緋色の研究 -2-
■root academy
平和である。
うっとうしい梅雨に入る前の、僅かなひとときのみに許された、清涼なる気候を満喫するように、ギャモンは青空に向けて大きく伸びをした。頭上に青々と茂る木々の合間には、小鳥が囀り、遠くグラウンドの方からは、練習に励む運動部の連中の、威勢の良い声が響いて聞こえる。目を閉じて、耳を澄ませば、辺りには生徒たちの談笑、配達か何かのバイクのエンジン音、木々の間を抜ける微風──実に平和である。悪くない、とギャモンは小さく頷いた。
なにしろ、今までが今までである。糊口をしのぐための手段でしかなかった筈のパズルに、まさか命を賭けるはめとなり、世界を股にかけて戦いに明け暮れ、何度も死にかけるとは──愛する妹には、決して真相を打ち明けられない、波乱の人生である。それだけの働きをしたのであるから、暫し、平穏なる学園生活という褒美を享受したとしても、罰は当たるまい。
そこまで考えて、ギャモンは苦笑いした。あのパズル馬鹿とその愉快な仲間たちに出逢う前には、たかが学校ごときに対して、こんな気持ちを抱いたことは無かったと思い至ったからだ。学食に向かうのだって、タダメシを食らって節約記録をつけるという、ささやかな楽しみのためでしかなかった。
今は違う。その場所に向かえば、もう、一人で飯をかき込むことはない。うるさくてうぜぇと思うのに、こうして今日も、自然に足を向けているのだから、分からないものだ、とギャモンは肩を竦めた。
さて、今日はどんなメニューで腹ごしらえといくか──そんな思案をしつつ、今まさに、学食の棟へと一歩、足を踏み入れようとしたときだった。ギャモンは、その行為を、一旦保留した──保留せざるを得なかった。鋭敏なる聴覚が、彼の脳裏に警鐘を鳴らしていた。
それは、バイクのエンジン音だった──背後で微かに聞こえていた、あの音だ。それが、不穏な地鳴りとともに、ギャモンの背中へ迫ってきたのだ。止まるどころか、加速的にスピードを上げてくる。
配達で、その猛スピードは、あり得ない。木々に留まっていた小鳥が、羽音を立てて一斉に飛び立つ。何事だ、とギャモンは振り向き、そして、己の目を疑った。
「──!」
次の瞬間には、考える間もなく反射的に、身体が動いていた。全身のバネをしならせて地面を蹴り、跳躍。大きく、その場を飛び退っている。
「っ、だ……!」
着地の体勢も考えぬ無謀な跳躍の結果、少年の身体は、地面にまともに叩きつけられた。腰をしたたかに打ち付けて倒れ込み、更に地面を数メートル転げて、ギャモンは苦鳴をもらした。しかし、咄嗟の判断は正しかった。先程までギャモンが立っていた地点を、地面ごと抉り取るようにして、巨大な漆黒の塊が突っ込んできたのだ。
甲高いブレーキの悲鳴と、耳をつんざくばかりの爆音が、衝撃波となって全身を襲う。砂埃が舞い、砂利混じりの烈風が、頬といい、むきだしの腕といい、容赦なく叩きつける。地面に転げたまま、ギャモンは両腕を掲げて、防御態勢を取った。
「っ……なんだってんだ!」
なんとか目を凝らし、事態の把握を試みる。砂埃越しのシルエット、腹に低く響く排気音は、この辺りでお目に掛かるのは珍しい、大型バイクのそれである。晴れていく視界に現れたのは、よく手入れの施された、漆黒の車体。流線形を多用し、巨大な図体の割に、疾走感と洗練された上質な印象を与える造形。さりげなくも、細部にまで手抜かりなく、所有者のこだわりの反映された各部パーツ。
それに跨る者の衣装も、漆黒を基調とし、愛車と見事な調和を誇っている。普通であれば、反動で身を投げ出されてもおかしくはないほどの無茶なハンドルワークを見せておきながら、細身の長身は、美しい姿勢を保ち、悠然とバイクに跨っている。そのまま雑誌広告として通用しそうな、その姿は、荒ぶる軍馬を乗りこなす歴戦の騎士を彷彿とさせた。
「──お久しぶりです」
ヘルメット越しの声は、場違いなまでに涼やかに落ち着き払った青年のそれであった。ざ、と砂を踏み締めて、運転者は地面に降り立った。
慣れた手つきでもって、ヘルメットを外す。その下から現れた面立ちは、端正に整い、汗の一粒も見受けられない。彼は気だるげな所作でもって、鳶色の髪をかき上げた。耳元で、翡翠の装身具が小さく光る。
未だ地面にへたりこんだままのギャモンに歩み寄ると、黒衣の青年は、恭しく一礼を施した。非の打ちどころのない礼法に適ったその態度から、先程までの無謀ともいえる荒々しいハンドルワークを想起することは、誰にとっても困難であっただろう。
「よろしければ……手をお貸ししましょうか」
長身を屈めると、鳶色の髪の青年は、ギャモンに向けて、慇懃に片手を差し出した。場面が場面であれば、それは、称賛されるべき紳士的態度にほかならなかったであろう。しかし、たった今、白昼堂々と自分を轢き殺そうとしていた人間の手を取れるほど、ギャモンは愚かではなかった。
