Piece of cake(プレビュー版)






■ティータイムが始まらない!



──ルーク様は、何かを怒っていらっしゃる。
頭脳集団POGジャパン総責任者ルーク・盤城・クロスフィールドの異変に、いち早く気付いたのは、その忠実なる側近の青年であった。
否、異変というのは、適切ではないかも知れない。彼以外のメンバーにとって、ルークは別段に、何一つ、変わったところがあるようには見えなかったからだ。
ビショップがその結論に至った要因は、いくつか挙げることが出来る。

その一。このところ、態度が微妙によそよそしい。今までであれば、入浴中であろうと睡眠中であろうと、隣に側近が控えていることについて、何の疑問も持っていなかったのに、急にそれを嫌がるようになった。
今日はもう、下がって良いよ、などと、まだ夜も更けぬうちから言い出すのだ。主人が眠りに就くのを確認してから休むことを習慣としていたビショップにとって、それは、考えられぬ事態であった。しかし、ルークが望むならばと、思いを堪えて引き下がった。

その二。そうして距離を置こうとしているのかと思いきや、逆に、こちらを上から下まで、じっと見つめていることがある。
視線に気付いたビショップが微笑みかけると、さっと目を逸らしてしまう。どうやら、見つめていることを悟られたくないようだったので、途中からビショップは、努めて反応しないようにと心がけたが、そうまじまじと見つめられるというのは、なんとも落ち着かない心地にさせられる。
称賛や憧憬の眼差しというのであれば、ビショップとしても浴び慣れており、最早それが当たり前の環境として受け流すことが出来る。しかし、ルークの瞳は、決して、そのような熱に浮かされた類のものではなかった。
言葉に出来ぬ思いを、せめて視線に託す、といった感傷的なものとは、一線を画する。まるで、観察されているような、というのが一番近いだろうか。ルークの視線は、あくまでも冷静で、どこまでも緻密だった。
とはいえ、観察目的であると仮定して、いったい側近の何を知りたがっているのか、そこまではビショップには推し量ることが出来なかった。言いたいことがあれば、そのまま言えば良いのであるし、訊きたいことがあれば、直に訊けば良い。遠慮するような間柄でもないというのに、ルークの行動は、だから、不可解としか言いようがなかった。

その三。街で「買い物」をしたいというルークに、付き添いを申し出たときのことだ。黒のジャケットに薄紫のストールを合わせた側近の私服姿を、ルークはじっと見つめていた。
そんなにおかしな格好をしているだろうかと、ビショップがやや不安を覚えるほどに、淡青色の瞳は真摯な光を宿していた。そして、引き寄せられるように、手を上げたと思うと、
「お前の、これ──」
ぐ、とストールを引っ張られて、ビショップは危うく、首が絞まるところであった。
どうしたのだろう、何か気になるのだろうか。別に、目新しいものではない。二人で世界を旅する間にも、度々着用していたアイテムである。
上品な藤色は、微妙な差異でもって取り揃えられた豊富なカラーバリエーションの中から、自分の肌と髪色に最も調和するよう、時間を掛けて選び抜いたお気に入りだ。
自分で言うのも何であるが、普通にしていると、引き締まった長身に黒ずくめのコーディネートは、いかにも隙がなく、近寄り難い。そこへ、このストールは遊び心と柔らかさを加え、ほどよく自然体を演出する絶妙なアイテムであると思っている。
そのストールに、ルークがいったい、何の用だろうか。もしかしたら、改めて、よく似合う、とでも言ってくれるのだろうか。そんな淡い期待は、しかし、次にルークの口にした台詞によって、あえなく打ち砕かれた。
「みすぼらしいな」
可憐な唇から紡ぎ出された一言は、あまりにも率直であった。
確かに、日常的に使用してきたストールの状態は、ぼろではないにしろ、新品同様というわけにはいかない。良く言えば馴染んでおり、悪く言えばくたびれている。
だから、別にルークは相手を貶す意図でもって言ったのではなく、ただ、ありのままの状態を客観的に述べただけだ。何も悪いことではない。
しかし、分かってはいても、ビショップは気落ちせずにはいられなかった。愛用してきたストールを、そっと両手で握り締める。
それが多少、くたびれているのは、旅する中で使い込んできたからであり、具体的にいえば、ルークが岩場に腰掛けるときには下に敷いてやったし、底冷えのする夜には首にぐるぐると巻いてやったし、暴走したアルパカとの戦いでは、武器にしたことさえある。
小さなほつれには、旅の思い出がそのまま、刻み込まれているのだ。それを、みすぼらしいの一言で片付けられるのは、少なからず胸が傷んだ。
しかし、ルークの言葉も、もっともである。上に立つ者は、地位相応の、それらしい装いをすべきである。それでなくては、下に示しがつかない。ビショップ自身、POGの格式高い制服に身を包むときは、いつも心がけていることであった。
逡巡の後、思い出のストールを、ビショップは未練を残しつつ、手放した。具体的には、近日中に地域住民との交流を兼ねて行なわれる、チャリティーバザー用の古着回収箱に投入した。
ついでとばかりに、容量超過気味であったクローゼットの中身を整理し、大半を回収に出した。おかげで、部屋はすっきりとしたが、どこか寂寥感があった。
ただ、回収状況を自ら確認したらしいルークが、沢山集まったといって喜んでいたので、少しだけ心が慰められた。

