緋色の研究 -3-
■POG
「──昼間はどうも。無事にお届け出来たようで、なによりです。……そうですか、皆さまで愉しまれたのですね」
通路に規律正しい靴音を響かせつつ、黒衣の青年はそう言って、感謝の念を示した。外出時のラフな私服から着替え、今は、選ばれし者にのみ許された漆黒の制服に身を包んでいる。暫しの間を置いてから、彼は再び、口を開く。
「ええ、戻られていますよ。ただ、そのまま、お一人で部屋にこもられてしまって……今から少し、ご様子を窺いに行くところです」
漆黒のコートの裾を翻して、角を曲がる。耳に当てた携帯端末の向こうの相手に向けて、ビショップは軽く微笑んだ。
「楽しい一日を過ごされたのであれば、何よりですよ。私は、構いません。……いえいえ、折角のお誕生日、だからこそ、ですよ。……おや、これはもしや、お気遣いいただいているのでしょうか? ……照れなくても良いでしょう。初々しいことです……そんなにも、私ごときクズ星に興味を抱いておられるとは、存じませんでした。前途有望な青少年から、そんな思いを向けられるというのは、なかなかに気恥ずかしいものもありますが、お気持ちは嬉しく思いますよ。振り返ってみれば、あなたが私を見つめる瞳は、初めてお逢いしたときから、なにか特別な感情を秘めていたように思います。私は案外、あなたに憎からず思われていると考えてもよろしいので──おや、切られてしまいましたか」
苦笑して、ビショップは端末を耳から離した。純情な少年相手に、少々、悪ふざけが過ぎたかも知れない。端末を仕舞い、ビショップは目的の扉の前に立った。生体認証でロックを解除する。扉の開くタイミングで、青年は恭しく一礼した。
「──失礼いたします」
顔を上げつつ、ルーク様、と呼び掛けようとして、ビショップは直前でそれを取り止めた。目前に広がるは、POG管理官の広大な執務室である。照明を絞った、その整然たる空間の中央に設えられたデスクに、若き統率者が座している。しかし、澄んだ水底を思わせる淡青色の瞳が、入室してきた側近を捉えることはなかった。
机に上体を伏せた姿勢で、ルークはどうやら、うたた寝をしているようであった。細い肩が、規則的に上下しているのが分かる。机の上には、何枚もの紙が広げられているようだ。その姿を認めて、ビショップは小さく息を吐いた。
パズル制作をはじめとする職務に集中するあまり、適度な休憩も取らずに、力尽きたところでそのまま眠ってしまうのは、ルークの昔からの悪い癖だ。そうならないために、いつも傍にビショップが控え、適当なところで、休憩や気分転換を勧めるようにしている。たとえば、それは、最上級の茶葉を用いた午後のティータイムであり、あるいは、心安らぐアーモンド石鹸の香りに包まれる入浴の時間である。
腕輪から解放され、だいぶ常識や一般的な生活態度を身につけてきたルークであるが、やはり、ひとりでいると、昔のように無茶をしてしまうらしい。甚だ身体が休まりそうにない格好で仮眠を取っているルークを前に、ビショップは苦笑せざるを得なかった。
「こんなところで……お風邪を召されますよ」
諌めつつ、少年のもとへ歩を進める。側近にのみ立つことを許された距離にまで、近づいたところで、ビショップは目を瞠った。整った面立ちから、微笑がかき消える。
机の上に投げ出されたルークの掌が、薄闇にも鮮やかな、深紅に染まっていたからだ。
「……!」
危うく、声を上げかけたところで、ビショップは辛うじて踏みとどまった。落ち着いて、深呼吸をする。
よくよく見れば、それが、想像したようなものでないことは明らかであった。色が鮮やかすぎるし、液体ならではの艶もなく、あの生々しい匂いも感じ取れない。ただ、分かっていても、乳白の肌にべったりと付着した赤い色素は、強いコントラストで目に飛び込んでくる。
「いったい……」
青年は暫し、射抜かれたように、その掌から視線を逸らすことが出来なかった。立ち尽くす黒衣の足元に、小さな音を立てて、何かが転がる。我に返って、ビショップは床を見遣った。机から落ちたのだろうか、そこに転がるものを、長身を屈めて拾い上げる。
「……クレヨン」