あくまでも穏やかな翠瞳を、きつく睨め上げて、ギャモンは舌打ちをすると、
「……ここは、乗り入れ禁止だぜ。おっさん」
吐き棄てるように、一言、呟いた。
専門誌を眺めていると、いったいどこの誰がこんなのに乗るんだと思うような、スペック的にも値段的にも、桁外れに常識離れしたバイクに出くわすことがある。無理をして乗ったところで、たいていの人間であれば、マシンの持つ世界観に負けてしまう。乗りこなせる人間などいない、これは実用品ではなくて、コレクションや観賞用途なのであろうと、勝手に決め付けていた。
今ならば分かる。ああいうのに乗るのは、こういう奴なのだ──結論づけて、ギャモンは黒衣の来訪者を見据えた。友好的態度を取る理由は欠片もないので、不遜に腕組をして問う。
「今日は何の用だよ。つぅか、ルークはどうしたんだ。お供じゃねぇのか」
「……本日は、別行動です」
ビショップはそつのない回答を寄越したが、その前に、微妙な沈黙があったことに、ギャモンは気付いていた。おおかた、また隙をついて、逃げられでもしたのだろうと想像する。春先にも、似たようなことをやらかしておきながら、懲りない奴である──懲りない奴らである。いつも逃げられているビショップにしても、いつも連れ戻されているルークにしても、学習能力というものがないらしい。
今度はトイレの個室に一緒に入ろうとでもしたのか、とギャモンは軽口を叩きかけたが、相手があまりに真剣な顔をしているので、一応、やめておいた。
それさえも絵になる優雅な所作で、一つ小さな溜息を落とすと、ビショップは切り出した。
「……率直に申しますと、私はルーク様を捜しているのです」
「ああ……だろうな」
そんな重大な秘密を打ち明けでもするような、深刻な顔をして言わなくても、こちらは既に事情を察しているのだが、とギャモンは思った。その言葉が予想の範疇であったということは、暗に伝わったようで、ビショップは感心したように頷く。
「そうですか……私ごとき、中ボス程度の内情など、何もかもお見通しなのですね。さすがはガリレオ」
さして心のこもっていない口調で、淡々と称賛されても、少しも褒められている気がしないのは何故だろうか。というか、別に、お前のことに特化して詳しいわけじゃねぇよ、誤解を招きそうな言い方すんな馴れ馴れしい、とギャモンは胸の内で悪態を吐いた。胸の内だけで、表面には出さないというのが、大人の付き合いというものである。ことに、この相手に対して、いちいち突っかかっていては、いつまで経っても話が進まないということを、ギャモンは経験的に知っている。
「つっても、俺は奴の姿なんて、見てねぇけど」
何事もなかったかのように、ギャモンは話を戻した。おそらく、この過保護な側近は、ルークの捜索途中、見知った顔を発見したものだから、もしや居場所を知っているのではないかと見込んで、あのような無茶な勢いで、こちらへ突っ込んで来たのだろう。別段に、ギャモンに恨みがあっての故意ではなく、焦燥に駆られての過失だったのだ。そうであると信じたい。すべては、主人を思うがための暴走である。
しかし、その期待に応えられないのは申し訳ないが、残念ながらギャモンは本当に、あの白い少年の行方について、心当たりがなかった。
相手は、見事な白金の髪をはじめ、否でも周囲の注目を集めずにはいられない姿かたちをしている。どこか、その辺にいたのならば、野次馬連中による人だかりが出来るだろうから、気付かずにすれ違っていたということは考え難い。
心当たりが無いと聞いて、青年は落胆するかと思われたが、ギャモンの予想に反して、彼は平然と頷いた。
「でしょうね。ルーク様がいらっしゃるのは、どうやら──」
そこで、ビショップは静かに腕を上げた。舞台俳優か何かのような、伸びやかで優雅な所作でもって、目の前の棟を指し示す。
「──この学食の中のようです」
何故こいつは、何かというと、こういう芝居がかった言動をするのだろうかと、ギャモンはややうんざりとした。動き自体は無駄なく整っているが、そういう動きをすること自体が、無駄である。少なくとも、ギャモンにとっては、無駄である。そういえば、あの無駄を嫌う騎士気取りの元・オルペウス・オーダーの一員は、一時期、POGの保護下に入っていたわけであるが、そこでこの黒衣の青年と接触して、いったい何を思っただろうか。もし今度会ったら、感想を聞いておこうと思った。
それはともかく、ギャモンは目を細めて、ビショップの指した建物を仰いだ。
「学食……って、随分と目星がついてるじゃねぇか」
そこまで場所を特定出来ているという事実は、驚嘆に値する。どうやら、あてもなく捜索していたというわけではないらしい。しかし、こうも居場所を特定出来るということは──
「……発信機か。どうかと思うぜ、その趣味」
