうにない。

それにしても疑問なのは、いかなる経緯によって、このような事態に至ったものであるのかという事情である。顔を伏せたまま、私は思案した。つまり──私はいかにして、ルークの膝枕を享受する運びとなったのか。
先ごろ、私がソファでまどろんでいたとき、隣にルークは座っていなかったように記憶している。まさか、仲睦まじく並んで腰掛け、寄り添いあううちにそのままもたれかかって眠ってしまったなどという展開は、万が一にも考え難い。
というか、あのとき、私は本来であれば、ルークの執務室に向かう筈だった。それが、ちょっと自室で休憩しようと思ったのが最後、そのまま沈没してしまったのだ。その場にルークがいる筈がない。鼓動が落ち着くにつれ、次第に、経緯を思い出してきた。
しかし、そうなると、ますます状況が不明である。第一に、私が眠りに就いたとき、ルークはいなかった。第二に、目覚めたとき、私はルークの膝を頭の下に敷いていた。この二つの条件が意味する事実は、何であろうか。私は、すっかり混乱してしまった。まるで、答のない論理パズルである。何か、重要なことを、見落としている。
混乱の果てに、私は、自分の記憶が誤っていると結論づけた。身に覚えがないとはいえ、記憶とは信用ならないものだ。己に都合の良いように改竄されていたとしても、不思議ではない。
あのとき、ルークは一緒にこの部屋にいたのかも知れない。そんな気がしてきた。そして、私は寝惚けて、嫌がるルークの膝に縋りつき、頭に敷いてしまったのだ。そうに違いない。寝惚けていたのだといえば、どんな非礼な行為でも許されるだろうという、浅ましい計算の上での犯行であろう。なんとも卑劣なことである。そんなことを仕出かしておいて、身に覚えが無いなどと、よく言えたものだ。恥を知れ。
自分自身への憤りによって、土下座から少しばかり立ち直ると、私は改めて、年若い主人に謝罪した。
「誠に、申し訳ありませんでした」
「だから、……何故、謝るんだ」
ルークは訝しげに首を傾げてみせた。淡青色の瞳が、まっすぐに側近を見つめる。どうも、話が通じていないことを悟って、私はもどかしい思いを抱いた。
「ですから、私は無理やりあなたを、」
「僕が」
説明しかけた私の言葉を遮って、ルークは言った。
「僕が、勝手にしたことだ。ただ寝ていただけのお前が謝る必要が、どこにある」
「……勝手、に、」
少年の発した、思わぬ言葉を、私は繰り返して呟いていた。ルークは無言で頷く。何故謝るのか分からない、という台詞通り、少年の表情からは、こちらを咎め立てする気配を、少しも感じることが出来なかった。
続けてルークの説明したところによれば、こうである。
彼は、いつもならば何の用事もなくとも定刻に執務室を訪れる筈の側近が、いつまで経っても姿を現さないことを不思議に思った。そして、「勝手に」側近の私室に侵入してみたところ、果たして、相手はそこで行き倒れ的に眠り込んでいた。ルークは「勝手に」ソファに腰掛け、「勝手に」側近の頭を引っ張り上げて、「勝手に」膝に乗せることにした。そして現在に至る。以上だ、と言って、ルークは簡潔な説明を締め括った。
本当に、彼が「勝手に」やったことだというのが分かって、私は驚きを隠せなかった。身に覚えが無い、気付いたらこうなっていた──という、私のいかにも弁解めいた認識は、どうやら、事実そのままであったらしい。
しかし何故、そのようなことを、と私は当惑交じりに問うた。返事はない。少年が目を逸らしてしまったので、私は彼から答を引き出すことを諦めた。いずれにしても、すべては、ルークの自由意思に基づく行動であり、私が何を求めたわけでもないというのは確かである。いわば、一方的に巻き込まれた側である私が、彼に謝罪するというのは、ルークの言う通り、お門違いだ。
とはいえ、そのような正論でもって、なるほどと納得出来る筈もない。論理と感情は相容れぬものだ。ルークのそういう行動を引き起こしたトリガーは、間違いなく私なのである。私がここで眠りこけていなければ、彼が膝に重荷を乗せることもなかった。元凶は私である。ゆえに、謝罪すべきは私であるという当初の結論は、今なお変わらず揺るぎない。