掠れた声で、ビショップは呟いた。それは、紙巻きラベルに包まれた、何の変哲もない、赤のクレヨンであった。かなり使い込まれたらしく、長さは元の半分程度になっている。ルークの手に付着していたのは、おそらく、これであろう。学校教育の現場でこそ、ありふれたものであるが、しかし、POG管理官の執務室には、およそ相応しくない。
何故、こんなものが、こんなところに──疑問とともに、ビショップは周囲を見回した。その視線が、机の上の紙類へと吸い寄せられる。机の隅、散らばった白紙の下に、何か、隠れているものがある。そっと、紙を取り払って、ビショップはその下のものを見出した。
机の片隅で蓋を開けていたのは、色とりどりのクレヨンがずらりと並んだセットであった。いくつかの色は、ケースから取り出され、その辺りに転がっている。一見して、だいぶ、使い込まれた形跡を見て取れるクレヨンセットである。破れやよれが目立つ、くたびれた紙のケース。そこに並んで収められたクレヨンは、紙巻きラベルがはがれ、あるいは、本体が短くなったのに合わせて、千切り取られている。力を込め過ぎたのか、真っ二つに折れてしまっているものも見受けられる。
見比べれば、使い込まれた色と、そうでもなく、新品同様のまま減っていない色とを、明瞭に区別することが出来た。床に転がっていた赤をはじめ、茶色、紫、黒──短くなっているのは、特定の色ばかりだ。主に暗い色ばかりが短く減っていて、黄色や水色といった淡い色は、ほぼ新品同様である。
いったい、何を描けば、こういうことになるのだろうか──その答えを、ビショップは知っている。幼いルークが、このクレヨンで何を描いていたのか、知っている。
苦々しい思いで、ビショップは、赤のクレヨンを見つめた。
世界を巡る旅から戻り、管理官に復帰したルークが取り組んだことの一つが、過去の清算であった。
かつて、クロスフィールド学院の敷地内に置かれていた研究所は、既に1年以上前に閉鎖され、廃墟として荒れるままに放置されていた。施設の閉鎖命令を下したのは、当時、オルペウスの腕輪を嵌めていたルーク自身であったが、彼は、そこを更地にしようとはしなかった。研究員、および、囚われていた被験体のみを追い払い、後はそっくりそのまま、小物ひとつ、持ち出すことを許さなかった。制作途中の図面も、試作段階の模型も、机の上のコーヒーカップさえも、ある日ある時刻の状態のままに固定され、人間だけが、忽然と姿を消した、そんな在りようであった。
そうしておけば、あの頃に戻れるとでもいうように──あの頃、唯一無二の親友と森で過ごした、ひと夏の記憶を、繰り返し再生し、留めようというように。
忘れ去りたい、忌まわしい場所であるから、潰したかった、というのではない。そこから窺えるのは、大切なものが変質してしまわぬよう、固定し、密閉し、保管し、愛でる態度だ。
あの小さなルークの研究室は、彼にとって忌まわしい牢獄であると同時に、かけがえのない、温かな思い出に繋がる場所でもあった。あまりにも僅かで、ささやかな時間の記憶が残る場所。それを、ルークは、捨てることが出来なかった。
倫理、感情、常識、何もかもを、切り捨てることが出来るようになった筈のルークが、それだけは出来なかったということを、当時の自分は、もっと重要視すべきであったと、ビショップは今にして思う。中途半端な対処に終わった、あの廃屋の研究所こそが、その頃のルークの拠り所だった。あまりに脆く、今にも崩れそうになりながら、彼を支えていた──否、支えるというのは、相応しくない。それは、結局のところ、何らルークを救って引き上げる役には立たなかったからだ。むしろ、共に墜ちる、といった方が精確であろうか。あの頃の記憶だけを抱いて、ルークは、どこまでも墜ちようとしたのだから。
そこが、今の彼との、明瞭な違いだ。最早、ルークは、過ぎ去った思い出への逃避を必要としない。彼は先ごろ、かの施設の解体を、正式に決定した。美しい森林と小川、壮大な巨石文化の遺跡を擁するクロスフィールド学院に、有刺鉄線に囲まれたものものしい施設は、似つかわしくない。そこを更地にし、博物館か何か、学院の生徒のための施設を建てて有効活用して欲しいというのが、現在のルークの望みであった。