似たようなことを、後輩の天才少年もやらかしている以上、あまり非難を出来た立場ではないが、一応、ギャモンは苦言を呈しておいた。
ルークを捜しに来たとのことであったが、居場所が判明している以上、これではむしろ、迎えに来たようなものだ。しかし、ギャモンの指摘にも、青年は涼しい顔である。
「精確にいえば、フェロモンです。何キロメートル離れていようと、私にはルーク様が今どこで何をされているか、手に取るように分かります」
「ますますどうかと思うぜ!」
ありえない、といって笑い飛ばせないところが辛い。POGの科学力を結集して、それくらいの謎の探知システムを開発してしまったとしても、この青年の場合、おかしくはないように思われた──否、否。こちらまで引き摺られて、おかしな思考に染まっている。ギャモンは、突拍子もない考えを、急いで頭から振り払った。
まあ、フェロモンは冗談にしても、とビショップは朗らかに微笑する。笑えない冗談はやめて欲しい。楽しいのは本人だけであろう。ギャモンの胸の内を知ってか知らずか、青年は憎らしいほどに爽やかな笑顔を浮かべている。
それから、ふと、真面目な顔をして、ビショップは声のトーンを落とした。
「しかし、ギャモンさん。仮に、あなたの妹さんが、ふっとどこかへ出掛けていってしまったとしましょう」
「あぁ?」
何故、ここでミハルの話になるのかと、ギャモンは訝しんで眉を寄せた。構わずに、ビショップは落ち着き払った口調で続ける。
「そのとき、あなたは、ミハルさんが行かれた場所について、いくらかの心当たりがあるのではありませんか」
「そりゃあそうだ。簡単に探し出せるぜ。家族なんだからな」
仲の良い友達の家に行ったのかも知れないし、気になると言っていた髪留めを買いに行ったのかも知れない。妹が行きそうな場所は、だいたい見当がつく。一つ屋根の下で暮らす、たった二人の家族なのだから、それくらいのことが分からないでどうする、と思う。
やや心配性だといってうるさがられることもあるが、ギャモンは出来る限り、大切な妹のことを把握しておきたいのだ。ミハルが行きたいという場所には連れて行ってやりたいし、欲しいというものは与えてやりたい。それが、兄としての務めであると思う。
ギャモンの答えを聞いて、ビショップは静かに頷いてみせる。
「同じですよ。私たちも、同じです」
当たり前のように、彼は一言、そう言った。そこには、いかなる迷いも、衒いも、存在しなかった。ビショップは、ルークのことが分かる。血を分けた兄妹がそうであるのと、同じように、分かっている──分からないで、どうする。青年の翠瞳には、そんな強い意思の光が宿っていた。
簡単に探し出せるのも、当然のことだ。二人は──家族なのだから。
なるほどな、とギャモンは思った。青年の発言を、突飛であるとも、滑稽であるとも思わなかった。当たり前のことを、ありのままに言っているだけであると感じて、納得した。
確かに、彼らは家族なのだ。この青年が、年若い主人に向ける思いのほどは、兄が妹に向けるそれに、何ら劣るものではない。心配のあまりしつこくしすぎて、うるさがられるところも、そのままだ。上司と部下の関係としてみるから異様なのであって、家族であると考えれば、ごく自然な振る舞いである。
この際、彼らに血縁関係が無いということは、何の問題にもならない。家族と同じ振る舞いをするならば、それはもう、家族なのだ。少なくとも、ギャモンとしては、そう考えている。
あの、自らすすんで崩壊へとひた走り、何もかもを捨て去って、最後に自分さえも消し去ろうとした、一人ぼっちの少年に、今は家族と同じ存在がある。思うと、何故だか、ギャモンは安堵に似た心地を抱いてしまうのだった。
そんな、感傷的な思いを振り払うように、話を戻す。
「で、居場所が分かってんなら、とっとと迎えに行きゃあ良いんじゃねぇの」
「……いいえ。ルーク様をお連れするのが、私の目的ではありませんので」
「……?」
捜していると言いながら、連れ戻すつもりはないという。
何を言っているんだこいつは、それならいったい、何のためにここまで来たんだ、という思いで、ギャモンは青年の横顔を見遣った。軽く俯いたその表情は、憂いを帯びて、とても今から主人を迎えに参上する側近の顔ではない。そのシチュエーションで、こいつが浮かべる表情は、何もかもの苦悩から解放されたような、慈愛に満ちた微笑以外にはあり得ない筈なのだが、とギャモンは不審に思った。
少年の疑問に答えるように、ビショップは淡々と言葉を紡ぐ。
「ルーク様がお逃げになったのは、私と距離を置きたかったからなのでしょう。それなのに、ここで、私が出て行っては台無しです。無遠慮に距離を詰めて、まるで、駒を捉えるような真似は、したくありません。……あの御方の思いを、私は何より、尊重したい」
