緋色の研究 -1-






■crossfield LAB

朝方から広がった灰色の雲は、昼前にはすっかり太陽を覆い隠し、靄がかった霧雨が、鬱蒼たる森林をすっぽりと包み込んでいた。英国が誇る名門クロスフィールド学院の歴史と伝統を今に伝える、格式高い校舎の外壁は、冷たく濡れそぼり、濃緑の屋根は、その陰影を深める。生徒たちの起居する寮、天を衝く鐘楼も堂々たる礼拝堂、丘の墓地──何もかもが、等しく霞み、色彩を失った影の中にあった。
学院の広大な敷地の一角に存在する、学び舎には不似合いな有刺鉄線に囲まれた研究施設も、その例外ではない。今は二人の研究員が配されたモニタールームには、窓越しの微かな雨音と、端末の打鍵音のみが響く。絶え間なく指を動かし、それを奏で続けてきた研究員のひとりは、端末から手を離すと、軽く一息を吐いた。背中合わせの席で、こちらも端末に向かうもう一人の方へと向き直り、報告する。
「レスティ先輩。直近3時間分のデータ入力、終了しました」
「ご苦労様」
振り向きもせずに後輩を労うのは、白衣に身を包んだブルネットの女性である。理知的に整った面立ちは、ともすれば、まだ学生として通用しそうなほどの若さであるが、10代半ばからその才覚を買われて一連の実験に協力しており、所員らから厚い信頼を寄せられている。
世界に名だたる頭脳集団POG──ピタゴラス伯爵を頂点とし、崇高なる理念の下、神の書の獲得を至上命題とする組織の中にあって、ここクロスフィールド学院内に設けられた研究所は、特に重要な役割を担っている。すなわち、人間の脳を極限まで活性化させる装置、通称オルペウスの腕輪、その研究の最前線である。
「引き続き、よろしくお願いね」
「了解です」
有能なる女性研究者の下についた若者は、かような重要な拠点に配属された幸運に、心から感謝していた。職務内容は、まだ雑用レベルのデータ入力程度であって、その解析や考察はレスティの仕事であるが、いずれは自分も、そうした責任ある立場に任ぜられることは間違いない。それを思うと、単調な入力作業にも、自然、熱意がこもるのであった。
今は、隔離養育中の被験体の各種行動データ入力が、新入りの主たる職務である。生き物が相手である以上、脳波測定や血液分析のみならず、行動観察もまた、対象の内的状態を推察する上で、欠くことが出来ない。自ら入力した3時間分の表データを概観して、若者は呟く。
「今日は、脱走する気配もありませんね。大人しくしているようです」
「この雨じゃあねぇ」
そこでレスティは、初めて画面から顔を上げ、小窓の外を見遣った。ついでとばかりに、小さく伸びをして、軽く髪をかき上げる。
「ああ、そうそう。今日、あの子のお誕生日だから。年齢のところ、気を付けてね」
観察記録用フォーマットを指して、レスティは後輩に注意を促した。おや、と新人は眉を寄せる。
「個別の誕生日なんて、あるんですか。1月1日で統一した方が、管理しやすいと思いますが……」
「あはは。私が決めたの。別にいつでも良い、って所長も仰ってたから」
なるほど、と後輩は頷く。誕生日を設定することに、果たしてどんな意味があるのかは分からない。逆にいえば、必要が無いからこそ、所長も、彼女の希望を通したのだろう。レスティは朗らかに微笑む。
「本当は、名前もつけたかったんだけどねぇ。それは、もう決められちゃってるものね」
名前に、誕生日──実験体にそんなものを与えたくなるほど、彼女にとって、あの白い子どもは、強い思い入れを抱く対象であるということだろうか。彼女の真意が読めずに、若者は内心で首を傾げた。
確かに、研究者にとって、興味深いデータを提供してくれる素材は、愛おしいものだ。なにしろ、寝ても覚めても、つきっきりで世話をし、暇さえあれば、そのことばかり考えているのだ。情が移り、家族のように扱いたくなる気持ちも、起こらないものとは言い切れない。実際、鉄格子入りの小さな窓と、無機質な壁に囲まれ、捕らわれた幼子に、憐憫の情を向けるラボラトリ関係者も、いないではない。
