Reviver's Log(プレビュー版)
ああ、駄目だよ、フリーセル。そんな、ぐしゃぐしゃの頭で。だらしのない格好で。
君は、そうじゃないだろう?
穏やかな陽光に透けるような、君の柔らかな金の髪は、いつだって、ふわりと軽やかに巻いていないといけない。
君の衣装は、いつだって、皺一つなく、上品に整っていないといけない。
君の瞳は、いつだって、眩しいほどの澄んだ青空を映していないといけない。
君には、いつだって、そうあって欲しい。
君は、誰にも傷つけられないし、誰にも汚されないでいて欲しい。
あんな奴のために、どうして君が、墜ちていかなくてはいけないんだ。
僕が、君の髪を巻いてあげるよ。
僕が、君の服を整えてあげるよ。
僕が、君の瞳を輝かせてあげるよ。
──そう言って、ぎこちなく腕を広げた僕を、君はつまらなそうに一瞥した。そして、何度も、何度も、踏み躙った。叩き落として、引き裂いて、打ちつけた。
それで、君が笑ってくれるなら、僕はまったく、構わなかった。
花瓶を割れば、君は指を切ってしまうかも知れない。
壁を叩けば、君は拳を痛めてしまうかも知れない。
けれど、僕の身体を足蹴にする分には、上等のブーツに包み護られた君の足は、怪我をしなくて済む筈だ。
そうやって、僕は君を受け止めて、助けることが出来ると思った。
けれど、君はどこまでも無表情であったし、君の瞳は、地面に這い蹲るつまらない者の姿なんて、最後まで、捉えることがなかった。
君の瞳は、いつも、青空を見つめていた。それだけは、僕が望んだ通りだった。
君は、汚れた地面を見つめて俯くよりも、輝かしい太陽を仰いで微笑む方が、余程良い。
僕の想いは、僕の痛みは、ひと欠片すらも、君には届かなかった。
そのほうが良い。
君は、知らない方が良い。
分かって貰わなくて良い。
僕だけが知っていれば、それで、良いと思ったんだ。
1. L'ouïe 聴覚
白い個室に戻ったところで、ピノクルは一つ息を吐いた。
「……ふう」
眼鏡を外してサイドテーブルに放りつつ、寝台に上がる。あちこち連れ回され、弄り回されて、身体はそれなりに疲弊していた。整えられた掛け布の間に潜り込み、洗いたてのシーツの肌触りを愉しむ。
まるで、何も心配することなどなく、安全に隔離された白い空間──しかし、少年の心は、決して晴れやかなものではなかった。
「皆……どうしてるかな」
仲間たちの動向が、ピノクルは気になって仕方がなかった。
残念ながら、外部との連絡手段は取り上げられてしまっている。今は、余計なことを気にせず、療養に専念せよ、ということらしい。こちらを思っての心遣いが、今ばかりは恨めしかった。
「……フリーセル」
己の胸の内の大半を占める学友の名を、少年は小さく呟いた。いったい、自分がいなくなったら、あの幼馴染はどうなってしまうのだろうかと、ピノクルは気が気ではなかった。
なにしろ、幼い頃から同じ学院内で育ち、長く傍を離れたことなどないのだ。このところは特に、精神の安定を欠いて、今にも崩壊してしまいそうな危うさを抱えながら、フリーセルは、かろうじて立っているように見えた。
かつてのピノクルは、それを大門カイトのせいであると見做して、憎悪を向けていたが、今となっては違う。
フリーセルを縛り、苦しめているものが何であるか、今のピノクルは、身をもって知っていた。自分と同じように、彼を一刻も早く、リングの支配から解放してやらねばならない。
「早く、……」
大切な友人は、今も強制的に思考を歪められているというのに、自分がこんなところでぬくぬくと寝ているというのは、なんとも歯がゆいものだ。
とはいえ、現在ピノクルの身柄は、頭脳集団POGの保護監視下にある。誤解を恐れずにいえば、捕虜、という表現が最も適しているだろう。
そんな立場で、もともと所属していた組織の内情を打ち明けこそすれ、逆に、向こうとコンタクトを取りたいなどと、世迷言を言い出せる筈もない。
盛大な溜息を吐いて、ごろりと身体を反転させると、ピノクルは天井を眺めた。真っ白な室内は、すっかり見飽きてしまった。
時間を潰せそうなものといえば、毒にも薬にもなりそうにない、無難な書籍くらいである。暇さえあれば、端末で情報収集に励むような日々を送っていたから、こうして隔離されると、途端に不安になってしまう。
まるで、ピノクルという存在が、世の中からすっかり繋がりを断ち切られ、消え失せてしまったかのようだ──案外、オルペウス・オーダーの面々も、そう感じているだろうか。
もしかしたら、自分は死んだことにでもされているのかも知れない。それはそれで、あの眼鏡の青年の考えそうなことだと思って、ピノクルは自嘲気味に笑った。
「……ん。また、お呼び出しかな……」
訪問者を知らせる電子音が鳴って、ピノクルは寝そべっていた身体を起こした。先の検査に、何か抜けでもあったのだろうか。
やれやれと思いつつも、軽く掛け布を整え、眼鏡を装着する。どうぞ、と応じると、扉が音もなくスライドした。
その先に佇んでいたのは、しかし、ピノクルの予想したような、白衣の医療スタッフではなかった。