その四。ある朝、資料を揃えて、主人の執務室を訪ねたビショップは、一瞬、入る扉を間違えたかと狼狽した。目の前に、棘を生やした肉厚の植物──サボテンが、視界を遮るようにして、ずらりと並んでいたからだ。
総責任者にのみ許し与えられた広大な執務室は、常日頃から、一切の無駄を排し、極限までシンプルに徹した状態が維持されている。机の上の状態は、そのまま、持ち主の脳内を表すという言説に則っていえば、誠に理想的な職務環境である。
その、花瓶ひとつ飾られていない筈の室内に、見渡す限り、サボテンが密生していた。
サボテン星人の侵略──B級映画じみた発想が脳裏を過ぎったところで、ビショップはサボテン越しに、年若い主人の姿を垣間見た。ふわりと白く、柔らかそうなものがちらりと目に入っただけであるが、サボテンの森の中にあって、その姿を見紛う筈もない。
床ばかりでなく、デスクの上までも小型のサボテンに埋まっていたが、いつも通り、ルークは行儀よく、そこに座っていた。
我が愛する者は、茨の中ならぬ、サボテンの中の百合のごとし──そんな場違いな感想が脳裏に浮かぶ。状況が意味不明であることに変わりはないが、主人の無事を認めて、とりあえず、ビショップはほっと胸を撫で下ろした。
そういえば、先日、南米へ視察に赴いて以来、ルークはこの不思議な植物に強い関心を寄せているようだった。生き物に関心を抱くようになるとは、良い傾向である、とビショップは思う。なにしろ殺風景な室内であるから、植物を置いて慈しみ、育むのは、精神的な安らぎをもたらすだろう。
少しばかり、数が多過ぎるような気がするが、これも強い思い入れの表れであろう。そうして、己を納得させる。
「ルーク様。資料をお持ちいたしました」
「ああ。その辺に置いておいて」
心なしか、そっけない返事であった。ビショップからの視線を遮るように、ルークはデスクの上にも、サボテンを並べていた。まさに、自然の有刺鉄線である。ともかく、資料を渡すべく、サボテンを避けつつ一歩踏み出しかけ──しかし、ビショップはその目的を達成することが出来なかった。
「…………」
側近が足を踏み出すタイミングを見計らったかのように、ルークがデスクの上の鉢植えを取り上げ、なめらかな動作でもって、それを目の前に移動した。殆ど音を立てぬ、冷静な振る舞いであった。
何気ないその所作を目にして、ビショップは足を止めた──止めざるを得なかった。優秀なるギヴァーは、一瞬にして、年若い主人の意図を察したのだ。
これは──チェスだ。
ビショップは確信した。鉢植えを移動させたルークの手つきは、盤上でチェスピースを進めるときの、おそろしく緻密なそれと同一であった。すなわち、この執務室こそが、巨大なチェスボードであり、サボテンは、戦場を進軍する駒である。
これに気付いた瞬間、青年はまた、自分自身も盤上にあることに思い至った。既に、八×八の升目によって表現されるフィールドに、自分は駒として、足を踏み入れていたのだ。
はっと気付いて、ビショップは己の斜め前方を見遣った。僧正(ビショップ)の駒は、盤上を斜め方向に進むことが出来る。
はたして、視線の先には、行く手を阻むようにして、サボテンがそそり立っていた。あれはポーン、あれはクイーン──その利き筋から、上手く逃れて、ルークに近付けるルートは──
「……っ」
知らず、ビショップは唇を噛み締めていた。斜めに進むことしか出来ぬ己の身が、悔しかった。他の駒を飛び越えることの出来るナイトであればいざ知らず、これでは、ルークの元へ辿り着くことが出来ないと分かったからだ。
見れば、忠実なる側近の定位置、すなわち、ルークの座する椅子の傍らには、背丈ほどのサボテンが、彼の代わりに鎮座していた。
それが、ビショップの目には、優美なる白亜の城を守る門番に見えた。そこまで辿り着くことの出来ぬ自分を、嘲笑されているような気がした。
「……失礼いたします」
サボテンに敗北するのは、屈辱的であったが、しかし、ルークからのチェス・プロブレムを解けなかった自分ごときには、不服を述べる権利はないのだ。
せめて、出来る限りデスクに近づくが、それでも、サボテンに阻まれた両者の距離は、いつもより遠い。主人の姿を、ビショップは目を細めて見つめた。
それにしても、何故ルークは先程から俯いて、顔を背けるようにしているのだろうか。もしや、また体調不良を隠してでもいるのかも知れない。
少年の顔を覗きこもうと、ビショップは長身を屈めた。
「ルーク様──」
「……」
主人の顔色の代わりに、青年が目にすることが出来たのは、みずみずしい緑の多肉植物であった。鉢植えの一つを、まるで盾のようにして、ルークが両手で掲げたのだ。
右から覗き込もうとすれば右に、左から覗き込もうとすれば左に、少年は俊敏な反射神経でもって鉢植えを動かし、ビショップの視線を遮った。
何度か繰り返し試みて、フェイントにまで見事に対応された末、ビショップは、どうやら自分の行動は、ルークの聡明な頭脳の前には、すべて見通されているらしい、と判断して諦めた。その日は、サボテン越しに資料を渡すのが、精一杯であった。
これだけの材料が揃ってなお、異変に気付かずにいられるほど、ビショップは鈍感ではなかった。そして、意識し始めると、ルークの行動のあれもこれも、何か特別な意図あってのことのように見えてくる。
自意識過剰、と言われればそれまでだが、他人に何と言われようとも、青年にとって、それは看過出来ぬ問題であった。