ルークが私に謝る代わりに、私がルークに謝ることによって、事が治まるのであれば、私は喜んで犠牲となり、いくらでも平伏し、頭を下げ、額を擦りつけ、爪先に口づけ、足裏を舐め、涙ながらに許しを乞うであろう。今からでも、そうした方が良いだろうかと、私は平伏しかけたが、それより先に、ルークが口を開く。
「最近、疲れているみたいだったから」
少年は呟いた。それが、先ほどの「何故、そんなことをしたのか」という問いに対する答であると、私は遅れて気付く。何といって説明したら良いか分からない、というように、ルークは難しそうな顔をして、訥々と言葉を紡ぐ。
「上司として何か、出来ないかと思って、皆に相談してみた。すると、そんなものは膝枕でもしてやれば、すぐに回復するものだ、と教えられた。だから、試してみようと思って」
「……誰がそのようなことを」
「ダイスマン」
「ええ、伺うまでもないことでした」
後ほど、あの調子物の青年にいかなる説教をしたものかと、私は溜息を吐いた。否、それとも、よくやったといって激励すべきだろうか。特別功労賞を授与してやっても良いかも知れない。否、否、いけない、思考が混乱している。
ルークの告白は、それだけ、思いがけないものであった。未だかつて、彼が忠実なる側近の過剰な働きぶりを案じ、労ってくれたことなど、一度でもあっただろうか。あった筈もない──それはむしろ、私のほうの役割であったからだ。黄金の腕輪の導きで、放っておけばまっすぐに崩壊へとひた走る少年を、そうならぬように見守り、世話することが、側近の重要な務めであった。より精確に言うならば──それは、監視であり、コントロールであった。そんなことを毎日続けていれば、本人さえも気付かぬ僅かな体調の変化も、敏感に察知出来るようになる。
あの頃のルークは、他人の力を借りなければ、自分が疲れていることにも、休息が必要なことにも、気付けなかった。心身が悲鳴を上げる、そんなシグナルは、彼には不要だった。足を止めるくらいならば、彼は、走り続けたかったのかも知れない。限界まで加速して、焼け切れて、粉々に砕け散るまで、突き進みたかったのかも知れない。それを押し止めたのは私だ。あなたは疲れているのだ、と言い聞かせて、無理やり風呂に放り込み、ベッドに寝かしつけたのは私だ。
そのルークが、今は逆に、側近に対して、疲れているのではないかといって案じる。何か、自分に出来ることはないかと、考える。
黙りこくってしまった側近の反応を、どう捉えたものか、ルークは戸惑うように眉を寄せた。
「……間違えた、かな」
心細げに呟く面持ちは、なんとも頼りない。叱られるのを待つ子どものような顔をするルークを前に、私は己の過ちを知った。そして、愚かな己の頭を殴ってやりたくなった。ルークのことを思い遣る振りをして、実際、私は何も分かっていなかった。
考えてもみるがいい。折角、新しく挑戦してみたことなのに、一方的に謝られるばかりで、感謝もされない──ルークはどのような気持ちがしただろう。また何か、間違ったことをしてしまったのかと、不安になっただろう。常識がない、当たり前のことが出来ない、パズル以外に何も知らない、そんな歪な自分を思い知らされて、哀しくなっただろう。
彼に、そんな思いをさせてしまったのは──私のせいだ。
すぐさま、私はルークの肩を掴んだ。無礼なことであるが、事は緊急を要する。驚いたように身を引こうとするのを許さずに、私はしっかりと、少年の肩を引き寄せた。
「いいえ──いいえ。何も、間違ってなどいません。ルーク様の大腿は、私にとって、大いなるご褒美です。あなたのしなやかな大腿の感触を頬に受けながらまどろむことが出来れば、どれだけ幸せであるか、私はずっと夢見ていたのだと、つい先程気付かされました。そう、私は今まで、きっとそのためにこそ、命を繋いできたのです。己の使命、存在意義というものを、ついに私は理解しました。あなたのおかげです。ありがとうございます。ええ、元気になりましたとも。今ならば、グラウンド100周だって軽いものです」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、大筋は間違ってはいないだろう。もっと早くに、一番先に、これを伝えるべきであった。ようやく、本心を表すことが出来て、なんとも清々しい心地である。あるいは、痛々しい心地である。しかし、ルークが与えてくれるならば、痛みさえも、私にとっては甘美な蜜にほかならぬ。恭しく首を差し出し、舌に受けるだろう。
