パズルガタリ 双頭の蛇と竜の心臓(プレビュー版)
サーガランド学園潜入調査を終え、世界を知るための旅を続けるルークとビショップ。
財布を失くし、「パズルの町」の老夫婦の家に身を寄せるが、そこへ現れた謎の案内人・ホイストは、二人を古城に招待する。
そこで二人を待ち受けていたのは──!
赤きオルペウス・オーダーとの命懸けのパズルバトルが、今、始まる。
■序章
間接照明が照らし出す室内は、年代物の装飾品が居並ぶ、重厚な空間であった。
足首まで埋まるほどの毛足の長い絨毯が床を覆い、天井の高さを活かした広大な壁面には、縦横五メートルはあろうかという、手の込んだタピスリーが掲げられている。
「そう、レスティ、失敗しちゃったの。あれだけのことしてたら、そりゃそうね。ま、予想はついてたわ」
吐息混じりのハスキーボイスを紡ぎ出す唇は、鮮烈な紅に彩られている。
薄闇は、その面に深い影を落とし、長い赤毛に隠れた表情は窺い知れないが、口元は、己の価値を知り尽くした者に特有の微笑を刻んでいた。
流麗なる曲線を描く長い脚を、気だるげに組み替える。
「あんな女、捨て駒だっていうのにねえ……哀れなこと」
声の主は、軽く肩をすくめつつ、ワイングラスを傾けた。触れるのを躊躇うほどの繊細なグラスの中で、深紅の液体が鈍く光を反射する。
テーブルの上のボトルに貼り付けられたラベルには、武装した流麗な美青年の横顔が描かれている。
見る者が見れば、それが『竜の血(ドラッヘンブルート)』と呼ばれる、古の英雄物語に題材を取った赤ワインの一品種であることを悟ったであろう。生産されたその大半が地元で消費され、国外からの入手経路は限定されるため、この地を訪れたならば、まず味わわぬ手はない逸品である。
はたして、この赤き麗人とひとときの同席を許された幸運なる者は、いかなる男であろうか──しかし、向かいの席に、酒を酌み交わす相手は座していなかった。豪奢な天蓋つきの寝台の上にも、閉ざされた扉の脇にも、一切の人影は見当たらぬ。
ワインとグラスをはじめ、この室内のすべては、あくまでも、ただ一人のゲストのためだけに用意されていた。
今はこの場にいない相手に向けて、艶めく唇は哄笑を刻んだ。
「あら、そうして中立者を気取るの? 本当のことを言っただけじゃない……はじめから、切り捨てるつもりだったんでしょう?」
携帯端末を行儀悪く肩と耳に挟んで固定し、自由になった両手は、机上のプレイング・カードの箱を取り上げた。喋りながら、赤く塗られた形の良い爪で封を切り、中身を取り出す。
「あんな、『いかにも』な舞台で、『いかにも』な事件を起こして……まるで、三文芝居。まあ、彼らを招き寄せる餌くらいの役には、立ったけれどね」
長い指が、器用な手つきでカードをシャッフルする。鮮やかに弾かれたカードは、魔法のように、右手から左手へと自在に移動する。新品のカードは、今や、完全にシャッフルされていた。その中から、気まぐれとしか思えない手つきでもって、十三枚のカードが引き抜かれる。孤高なるディーラーは、それを扇のように片手で広げた。
「あたしとしては──物足りない」
ここが舞台上であれば、観衆の盛大なる拍手と喝采が響き渡ったことであろう。表を向けて広げられたプレイング・カードのスートは、いずれも赤──それも、ハートのみで構成されていた。
しかし、ここには、その妙技を鑑賞する者は誰もいない。つまらなそうに、プレイヤーは、クリスタルガラスの灰皿に向けて、手札を放った。ぱらぱら、と頼りない音を上げて、赤のカードが舞う。
「これで、我ら『騎士団(オルフォイス・オルデン)』を推し量られては、たまらないわ。あなたも、そう思うでしょう?」
ハイヒールの脚を組み替えて、麗人は唇の端を上げた。ほっそりとした首筋を、思い切り反らして哄笑する。
「言われなくても──次は、あたしが、おもてなししてあげる。素敵な舞台を用意しておいて頂戴、ミスター(ヘア)・ホイスト」
悩ましげに呼び掛けて、端末を切る。
「楽しませて貰うわよ、POG」