決定的な出来事は、ほどなくして起こった。
相変わらず、サボテンの立ち並ぶ執務室で、ルークはそのひとつひとつに声を掛けて回っていた。ちゃんと個別の名前をつけ、「おはよう、バックランクメイト」「スマザードメイト、今日も元気そうだね」などと、優しげに話しかけている。
側近へ向けるよりも、よほど柔らかな表情である。まるで、見せつけられているかのような状況に、ビショップは知らず、唇を噛み締めた。
そして、ルークが後ろを向いた拍子だった。ビショップは、思わず息を呑んだ。
触れたくなるような、ふんわりと白く柔らかな髪に、一つの真っ赤なトウガラシがくっついていた。その鮮烈なコントラストを目にした瞬間、ビショップの背筋に衝撃が走った。
一流のギヴァーたる青年の脳は、その暗喩を、精確に読み取ってしまったのだ──これは、自分への拒絶のメッセージであると。
青年の脳裏をよぎったのは、オヤと呼ばれる、中東の伝統的なレース編みのことだった。それは、女性の被るスカーフを縁取る繊細な手芸品で、花や果実といった様々なモチーフを織り込んでいるが、変わったところでは、トウガラシのオヤというものが存在する。
これは、「今日の私は機嫌が悪い」というメッセージを表すために身につけるものである。だから、トウガラシのオヤを被った女性には、近づいてはならない。
という話を、旅の途中で接触した現地のPOG構成員が、雑談の中で教えてくれた。実際、そんな女性にお目に掛かったことはなかったが、まさかここで、その知識を活かす機会に恵まれるとは、とビショップは詠嘆した。
近寄るな、という明瞭なメッセージを受けた以上、ここに居続けることは出来ない。サボテンに語りかけ続けるルークを一人残して、刺激を与えぬように、そっと執務室を後にした。