長身を黒のコートで固めた、鳶色の髪の青年は、POGジャパン中央戦略室付きギヴァーにして、ルーク・盤城・クロスフィールド管理官の忠実なる側近──そして、今回ピノクルがPOGに身を置くにあたり、なにかと世話をしてくれることになった人物である。
「──失礼いたします」
軽く会釈をして、ビショップは室内に足を踏み入れた。背後で、再び扉が閉まる。
靴音を鳴らして近づいてくる青年を前に、ピノクルは小さな緊張を覚えた。
こんな子ども相手に、まるで主人に傅くかのような態度を取られるのは、正直いって、落ち着かない。そんな風に扱われる価値など、自分のどこにもないのだが、と思う。
ふっと、甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。黒衣の裾を翻す青年の方から、それは漂ってくるようだった。
多分、薔薇の香水だろう。人目を惹かずにはいられない整った顔立ちに、引き締まった長身、優雅な物腰を兼ね備えたこの人物には、それはいかにも相応しい嗜みであるように思えた。
「いかがです。お加減は」
耳に心地良い、柔らかな美声でもって、青年は問うた。子ども相手にも礼を尽くす、その振る舞いの端々からは、彼に備わる深い知性と品格を感じることが出来た。
こういう、落ち着き払った大人を前にすると、ピノクルはどうも居心地が悪い。きっと、相手の目には、自分がみすぼらしい子どもに見えているのだろうと思うと、顔を上げることが出来ないのだ。
胸を張って快活に話せるようなものは何も、自分の中には持っていない。そういう自分が、ますます惨めで情けなく、自信を失っていく。いつも、その繰り返しだった。リングを嵌めている間だけは、それは多少改善されたが、今となっては、また元通りである。
「おかげさまで……もう、平気です」
背中を丸めて、ピノクルはぼそぼそと答える。少年の内気な振る舞いを前に、ビショップはふっと微笑んでみせた。
「それは、なによりです」
微かな薔薇の香りが、濃くなったと思ったときには、ピノクルは青年の両手に顔を包まれていた。長い指に促されるまま、顔を上げたところで、さりげなく眼鏡を取り外される。
あ、とピノクルは息を呑んだ。青年の整った面立ちが、すぐ目と鼻の先にあった。至近距離でも、およそ粗の見て取れない美貌を前に、少年は呼吸さえも忘れるようだった。
骨ばった片手が、優しく少年の前髪をかき上げる。落ちかかる髪に目元が隠れて、よく見えないと思ったのだろう。穏やかで、少し物憂げな翠瞳に、間近で覗き込まれて、ピノクルは大きく心臓が鳴った。
先程、一瞬目を合わせてしまったのとは、わけが違う。状況が違い、意図が違い、距離が違う。
これまで、こんなに近くで見つめ合ったことのある相手なんて、フリーセルくらいのものだ。ふざけた振りを装って迫ってみたら、見事に殴られた思い出がある。
頬の痛みと共に、思い起こすのは、その美しい色合いだ。澄んだ青空のような彼の瞳は、どんな手の込んだ上等の装飾品よりもきれいで、いつまでも見つめていたかった。
今、目の前にある青年の瞳は、それとはまた違う。確かに、エメラルドのように深く、艶めいて美しいが──あえていえば、気圧された。
自分などは、簡単に握り潰されてしまいそうだと思った。見つめていたいというよりは、見つめることを、強いられている。
その視線は決して威圧的ではなく、鋭さよりも柔らかさに満ちているというのに、どうしてそんな風に感じてしまうのか、分からなかった。あのヒステリックで高圧的な指揮官、ヘルベルト・ミューラーに対してさえ、抱いたことのない感覚だった。
「あ……あの、」
うろたえて、ピノクルは視線を逸らした。縋るように、きゅ、とシーツを握り締める。
どうか、そんな目で見ないでくれ──そもそもピノクルは、親しくない他人と目を合わせることが、得意ではない。
こちらの内心まで、見透かされてしまうのではないかと思って不安だし、自分が相手の感情の機微まで読み取ってしまうのは、なんとも疲れる。結局、お互いに気分を悪くするだけだと思う。
眼鏡を掛ければ、それが一種の防壁の役割を果たしてくれるから、少しは抵抗感が和らぐのであるが、裸眼では駄目だ。
おどおどと視線を彷徨わせるピノクルを、ビショップは解放するどころか、逃さないとでもいうように、じっと見つめてくる。
顎に掛かった長い指は、さして力を入れているとも思えないのに、軽く触れるだけで、ピノクルの自由を奪っていた。無防備な唇を奪うには丁度良いであろう角度へと、自然と導かれてしまう。
恥ずかしがり屋の少女を相手にするならばまだ分かるが、いったい、どういうつもりなのだろう。早く離れてくれというピノクルの密かな願いは、どうやら通じていない。
触れるばかりに寄せた身体から立ち昇る、甘く、重めの薔薇の香りを、呼吸の度に間近に感じて、思考が麻痺しそうだった。いよいよ堪らずに、その手を振り払いかけたとき、
「……大丈夫そうですね」