盤上の対角線上にいる、白のルークの駒を、黒のビショップが、ひとっ飛びに捕獲する様子を想像して、ギャモンはふむ、と腕組をした。ルールに則った駒の動きを「無遠慮である」というのは、独特な感性であるが、分からなくもない。それを言えば、パズルに「美しさ」を求める自分たちは、世間一般から見れば、相当に独特であることだろう。
「──そういった事情ですので、」
呟くと、ビショップはおもむろに、背負っていたバッグを下ろした。運転の妨げにならぬよう、肩に掛けて背中に回すタイプの保冷バッグである。注意深い手つきでもって、中から、何かを取り出す。
現れたのは、意外な品物であった。15センチメートル四方ほどの、白い立方体。一枚の紙から切り出し、組み立てた箱であるらしく、側面は上部で屋根型に収束している。楕円にくり抜かれた部分を手に提げられるようになっている形状は、ギャモンでも、中身の予想がついた。
それは、持ち帰り用のケーキ箱であった。箱を携えて、ビショップはギャモンの前へと進み出た。
「逆之上ギャモンさん」
「……なんだよ、」
よく通る美声でもって、改まってフルネームを呼ばれるというのは、気恥ずかしいものがある。卒業式かよ、と悪態を吐きつつ、ギャモンは律義に返事をした。その目の前に、ビショップはケーキ箱を差し出す。
「あなたから、ルーク様に、渡しておいていただけますか」
思わぬ申し出である。何を言い出すかと思えば、とギャモンは胡乱に目を眇めた。
「……自分でやれよ」
「今は、私の顔もご覧になりたくないでしょうから……それに、会えば、連れて帰りたくなってしまいます」
翡翠の瞳を伏せて、ビショップは自嘲気味に呟いた。そんな顔をしている相手の頼みを無下に出来るほど、ギャモンは人情を失ってはいなかった。
「……分かったよ」
結局、ギャモンは依頼の品を受け取ってしまった。改めて見れば、手触りの良い真っ白な厚紙に、黄金の箔押しで上品に店名を入れた、高級感溢れるケーキ箱である。誰かが、誰か大切な相手に贈る、幸せな時間のためにこそ、このケーキは生まれてきたのだろう。
それだというのに、これを届けるためだけに、ここまでバイクを走らせてきた青年は、その相手の顔を見ることもせずに、帰るつもりであるという。大切な相手のために、身を引くことすら厭わない──思うと、ギャモンはもどかしい感情に駆られた。
「でもよ……あいつだって、本気で逃げたがってるってわけじゃねぇだろ。そのつもりなら、もっと、うまくやる筈だぜ。実際、こうして見つかっちまってるんだし」
青年の寂しげな様子に、感化されてしまったのだろうか。フォローするというわけではないが、気付けばギャモンは、慰めのような言葉を口にしていた。
これで本当に良いのか、と相手を見据え、暗に問う。少年の強い視線を受け止めて、ビショップは緩く首を振ってみせた。
「良いのです。どうか今日は、お友達と楽しく、お過ごしになっていただければ……後ろに私がいては、落ち着かないでしょう」
よく分かってるじゃねぇか、とうっかり軽口を叩きそうになって、ギャモンは慌てて口をつぐんだ。主人のために黙って身を引く、ビショップの翠瞳には、浅からぬ翳が見て取れた。決して、心からそれを歓迎しているわけではないということは、誰の目にも明らかであった。
しかし、今日は──今日だけは、といって、彼は自分自身に言い聞かせているようだった。いったい、今日という日に、どんな特別な意味があるというのだろうか──しかし、ギャモンがそれを検討するより先に、ビショップは話を切り上げていた。
「それでは、私はこれで。またいつでも、本部に遊びにいらしてくださいね。……失礼いたします」
優雅に一礼を施して、ビショップは軽やかにバイクに跨った。
「……おい、おっさん、」
一歩踏み出し、そう呼び掛けようとしたところで、ギャモンの声は、唸るエンジン音にかき消された。軽く手を上げると、来たときと同様、風のように颯爽と、ビショップはその場を後にした。遠ざかっていく車体を、目を細めて眺めつつ、ギャモンは呟く。
「……だから、走行禁止だっつってんだろ。人の話を聞かねぇ野郎だ」
砂煙が消えるまで、ギャモンはその場に佇んで、漆黒の影を見送った。
「ごめんね、ルーク君。遊びに来るって分かってたら、もっとお菓子、作っておいたんだけど……」
「お構いなく。僕が勝手に来ただけだ」
「で、今日はどうしたんだよ、ルーク?」
「そう、聞いてくれカイト。実は今朝、目を覚ますと、隣に控えていたビショップが、……」
天才テラスと呼ばれる、学食の一角は、本日も賑やかであった。お馴染みのノノハにカイト、それから、もう一人分の声がする。のろのろと階段を上りながら、聞こえてくる遣り取りに、ギャモンは、ビショップの推測が正解であったことを悟った。やれやれと首を振って、最後のステップを上がる。
「……というわけで、彼から逃げてきた。追いかけ回されるのは、ごめんだよ」