「……ルーク様、」
デスクで一人、青年は深々と溜息を吐いた。どうやら、自分は避けられているらしいと、いよいよビショップは認めざるを得なかった。
認めたところで、しかし、ビショップは戸惑うほかはなかった。この状況に、いかなる対処をすれば良いのかも分からなかった。何も、身に覚えがなかったからである。
だからといって、答えを教えてくれといって縋りつくことは出来ない。これは、パズルだ──ルークから与えられた、謎解きなのだ。いやしくも頭脳集団POGの一員として、己の持てる限りの知力と体力をもとに、この難題を解かねばならぬ。
おもむろに、青年は、デスクの一番上の抽斗を開けた。そこには、ヤード・オ・レッドのペンシルをはじめ、パズルのアイデア出しに用いる、お気に入りの筆記具が収められている。
極めて繊細な創造的活動であるところのパズル制作において、用いる道具には、それなりの気を払わねばならぬ。書き味にしても、手にしたときの重みのバランスにしても、モノとしての美しさとしても、青年の厳しい審美眼によって選び抜かれた逸品が、ここには揃っている。
今は、筆記具を手に取ることはせずに、その奥から、ビショップはひとつの小箱を取り上げた。流線型の装飾が施された、銀のアクセサリーケースだ。
蝶番を微かに軋ませて、蓋を開ける。ビロードを張ったその内部に収められていたのは、しかし、ピアスや指輪の類ではなかった。
それは、空になった飴玉の袋だった。ただの駄菓子ではない。一つには、青年自身の姿が、もう一つには、彼の敬愛する主人の姿があしらわれている。
東京パズルランドの土産コーナーで、「今日の記念に、オリジナルのキャンディいかがっすか!」という部下の勧めに従って、二人で作ってみたのだ。その場で撮影した写真を加工し、キャンディのパッケージにしてくれるというサービスである。後日、届けられた現物の可愛らしい出来栄えに、ルークはたいそう満足した様子だった。
中身を食べてしまった後も、用済みである筈のその包みを、ビショップは捨てることが出来なかった。ルークの姿を写したものを、たとえ飴玉の包みとはいえ、捨てられるわけがない。だから、抽斗の奥に、密かに仕舞い込んだ。
大切な思い出の品を、そっと取り出して、ビショップは切ない溜息をもらした。屈託のない笑顔を浮かべた白い少年と、お気に入りのストールを巻いた自分。
暫し、目に焼き付けるようにじっと見つめて、青年はそれを再び、丁寧に仕舞った。面を上げ、立ち上がったとき、そこには、一つの決意が宿っている。彼はデスクを後にし、地下駐車場へと赴いた。
棘だらけのサボテンと、真っ赤なトウガラシ。そこから導き出されるヒントは──思案して、ビショップは愛車に跨った。