それは、実験者としては褒められたことではない、甘さ以外の何物でもない。被験体のシロネズミを、いちいち可哀想だの何だのといって、研究が出来るだろうか。
だから、有能なる女性研究者が、ここで、そのような人間味を覗かせたことに、新入りは戸惑わざるを得なかった。自然、疑問を口に出してしまう。
「その、名前にしても……番号ではなく、わざわざ付けるのですね」
「それはそうよ。人間なんだから。それに、名前があった方が、我々も判別しやすいでしょう? 番号より、取り違える心配も減るし」
たとえば、英数字の組み合わせによって設定されたパズルナンバーよりも、『断罪の迷宮』といったコードで指し示された方が、瞬時に頭に浮かびやすい──「人間なのだから、名前をつけるのは当たり前」と言っておきながら、レスティは平然と、実験者側の理屈を付け加えた。否、むしろ、そちらの方が本題であろう。
端末の画面に向かい、機敏に動く手元を止めることのないまま、彼女は雑談を続ける。
「それで、名前の次に大事なのは、誕生日でしょう。生まれた日が無いなんて、可哀想だもの。まだこの世にいない、幽霊ってことになっちゃう」
「はあ……」
彼女はおどけて説明したが、「可哀想」と口にしつつ浮かべる微笑は、博愛精神とは相容れない。それはどこまでも、ケージの中のシロネズミに向ける程度のものでしかなかった。
名前にしても、誕生日にしても、一般には──たとえば、レスティら実験者には──当然にして備わり、アイデンティティの根幹を形成している。生まれたときから、その名前を幾度も口にし、また、他人からその名で呼ばれ、誕生日には、この世に生れ出たことを感謝し、祝われる。それを、気軽に「与える」というのは、事の重要性に対して、ちぐはぐな印象をもたらさざるを得ない。
世の中には、ペットを愛するあまり、まるで人間のように扱う人々が存在するが、そうすることで、皮肉にもいっそうに人間と動物との差異が際立ち、揶揄の対象となる。同様に、実験材料に誕生日を与えたところで、人間に近付けるのではない。むしろ、いっそうに、遠ざかっている。聡明な彼女が、その矛盾に気付いていない筈もない。
レスティは決して、誕生日を持たない子どもを哀れんで、それを与えたのではなかろう。名前をつけ、誕生日を決める。それは、研究対象を独占したいという欲望の表れ以外の何物でもないのではないかと、後輩は胸の内で推測した。
彼女はただ、囚われのシロネズミを管理したがっているだけだ。自分の決めた日付を与えることで、規定し、束縛し、より自分に従順な被験体に仕立て上げようとしているだけだ。
それは、自らを創造者、対象を被造物として、絶対的な関係を結ぶことにほかならない。レスティは、あの白い子どもの創造主を気取っている──そこまで考えて、若者は緩く首を振った。いったい、それの何が、非難されるべきことだろうかと思ったからだ。
確かに、ピグマリオン効果を引くまでもなく、実験に私情は禁物である。実験者の無言の期待を感じることで、被験体はそれに応えようと振舞うし、また、自らの仮説への強い思い入れのあまり、目を曇らされた実験者は、被験体から得られた結果を、無意識のうちに都合の良いように解釈してしまう。そのように歪められた結果を用いて、真っ当な研究であるとは言い難い。
しかし、我らPOGが創り出そうとしているのは、人類を超越した存在──黄金比に適う頭脳を有する者、ファイ・ブレインである。倫理、感情、常識──それらは、加速する思考の足枷に過ぎず、早急に排除することが望ましい。そうして、腕輪に選ばれるに相応しい器として創り上げられた子どもが、果たして、実験者ごときの無言の期待感によって、行動に何らかの影響を受けるだろうか。否、と若者は自らの問いに否定で応えた。
誰の意図も受け付けない。何に心動かされることもない。ただ、神のパズル解放のためだけに動く、伯爵の忠実なる駒。それが、ファイ・ブレインだ。黄金の腕輪を嵌め、その至高の扉を開かんとする、選ばれし子ども相手に、実験者がいかなる意図を抱いていようと、瑣末な問題に過ぎない。勿論、レスティにしても、それを踏まえたうえで、遊んでいるのだ。