小さく呟いて、ビショップは身を離した。触れられていた指が外れるや、ピノクルは支えを失ったように、頭をふらつかせた。かろうじてシーツに手をつき、上体を支える。
久し振りに深く呼吸し、新鮮な空気を肺に取り入れると、鈍く滞っていた思考が再び、動き出すのが分かった。鼓動は未だ、高鳴っているが、息も出来ない緊張感は、既に解けている。
肩で息をする少年の背中を撫でてやるでもなく、ビショップは傍らで、その様子を興味深そうに見つめていた。
そこで、ピノクルはようやく、彼の不可解な行動についての納得がいった。この青年は、見極めようとしていたのだ。
覗き込んでいたのは、ピノクルの瞳ではない──その、更に奥。脳内である。
レプリカ・リングの装着による、強制的な脳の活性化が心身にもたらす影響については、未だ、精確なデータが不足している。POGの保護下に入るにあたり、ピノクルはあらゆる面で検査を受けることとなったが、それでもまだ、十分であるとは言い難い。
リングが外れたという、外的要因だけで、その支配を逃れたと言い切って良いものだろうか? 歪んだ思考が、すっかり元通りになるのだろうか? それは、数値で測れる類の変化なのだろうか? 未解決の課題は、山積みである。
だから、ビショップは己の目で確かめようとしたのだろう。データだけでは掴めない部分で、ピノクルを見つめようとしたのだろう。
そんなことで、いったい、何が分かるものかと、人は笑うだろうか。しかし、眼球はいわば、外界に露出した脳の一部である。
脳に直結した、光刺激の入力器官は、また、同時に、出力器官でもある。目を見ることは、脳内を見ることだ。ごまかすことは、出来ない。
思えば、あの奥底まで見透かすかのような視線にも、納得がいくようだった。彼が、ピノクルを認めるかどうかの、それは一種の試験だったのだろう。そして、どうやら、結果は合格らしい。
「早速ですが、少しお付き合いいただけますか」
「……はい」
「あなたの今後のことも、話し合わなくてはなりませんし」
「……はい」
消え入りそうな声でもって頷く以外に、ピノクルに選択肢はなかった。いよいよ来たか、という思いが胸に満ちる。
世界に名立たる頭脳集団POG、その関係者を敵に回したのだ──厳しい尋問が待っていることに、疑いはない。
これまでの手厚い世話と丁重な扱いは、ピノクルが貴重なサンプルであったために、与えられてきただけに過ぎない。データを取ってしまえば、最早、そんな扱いを通す必要はないのだ。
組織のこと、仲間たちのことを、きっと、根掘り葉掘り、追及されることだろう。いかなる容赦も、加減もあるまい。それが当然であると思う。
出来る限りのことを話し、いかなる糾弾も受け容れることが、せめて、自分に出来る罪滅ぼしであると、ピノクルは覚悟していた。
「知っていることは、なんでも……話します」
決意を宿した少年の瞳を見つめて、黒衣の青年は、それで良いというようにゆっくりと頷いた。
「それでは、風呂に行きましょう」
世間話でもするかのような、何気ない口調でもって、ビショップは告げた。硬い面持ちで、それに頷きかけたところで、ピノクルははたと動きを止めた。
今──どこへ行くと言った?
それとも、自分の聞き間違いであろうか。思わぬ提案に、ピノクルは目を瞬く。
「ふ、風呂……?」
「我らPOGでは、大事な話は風呂でする、というのが古来より受け継がれた伝統なのです。初めての方は、戸惑うかも知れませんが……そういうものとして、割り切っていただければ」
そういうものか、とピノクルは素直に、その伝統とやらを受け容れた。
現在、この身がPOGの庇護下にある以上、出来るだけ、そのしきたりには従うべきであると思う。なにしろ、彼らには世話になっている。恩をあだで返すような真似はしたくない。
入浴といえば突飛な印象があるが、古来より、宗教儀式に水はつきものである。神聖なる川に身を浸し、頭から水を浴びて、人々は信仰を誓った。
POGの長い歴史の中で培われた同様の儀礼が、現在、風呂場で行なわれるものとして受け継がれていても、不思議ではない。
なお、ピノクルの、この極めて好意的にして優等生的解釈は、実際のところは的外れもいいところであって、今のPOGに、そんな奇妙な伝統は受け継がれていない。
少年を風呂に連れ込むのは、単なるビショップの趣味である。彼は己の目的を達するために、伝統だの、しきたりだのと、涼しい顔で、口から出任せを言ってのけたに過ぎない。
それをピノクルが知るのは、まだ先のことで、この時点では、少年は己の導き出した、もっともらしい結論を疑うことはなかった。
それに、先の検査で頭といい身体といい、あちこちにセンサーを取りつけられたとき、肌にジェルを塗りたくられていた。検査終了後、簡単に拭き清めては貰ったが、それでもどこか、ぬるつく違和感がある。洗い流せるものなら、それも洗い流して、すっきりとしたかった。
「どうぞ。ご案内します」
先に立って歩く青年に続いて、ピノクルは部屋を後にした。
共用のシャワールームへと続く更衣室は、最新鋭の設備を整えたスポーツジムのごとく、清潔で広々とした空間であった。