(中略)




天才テラスと呼ばれる、学食の一角に集ったメンバーは、それぞれに思い思いの時間を過ごしていた。
テーブルに所狭しと並べられた茶菓子を無邪気に摘む者、長椅子でだらしなくまどろむ者、一心にパズルを解く者、その様子を隣で首を傾げつつ見守る者。
平穏な日常である──たった今、そこに小さな波紋が生じるまでは。
「あっ、ねえねえカイト、カイトってば」
「うっせぇな、いまパズルしてんだよ」
何かに気付いた幼馴染の少女の声を意にも介さず、カイトは手元のパズルを操作した。このパズルは今、自分に解かれるのを待ち侘びている。その思いには、きちんと応えてやらねばならない。誰にも、邪魔は出来ないのだ。
回したパーツに、かちりと手応えを感じて、少年はよし、と顔を綻ばせた。ここまで来れば、あと少しだ。
早速、仕上げに取り掛かろうとしたところで、ふと、手元に影が落ちる。おやという顔をして、カイトはようやく、パズルから目を上げた。
邪魔すんなよ、と口にしかけて、しかし、相手が見知った顔であることを認めると、やや表情を和らげる。
「ん? なんだ、あんたか」
「…………」
目の前に佇んでいたのは、頭脳集団POGジャパンの若き幹部、ビショップであった。先程のノノハの呼び掛けは、どうやら、来客を知らせるものであったらしい。
こいつがここにいるということは、とカイトは期待を込めて辺りを見回した。しかし、求める姿はどこにも、見当たらない。
「今日は、ルークと一緒じゃねぇの、」
「…………」
何気ない少年の一言に、ビショップは微かに眉を顰めた。どうしたのかと、カイトは胡乱に首を傾げる。沈黙の中、およそ噛み合わない視線が交錯する。
あのおっさん、何やってんだ、とギャモンは横目で両者の様子を眺め遣った。傍観の態勢で寝転がったソファから、身を起こそうともせずに、饅頭をひと齧りする。
不思議そうに目を瞬かせているノノハといい、ロールケーキに夢中のアナといい、呑気な連中は気付いていないようだが、黒衣の青年は、相当に重苦しい空気を纏っていた。普段の余裕ぶった態度が、嘘のようである。
何があったかは知らないが、大人なのだから、少しは内心を隠したらどうだ、とギャモンはアドバイスしてやりたくなった。とはいえ、実際に口を挟むことはしない。面倒事に巻き込まれるのは、ごめんである。
どうせ、ルーク絡みで、また何かあったのだろう。まあ、せいぜい相手してやるんだな、と、まだ状況を呑み込めていないらしい悪友の背中に、憐憫の眼を向けた。
カイトに相対して、黒衣の青年は、固い決意を宿した瞳を上げた。形の良い唇が、小さく息を吸い、そして、告げる。
「お話があります──ガリレオ」
「──!?」
不意の指名を受けたギャモンは、ほおばった饅頭を、危うく喉に詰まらせるところだった。何故、ここで突然、こちらに矛先が向けられるのだ。
聞き間違いかとも思ったが、そうではない。来訪者の翡翠の瞳は、カイトの肩越しに、ソファに寝そべってだらける赤毛の少年を射抜いていた。
「ギャモーン、ご指名だってよ」
「……分かってらぁ!」
自分は関係ないとばかりにパズルを再開するカイトの頭を睨めつけると、ギャモンは一つ舌打ちをして、ソファから跳ね起きた。
「ここじゃなんだ、外出るぜ」
「……お任せします」
少年の提案で、二人は連れ立って、テラスを後にする。その背中を、アナは首を伸ばして見つめた。ロールケーキの攻略は一時保留して、ふむ、と唇に指を当てる。
「ビショビショ、どんよりなんだな〜」
「そうか? あいつがスカしてんのは、いつものことだろ」
パズルから目を上げようともせずに応じるカイトに、違うんだな、とアナは首を振ってみせた。
「今のビショビショには、月が見えない。自分の影の中で、俯くだけ。顔を上げれば、ちゃんと、光は射しているのに」
青年の背中を見送る天才芸術家の瞳に、痛ましげな色が過ぎる。だが、彼の言葉の意味を理解出来る人間は、残念ながら、この場にはいなかった。ノノハは首を傾げるばかりであったし、カイトはふぅん、と生返事をして、解きかけのパズルに戻った。