創造主になりたければ、なればいい──ただ、彼女と違って、自分にはそのような興味は無いが、と若者は胸の内で結論づけた。
それにしても、わざわざ所長に許可を求めてまで設定したのだから、今日という日付には、何らかの重要な意味があるに違いない。作業も一段落したところで、新人は息抜き代わりに、カレンダーを眺めて呟く。
「6月9日──なにか、特別な意味が?」
「昔、飼ってた犬の命日なのよ。白くてふわふわで、可愛がっていたのに、病気になって、あっさり死んじゃった。その日の午後には、動物病院に連れて行く予定だったのにねぇ……間が悪いったらないわ」
深々と溜息を吐いて、レスティは頭を振った。本当に、ただそれだけの理由だったらしく、彼女は話を切り上げると、さてと、と端末に操作を加える。画面に表示されたのは、薄暗い一室の俯瞰風景だ。独房に似た、無機質な空間に、一人の子どもが、膝を抱えて座っている。見事な白金の髪が印象的な、白い子どもだ。小さな身体を包む、白の上下は、同じ敷地内にある、クロスフィールド学院の生徒たちのクラシカルな制服とは異なり、機能性のみを追求した衣服である。胸元には、銀のネームプレートが、鈍い光沢を放っている。この子どもが、レスティの愛でるシロネズミであった。
時折、鉄格子の嵌った窓の外を眺めては、俯くことを繰り返しているのは、脱走を阻む雨空を恨めしく思っているのだろうか。その間も、手元を見ることもなしに、子どもは、片手に握ったペンを床に走らせていた。机も、記録用のノートも備えつけられているというのに、そちらには見向きもしない。かように室内を汚すとは、普通であれば、咎められるべき行為である。ただ、ここは一般家庭ではないし、子どもは普通の子どもではなかったので、映像を見る誰も、それを止めようとはしなかった。
画面を覗き込んで、新入りは首を傾げる。
「落書き、でしょうか」
「そうね。凡人には何年掛かっても作れないような、見事な『落書き』よ」
その手元をズームアップして、素早く目を走らせると、レスティは満足げに唇を歪めた。白い子どもが、床を使って描き出していたのは、升目と数字の羅列であった。半ばぼんやりと、窓の外の空模様を仰ぎながら、手元も見ずに描かれた、それらは一行の狂いもなく、精密に枠内に収まっている。子どもらしい拙い筆致と、作業内容が、まるで噛み合っていない。その違和感が、見る者の内に、得体の知れぬ不安をもたらすパズルだった。新入りは、思わず、ごくりと唾を飲み下す。
一方のレスティは、規定のフォーマットに、その『落書き』の画像を取り込み、手早く保存した。画面の中では、子どもがとうとう、窓の外を眺めるのをやめ、床に這い蹲るようにして、ペンを走らせ始めた。定規も使わずに、升目は、まっすぐに伸びていく。書き込まれる数字にも、およそ迷いというものがない。それは、はじめから完成しているものを、どこからか書き写しているだけの、単純作業でもしているかのようであった。
床を這って、升目を延長し続ける、手元の動きは、加速的に速度を上げていく。その作業風景から目を逸らすことが出来ずに、新入りは小さく呻いた。
「……まだ、伸びていくのですか」
「そうよ。きっと、床一面を埋め尽くすわね。はじめから、ノートなんかじゃ、足りないわよ」
楽しくて仕方がないというように、レスティは画面の向こうへと笑んだ。
「ハッピーバースデー、ルーク。完成したら、ママが、とっておきのプレゼントを上げるわね」
その片手に取り上げたのは、長方形の平らな箱である。濃紺の地に黄金色の紋章を散りばめた、美しい包装紙がかかり、赤いリボンに飾られている。見れば、その紋章は、精悍に嘶く馬の横顔に、PHのイニシャルを組み合わせた意匠──近年、老舗百貨店の新業態として静かに注目を集める、アミューズメント型商業施設、プラウダーホースのロゴマークである。無機質で殺風景な研究所内には、およそ似つかわしくない物品といえよう。