ここに限らず、POGジャパンの研究所を中心とした施設群は、どこを見ても隅々まで磨き上げられ、通路に塵一つ落ちていない。
それは、あの頭から爪先まで、潔癖なまでの白で固めた少年が統べる組織の在りようとしては、この上なく似つかわしいように思えた。
さすがは、崇高なる信念に裏打ちされた、誇り高き頭脳集団POGである──感心するように辺りを見回していたピノクルは、だから、案内人の青年が先程から、無言でこちらをじっと見つめていることに、気付かなかった。
ふと、横合いから影が落ちるのを感じて、ピノクルはそちらへ向き直った。いつの間にか、黒衣の青年が、すぐ傍らに佇んでいた。
何だろうか、と少年は思ったが、咄嗟に、距離を取ろうとは思いつかなかった。
頭一つ分ほど高いところで瞬く、ビショップの翡翠の双眸は、穏やかな光を宿している。その表情は、あくまでも柔和であって、臆病な少年を、何ら警戒させるものではなかった。
相手を安心させるように、整った口元に微笑を刻んで、ビショップはもう半歩を踏み出した。触れるばかりの距離で、じっと少年を見下ろす。
先程とは違って、ピノクルはその視線に不安をかき立てられることはなかったが、彼の意図が分からずに、小さく首を傾げる。
ビショップの片手が、少年の頬に沿わされ、落ちかかる細い髪を指先に絡めながら、そっと撫で上げる。
それは、あまりに自然な所作であったために、ピノクルは特に抗いもせずに、ぼんやりと従うばかりであった。大人しい態度に、ビショップは満足げに頷くと、その指を少年の首筋へと伝い下ろした。
しなやかなラインを辿って、首の付け根、浮き上がった鎖骨を軽やかにくすぐる。ピノクルの骨格を確かめるようなその手つきは、冷静な診察者めいていて、少年の態度を従順にさせた。
長く、形の良い青年の指先が、簡素な検査着の合わせに掛かり、これを外す。そもそも着脱が容易であるようにデザインされた衣服は、布擦れの音と共に、簡単にはだけてしまう。
「……っ、」
ここに至って、少年はようやく、我に返った。自分が何をされているのか、遅れて理解する。
驚いて、ピノクルは一歩、身を引いた。解かれてしまった衣服を、両手で押さえる。
「じ、自分で出来ます……」
「無理をするものではありません。まだ、本調子ではないでしょう」
気になさらないでください、とビショップは宥めるように、少年の肩に手を置いた。肉の薄い、痩せた肩が、青年の手の中でびくりと強張る。
相手はあくまでも紳士的に、優しげな態度を崩さないというのに、そこに、鋭い爪で獲物を捕らえる猛禽の姿を重ね見てしまうのは、ピノクルの臆病な過剰反応であっただろうか。
後ずさりかけた背中が壁に当たって、ピノクルは逃げ場のないことを知った。うろたえる少年の姿を、ビショップは優雅な微笑を浮かべて見つめていた。
「──さあ、」
「……は、い……」
結局、少年は抵抗を諦めた。
おそらくは、純然たる厚意で世話してくれるというのに、頑なに撥ね退けるのも気が引ける。いったい、何を勘違いしているのかとあきれられて、ますます居心地の悪いことになりかねない。
だいたい、POG管理官の側近ともあろう人物のすることに、間違いのあろう筈もないではないか。何も警戒することなどはない。
そうして、半ば無理やりに、ピノクルは己を納得させた。大人しく、世話を受け容れることにする。
2. Le goût 味覚
施設内の備品は、自由に使用して良いとのお墨付きである。ということは、食事制限は特に定められていないということだ。別に、肉体的に不具合が起きているわけではないのだから、当然だろう。
与えられる三度の食事は、望ましい栄養バランスに基づく理想的な献立であったが、ピノクルの個人的嗜好が反映されているわけではない。
十代の少年にとって、薄味の食事に茶ばかりでは、味気ないというものだ。ここで、魅力的な飲料に目が眩んだとして、誰が彼を責めることが出来ようか。
自動販売機に、リストバンドをかざす。画面に表示されたラインナップは、コーヒー、紅茶、ジュースを中心とする飲料と、スナック菓子などの軽食、それに、何の冗談か、知恵の輪やブロックパズルまで並んでいる。頭脳集団の本拠地ならではの品揃えということになるだろうか。
ドリンクメニューを軽く一瞥して、ピノクルはその中から一つを選択した。ジャンクフードのお供として名高い、コーラ飲料である。
深い考えがあったわけではない。ただ、これまでの日々で、夜を徹して端末に向かい、情報収集と戦略シミュレーションに取り組む中で、ピノクルはいつも、これを愛飲していた。だから、自然といつもの癖が出た、といってよい。
氷の量は、多めに。カップのサイズはL。指定をすると、早速、内部でがらがらと氷が落とされ、炭酸の噴出する音がする。自然と喉が鳴った。
間もなく、取り出し口が開き、ピノクルはカップを手に取った。触れた指先が張りついてしまいそうに、よく冷えているのが、少年の好みだ。