「毎度毎度、懲りねぇよなあ」
俺と同じ感想を抱くんじゃねぇよ、と呟きつつ首を巡らせば、そこには予想通り、見事な白金の髪の後姿が見て取れた。隣のカイトと、身ぶり手ぶり混じりに、楽しげに談笑している。テーブルの上の菓子は、既に食い尽され、空になった皿が積み重なるばかりだが、ノノハは甲斐甲斐しくも、客人に紅茶を注いでやっている。羨ましい。
一つ溜息を吐くと、ギャモンは大足で、そちらに歩み寄った。
「おい、マリモ」
「誰がPOGジャパンゆるキャラグランプリ・ゆるふわ白まりもくんだって!?」
「言ってねぇよ!」
本気かどうか分からない返しに、本気で返してしまった。目の前のゆるふわ白マリモ──POGを統べる若き管理官、ルーク・盤城・クロスフィールドは、おや、というように目を瞬いた。それから、ああ、ガリレオ君、と親しげな笑みを浮かべる。
「何か用かな? 見ての通り、忙しいから、手短にして貰えると嬉しいんだけど」
「忙しいだと? 仕事ほっぽり出して逃げてきた奴が、何言ってやがる」
まさか、友人との他愛のないトークに忙しい、とでも言い出すつもりか。正論でもって返してやると、ルークは心外だ、とでもいうように眉を寄せた。
「見た目だけで物事を判断するのは、危険だよ。実際、僕は今、崇高なる職務の真っ最中だ」
「へぇ。茶を飲んでダベることがか」
鼻で笑ってやれば、さすがに気を悪くするかと思ったが、ルークは逆に、不敵な微笑を浮かべた。自信たっぷりの表情で、自分の頭を指し、くるくると指先を回転させる。
「その間にも、僕は脳内で、組織の解決すべき問題事項について、一つ一つ、検証と改善案のシミュレーションを行なっている。こうして君とお喋りをしている、その間にもね」
「……へぇ」
こう見えて、しっかりと頭脳労働を果たしているらしい。やはり、若くして巨大組織POGを統べる責任者は、職務に対する姿勢というものが違う。感心しかけるギャモンに向けて、ルークは朗らかに微笑んでみせる。
「などということは、一切ないのだけれど。職場に連れ戻された後、しっかりとそれが出来るよう、今は謹んで、鋭気を養っている段階だ」
「やっぱ遊んでるだけじゃねぇか!」
「遊んでない! 僕はいつでも真剣だ!」
さて、はたして、遊びでの遊びと、真剣な遊びとでは、どちらのほうが、より重症なのであろうか。いずれにしても、一瞬でも感心しかけて、損をした。そして、大いに疲れた。
やっていられないとばかりに、ギャモンは向こうのソファに腰を下ろそうとしたが、その前に、片手に携えてきたものの存在を思い出す。面倒事は、さっさと済ませてしまうに限るだろう。
「ほらよ」
預かり物を、顔の前に突き出してやると、ルークは、わ、と小さく背を跳ねた。白い箱を前に、目を瞬く。
「……? なにかな」
「知らねぇよ。てめぇの側近に訊きやがれ。わざわざ、ここまでデリバリーときたもんだ」
ギャモンの説明に、その場の三者は三者とも、意外そうな反応を示した。
「彼が…? いったい、どこに発信器を……」
「あ、さっきの爆音、ビショップさん? 折角来たなら、寄っていけば良いのに……」
「ん? 帰っちまったのか? ルークを連れ戻しに来たんじゃねぇの?」
「一度に喋んな。だから、俺は知らねぇって……ほら、確かに渡したからな」
半ば押しつけるようにして、ルークに箱を渡すと、ギャモンはさっさと定位置のソファに陣取った。これで、ひとまず役目は果たした。後は知ったことではない、と態度で示す。
一方で、謎の人物からの謎の贈り物に、どうやら興味津々なのはノノハである。
「差し入れ? お土産? 開けてみようよ、ルークくん!」
「う、うん」
彼女に急かされるかたちでもって、ルークはケーキ箱に指を掛けた。上部の持ち手を兼ねた蓋を、そっと外す。箱の中身に、一筋の光が射し込んだ。
「これ……」
その中身を認めて、ルークは淡青色の瞳を瞠った。一言、呟いたきり、言葉が続かないのか、黙り込む。
声もなく、じっと見つめる、その先には、いったい何が──おおかた、無茶な運転で無惨に潰れたケーキの残骸か何かだろう、とギャモンは冷静に推測した。ならばこれは、差し入れというよりは、嫌がらせに近いのではないだろうか。あの青年も、大人げないことをするものである。
しかし、その推測は、結果からいうと、およそ的外れであった。
いつまで経っても動かないルークを、不思議に思ったのだろう。どれどれと隣から覗き込んで、ノノハはわぁ、と歓声を上げた。
「もしかしてこれって、あのマカロンひとつ千円するパティスリーの! かわいー! 美味しそう!」
言って、ノノハは一同に見えるように、箱を広げてみせる。彼女の言葉通り、そこに鎮座していたのは、一切れの可憐なケーキであった。ミルフィーユ状の生地の合間に、薄く色づいたクリームが層をなし、上部には蕩けるばかりの赤いジュレがたっぷりと乗せられている。それは、今まさに、ショーケースから取り出されたばかりであるかのような、完璧な造形美を誇っていた。