それを軽く振って、レスティは後輩にいたずらっぽい目を遣った。
「何だと思う?」
「ええと……お菓子、ではありませんよね。食事管理は徹底されていますから……おもちゃ? それとも、絵本とか……」
「あなたねぇ、そんなもの貰って、あの子が喜ぶと思うの? 子どもじゃないんだから」
あきれ返ったように、レスティは、やれやれと首を振ってみせる。ですよね、と新入りは、己の浅薄な答えを恥じて、頭をかいた。子ども向けの誕生日プレゼントといえば、それくらいしか思いつかなかったが、考えてみれば、相手はただの子どもではない。そのことは、今現在も延長し続ける、パズル制作風景を見ていれば、明らかなことであった。
それでは、いったい、中身は何であるのか。後輩の心中を読み取ったように、レスティは唇の端を上げた。
「正解は、クレヨン」
「……? それも、子どもみたいですが……」
「当たり前でしょ。子どもなんだから」
「……」
あるときは子どもといい、あるときは、子どもではないという──そんな、統一性のない対応をしなければならないのは、その子どもが特別であるからだ。10歳にも満たない幼子でありながら、その頭脳に秘められた潜在能力は、POG幹部をも軽く凌駕するという。スペアの子どもたちから大きく抜きん出た、ギヴァーとしてのその素質は、オルペウスの腕輪との契約者の第一候補として、非の打ちどころがない。
確かに、クレヨンは幼児向けの商品である。しかし、おもちゃや絵本のように、はじめから完成して与えられる類のものではない。それを用いて、何かを創作するための道具であるという点で、大きく異なる。ただの落書きにも、あるいは、驚嘆すべき『作品』の制作にも用いることが出来る。それによって何を生み出すか、それは、使い手の技量にかかっている。
それにしても、数ある筆記用具の中でも、何故クレヨンなのか──画面の中で、棒きれでも握るようなかたちでペンを手にし、動かし続ける子どもの姿を指して、レスティはプレゼントの選択基準を解説する。
「子どもの手には、ペンは握りづらいと思うのよね。軸が細くて、硬いじゃない。クレヨンなら、太くて握りやすいし、書き味も柔らかいから、いくら書いても疲れないでしょう? 画用紙だけじゃない、床にだって、壁にだって、書けるのよ」
我ながら良い思いつきをしたとでもいうように、レスティはにこやかに語る。その笑顔に、後輩は思わずたじろいだが、既に彼女の目は、白い子どもの姿以外、映してはいなかった。
画面越しの研究対象を、愛おしげに見つめて、レスティは熱っぽく囁き掛ける。
「もっとたくさん、お絵描きしましょうね。……ルーク」




■POG

光に透けるばかりに薄く焼き締められた、最上級の白磁のティーカップに注ぐのは、上品な深みを帯びた琥珀色の紅茶である。信頼の置ける産地から取り寄せた、流通量の極めて限られる良質の茶葉を使用している。ふわりと辺りに広がり、鼻腔をくすぐる甘やかな芳香が、その証だ。
「──どうぞ」
年若い主人の前へと、ビショップは音もなく、ティーカップを置いた。一緒に運んできた菓子の皿を、その隣に並べる。手を出すでもなく、ルークはガラス玉めいた無感動な瞳でもって、その様子を眺めていた。
アフタヌーンティーというわけではないが、午後に30分ほど、茶と菓子による休憩時間を設けることをルークに提案したのは、ビショップであった。はじめはルークも、そんなものは必要ないといって、取りつく島もなかったが、青年の熱意に押されるかたちでもって、それを承諾した。もとより、この少年には、積極的に受容する理由も、拒絶する理由も、同じ程度に存在しないことを、ビショップは見越していた。
休憩時間が必要であると、青年が判断した理由は、ルークの職務への取り組み方にある。この少年は、たとえばパズルを作れと言われれば、いつまでもパズルを作り続ける。途中で、疲れたと言って放り出すことも、これ以上は出来ないといって音を上げることもしない。ただただ、黙々と作業を続けるのだ。