取り壊しに先立ち、研究所内部の備品が運び出されたとき、大半の物品は、既に持ち主がPOGを去っており、引き継ぐ者もいないという事情から、そのまま廃棄処分となった。残ったのは、ルークの『ラボラトリ』にあったものばかりだ。白い衣服、パズルの模型、書籍、ノート、それに、クレヨン。それらは、一つの荷物に纏められ、POGジャパンへと送り届けられた。過去の遺物でしかない、そんなもの、捨ててしまえば良いと、ビショップは思わないでもなかったが、ルークは、これだけは保管しておきたい、と主張した。
研究所を取り潰し、私物も捨てれば、何もかもを、無かったことに出来るかも知れない。しかし、そうはしたくない──赦されない、とルークは言った。覚えておくための、手掛かりとして、これだけは、残しておきたいのだと言った。主人がそう言う以上、ビショップとしても、異論を唱えることはなかった。
机の上のクレヨンは、そうして、クロスフィールド学院の研究所から回収した品物のひとつだ。倉庫に保管しておいた筈の、そのクレヨンを、ルークは何を思ったか、ここへ持ち出し、使っていたらしい。赤や黒が短く減っている理由は言うまでもない──パズルと、傷つく人体。それが、当時、幼いルークの描き出す絵画のテーマだった。
今、ケースから取り出され、机の上に散らばっているのは、新品同様の明るい色合いのものばかりであった。それらに囲まれて、ルークは安らかな寝息を立てていた。
何枚もの紙は、身体の下にも敷かれている。何かが描かれているようだが、身体に隠されて、内容は分からない。逡巡の後、ビショップは、意を固めた。
「……失礼いたします」
眠る主人の耳元に囁くと、ビショップは、その肩をそっと支えて、伏せた上体を抱き起こした。抑えきれぬ好奇心に、負けたかたちである。自分の胸にもたれかからせる格好でもって、力ない身体を安定させる。しかる後に、青年は、ルークが描いていたものに目を向けた。
それは、破片だった。破片の、絵であった。
数センチ四方の、色鮮やかな破片が、紙面の上に、几帳面に並んで描かれている。たとえパズル能力に欠ける一般市民であろうとも、これを見れば、すぐさま理解出来るであろう──ジグソーパズルの、ピースであると。
何かを模写したものではない。複製出来そうなパズルなど、この部屋のどこにも存在しないのだ。これは、ルークのオリジナルのパズルであるといってよい。
しかし、ジグソーパズル──仕組みとしてはごく単純で、最もポピュラーなパズルの一つである。素人にだって、作ることは難しくはない。適当に絵を描いて、細かく切り刻んでしまえば、出来上がりだ。難易度という意味では、むしろ、何も描かず真っ白のままにしておいた方が、より手応えが増すという点が、皮肉にも感じられる。
ソルヴァーにとってはどうだか知らないが、ビショップの見解では、さして、ギヴァーとしての食指をくすぐられるジャンルではない。パズルとして、シンプルで完成されているがゆえに、オリジナリティを付加する余地が少ないのだ。むしろ、究めるとすれば、工芸品、芸術品といった分野に近しくなることだろう。
だから、今更ルークがそんなものに関心を示したらしいことは、ビショップにとっては意外であった。とはいえ、そこは若きPOG管理官である。一筋縄ではいかない作り方をしている。
普通、ジグソーパズルを作るならば、絵柄を描き、しかるのちに、それを分割する。実に分かりやすいステップである。しかし、目の前の紙面に描かれたものはどうだろうか。既に、ばらばらになったピースが、ひとつひとつ描かれているではないか。それらを組み合わせた完成図は、どこにもない。
つまり、ルークは頭の中だけで、一枚の完成図を、これらのピース──数えてみると、50片であった──に分割し、ひとつひとつを、ランダムに取り上げては、紙面に再現していったということだ。気の遠くなるような作業である。自分自身、頭脳集団の要職にあるギヴァーの一人としても、ビショップは感嘆せざるを得なかった。この作業のために、いったい、どれだけの冷静で緻密な思考が紡がれたことだろうか。疲れて眠くなりもするというものだ。
改めて、ビショップはまじまじと紙面を見つめた。ルークの描いた、各ピースの輪郭線を、視線で辿る。ぴたりと嵌め込んで組み合わせることこそ、ジグソーパズルの根幹であり、解く快感であるからして、ピースの輪郭線合わせには、繊細な作業が要求される。はたして、このような手書きで、ピースはきちんと嵌るように出来ているのだろうか。