あの乱暴な運転で、よく原型を留めていたものだ、とギャモンは感心した。どうやったら、こんな芸当が出来るのか分からないが、というか、人間業ではないと思うが、さすがのものである。バイクと一体化し、己の一部として意のままに操る術を持つ人間でなければ、こうはいかない。彼はバイクに乗っているのではなく、むしろ、彼自身がバイクであるのかも知れない、などと、荒唐無稽なことを考えた。
ここにはいない贈り主に、ギャモンが思いを馳せている間にも、ケーキは、魅力的な輝きを辺り一帯に振りまいている。
「食べよう! 美味しいうちに! 今すぐ、さあ!」
躍り出さんばかりにはしゃぐノノハは、早くも片手にフォークを携えている。そんな彼女を、カイトはあきれたように横目で見遣った。
「お前への届け物じゃねぇよ」
「う……」
冷静なカイトの一言に、ノノハは、分かってるわよ、とむくれる。話題のスイーツを前にして、完全に目の色を変えていた彼女だが、その程度の分別は、ちゃんと残っていたようだ。
どうやら、フォークは自分が食べるためではなく、ルークのためのものであったらしく、ノノハはそれを彼の前に置いた。なんと優しい心遣いであろうか。本人は嫌がっていたが、まっすぐな正義感と慈愛に満ちたその立ち居振る舞いは、正に、彼女の称号に相応しい。ギャモンは惚れ惚れとして、その姿を見つめた。
一方で、そんな外野の遣り取りも、まるで耳に入っていないかのように、ルークは箱の中を注視していた。淡青色の瞳が、小さく震えたようだった。それから、ぽつりと呟く。
「覚えている。初めてじゃない……」
暫し、ルークは記憶を辿るように、視線を彷徨わせた。淡青色の瞳が、茫として天井を仰ぐ。
「そう、これだ。一年に一度……最初から、決まっていた、あの日は、確か、」
その脳内では、高速で情報検索が行なわれているのだろう。時折、指先が僅かに痙攣するように動くのは、日付を計算しているのだろうか。それから、あ、と小さく唇を震わせる。
「6月9日、だけだ……」
まだ、思考の渦から抜け出し切れないような顔で、ルークは呟いた。6月9日──今日の日付を。
「──年に一度、食わせて貰える?」
ルークの話を総合すると、そういうことらしかった。話といっても、彼が喋ったのは、二つの情報だけだ。このケーキを、以前に何度か食べたことがあるということ。そして、それは、毎年一度だけのことで、日付は決まって、6月9日だったということ。
このルールに則って、今年の6月9日──すなわち今日も、同じように、ケーキはルークのもとへ、やってきたということか、とギャモンは思った。否、ケーキがひとりでにやって来たというわけでは、勿論なくて、そのルールを順守しているのは、あの黒衣の青年に他ならないのであるが。学内ルールは全力で無視するくせに、敬愛する主人に関するルールには、実に几帳面なことである。
「で、今日って、なんか特別なのか」
首を傾げて問うたのはカイトである。そこに関する説明は、今のところ、ルークの口から発せられてはいなかった。ケーキを託されたギャモンも、あの青年から聞いてはいない。聞かなくとも、何となく察しはつくが、ギャモンは黙って、ルークの答えを待った。
「一応……今日は、僕の誕生日ということになっている」
何故だか、少し言い辛そうに、ルークは誕生日、という単語を口にした。仲良くしていた割に、それは初耳だったのか、カイトとノノハはおお、と表情をほころばせる。
「へぇ。めでてぇな」
「おめでとう、ルーク君!」
子どもではあるまいし、高校生にもなって、いつが誰の誕生日だなどと、いちいちお祭り気分ではしゃぎはしないが、今日がそうだと言われれば、祝ってやるのが人情である。しかし、ギャモンはそれよりも、気になることがあった。
「……『なっている』ってのは、なんだ」
ルークの物言いが引っ掛かり、ギャモンは祝福の言葉の代わりに、それを問うた。無粋な問いであったが、別段に気分を害した様子もなく、ルークは淡々と解説する。
「おそらく、実際の出生日は別だということ。書類上、その日付が設定されているというだけ……誰が決めたことなのかも、分からないし、大して意味はないんだ。実際、これまで問題になったことは、一度もない」
「……ふぅん」
問題になったことがない、というのは、つまり、話題にされたことがない、という意味だろう。祝って貰ったことがない、という言い方をしないのは、ルーク自身、そこに意味を見出していないからだ。彼は、誕生日を特別な一日として意識したことは、おそらく、生まれてこのかた、無いのであるし、他人から祝われたいとは、夢想したことすらないのだろう。
──生まれたからといって、何故、祝わなくてはならない?