なみなみと注がれた炭酸の、細かな泡が弾けていく、その微かな音が、爽やかな喉越しを期待させる。気が抜けたぬるい砂糖水になってしまう前に、一気に飲み干してやりたい。
いつも通りに、カップを呷り──しかし、いつも通りに、ごくりと喉を鳴らして飲み干すことは、出来なかった。
「──!?」
一口目を含むや否や、ピノクルは長身を折って、激しく咳き込んでいた。
肩が揺れる度、片手に握ったカップの中、なみなみと注がれたコーラは大きく波打って、危うくこぼれかける。床を汚さぬよう、なんとか堪えようとするが、生理的な反応ばかりは、どうしようもない。
「か──はっ、あ……っ」
一旦、カップをテーブルに置くという選択肢も思いつかぬままに、ピノクルは続けざまに咳き込んだ。無理に堪えようと力が入ったせいで、腹が痛い。視界が滲む。
どうして自分がこんな目に遭っているのか、最初、ピノクルはわけが分からなかった。これではまるで、生まれて初めて炭酸飲料を飲んで、目を白黒させる子どものようだ。
一気に飲み干そうとして、うっかり気管に入ってむせた、という感覚ではなかった。また、味に不審なところがあり、反射的に危険を感じて吐き出した、というのでもない。そんな動物的な生存本能が、自分の中に息づいているのかどうかも、怪しいところだと思った。
だから、理由はごく単純なことだ。注ぎたての、強い炭酸を、ピノクルは、上手く飲み込むことが出来なかった。
一口含んだだけで、その刺激に堪え切れず、咳き込んでしまった。それこそ、初めて炭酸飲料を口にした子どもと、同じように。ただ、それだけのことだった。
情けないことであるが、誰にも見られていなかったのが、せめてもの幸いだ──なんとか呼吸を整えたピノクルは、努めて事態を前向きに捉えようとした。
しかし、そのささやかな努力は、この場においては、さして意味を持たなかったかも知れない。
「あら、あなた……」
背後からの声に、ピノクルは小さく肩を跳ねた。振り返った先に立っていたのは、若い女性である──ただし、白衣の医療スタッフではない。
モノトーンで固めたスマートな制服は、選ばれしPOG幹部の証である。硬質で怜悧な印象を与える衣装は、ごまかしが利かないだけに、大多数の人間にとっては、着こなすことが難しいだろう。それを、目の前の彼女は完全に、自分のものとして身に纏っていた。
華やぎに欠ける筈のダークグレーの衣装は、彼女の輝くばかりの金髪と好対照をなし、むしろ抑制の利いた、上品な魅力を醸し出す。強い意志に裏打ちされた、彼女の知的な美貌を、いっそうに際立たせるのだった。
その碧眼を瞬いて、女性は、咳き込む少年をまじまじと見つめていた。
彼女は、確か──ピノクルが脳内の人物ファイルを検索する間に、女性はきびきびとした足取りで、こちらへ歩み寄ってくる。そして、ピノクルの目の前で立ち止まると、すっと片手を伸ばした。
あ、と思う間もなく、カップは鮮やかに、ピノクルの手の中から取り上げられている。
「駄目よ。病人が、こんなの飲んだら」
まるで、幼い子どもを相手にするような調子で、彼女は、自分より背丈のある少年に注意を与えた。突然のことに、ピノクルは返事も忘れて、ぼんやりと立ち尽くす。
その様子から、ちゃんと聞いているのか、疑わしいと思ったのだろう。彼女は更に一歩、少年に詰め寄った。人差し指をまっすぐに立てて、今一度、念を押す。
「分かった?」
「は……はい」
教師にいたずらを咎められた生徒の心地でもって、ピノクルは肩を窄めて答えた。
それから、そろそろと相手の表情を伺う。少年の素直な態度が気に入ったのだろう、それで良い、というように、女性は満足げに頷いている。
今ならば、確かめるまでもなく分かった。彼女は──ルーク管理官直属の、三人の幹部のひとり。POGジャパンの中核をなす、有力なギヴァー。得意ジャンルは、迷路。
面倒見が良く、世話焼きであるというデータに、間違いはなかったようだと、ピノクルは脳内の情報ファイルにコメントを追記しておいた。一つ咳払いをして、顔を上げる。
「ご心配をお掛けして、すみませんでした……メイズ部長」
あら、私、自己紹介したかしら、とメイズは不思議そうに首を傾げた。
3. La vue 視覚
「──『貴婦人と一角獣』。クリュニー美術館所蔵。制作は十五世紀末、フランドルの工房と推定。『クリュニーのモナリザ』と称され、中世の傑作と名高い、六連作よ」
最初、その声が鼓膜を叩いたとき、ピノクルは、そんな筈もないというのに、絵の中の貴婦人が声を発したかのように感じた。驚いて、反射的に足を止める。
目の前の絵を見上げるが、もちろん、絵は絵である。貴婦人はこちらを見つめていないし、口を開いてもいない。
それでも、彼女だ、という確信めいた思いが、ピノクルの全身を支配していた。ゆったりと落ち着き払い、静けさと憂いを感じさせる、まろやかな女性の声は、到底、現実のものとは思えなかった。
絵の中でなければ、いったい、誰が──立ち尽くす少年の背後で、小さく靴音が響く。
「とはいえ、複製品だけれど……」