とりあえず屋上へ出てはみたものの、生温い春風は、気まずい空気までは洗い流してくれなかった。やれやれ、どうしたものか、とギャモンは密かに溜息を吐いた。
憂鬱な気分の元凶である、黒衣の青年の背中を横目で見遣る。いつも堂々と胸を張り、自信に充ち溢れていた筈の、その背中は、今ばかりは、どこか頼りなく感じられた。
「分からないのです……ルーク様が、何をお考えなのか、私には」
どこかで聞いたような台詞でもって、ビショップは話を切り出した。頬に落ちかかる鳶色の髪を、かき上げるでもなく、そよぐ微風に遊ばせる。物憂げに結んだ唇を、しなやかな毛先が掠めるさまは、あきれるほどに画になっていた。
とはいえ、まさか、屋上でたそがれる己の姿を見せびらかすために、他人を呼び出したわけではあるまい──とりあえず、とギャモンは腕組みをした。
「そうかい、それはいいけどよ、その手摺のとこに座んのはやめとけ。危ねぇぞ」
解放感溢れる屋上には、視界を遮る無粋な安全フェンスの類は存在しない。申し訳程度の高さしかない、ガラス張りの欄干は、越えようと思えば簡単に越えられてしまう。手摺に腰を掛けることだって、物理的には不可能ではない。
とはいえ、落ちればまず無事では済まない高さである。かような危険を冒す愚かな生徒は、ルート学園には存在しない。たとえいたとしても、念のため、建物内側を向いて座るだろう。
ひと押しで、すぐさまダイブ出来る準備万端とばかりに、外を向いて腰掛ける馬鹿は、目の前のおっさんだけで十分だ、とギャモンは思った。文字通り、崖っぷちという心境を表しているのだろう。そんな演出は要らない。
ギャモンの忠告にも関わらず、黒衣の青年は、ゆっくりと首を横に振るだけだった。そこに座することに、彼の美意識としては、よほどのこだわりがあるのだろう。
バイクレースの一件からも分かるように、どうやらこの大人は、命の危険と隣り合わせのスリルというものが大好きらしい。血気盛んな若者の心を、今なお失っていないようだ。
始末に悪いぜ、と、その血気盛んな若者そのものであるところのギャモンとしても、あきれざるを得なかった。
「……で、何があったんだよ」
別に聞きたくもないが、生来の世話好きが顔を出して、ギャモンは話を促した。遠く、グラウンドで汗を流す運動部の歓声が聞こえる。眼下の景色を、伏せた翠瞳に映して、ビショップは語り始めた。




(中略)



職場へと帰還したときには、すっかり日が暮れていた。濡れた髪を乾かす暇も惜しんで、ビショップは迷わず、己の主人のもとへと進路を取った。足を進めるごとに、ぽた、ぽた、と水滴が廊下を濡らした。
「──失礼いたします」
非の打ちどころのない優雅な一礼を施して、ビショップは主人の居城へと足を踏み入れた。
執務室を埋め尽くす勢いであったサボテンは、いつの間にか、殆どが姿を消していた。その行方については、今となっては、どうでも良いことだった。
規律正しい靴音を響かせて、デスクで俯くルークの前へと歩み出る。
「どこへ行っていたんだ、皆に黙って──」
顔を上げたルークは、常ならぬ様子の側近を前に、瞳を大きく見開いた。その可憐な唇が、何か言葉を紡ぎ出そうとするより前に、ビショップは深々と頭を垂れた。
「ルーク様。……私は、あなたのものです。用いるも、捨てるも、あなたのご意思のままに」
返事はない。それでも、構いはしなかった。既に、覚悟は決まっている。心は、穏やかなものだった。
抱えてきた花束と、ケーキの箱を、ビショップはそっと、机上に置いた。
「少しでも、あなたの慰めになればと──お気に召していただけると良いのですが」
差し出されたものを、ルークは無言で見つめた。ビショップもまた、黙って年若い主人を見守る。