側近の滔々と紡ぐ告白に、ルークは暫し、目を瞬いていたが、
「……良かった」
そう一言、呟いて、表情を緩めた。私もまた、安堵の息を吐く。無礼にも掴んでいた肩を放し、私は慎ましく身を引こうとしかけたが、それよりも、ルークが動く方が早かった。
白い手が、私の肩に触れ、引き寄せるようにする。続き、とルークは一言、告げた。中断されてしまった膝枕を、再開しようというのだろう。再び、あの大腿の感触を味わうことが出来るというのは、確かに、抗い難い魅力である。しかし、喜んで寝転がりたいところを、私は鉄の意志でもって堪えた。
もう、十分に味わったではないか。これ以上、ルークから奪おうとしてはならない。主人の誘いに、私は慎み深く、遠慮の姿勢を示した。しかし、ルークも一度こうと決めたら頑固なもので、譲ろうとしない。
「いいから」
「しかし──」
固辞する私を、ルークはもどかしげに見上げた。
「休暇には、しっかりと休むことが、仕事だって。お前が言ったんじゃないか」
少年の言葉によって、私は鮮やかに記憶を蘇らせた。それは、世界を巡る旅の途中、立ち寄ったローマで、私が彼に奏上したことであった。幼い頃より、一時の休みもなく、白い少年は組織に搾取され続けてきた。公私の別など、この年若い指導者の内には、存在しなかった。そんなルークにとって、側近と世界を廻る旅は、初めての「休み」だったのだ。職務から解放されて、どうしたら良いのか分からないといった様子の彼に、私は、休みの過ごし方を教えた。ローマの休日、としゃれこんだのである。
そのルークが、今度は私に、神妙な面持ちでもって、休みの何たるかを語る。おかしな逆転現象が起こっていた。
「お前は、僕の世話が仕事だろう。だから、僕が休んでいても、お前は休んでいない──やっと、気付いたんだ。お前も、休まないといけないって」
そうだよね、と可愛らしく首を傾げられて、私の胸は、愛おしさと困惑に満たされた。
ルークはそう言うが、私には休みなど、必要がないのだ。なにも、課せられた義務として、彼に付き従っているわけではない。自らすすんでしていることだ。有給休暇を取りたいなどと、考えたことは一度もない。精根尽き果て、疲労困憊したところで、それがルークのために働いた結果として訪れたものであれば、私は喜んで受け容れよう。
楽しい部分だけ手に入れたい、苦しい部分は要らない、などと甘えたことを、いい大人が言うものではない。敬愛する主人によって与えられるものであれば、私は何であれ、あますところなく味わい尽くすだろう。甘いだけでも、苦いだけでも、美味とはいえない。その複雑な総体こそが、目の前の少年であり──私の、欲するものだ。
そこで、再考してみよう。苦しみさえも甘んじて受けるというのが私の信念であるが、それでは翻って、「甘さを甘んじて受けた」ことは、どれだけあっただろうか。そんな記憶はない。そんな日本語もない。ということは、そんな経験はなかったということだ。
「お前を疲れさせることしか、僕は、出来なかった。だけど、休ませることも、出来たんだね」
言って、少年は誇らしげに、己の膝を撫でる。ルークは、初めて、私を甘やかそうとしてくれているのである。私は、胸がうち震えるのを感じた。そう言ってくれているならば、たまには、甘えることも許されるのだと、思ってしまっても良いのかも知れない。私の心を読んだかのように、ルークは温かく、その両腕を広げる。
「さあ。……おいで、」
結局、私は誘惑に打ち勝つことが出来なかった。むしろ、完敗だった。それで、構わなかった。敬愛する主人の膝に頭を乗せて、私は満足だった。ルークの細い指が、あやすように髪を梳いて、くすぐったい。ああ──至福とは、このことであろうか。

時計の針は、間もなく、揃って頂点を差そうとしていた。
思い出すのは、幼い日、寮に独りで居残って過ごした、あの夜のことだ。母を思って、少年は冷たいベッドの中で、身を丸めていた。当時の学院は、心身鍛錬の名の下に、ろくな空調設備も置かれていなかった。雪の降りしきる夜には、コートを羽織り、震えながら眠りに就いたものだ。