そこで初めて、ピノクルは、声が自分の背後から聞こえてくることに気が付いた。考えるより前に、そちらの方向へ振り向く。
いったい、いつからその場に立っていたのだろうか──絵の中の貴婦人とよく似た、赤のケープと、裾の長いワンピース。憂いを帯びた美貌に落ちかかる、緩やかに巻いた栗毛。
当たり前のようにして、当たり前のように場の空気と一体化して、まるでピノクルが這入ってくるより前から、ずっとここを守っているかのような、そんな在りようで──彼女は、当たり前のようにして、そこにいた。
「奇遇ね。まさか、こんなところで再会するなんて」
──イヴ・グラム。
元オルペウス・オーダーの仲間であった女性の名前を、ピノクルは、口の中だけで呟いた。
ワンピースの裾を引き摺るようにして、イヴは二、三歩前に出ると、緩慢な所作で片腕を上げた。その細い手首に、黄金の禍々しい輝きは、既にない。壁面の作品を指して、彼女は気だるげに告げる。
「それと、きみ……これは、絵画じゃないわよ。よくご覧なさい、織物(タピスリー)だから」
「え、……」
保護ガラスのぎりぎりまで近寄って、目を凝らす。
言われてみれば、普通の絵画とは異なる立体感を感じる。驚くべきことに、この精緻な絵柄を創り上げているのは、絵具ではなく、縦横に走る無数の糸なのだった。
あれだけ眺めておきながら、真っ先にそのことに気付かないとは──やはり、自分の眼は節穴なのだとピノクルは思った。
恥入る少年の内心を感じ取ったのか、イヴは慰めるように声を掛ける。
「……きみ、視力が良くないのでしょう」
それは、彼女にしては珍しい、思い遣りの言葉であった。
ピノクルの裸眼視力を、彼女が知っているとは思えないから、眼鏡を掛けていること、イコール、視力に矯正の必要があることと結びつけて考えたのだろう。当然の連想である。
しかし、ピノクルの眼鏡はそうではない──視力矯正器具ではない。外したところで、視力という観点においては、何ら問題がないのだ。
とはいえ、真実を口にして、彼女の折角の気遣いを台無しにしてしまうのも憚られる。結局、ピノクルは「まあ……」と曖昧に頷いた。それなら仕方がない、とイヴもまた頷く。
「この連作は、五感を象徴しているといわれている。順に、味覚、触覚、嗅覚、聴覚、視覚……」
一つずつタピスリーを指差すイヴに従って、ピノクルは頭を廻らせた。どうしたわけか、絵の解説を拝聴するようなことになっている。
しかし、他に何もすることはないし、ピノクルとしても、この不思議な作品について、好奇心をかき立てられていたところであったから、それは望むところであった。
なるほど、言われてみれば、味覚を意味する作品では、貴婦人がキャンディを摘み上げている。同じように、『聴覚』ではオルガンを奏で、『視覚』ではユニコーンに鏡を見せている。
きちんとテーマに対応していることを確かめて、ピノクルは小さく感嘆した。
謎掛けを解いたような──パズルを解いたときのような、すっきりとした解放感があった。とはいえ、自力で解いたのではなく、人から解釈を教えられたというだけのことであるが。
一つ一つを丹念に眺めてから、ピノクルは、ふと疑問を口にする。
「五感……でも、絵は六枚ありますよね。あとの一枚は、……」
「それは、複数の解釈があるの。第六感であるとか、理解、愛、……物質世界の五感を超えた、その先にあるもの」
五感の先──五感では捉えきれない知覚。それは、いったい、何だろうか。何かの文字の書かれた、青いテントの前で身支度を整える、謎めいた貴婦人と一角獣の姿を、ピノクルはぼんやりと眺めた。
隣で、落ち着き払った声が講釈を付け加える。
「描かれている文言から取って、この一枚は──『我が唯一の望み』と呼ばれるわ」
それを聞いた瞬間、ふと、ピノクルの脳裏に過ぎるものがあった。
どうしてかは分からない。森の中の、ささやかな一軒家に住まう、母と子の姿だった。
それが、クロスフィールド学院の有する広大な敷地内の、糸杉の聳える墓地と礼拝堂に近しい一角であることを、ピノクルは知っている。
母親が胸元に下げた、黄金のペンダントを──知っている。
「どうかしたの?」
「……いえ、」
眩暈に似た感覚を堪えて、ピノクルは額に指を遣った。
何だっただろう──希望、あなたは私の希望(ユー・アー・マイ・ホープ)──その言葉を、どこかで聞いたことがあるような──しかし、いくら記憶を掘り起こそうとしても、糸口を掴むことは出来なかった。
代わりに、思い起こすのは、腕輪に呑み込まれた、哀れな少年少女たちのことである。
五感──かつて、あの忌まわしい腕輪を嵌めていた者にとって、それは切っても切り離せない、苦い記憶を呼び起こす。
脳の強制的な活性化、その副作用としての、認知の歪み、感情の偏り、そして、感覚の鈍磨。それらは、ひと揃いになって、少年少女たちを襲った。
ある者は、好きだった飲み物の味が、まったく分からなくなった。
ある者は、あらゆる生き物の姿が視えなくなった。
ある者は、危機に対する恐怖心を失い、ある者は、傷ついても痛みを感じなくなった。