そんなことを、澄み切った水面に似た眼差しで、問うてきても、おかしくはないように思われた。
そこまではいかずとも、彼にとっての誕生日が、決しておめでたいイベントなどではなかったということは、ここにいる者ならば、誰でも想像がつく。誕生日という響きに反して、居心地の悪い沈黙が、辺りに下りる。誰も、何も言えない──うかつに、言葉を紡ぐことは、出来ないのだ。
その空気を盛り立てようと、最初に動いたのはノノハである。
「でも……ビショップさんは、毎年、ケーキをくれたんでしょう? それって、つまり、」
「なぁ、ルーク」
ノノハの言葉を遮って呼び掛けたのは、これまで口を噤んでいたカイトである。指先で髪を弄いながら、訥々と紡ぐ。
「お前さ、追いかけ回されるのが嫌だって、さっき言ったよな。連れ戻されんのはごめんだ、って」
「……うん」
応えるルークの表情に、僅かに硬いものが混じったのは、気のせいであろうか。そこには、10年前からの友人同士だけの、何らかの了解事項があるのかも知れない。何かを思い出すように、ルークは膝の上に組んだ手を、小さく握った。その友人の様子を見つめつつ、カイトは続ける。
「でもよ。今のお前を追い掛けてくるのは、あの白衣の研究者連中じゃないんだぜ。あいつらは、もういない……あいつらとは、違う。無理やり連れ戻されて、二度と会えなくなるなんてこと、もう、心配しなくていいんだ」
「それは……」
戸惑うように俯くルークを、安心させるように、カイトは朗らかに笑ってみせた。
「良かったじゃねぇか。今のルークには、ここまで心配してくれる奴がいる。それで、居場所が分かってても、無理に連れ戻したりしねぇし、ケーキまで差し入れてくれるんだぜ。誕生日だって、ずっと祝ってくれてたんだろ? よく分かんねぇけど、すげぇよ」
「……祝って、……」
難しそうな顔をして、ルークは黙り込む。友人の言葉を受け容れたいと思う一方で、簡単には割り切れない思いもあるのだろう。ぽつり、ぽつりと、自分の内で整理するように、言葉を紡ぐ。
「僕が、……パズルを完成させたり、昇進したりすると、彼は、おめでとうと言ってくれたよ。他の人々も、彼に倣って、そうしていた。祝われているんだって、僕にも分かった。誕生日は、いつも通りで……ケーキなんて、そんなもの、僕は、気にしていなかったから、」
祝われていることにも、気付かなかった──言って、ルークは肩を落とした。
だから、あの側近は妙なところで奥ゆかしすぎる、とギャモンはあきれ半分に思った。何故、ケーキと共に、おめでとうございますの一言も、伝えなかったのか。祝われている当人が、それに気付けなければ、意味がない。ただの自己満足ではないか。
──否。それとも──
気付かれたく、なかったのだろうか。パズルを完成させただの、昇進しただのといったことと、誕生日とは、彼らの中で、決して、同列に並べて良いものでは、なかったのだろうか。思ったときには、ギャモンはもう、口を開いていた。
「……だからよ。お前にとって、誕生日なんてのは、別に、嬉しいことじゃなかったんだろ。だから、奴も表立って、めでたいなんて、言えなかったんじゃねえの」
祝うに祝えない、しかし、祝いたかった。伝わらなくても良い、無意味でも、自己満足でも、想いを表したかった。その妥協案が、特別なケーキなのだとすれば、納得がいく。想いを込めて、謎を掛ける。回りくどさ、分かり難さとは、パズルにつきもののお約束ではないか。
そして、紡がれなかった言葉は、今、こうして、ルークに伝わった。決して、無意味でも、自己満足でもなかった。あとは、ルークがそれを、どう受け止めるかである。
「でも、急にそんな……どうしたらいいか、分からない」
ルークは、途方に暮れたように、ぽつりと呟く。誕生日を祝われるという、対処したことのない場面に、どうしたものか、戸惑っているらしい。
一般に、考えるまでもない、当たり前の常識といって片づけられてしまうようなことの多くを、ルークは未だ、身につけていない。今でも日々、周囲の人間から学び、吸収している最中らしい。こういうときこそ、健全にして一般的な高校生としての、ギャモンたちの出番である。
「普通に、喜べば良いんじゃねぇの」
「とりあえず、食べちゃいなよ!」
「で、帰って一言、労ってやると」
口々に示されるアドバイスに、ルークはいちいち、真剣な面持ちで頷いてみせる。そして、一つの決意を宿した表情でもって、面々の顔を見回した。
「……やってみる。ありがとう、カイト。──そして、その他」
「雑な扱いしてんじゃねぇよ!」
そのケーキを運んでやったのは誰だと思ってやがる、とギャモンは吠えた。我関せずを決め込む筈だったのに、結局こうして、巻き込まれている。自分もたいがい、お人よしなことである──思い知らされて、ギャモンは盛大な溜息を吐いたのだった。
「では、早速……いただきます」
律儀に手を合わせて、ルークはケーキに対峙した。その様子を、ギャモンたちは、妙に緊張しつつ見守る。いつも食堂の一角に集い、大食い競争を繰り広げているパズルバカどもとは異なり、ルークがものを食べている姿というのは、あまりお目にかかれるものではない。自然、興味が湧いてしまうのも、仕方のないことである。
それにしても、食い辛そうなケーキだ。件の一切れを一瞥して、ギャモンは思った。ミルフィーユのパイ生地は、フォークを突き刺せば、すぐにばらばらに砕け散ってしまうだろう。ナイフを動かして切ろうとすれば、クリームを挟んだ層は、地滑りを起こして、あえなく崩壊するに違いない。いったい、ルークはこれを、どのようにして食べるのだろうか。
同じことを思ったのだろう、ノノハも眉を寄せる。