背中までの赤毛をかき上げる片手──その手首には、アクセサリーというには無骨で仰々しい、黄金の腕輪が嵌っていた。
■第一章 旅の心得
全面ガラス張りの壁面から降り注ぐ、昼過ぎの穏やかな陽光が、ラックに吊られたカジュアルな衣料品を、輝かしく包み込んでいた。
たった今、コーディネートを担当した客を送り出した店員は、次なる来客を待って、静かに準備を整えていた。広げた衣服を、皺ひとつないよう丁寧に畳み直し、商品が最も映える角度にディスプレイを微調整する。
「失礼(エントシュルディグング)。白のジャケットを探しているのですが」
そんな声を掛けられ、愛想良く振り返った若い店員は、思わず営業用の笑顔も忘れて、目を瞠った。目の前に佇んでいた相手が、滅多にないほどの美形であったからだ。
聖職者を思わせる柔和な面立ち。鳶色の髪の下に、深い知性を感じさせるエメラルドの瞳が、静かな光を湛えている。
引き締まった細身の長身に纏う黒の上下は、ありふれた軽装であったが、主張がないだけに、着用者の素材の良さを引き立ててやまない。
若くして落ち着き払った丁重な物腰と、よく通る美声は、古き良き名家の執事を彷彿とさせた。
職務上、姿の良い若者と間近に接する機会が多く、目の肥えている筈のブティック店員さえも、現実感を喪失してしまうほどの美青年であった。
「は、はい、白のジャケットですね。お客様でしたら、こちらの……」
「あぁ、いいえ。私ではなく──」
苦笑して、青年は己の傍らに目を向けた。店員も、つられてそちらを見遣る。
またしても、彼女は目を瞠ることとなった。
窓から射し込む陽光を浴びて、そこに立っていたのは、白い子どもだった。まるで、たった今、空から降りてきたような、地上に足をつけていることが不思議に感じられるほどの、頭から爪先まで白い少年だった。
勿論、その身体は、冗談のような紺色のスポーツウェアとスニーカーに守られていて、視認は出来ないが、白いという以外に相応しい言葉のない少年であった。
色素の抜けきった、見事な白金の髪。瑞々しい乳白の肌。片方を隠した瞳は、澄んだ水面の淡青色で、理知的な光を宿している。
黒の青年と、白の少年。家族関係があるようには見えない。友人というには、年齢が離れている。
しかし、どこか、似通った雰囲気を纏う二人組であった。いったい、彼らはいかなる関係であるのか、店員は否応なしに好奇心を刺激された。
とはいえ、個人的感情を表に出しては、接客のプロフェッショナル失格である。店員は努めて平常心を装い、二人組にコーディネートを提案した。
客の青年は、白のジャケットという条件だけは譲れないらしく、並べられた候補をじっくりと吟味した。
実際に着用するのは、彼ではなくて、白金の髪の少年の方である筈だが、当の本人は、暇そうにきょろきょろと辺りを見回している。格好から推察するに、あまりファッションに対する興味がないのかも知れない。
それにしても、そんな少年に着せる衣服を、このように真剣な表情で選ぶ黒衣の青年は、いったい何者なのであろうか。謎は深まるばかりであった。
結局、青年は、襟元にベルトをあしらったデザインが特徴的な白のジャケットを選定した。これにしましょうかと問う青年を、白い少年は一瞥すると、何でも良いよとだけ答えた。店内の散策にも、そろそろ飽きてきたらしい。
張り合いのない反応であるが、青年はそれで満足であったらしく、これをいただきます、と店員に告げた。それから、ゆっくりと店内を見渡す。
「素敵なお店ですね。納得のいくものを探して、随分と歩きまわりましたが、最後にここに辿り着けた幸運に感謝します」
穏やかに紡がれる美声に、店員は思わず頬を赤らめた。店に対してではなく、自分が称賛されたかのような心地でもって、瞳を蕩けさせる。
「まあ……お気に召していただけて、良かったですわ」
「他にも、何かおすすめの品物があれば、見せていただけますか」
「ええ、もちろんです」
極上の微笑とともに囁かれた台詞に、店員は舞い上がりつつも、張り切って店中の衣装をかき集めた。