スノードロップが春を告げたとはいえ、2月末から3月初旬にかけては、まだ冷え込みが続く。呼吸を継ぐ度、凍てついた空気に軋む胸を、ゆっくりと撫でさすって宥めながら、少年は独りで、誕生日を迎えた。
学院に所属している限り、頭脳集団POGの定めた祝祭日から逃れることは出来ない。すなわち、自分はいつまでも、毎年毎年、こうして独りで誕生日を過ごすのだと思った。学院を卒業するまでのことだ、ほんの十数年間だけのことだと、自分を慰めようとしたが、幼い少年には、それは永遠にも等しい時間のように感じられた。
こんな夜を、あと十回以上も、繰り返さなくてはいけない。思うと、今の十倍の孤独が、小さな胸に押し寄せて、少年は涙ぐむのだった。
どうか、早く学院を卒業出来ますように。そして、POGの暦なんて関係のないところで、こんな寂しい思いなんてせずに、生きていけますように。そして、出来ることならば皆に、誕生日おめでとうといって、お祝いをして貰えますように。
少年は、真剣に祈りを捧げた。今にして思えば、苦笑するほかはない。結局、私はまともなかたちで卒業を迎える前に、学院を飛び出してしまったし、かといってPOGと縁を切るどころか、こうして今も、その中枢に関わっている。
誕生日がどうのという、子どもらしい可愛らしい悩みは、とうに忘れ去っていた。その日付に特別に愛着があって、待ち遠しく、一大事であるように感じていたのは、子どものうちだけだ。年齢を重ねた今となっては、ただ過ぎていく、他の364日と変わらぬ1日以上の意味は持ち得ない。
誕生日にあまり良い思い出のないことの影響であるかどうかは知らないが、私はもう随分と前から、どうしても必要であるとき以外に、他人に己の誕生日を申告したことがない。どうも、こちらに一方的な好意を抱いていると思しき相手から、是非教えて欲しいと乞われるのは珍しいことではないが、個人情報ですのでといって曖昧に誤魔化すことにしている。私のプロフィールを、勝手に見ず知らずの相手との相性診断に使われるのは、気分の良いものではない。
ゆえに、職場で私の誕生日を知る者は、ごく近しい幹部らのみである。その彼らとも、休暇中にまで顔を合わせることはない。
誰から祝いの言葉を掛けられることもなく、自分にケーキを買ってやるでもなく、ただ昨日と同じように、明日と同じように、やり過ごす。子どもの頃と同じように、結局、私は独りだ。別段に、寂しがるようなことでもない。これからも、ずっとそうしていくのだろうと、何となく見切りがついていた。
そう──たった、今までは。

眠気というものは、不思議と、周囲に伝染する。私の頭を抱いて、ルークもまた、いつの間にか目を閉じていた。ふんわりと白い頭が、ゆらゆらと船を漕ぐ様子は、彼の年齢相応に子どもっぽい一面を表すようで、愛らしい。安らかに瞼を下ろした、無防備な表情を、私は目を細めて見守った。ああ、なんて──
「……温かい、」
温もりにまどろみながら、そっと、大腿に頬擦りをする。そう、この膝が、私はずっと、欲しかった。身をもたれさせて、己の輪郭が溶けていくのを感じながら、ただ満たされた思いだけを胸に抱いて、眠りたかった。
これは、ルークからの、ささやかなプレゼントだったのだと思う。世の中には、2種類の子どもがいる。誕生日を祝って貰える子どもと、祝って貰えない子ども。私も、彼も、祝って貰えなかった子どもだった。その二人が、今は、こうして贈り、贈られている。私のただ一人の主人、愛しい人──あなたと共にいられるだけで、私は満たされる。
そろそろ、日付が変わろうとしていた。その瞬間を待ち切れずに、早くも目元から溢れるものを、私はそっと、指先に拭った。うとうととまどろむルークを、起こしてしまわぬように、小さく囁く。

「ありがとうございます……最高の、誕生日です」




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ビショップさん 生まれてきてくださって ありがとうございます
2013.3.1

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