花といえば、重厚なクリスタルガラスの花瓶に、完璧に活けられた状態で存在するものであるし、ケーキといえば、白磁の皿に丁重に盛りつけられた状態で提供されるものである──世界を廻る旅に出る以前のルークにとっては、それが当たり前であった。
それらは、はじめから美しく完成した状態で存在するものであって、誰がどこから仕入れ、どのような手順を経てそうなったのかなどということは、少年には知る由もなかった。
それでも、花や菓子に触れることなく、鉄格子のラボラトリに囚われていた頃に比べれば、大きな進歩である。少なくとも、当時のビショップはそう考えて、ルークの枕元に花を飾り、手ずから紅茶を淹れて、菓子を差し出したのであった。
自分の考え得る限りの、快適な環境でもって、この白い少年を包んでやりたかった。途中のひと手間は、目に入らぬように隠し、あたかも存在しないかのように振る舞い、最高の結果だけを差し出すことが、忠誠であると信じていた。
だから、飾り気のないセロファンに包まれただけの花束にしても、紙箱に入ったままのケーキにしても、雨に濡れた自分の姿にしても、この執務室でルークに差し出すのは、初めてだった。以前であれば、かような大胆な行為に及べた筈もない。
無造作に束ねられた花。ボール紙の上のケーキ。しとどに濡れた頭。
これが──当たり前だったのに。

「あなたが、選ばれし御方だから。黄金比にかなう、聡明な頭脳の持ち主であらせられるから。あなたが、私たちのような……人間とは、違うから。……かつての私は、だから、あなたを崇め、あなたに従いました。今は、少し違います」
紡ぎ出す声は、すべてを悟ったように穏やかなものであった。ルークへ、あるいは自分自身へと、ビショップは静かに、己の導き出した答えを聞かせた。
「あなたが価値基準だから、従うのではありません。……あなたの望みを、叶えて差し上げたい。そのためにならば、私は、己の身など惜しくはありません」
言い切って、青年は敬愛する主人を見つめた。淡青色の瞳が、確かめるように、じっと見つめ返してくる。何もかもを見透かすような透明な瞳を前に、ビショップの胸は、波紋ひとつない凪いだ水面のように、落ち着き払っていた。
側近の思いのほどを聞かされて、ルークは静かに問う。
「……僕の言うことに、なんでも、従う?」
「はい──あなたを、信じております」
「……そう」
ゆっくりと、ルークは頷いた。すべてを了承し、受け容れた者の態度であった。次にその可憐な唇が紡ぎ出す言葉を、ビショップは心して待った。

ほどなくして、少年は小さく囁く。
「それなら──脱いでくれ」
「は、……?」
一瞬、何を言われたのか、理解出来ない。予測したパターンのいずれとも異なる応答に、脳がついていかずに硬直する。咄嗟のことに、忠実なる側近は、ただ立ち尽くすほかはなかった。
ルークは溜息を吐いて、席を立つ。動けずにいる青年の前へ至ると、その胸元へ、そっと白い手を置いた。
もたれるようにして身を寄せ、濡れたロングコートの襟元を軽く握る。合わせが解かれ、なめらかな所作で肩から滑り落とされるのを、ビショップは止めることも出来ずに受け容れるほかなかった。




[ to be continued... ]
















甘々ビショルク合同誌『Piece of cake』小説パートプレビューです(→offline

2013.03.10

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