「インナーは、こちらのラベンダー色がよろしいでしょう。色白でいらっしゃるから、きっと、よくお似合いですわ。それから、こちらは襟元のデザイン違いで、……」
活き活きと紡がれる店員の説明を、黒衣の青年は興味深そうに聞いていた。店員としても、ここは腕の見せ所であった。
客は、どうやら、あの少年に着せる服に並々ならぬ思い入れがあるらしい。凡庸な提案では、彼の期待を裏切ることになる。
この店を見込んで、コーディネートを依頼されたからには、全力でそれに応えねばなるまい。
なにしろ、このような、白金の髪に乳白の肌という稀有な容姿の少年を飾る経験は初めてで、緊張が無いといえば嘘になるが、それよりも、やりがいの方を強く感じていた。
彼を立派にスタイリング出来て、はじめて自分は、一人前の店員を名乗れるような気がする。
これは、天から与えられた試練であるかも知れない──そんな思いで、彼女は衣装を身繕った。
「素晴らしい。よくお似合いです」
更衣室から出てきた少年に、店員が掛ける筈であった言葉は、そのまま、黒衣の青年に先んじて奪われてしまった。
白い少年は、そうかな、と気恥ずかしげに目を伏せる。実際、お世辞ではなく、白のジャケットは彼によく似合っていた。
店員のコーディネートにより、首元にベルトをあしらった白のジャケットに合わせるのは、ラベンダー色のシンプルなインナー。下は、細身の白のパンツである。
それは、少年の瑞々しい肢体、幼さを残した無垢な面立ち、利発そうな淡青色の瞳を、よく引き立てていた。
こうしてみると、何故、これまで、あのような地味な紺色のスポーツウェアを纏っていたのか、本当に不思議なことである。
あの服に比べれば、大抵のコーディネートは、まだましに見えるのではないか──などという、失礼なことを考えている自分に気付いて、店員は慌てて考えを打ち消した。
慣れた手つきで、裾や襟元の微調整をしてやっていた黒衣の青年は、その出来栄えに満足げな笑みを浮かべた。改めて、店員に向き直る。
「では、こちらを一式、いただきましょう。このまま、着ていきます……ああ、それから、こちらと同じ色のストールはありますか?」
少年のラベンダー色のインナーを指して、彼は問うた。店員はすぐさま、バックヤードから、あらゆる紫のストールを探し出した。
赤みの紫から、青みの紫まで、並べて広げたストールは、美しいグラデーションを描いた。青年は暫し、それらを眺めていたが、そう経たずに、ある一枚を取り上げる。
音もなく、彼は優雅な手つきでもって、それを首に巻いた。空気抵抗さえも、青年の意のままであるかのようななめらかさで、ストールは従順に青年の首筋に寄り添った。
陶然として、一連の所作を見守っていた店員は、どうでしょう、と問う青年の声で、はっと我に返った。
「お揃いですわね。素敵です」
慌てて答えると、青年は、よく出来ましたといって生徒を労う教師めいた微笑を浮かべた。
実際、そのストールは、彼によく似合っていた。着こなしによって、上品にも下品にもなり得る紫は、初心者にとっては、難易度が高い色である。それを、黒衣の青年は、完璧に己の下に従えていた。
黒で固めた衣装は、それだけでも彼の美貌を引き立てるものであったが、硬質で近寄り難い印象は拭えない。
一方、そこへストールの紫が加わることによって、躍動感と適度な柔らかさが生まれ、黒の強い印象を和らげてくれる。
たった一つの小物がコーディネートに与える影響の大きさというものを、店員はよく心得ていた。
白い少年と、黒い青年。まったく正反対に見える二人が、同じ一つの色でもって繋がっているというのは、何か特別なことのように思えるのだった。
新しい衣服に身を包み、並んで店を出て行く彼らの後姿を、彼女はいつまでも見送っていた。
年若い主人の衣装については、たっぷりと時間を掛けて吟味したというのに、自分自身の買い物は早いんだな、とルークは黒衣の側近を見つめて思った。