その喪失が、ひいては──彼らを打ち砕いた。完膚無きまでに壊して、粉々にした。
本人が壊れるか、腕輪が壊れるか──あれは、どちらかの選択肢しか存在しない、最初から破綻したゲームだった。
「……多分、同じことを考えていると思う」
小さく呟かれた声によって、ピノクルは思考の渦から引き戻された。
「それは……僕も、あなたも、そこにいた……仲間、だったから」
「仲間。そうね」
繰り返して、イヴは静かに頷く。
仲間などという言葉を、まさか自分が彼女に対して使うとは、ピノクル自身、思ってもみないことであったし、その上、彼女がそれに同意してくれるとは、更に意外であった。
同じ組織に所属していたとはいえ、それは、ごく僅かな繋がりであるに過ぎない。イヴとピノクルとの間には、何ら接点がなかった。
ミゼルカの親友ということで、こちらは向こうを知っていたが、向こうがこちらに関心を抱いているものとは、微塵も思っていなかった。顔と名前が一致しているかどうかさえ、怪しいものだったのだ。
意外だという思いが、表情にも出ていたのだろうか。少年を見遣って、イヴは軽く苦笑してみせる。
「きみのことも、ちゃんと知っていたわよ。ただ、こうしてみると……ミゼルカから聞いていた印象とは、だいぶ違うけれど」
いったい、女子たちの間で、自分はどのように見られ、語られていたのだろうかとピノクルは思った。
好印象でないことだけは、確実である。行動を共にしていた、メランコリィやミゼルカからの嫌われようといったら、それはなかった。
否、毛嫌いされるように、あえて狙って振る舞っていたふしがあるから、それはピノクルにとっては、別段に、傷つくことでも何でもないのだが──むしろ、好意を向けられることの方が怖くて、間違っても好かれそうにないキャラクターを演じていたのだ。
自分が好意を向ける先は、ただ一人だけであったし。
好意を向けられたい相手は、ただ一人だけだった。
「まあ……人のことは、いえないわね」
言って、イヴは己の手首に、そっと指を遣った。ピノクルたちと同じ行動グループにこそ属していなかったが、彼女もまた、腕輪に呑み込まれた者である。
4. L'odorat 嗅覚
勝ちさえすれば、誰だって──こんな自分でさえも──赦して貰えるのだから。
どんな罪も、嘘も、赦して貰えるのだから。
「馬鹿だよねえ……」
髪をかき上げて、ピノクルは深い溜息を吐いた。それを機に、よいしょ、と手摺から身を起こす。雲一つない青空の晴れやかさが、今ばかりは、辛く感じられた。
戻ろうか、と踵を返す。しかし、そのまま階段室への扉を開ける前に、少年は再び、足を止めていた。
「……うん? なんだ、あれ」
視界の隅に入ったものに、思わず、訝しげな声をこぼす。見れば、屋上の片隅に、ぽつんと一つ、何か転がっているものがある。
屋上とはいえ、頭脳集団の美意識を反映してのことだろうか、配管さえも見苦しくないよう、整然としているこの場にあって、それは、注目に値する異分子であった。
「…………」
特に深い考えなしに、ピノクルは、そちらへと足を向けていた。
近づいてみると、それが小ぶりな植木鉢であることが知れる。植わっているのは、丸々とした、拳程度の大きさのサボテンであった。つやつやとした緑色で、隙なく棘を纏い、天辺には、小さな白い花がちょこんと咲いている。
屋上で育てているのだろうか? しかし、こんなところに一つだけ、ぽつんと置いてあるというのは、妙なことである。
そこでピノクルは、これまで機械室の壁によって死角となっていた箇所に、小屋のようなものが建っているのを見つけた。
細いパイプ状の骨組みと、陽光を反射してきらめく、透明フィルム。ビニールで作られた、小さな温室と称するのが適当であろう。
「屋上菜園……?」
何となく、足下の植木鉢を抱え上げると、ピノクルは引き寄せられるようにして、そちらへと向かった。
扉の代わりに垂れ下がるビニールを片手で避けて、ピノクルは温室の中に一歩、足を踏み入れた。瞬間、身体を包み込む緑の気配に、息を呑む。
そこは、小さな空中庭園だった。ピノクルの背の高さほどまでの棚が整然と立ち並び、いずれも、溢れるばかりの緑に覆い尽くされている。先程まで眺めていた、白く無機質な建造物の世界とは、あまりに異なる様相に、思わず現実感を喪失する。
サボテンを抱えたまま、ピノクルは惚けたように、濃密な緑の中を進んだ。
花を愛でるのが目的ではないらしく、彩りとしては、そう豊かではない。時折、名も知れぬ質素な花が、慎ましく顔を覗かせているのに気付く程度のものだ。
しかし、豪奢な花々に囲まれるよりも、今のピノクルには、そのほうが居心地が良かった。若草色から濃緑まで、重なり合ってグラデーションを描く植物の間を歩む。身体を包む緑のアーチは、自然と安堵を誘った。
思い出すのは、広大な森と野山に囲まれた、クロスフィールド学院の景色である。
幼い日、芝生に寝転がったときの、陽光と草の匂い。
雨の中、駆け抜けた森の、ぬかるんだ土の匂い。
糸杉が守る墓地をそよぐ、風の匂い。