疑うわけではないが、ビショップはおもむろに、懐から携帯端末を取り出した。内蔵のカメラ機能を立ち上げ、目の前のパズルを瞬時に、画面の中に取り込む。指先を滑らせ、幾度かの操作を経ると、ディスプレーの中で、画像はルークの描いた通り、50片のピースの輪郭線に沿って切り抜かれた。それぞれのピースは、自由に回転、移動が可能となり、殆ど実物のジグソーパズルと同じ感覚で操作出来る。
これは元々、POGメンバーによって半ば息抜きとして開発されたアプリケーションである。機能としては、撮影した写真を、画面上でジグソーパズルにして遊べる、というシンプルなものだ。暇な人々は面白がって、雲ひとつない青空、あるいは白紙、あるいは実物のジグソーパズルのピースを撮影するといった具合で、いかに悪ふざけが出来るかを競ったものである。
今、ビショップが使った機能は、その拡張版である。パズルのピースを撮影することによって、画面上でそれを自由に動かし、解法のシミュレーションが出来る。外出先でも、移動中でも、家に残してきたパズルが気がかりな人間に向けて打ち出された機能である。使い勝手は、正直なところ微妙であるが、こういうときに役に立つのだから、捨てたものではない、と青年は感想を抱いた。まさか、ここで実際にルーク直筆の紙を切って、ばらばらのピースにしてしまうわけにはいかないことを思うと、実にありがたい。
黙々と、画面に指を滑らせて、ピースを組み合わせていく。手書きだというのに、その輪郭線は実に精緻で、気持ち良いくらいにぴたりと嵌る。正直いって、最初はたかがジグソーパズルとして、一段低く見てしまいがちであったが、実際に解き始めてみると、次第に気持ちが傾いていくのが分かる。はやる心を抑えて、ビショップはピースを操作した。
たとえ、ピースがばらばらの状態でも、絵柄に使われているだいたいの色の構成は把握することが出来る。ルークの周囲に散らばっているクレヨンの、明るく淡い色合いと、先ほどの赤を用いた絵柄であるらしいことは、一目で分かっていた。地道にピースを組み合わせていくと、次第に、文字のようなものが表れてくる。ばらばらの色で、ばらばらの場所に描かれたアルファベットは、解答者に適切な並べ替えを要求する。
「A……Antha(花)? ……否、Thank、か……」
一方、赤く塗られたピースの方は、何らかのイラストであるように見受けられた。ジグソーパズル自体、解くのにそう特殊な技術やひらめきを要するものではない。ある程度、時間さえかければ、必ず解けるものである。パズルに焦りは禁物だ。慌てることなく、ビショップは画面に指を滑らせ続けた。
「……解けました」
一つ息を吐いて、青年は独りごちた。動かし続けた指先を、画面から離す。ディスプレーの中には、一枚の絵が出来上がっていた。
中央には、赤い直方体。そして、周囲には、色とりどりのパステルカラーで、「Thanks」の文字が読み取れた。
文字の方は、絵の中に一文字ずつばらばらに配置されているため、確実なことは言えないが、おそらく、これ以外のアナグラムはあるまい。そして、画面中央のケーキは、どうやら、昼間ビショップが届けた、赤いベリーのミルフィーユを表現したものであるらしい。らしい、という、歯切れの悪い言葉を使わざるを得ないのは、その絵が、あまりにたどたどしかったからだ。
パズルのアイデアスケッチは、あれほど精密に線を引くというのに、ルークが描いたケーキの絵は、幼子のように拙いものであった。本当にこれが、悪魔的な精密さでパズルのピースをトレースしたのと、同じ脳、同じ指先で描かれたものであるのか、にわかには、信じ難いほどである。
しかし、その拙い線が、ビショップにとっては、愛おしくてならなかった。あのケーキを初めて前にしたルークが、刃を入れようとして、ぐしゃぐしゃに崩してしまったときのことを思い出す。それと、同じだと思った。
一回目、ルークは、上手く出来ずに失敗する。そして、その失敗をもとに、対象を完璧に把握し、次からは決して、間違えない。「次は、壊さずに切れる」──あたかも、それが疑いの余地なく、定められた未来であるかのように、ルークは確信をもって語っていた。