少年の忠実なる側近──ビショップは、ここを訪れる前、最初に立ち寄った店で、殆ど、即決といって良い速さで、全身のコーディネートを完了している。
それは、決して、ファッションに頓着しないということではなく、逆に、己に相応しいものを知り尽くした者ならではの、迷いのない振る舞いであった。
その彼が、最後の店で、ようやくルークの服を選定し、ついでに自分のストールも買ったというのは、意外なことであった。
一度、完璧に作り込んで完成したパズルに、別の要素を付け加えるのは、彼らしくない。ルークは首を傾げた。
買ったばかりのストールの端を摘んで問う。
「首、寒いの?」
「いいえ。ただ、なんとなく、欲しくなってしまったのです」
「ふぅん」
そんなこともあるのだな、とルークは小さく納得した。
それにしても、服を着替えてから、道行く人の視線をちらちらと感じる。
勿論、これまでも、どうも幅広い年代層の男女の注目を集めずにはいられないらしいこの側近の隣にいるおかげで、周囲からの視線には慣れているつもりだった。
しかし、今度はビショップのみならず、ルークまでもが、観察対象になっているような気がする。
街角のショーウィンドウに映る、自分たちの姿を、少年は横目でそっと窺った。
白と、黒──なるほど、このコントラストがあまりに強烈で、人々の関心を引いているのだな、とルークは理解した。
POGで職務にあたっていた頃も、そうだった。崇高なる指導者の純白の衣装を纏うルークに対して、ビショップはいつも、闇色のコートに身を包み、影のように控えていた。
そうすることで、彼は己の仕える者をより白く、より高く、より輝かしく演出し、人々に畏怖の念を生起せしめていたことを、ルークは知っている。
対照的な衣装は、お互いの差を明瞭に区別し、互いを可能な限り引き離して落差をつけるための装置にほかならなかった。
今は、どうだろう、とルークは思う。側近の首のストールと、自分のジャケットのインナーを、交互に見つめる。その意味は、まだ、よく分からなかった。
「さあ、次は、あちらの店に行ってみましょう」
妙に生き生きとしている側近に導かれるまま、ルークは引き続き、「買い物」に勤しむのだった。
サーガランド学園における、謎の失踪事件の捜査から、その背後にうごめく組織──オルペウス・オーダーの存在を突き止めたルークとビショップは、ひとまず北欧を去り、大陸を南下していた。
学園に残された僅かな手掛かりから、現地のPOG支部を中心に、かの組織および失踪した生徒たちに関する調査を続けているが、成果は芳しくないという。
相手の規模も意図も、未だ不明瞭な点が多くある以上、こちらとしても、動きようがない。結局、当初の旅の予定を出来るだけ活かしつつ、警戒を怠らず、何か事態に展開が見られた際にはいつでも行動に移れるよう準備を整えておくというのが、今のルークたちに出来ることのすべてであった。
すぐにでも職務に戻り、『騎士団』なる組織の全容解明に取り組む覚悟であったルークを、根気強く説得し、旅を続けさせることにしたのは、ビショップの判断であった。
この機会を逃せば、ルークはまたいつ、外の世界を見て回ることが出来るか分からない。
外部からの横槍によって、その貴重な時間が奪われ、またあのがらんとした執務室にルークを送り返すことに、ビショップは乗り気ではなかった。
あくまでも、当初の目的通り、ルークに広い世界を見せることこそを、彼は、第一の優先事項に置いていた。
──そのことが、いずれ、何より、あなたの力となるのです。
そう言って、ビショップは、躊躇うルークを説得した。
目前の問題にばかり囚われていては、解けるパズルも解けない。チェスをはじめとする盤上遊戯がそうであるように、求められるのは、大局を見る力である。
世界を知らぬ者に、世界は解けない。これは、将来に対する投資なのであり、立派な職務の一環であると、言い聞かせた。
最終的には、お前が言うなら、とルークは納得したのだった。
そうした事情から、二人は旅行者の装いで、街中を歩きまわっていた。...