いつしか、ピノクルは足を止め、目を閉じて、懐かしい景色に思いを馳せていた。だから、すぐ目の前で、彼をじっと見つめている者の存在に、気付くことが出来なかった。
「図書館だと思うよ」
「わっ……」
突然、間近で発せられた声に、ピノクルはびくりと身を跳ねていた。思わず目を開けた瞬間、その相手の姿が、視界に飛び込む。
「リルケでも、読んでいるんじゃないかな」
驚愕に声もないピノクルに対して、相手は平然と続けた。世間話でもするような態度でもって、片手間に剪定などをしている。否、この場合、会話の方が片手間なのだろうが──
光に透けそうな、見事な白金の髪。青空を映し込んだ静謐な水面に似た、淡青色の瞳。
高潔なる指導者の純白の衣装は、今は纏わずに、カジュアルなジャケット姿であるが、それでも、見紛う筈もない。
「敬称は要らない。君は、僕の部下じゃないから──ピノクルくん」
「……ルーク管理官、」
思わず、そう呼び掛けてから、はっとピノクルは口をつぐんだ。敬称は要らないと、今まさに、言われていたことに気付いたからだ。
そういうことは、こちらが呼び掛けてから言ってほしい──これではまるで、こちらがろくに話を聞いていない馬鹿みたいではないか、とピノクルは思った。
話、といえば、ルークは何と言って、こちらに話し掛けてきたのだったか──驚きのあまり、吹き飛んでしまった。申し訳ないことである。
まあ、第一声でそこまで重要なことを述べる筈もないから、大したことではないだろう。ひとまず、ピノクルはそう結論づけた。
普通に、挨拶から始めてくれれば良いのに──彼のような人間にとって、そんなやりかたは、まだるっこしく感じられるのだろうか。
ピノクルとしても、自分が馬鹿であることは分かっているが、本物の「選ばれし子ども」である彼の前で、そうして格の違いを見せつけられるというのは、辛いものがある。
かといって、今更、「ルークくん」などと呼び直せるわけがなかった。自分の身柄を預かってくれている組織の長に、たとえ同年代とはいえ、そんな親しげな呼び掛けが出来ようか。
代わりに、ピノクルは、己の腕の中の物のことを思い出した。
「あ……あの、これ、……勝手に、持ってきちゃったんですが、」
「ああ──ありがとう。日光浴をさせていたんだ。そろそろ、戻さなくてはと思っていた」
どうやら、余計なことをしたわけではないらしく、ピノクルはほっと安堵を覚えた。それでは、早速、引き渡すとしよう。サボテンの鉢植えを、ピノクルは恭しく差し出した。
「…………」
「…………?」
しかし、何故かルークは、それを受け取ろうとしなかった。腕を組んで、じっとピノクルを見つめている。精確には、ピノクルと、腕の中のサボテンを、ゆっくりと交互に見比べている。
そして、POGジャパン総責任者の少年は、重々しく口を開いた。
「その子は、君に進呈しよう」
「……は?」
その子、と言って、ルークはピノクルの抱えるサボテンを指差した。どうやら、この鉢植えを、ピノクルに譲ってくれる、ということらしい。
5. Le toucher 触覚
はぁ、と少年の唇から、熱い吐息がこぼれる。誰であれ、こぼさずにはいられまい──風呂に浸かり、心も身体も、すっかりほぐされてしまえば、当然のことである。
大事な話をしたいと申し出たピノクルを、ビショップは、浴場へといざなったのだった。前回は、ブースの立ち並ぶシャワールームであったが、今回はそれとは違う。古代ローマの公衆浴場を思わせる、広々とした施設であった。
数十名が同時に入浴可能であろう風呂は、贅沢にも、今は貸し切り状態である。熱く張った湯に、ピノクルは肩まで身体を沈めていた。
裸身を晒す抵抗感は、既に、シャワールームの一件で取り払われている。大事な話をするのに、浴場が舞台として選ばれるのは、当然のことだと思った。
そして、今回は、ピノクルだけではない。もう一人、向かいで同じように、湯に浸かっている人物がいる。
彼は、物静かな眼差しでピノクルを見つめていたが、少年の決意のほどを感じ取ったのだろう。すっと、音もなく腕を上げた。
男の指が、ピノクルの濡れた頬に張りつく髪を、優しく払い、伝い落ちる滴を絡め取る。目を伏せて、少年は、されるがままに任せた。静謐の室内に、小さな水音だけが残響する。
濡れそぼる少年の髪を、丁寧にかき上げてやっていた男──ビショップは、ふと溜息を吐いた。
「……結論は出たようですね。それならば──」
「でも、」
何かを言い掛けたビショップの言葉を遮って、ピノクルは声を発した。内気な少年にしては珍しい、叫ぶように張り上げた、懸命な声だった。その意思を尊重してか、ビショップはひとまず、口を閉ざした。
はぁ、と肩で深呼吸をして、ピノクルは訥々と言葉を継いだ。
「……それでも。リングが外れて、それでも、残っているものが、……本当だと思う」
[ to be continued... ]
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2013.05.01