だから、これも、同じなのだ。パズルならば、ルークはたとえ目を閉じていようとも、完璧な線を引いて描き出すことが出来る。人の命を奪う、恐るべきパズル、無慈悲なるパズル、絶望のパズル、そんなものは、これまでに幾度となく創り出してきた。今更、何を迷うこともない。それらは、ラフスケッチの段階で、既に完成品である。いかなる一本の線を付け足すことも、取り除くことも不可能なまでに、完全なる調和を誇っている。
対して、初めて描くものは、そうはいかない。初めて描く──ケーキは、そうはいかない。
同じクレヨンを使っても、こんなにも違う。それは、ビショップにとっては、むしろ、喜ぶべきことのように感じられるのだった。もう一度、完成した絵を、丁寧に見つめる。
──あのクレヨンで、こんなものも描ける。
そんな、誇らしげな声が、聞こえてきそうな絵だった。
「う……」
小さな呻きと共に、ビショップの腕の中で、身じろぐ気配がある。毎朝そうしてやるように、青年は、ルークの耳元へ穏やかに囁きかけた。
「お目覚めですか」
「……うん」
開いたばかりの淡青色の瞳は、茫として、どこを見つめているとも知れなかったが、瞬きをしているうちに、記憶が繋がったのだろう。半ばもたれかかるようにしていたビショップの胸から、身を起こす。緩慢な所作で、ルークは手を伸ばし、机の上に散らばった紙をまとめ始めた。
余計な言葉を紡ぐ必要はなかった。目の前のパズルが、すべてを物語っていた。ビショップはそれを解読したし、ルークもまた、忠実なる側近が胸の内で何を思っているかなど、お見通しの筈だ。
ぽつり、とルークは呟く。
「壊さずに、切れたよ。皆で、分けたんだ」
それは、そっけないほどに簡潔な報告であったが、二人の間では、それで十分であった。ビショップは、穏やかに頷く。
「それは、良かったですね。本当に──良かったです」
心から、紡ぎ出された言葉だった。ルークの手元の紙面を、指先で、そっとなぞる。
その意味も知らずに、ひとりきりでケーキを食べていた、あの頃にはもう、戻らない。友人たちを通して、ルークは初めて、誕生日のなんたるかを知ったことだろう。そして、これからも毎年、続けていく。これが、新たな始まりなのだ。そのための役に立てたのであれば、ケーキを届けに参上した甲斐もあったというものだ。
軽く伸びをして、首をほぐすと、ルークはふと思い出したように、側近に向き直った。
「寝ている間に、新しい福利厚生を思いついたんだ。誕生日休暇。誕生日は、仕事を休んで、ゆっくりパズルをして過ごしましょう、って」
どうだろう、とルークは期待に満ちた目で、ビショップを見つめる。年若い主人の提案を受けて、忠実なる側近は、とりあえず、頬笑みを浮かべた。肯定も否定もしない、中立の立場を保ったまま、感想を述べる。
「……それでも、パズルはするのですね」
仕事がイコール、パズルであるところのPOG人員にとって、はたして、それは休暇ということになるのだろうか。単なる在宅ワークではなかろうか。斬新な発想は、まったくもって、ルークらしいというか、何というか──しかし、それもありかも知れない、とビショップは思う。
かつて、誕生日にすら、休むことを許されずに、その他の日々と変わりなく、パズルを作り続けていた幼子を、ルークは決して、「かわいそう」だとは、思っていないのだろう。あの頃、得られなかったものの代償として、今日はもう、パズルをしなくて良いのだと、優しく言われることを、彼は決して、望んではいない。
彼は、作り続ける。強制された状況ではなく、自ら、選び取っていく。そうして初めて、ルークは、もうどこにも存在しない、あの狭く閉ざされた薄暗い世界へと、降りていける。そして、そこにひとりで膝を抱える幼子を、優しく抱き上げることが出来るのだろう。
誕生日なのに、パズルをする──というのではない。
誕生日だからこそ、パズルをする。それが、ルークだ。
僅かばかりの時間、職務から解放され、自由きままに、好きなパズルを作って過ごす。今日の彼の行動は、図らずも、トップ自ら、新たなる休暇システムについての規範を示すことになったというわけである。
自らの最新作を記した紙面を撫でて、ルークは、ふっと息をこぼす。
「いつだって、パズルは、するさ。生まれたときから──生きている限り」
人生は、パズルだからね、と白い少年は快活に笑った。
ルーク様の楽しいお誕生日3つの赤い贈り物
2013.6.9-7.9