■第四章 永劫回帰の塔
ヨーロッパ北部六カ国にまたがり、北海へと注ぐ、全長一二〇〇キロの国際河川──通称「父なる川(ファーター・ライン)」。
かつてより水運で栄えた、その河岸一帯は、緩やかに蛇行する河岸に、中世の古城が数多点在する、ロマンチックな景観で知られている。
その多くは、数百年の歴史の中で幾度も持ち主を替え、現在は物好きな金持ちの別荘として、あるいは道楽の美術館として、あるいは内部を大幅に改造した近代的な高級ホテルとして、第二の人生を歩んでいる。
これらの城の所有権は、想像するほど高額で売買されているわけではない。ただ購入するだけであれば、一市民にとっても、決して不可能ではない。
とはいえ、古城とは、買えばそれで終わりというものではない。人の手の入らなくなった建物というのは、たちまちのうちに朽ち果てていく。
城に住まうということは、常に手入れとメンテナンスを欠かさずに、現状を保つ努力をしていくことでもある。その維持費は莫大な額となり、城の資産価値を軽く上回りさえする。
効率を求めれば、かつて没落貴族が、金ばかりかかる代々の居城を次々に手放したことも、納得がいくというものだ。いまどき、かような物件に手を出すのは、よほどの物好きだけであろう。
眼鏡の案内人自らが運転するリムジンが止まったのは、そんな古城のひとつであった。
富と権力の象徴として優美さを競う白亜の城とは一線を画する、堅牢なる巨体は、要塞と呼ぶのが相応しい。
見たところ、外壁も庭も、よく手入れがなされている。在りし日には、城の防衛に大いに貢献したであろう、天を衝く見事な塔は、見学料を徴収する観光名所にもひけをとらぬ、重厚な歴史を感じさせてやまない。
これだけのものを維持するためには、いかばかりの資金と人手が必要であることか──禁欲的な思想集団の施設にしては、あまりに堂々たる威容を仰ぎ見て、ビショップは呟く。
「随分と、潤っているようですね。かつては、ただの田舎の一分派であったと記憶していますが──」
「──それは隠れ蓑、か」
推測を交わすと、白い少年とその忠実なる側近は、一つ頷いた。
サーガランド学園の一件から感じていたことであるが、『騎士団』なる組織の活動は、いち思想集団には似つかわしくない資金力、および影響力の存在を窺わせるところがある。
いったい、いかなる権力と結びついたのか──あるいは、乗っ取られたのか。いずれにしても、その背後の関係を探らねば、組織の実態を掴むには至らない。
ここまで来た以上、何らかの手土産は持って帰らねば──それが、ルークとビショップの抱く共通目的であった。
「どうぞ、こちらへ」
白手袋を嵌めた掌で、恭しく道を指し示す男に続いて、二人は陰鬱なる古城へと足を踏み入れた。
歩調を乱すことなく、ホイストはふと、思い出したというように語る。
「そうそう、ご存知でしょうか。この一帯は、古の英雄の竜退治の伝承の舞台として知られております」
竜殺しの英雄──その古代叙事詩の一節を描いた壮麗なる天井画は、先日、サーガランド学園で目にしてきたばかりである。
英雄は、財宝を守る竜に打ち勝ち、その血を全身に浴びることによって、不死の肉体を得た。そして、その心臓を喰らうことによって、鳥のさえずる言葉を理解出来るようになったという。
絵の中で、血塗れの戦士は、戦利品を高々と掲げ、勝利の喜びを表現していた。その手の中にあったものは、確か──