ルークは疲れることがないし、眠くもならない。精確に言えば、自分が疲れていることも、睡眠を必要としていることも、認識出来ない。身体のシグナルに気付かないまま、脳を加速させ続けてしまう。放っておけば、突然に倒れることになるだろう。そんなやり方が、心身に過剰な負荷を掛けぬ筈もない。ゆえに、忠実なる側近は、少年に休憩の習慣を身につけさせることにした。
この時間は食事をする、この時間は茶を飲む、この時間は風呂に入る、この時間は眠る。そんな基本的な生活習慣さえ、出逢ったばかりの頃のルークは知らなかった。ひとりでは眠ることも出来ないルークに、ビショップは根気強く、一日の過ごし方を教え込んでいったのだった。
その甲斐があって、ルークは一定の時間になると、作業の手を休めることが出来るようになった。そして、今日も紅茶と菓子が並べられていくのを、黙って待っている。昨日と同じように、明日と同じように──しかし、今日に限っては、一点のみ、普段と異なる点があった。
「……何だ、これは」
差し出された皿を見て、ルークは抑揚のない声で呟いた。そこに乗せられた菓子が、お決まりのクッキーでもスコーンでもないことに、注意を引かれたらしい。淡青色の瞳で、じっと見つめる、その視線の先にあるのは、一切れのケーキだ。ミルフィーユ状の生地の合間には、4種類のベリーをふんだんに使用したクリームが挟み込まれ、美しい層をなしている。上には真っ赤なストロベリージュレがたっぷりと乗せられ、艶やかにきらめく姿は、誰しもの胸を甘い心地で満たすだろう。
「気分転換に、よろしいのではないかと──」
柔和な微笑を浮かべて、ビショップは恭しく進言した。ルークは黙って、初めて目にするケーキに視線を注いでいたが、やがて、フォークを手に取った。一口大に切り分けるべく、ケーキの上に寝かせたフォークに、無造作に力を加える。
「……あ、」
その唇が、小さく声をもらすのと、可憐なケーキがくしゃりと音を立てて横倒しになったのは、ほぼ同時であった。フォークを前後した衝撃で、ミルフィーユ部分は無惨に砕け、美しく重なり合っていた層が滑って、見る影もなくばらばらに崩れてしまっている。哀れな姿を前に、ルークは暫し、フォークを握った手もそのままに、硬直していた。
切り分けるのに失敗して、恥ずかしい、という気持ちは、おそらく抱いていないだろうと、一連の様子を黙って眺めていたビショップは冷静に推察した。普通であれば──凡人であれば、職人の繊細な手作業でもって作られた可憐なケーキを、見苦しく崩してしまった己の所業を恥じ、ばつの悪い顔をするものである。上品にケーキを食べることも出来ない、マナーのなっていない人間であると思われるのではないかと危惧し、周囲の視線を恐れる。
しかし、ルークがケーキの残骸をじっと見つめている姿から、そうした意識は、まったく感じられなかった。彼の意識は、自分がどう見られるかなどといったことは素通りして、ただ、皿の上のものだけに向けられている。ケーキ崩壊の最初の衝撃が抜けると、ルークはそっとフォークの先で、ミルフィーユ生地の検分を始めた。
構造を仔細に観察し、衝撃のかかり具合と強度を確かめる、その瞳は、彼がパズルに向き合うときのそれと同じであった。少年が今、何を思っているのか、ビショップには分かるような気がした。
何故、自分は、これを壊してしまったのか。壊れないように切るには、どうすれば良かったのか。それを、対象の仕組みを知ることによって、検討しようとしているのだ。
それは、これまで、どんな紅茶を出そうと、どんな焼き菓子を出そうと、特別に反応を示さずに、無感動に口に運ぶだけであったルークが、初めて見せた、積極的な行動であった。たとえ、ケーキ自体に関心を示したのではなく、彼のパズル制作者としての領域における興味であったとしても──8割方、その理解が正しいと思われるが──それでも、ビショップは構わなかった。ルークの無感動な瞳に、僅かでも、好奇心を灯らせることが出来れば、それで満足であった。あえて、初心者には切り分けることすら難しいであろうケーキを選んだ甲斐があったというものである。