「でも、これって切るの難しそう……最初に、横に倒しちゃってから、切れば良いんだっけ?」
「いや、大丈夫。ちょっと借りるよ」
言って、ルークはテーブルにあったカトラリーの中から、ナイフを取り上げた。もう片手に構えたフォークで、そっとケーキの手前側を固定すると、まっすぐに刃をあてがう。一呼吸を置いて、ナイフを持つ片手が、なめらかに動いた。
「……おぉ」
小さな感嘆の息がもれる。ルークは、手にしたナイフを垂直に立て、真上から突き刺す格好でもって、ケーキに刃を入れた。小刻みに前後する動きと、そのまま押し切る動きを、生地の状態に合わせて、繊細に使い分ける。手前に添えたフォークのおかげで、パイとクリームの層を保ったまま、魔法のように、刃だけが進んでいく。ケーキを横倒しにすることも、ばらばらに崩壊させることもなく、ルークは見事に、一口分のケーキを切り分けた。
切り口もきれいなもので、クリームと生地の織り成す層が、仔細に観察出来る。専用の道具もなしに、まさしく、神技といってよい。ほっとしたように息を吐いて、ルークは顔をほころばせる。
「最初は、ぐしゃぐしゃに壊しちゃったんだ。でも、それで構造が分かったから、もう次からは──翌年からは、壊さずに切れた」
言って、ルークは、切り分けた一切れをフォークの先に掬い上げた。
「これは、カイトに上げるね」
「良いのか?」
「はい、あーん」
「……」
満面の笑顔で、ケーキを乗せたフォークを突き出され、カイトは極めて微妙な表情をした。その顔がよほど可笑しかったのか、ルークはくすくすと笑う。
「冗談、冗談。ここ、盛っておくからね」
適当な小皿を取って、ルークは小さく切ったケーキを置いた。それを垂涎の眼差しで見つめているのはノノハである。
「良いな…」
「ノノハさんにも、一切れ、はい」
「えっ、やったー!」
諸手を上げて、ノノハは喜びを表現する。その無邪気さは、食い意地が張っているという印象よりも、むしろ、微笑ましさを感じさせてやまない。名の通った逸品を味わうという、この経験が、きっと、彼女の今後のスイーツ作りにも、活かされていくことだろう。楽しみなものだ、とギャモンは保護者めいた感想を抱いた。
いただきます、と神妙に呟いて、ノノハはゆっくりと、フォークを口に運んだ。いかにも大切なものにするように、目を閉じて、その味わいを堪能する。舌の上に広がる極上の美味に、ノノハは瞬く間に表情を蕩けさせた。
「う〜ん、美味し〜! ね、カイト!」
「ん。結構いけるな」
珍しいことに、カイトも同意見であるらしい。口を動かしながら、満足げに頷いている。こいつは、こういう、お高くとまった食いものに対しては、シニカルな見方をする奴だった筈だが、とギャモンは少々意外に感じた。あるいは、これがルークにとって、特別なケーキであることを知って、柄にもなく、空気を読んでいるのかも知れない。
そのルークはといえば、ケーキを味わう二人を、微笑ましげに見守っていた。それから、ふと思い出したように、ギャモンの方を見遣る。
「ツンツン頭は……」
「俺はいい。お前が食え、白玉」
この調子で分割していけば、ルークの食べる分が、殆どなくなってしまう。本来は、彼一人に向けたプレゼントなのに、その主役が、たった一口しか食べられませんでしたでは、側近の想いが報われない。ギャモンは、ひらひらと手を振って、誘いを断った。
それじゃ遠慮なく、とルークは皿に残ったケーキを口に運んだ。美味いといって歓声を上げるでもなく、全身で喜びを表現するでもなく、一見すると、淡々と咀嚼しているように見える。それもそうだろう、彼にとっては、既に食べ慣れたケーキである。今更、新鮮な驚きを感じる余地はないだろう。
しかし、大仰な反応がないからといって、無感動であるというのではない。ルークの顔をよく見れば、それはすぐに分かることだ。
大げさではない、当たり前のように、満たされた表情。穏やかな光を宿す淡青色の瞳は、どこか遠くを見つめるようでもある。確かに、彼は、見ているのだろう。これまで毎年、目の前にあっても、その意味に気付くことの出来なかったものを、今、初めて、見つけたのだ。
目の前のケーキに、何年分もの思い出を重ねて、見つめている。そんな瞳だった。
フォークを置くと、ルークは軽くティーカップを傾けた。それから、唯一、お相伴にあずかれなかったギャモンに向けて、朗らかに微笑みかける。
「イソギンチャクは、かわいそうだから今度、POGに遊びに来るといい。きっと、不肖の部下が、特製の紅茶とケーキでおもてなしをさせていただくよ」
「何でお前らは、そんなに俺を職場に招きたがるんだ……」
つい先ほども、その不肖の部下とやらから同じ誘いを受けたことを思い出して、ギャモンは首を振った。一時期、組織に所属していたとはいえ、そう親しげに振る舞われても困る。ギャモンの内心を知ってか知らずか、ルークは平然と答える。
「面白いオモチャだから」
「てめぇ!」
「……って、ビショップが」
「あの野郎!」
今度会ったら、ただじゃおかねぇと、ギャモンはここにはいない、あのスカした青年を思って拳を握った。そこへ、行儀悪くフォークを口に挟んだカイトが、やる気のない態度で、横やりを入れる。
「諦めろよ、ギャモン。お前が弄ばれてるのは、いつものことだ」
「がんばって、ギャモン君!」
ノノハの励ましが、逆に心に痛いのは何故だろうか。そうか、俺は弄ばれているのか。帰ったら、妹に泣きごとを言ってしまいかねない。意に反して、目元から溢れそうになるものを堪えつつ、ギャモンは賑やかなひと時を過ごした。
結局、ルークの迎えが来ることはなく、彼は存分にお喋りとパズルに勤しんだ後、一人で帰っていった。
「……誕生日、か」
その夕陽に照らされた後姿を眺めて、ギャモンは小さく呟いた。