「財宝の中には、世界を支配出来る力を秘めた、黄金の指輪があったとか」
心を読んだかのような絶妙のタイミングで、ホイストは付け加えて言った。
リングという単語に、こちらが過敏にならざるを得ないことを知った上で、あえて話題に出したのだとすれば、悪趣味であると言わざるを得ない。案内人の後姿を、ビショップは無言で睨めつけた。
一方のルークは、顎に指を当てて独りごちる。
「鳥や獣の言葉を理解出来る指輪の伝承は、各地に例がある……彼らが嵌めたのは、あるいは、オルペウスの腕輪の一種であったのかも知れない。強制的に活性化させられた脳は、獣の思考パターンさえも、トレース出来たことだろう。そして、その処理能力をすべて戦闘に振り分ければ、不死であるかのごとく、超人的な働きが出来た筈だ。特別な力があったのは、竜の血や心臓ではなく、リングの方だったのかも……」
誰に聞かせるでもなく、口の中で呟かれた声は、隣の側近以外の耳に届く筈もなかったが、ビショップは、前を行く男が、微かに笑みを浮かべたように感じた。
城門を潜り抜けて見上げれば、頭上に掲げられた紋章が、この地を所有する団体を証していた。
来訪者を歓迎するというよりは、威嚇することを目的とした演出であろう。堂々たるタピスリーを仰いで、ビショップは翡翠の瞳を眇める。
「双蛇と『真実の眼』──ですか」
深紅に染め上げられた眼球は、無感動に虚空を見上げているようだ。その得体の知れぬ不安感は、緋色に輝いて未来を視る、あの瞳に相対したときの感覚に似ている。
牙を剥き出しにした、二匹の蛇は、黄金比の秘密を守る、智慧の番人であろうか。洞窟の財宝を守って英雄と死闘を繰り広げる、竜の姿が重なる。あるいは──
「互いの尾を喰らい合い……永遠という、円環を作り出すのか……? 黄金比を、その体内に呑み込み、……幼児の万能感に似た、閉ざされた世界で──」
「……ルーク様、」
淡青色の瞳は、タピスリーの「真実の眼」を、瞬きもせずに見つめている。少年の肩を、ビショップはそっと包んだ。
「あ……」
はっと我に返ったように、薄い肩が跳ねる。その隙に、ビショップの長身はさりげなく少年の視界を遮って、紋章から注意を外させた。
「さあ、行きましょう」
軽く背中を押して促す。ルークは、何事かを思案するように目を伏せていたが、側近の導くままに、歩を進めた。
予想の通り、城の内装はクラシカルな雰囲気を残しつつも、真新しく清潔に改装を施されていた。
訪れる者によっては、情緒がないといって憤慨するであろうし、あるいは、伝統と現代の融合といって誉めそやすであろう。
蝋燭に代わってLEDライトが照らし出す、真紅の絨毯敷きの廊下を、三者は一定の距離を保って進んだ。
「──ルーク様。ご気分が、優れないのでは」
城に入ってからというもの、言動に不安定なところのある少年を案じて、ビショップは問うた。
俯き加減の横顔には、なにかを堪えるような色が滲み、血の気が引いて見える。鋭敏な感受性と緻密な観察眼によって、年若い主人が何らかの脅威と戦っているらしいことは、側近にも理解出来た。
「いや──」
気遣わしげに囁きかける側近に、ルークは小さく首を振ってみせた。そっと、己の右腕を押さえる。そこに何も嵌っていないことを確かめるように、ぎゅ、と布地ごと握り締めて、ルークは今一度、呟く。
「……大丈夫だ」
...