「……」
世間一般的にはマナー違反ということになるのであろうが、十分に生地を分解し、観察したルークは、今や殆ど原形を留めていないケーキを一口分、フォークの先に掬い上げた。そして、おもむろに口に運ぶ。
黙々と残骸を片付けていく、そこには、およそ、味わいを愉しむという姿勢は見て取れなかった。ただ、目の前に食物が出されたから、口に運んでいるというだけの、淡々とした作業以外の何物でもない。そんな少年の姿を、ビショップは目を細めて見つめた。
「……いかがですか」
最後の一口を呑み込んだタイミングで、ビショップは静かに問うた。少年はすぐには答えずに、ティーカップに手を伸ばす。最上級の紅茶で喉を潤すと、ルークは短く言った。
「次は、壊さずに切れる」

気分転換、という説明に、ルークが納得したものとは、ビショップも思ってはいなかった。たとえ、ケーキが一般にその用途で用いられるものだとしても、この少年については、それは当てはまらない。こんなことで、ルークの気分が変わる筈もない。それは誰より、ビショップ自身が知っている。
ルーク・盤城・クロスフィールドは、毎日、同じだ。等しく均質に、精密に、己の役割を果たしている。気分によって作業効率に影響が出ることはないし、そもそも、彼の内に、気分というものが存在しているのかどうかも定かではない。
それでも、ビショップは、彼にケーキを贈った。そこに、何ら正当といえる理由はない。あえて言うならば、この少年を、ただ、自分なりの方法で扱いたいという、それだけなのだと、分かっている。
これまで、彼の周囲にあった研究者たちの、誰とも違うやり方で、ビショップは年若い主人に接することにしていた。ルークは、幼い頃、毎日自分の世話をしていた人間の、誰ひとりとして、顔も名前も覚えていなかった。記憶する以前に、認識すらしていなかったらしい。ルークの視る世界には、極めて限られた人間しか、存在しない。その中で、いくらでも取り替えのきく、顔のない駒の一つになりたいとは、ビショップは思わなかった。
ルークに認識されたい──それはただ、己の業務に、そういうかたちで意義を見出したいというだけの、勝手な理由に過ぎない。誰にでも出来ることではない、自分にしか出来ないという一点において、己の職務に誇りを持ちたいという、あきれるほどに自分本位な動機である。重々承知していながら、ビショップは、願わずにはいられなかった。
そうでなければ──同じだ。使い捨てられる、無数の駒と、同じだ。
ルークにとっては、忠実なる側近がどう接しようと、おそらくは、何ら心を動かされるものではないだろう。有象無象から区別されていると感じるのは、ビショップの勘違いであって、白い少年の中では、どれも一緒くたであるのかも知れない。
だから、これは、ビショップの自己満足だ。そうした方が心地良いから、青年は、年端も行かぬ少年に傅く。自分が楽しいから、献身的に主人に尽くす。決して喜ばれないことが分かっていながら、ケーキを贈る。
誰に強いられたわけでもない。神に選ばれし少年を、ただ盲信しているのでもない。他ならぬ、自分自身を揺るぎなく規定するためにこそ、ビショップは、この少年の世話を請け負ったのだ。
ティーセットを下げ、いちPOGギヴァーとしての職務を果たすべく、一旦、己の持ち場に戻ったところで、ビショップは端末に指を滑らせた。
6月9日──小さな日付表示を、翡翠の瞳は暫し、じっと見つめた。「次は、壊さずに切れる」──ルークの発した言葉を、今一度、己の内に繰り返し刻む。暫し、青年はそうして画面に視線を落としていたが、小さく息を吐くと、傍らのペンシルを手に取り、デスクに広げた引き掛けの図面へと向き直った。




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