■第五章 心臓の賭け
「くっ……!」
大きく跳躍してその場を飛び退るや、それまで彼が立っていた空間を、無数の槍が切り裂く。
うねりを上げて迫る一本を、目と鼻の先で辛うじてかわすが、避けきれなかったストールの端が、大きく裂けた。
「……どういうことです、いったい……」
はぁ、と荒い息を吐いて、ビショップは呟いた。客観的にいって、青年は苦戦していた。
ゲーム開始直後から、ビショップは順調に迷路を攻略し、七階までを上った。各フロアの見取り図の方角はばらばらであったので、どの階段とどの階段が通じているのかを、自ら足を運んで把握し、まずは向きを揃えた。
しかるのちに、ルートを設定する。罠が仕掛けられているとはいえ、そこは通過出来ない以上、壁と同じであると考えれば良いのだから、さして煩雑ではない。ただの迷路の攻略に、手間取るビショップではなかった。
ここまでくれば、もうゴールは見えている。相手の位置を気にしつつ、適宜、トラップを作動させていけば良い。
方針を定めると、ビショップは、先ほどのルートとは独立して存在している別のルートを利用すべく、ある階段から六階へ降りた。
そこまでは、いたって順調であったのだ。迷宮独特の陰鬱な雰囲気にも慣れ、ゴールはもう間近であるように感じた。
大きな口を叩いてはいたが、所詮、オルペウス・オーダーとは、この程度のものであるかと、やや拍子抜けですらあった。
しかし、フロアに降り立った瞬間、青年はその場に立ち尽くした。強烈な違和感が、脳を襲ったのだ。
「……これは……?」
フロアマップと、眼前の通路を見比べて、ビショップは戸惑いの声をもらした。
あるべき位置に、道がない。一瞬、自分に何が起こったのかが分からなかった。信じられない思いで、眼前の光景を見つめる。
地図に書かれている通りであれば、階段を降りた目の前の通路は、右に折れる一本道であった筈だ。しかし、どう見ても、目の前にあるのは、十字路である。
茫然とした状態から、我に返って、ビショップの脳は烈しい混乱に襲われた。記憶を辿りながら、食い入るように地図を見つめる。
確かに七階では、この道をこう通り、ここを折れて、この階段を使ったのだ。地図の通りで、間違いない。
しかし、それでは、目の前の通路は何なのか?
考えられるのは、降りる階段を間違えたか、あるいは、地図の情報が間違っているか、どちらかである。
両方の可能性を考慮しつつ、ビショップは慎重に歩を進めた。地図と照合すれば、現在位置が分かるかも知れない。
そして、ビショップは、どうやら自分の降りる予定であった階段の、ひとつ隣の階段から降りてしまったものらしい、と結論付けた。地形を見る限り、それは間違いがなかった。
痛恨のミスである──己のふがいなさを噛み締めつつ、ここからは気を引き締めてかからねば、と決意した。
ともかく、早急に、正解のルートに戻らねばならない。ここからであれば、一旦、下の階に下りるのが効率的であろう。そう判断して、ビショップは五階へと下りた。
そして、一歩踏み出した、そのときだった。
「……っ!」
無理な体勢から、床を蹴って後ろに跳んだのは、反射以外の何物でもなかった。次の瞬間には、鼻先の空間を、轟音とともに落下した鉄格子が分断している。
危うく、脳天を砕かれて押し潰されるところであった──咄嗟に飛び退ったままの体勢で、ビショップは乱れた息を吐いた。
「ば──ばかな、」
この位置に、トラップは存在しない筈だ。何度も確かめてから、階段を下りたのだから、間違いない。
下りてすぐの道に罠が仕掛けられているから注意しなくてはならない、と思ったブロックは、確かにあったが、それは、まったく別の位置の筈である。
何故、それが、ここにある。地図と、目の前の光景とを、茫然と見比べる。
何が起こっている──いったい、何が──
地図の故障か、あるいは、罠だろうか。卑劣な、とビショップは歯噛みした。解答者を助けるためではなく、足を引っ張るために、親切面をして誤った情報を与えるなど、まったくもって、美しくない。
しかし、敵から与えられた道具を、そのまま信用する方が愚かであるというのも、確かに一理ある。
その辺りの考え方は、ギヴァーによって異なるものであり、たとえば、更迭された元・極東本部長などであれば、嬉々として解答者を陥れる策謀を練るであろう。
まして、相手は、得体の知れぬ謎の組織である。どれほどの倫理観を備えているものかどうかも怪しい。
当然、ここにも何らかの仕掛けが施されていると疑ってしかるべきだった。己の甘さを悔いて、ビショップは歯噛みした。
「オルペウス・オーダー……同じギヴァーとして、こういうやり方は、あまり歓迎出来ませんね」
あてにならないマップの現在位置表示を、本来あるべき位置へと、脳内で調整する。そのうえで、正しいルートを選択すると──軽く頷いて、青年は端末を閉じた。
不完全なマップなど、見るだけ混乱のものである。己の脳内の立体地図だけを信じて、ビショップは迷宮を駆け出した。
[ to be continued... ]
夏コミ新刊・旅の主従&ホイのパズルノベル『パズルガタリ』プレビュー(→offline)
2013.08.04