はじまりのおはなし(プレビュー版)
...白いふわふわは、鬼火ではありませんでした。森の動物でもなければ、植物の綿毛でもありませんでした。こちらに気付いた様子はなく、地面にしゃがみこんでいる、それは、子どもの頭だったのです。
年齢は、ピノクルと同じくらいでしょうか。見たことのない、白い服に身を包んでいます。学園の子じゃないのだろうか、とピノクルは思いました。頭は白いふわふわで、服も真っ白なものですから、人間の子どもというよりも、絵本から出てきた、森の妖精といったほうがぴったりでした。
その子どもは、手に木の枝を握って、地面に何かを彫っています。一生懸命、何をしているのだろうかと、ピノクルは首を伸ばしました。クラスメイト達がしていることには、首を突っ込むどころか、視線を逸らしてしまうピノクルですが、今ばかりは、不思議と身体が動いていました。白い子どもは、あまり、人間という感じがしなかったためでしょう。
落ちかかる前髪の間から、ピノクルは地面へと眼を凝らします。そして、そこに書かれているものを見て、はっと息を呑みました。
それは、パズルでした。整然とした升目と、数字の配列。迷うことなく、白い子どもは、それを描き上げていきます。
あまりになめらかな指先の動きに、何かを書き写しているのだろうか、とピノクルは思いましたが、辺りには教科書も何もありません。驚くべきことに、白い子どもは、何も見ることもなしに、その場ですらすらと、パズルを作り出しているのでした。
ぱき、と、ピノクルの足元で、小さな音がしました。見れば、足の下で、小枝が折れています。しまった、と思ったときには、音につられて、白い子どもが、顔を上げていました。
その顔を見て、ピノクルは、やっぱり妖精だ、と思いました。あまり日光に当たったことのなさそうな、白い肌。ほのかに紅潮した頬。驚いたように、まじまじとこちらを見つめる瞳は、淡く澄んだ水面の色です。これまで周りにいた、同年代の子どもたちの誰とも違う不思議な空気を、白い子どもは纏っていました。
何か言わなくては、とピノクルは思いました。覗き見をしていたという負い目もありました。そのまま逃げてしまっても良かったし、いつもはそうして教室を後にするのに、ピノクルは、そうしようとはしませんでした。きゅ、と拳を握り、一生懸命に、言葉を絞り出します。
「あ……その、パズル……」
こくりと唾を呑み込んで、ピノクルはようやく、それだけ紡ぎました。何と言ったらよいのか、分かりませんでした。それでも、少年にとっては、なけなしの勇気を振り絞った、精一杯のことでした。
自分の作品を指差されて、白い子どもも、はっと我に返ります。
「こ、これ……? うん、パズル……」
ただそれだけの、何の意味もない遣り取りでした。それでも、ピノクルは、通じた、という驚きに満たされました。
もしかしたら、こちらの言うことが分からないかも知れない、自分も向こうの言うことが分からないかも知れない、と心配していたからです。妖精は、妖精同士にしか通じない言葉を使うのだといいます。目の前の白い子どもが、自分と同じ言葉を喋っていることが、むしろ、不思議なくらいでした。
一言だけの遣り取りで、会話は途切れてしまいました。言葉もなく、お互いが、お互いを見つめ、なんとか推し量ろうとしていました。
何か言わなくては、とピノクルは焦りましたが、焦るほどに、何を言えばいいのか分からなくなりました。同じ学院の生徒であれば、会話の糸口はいくらでもあります。人見知りのピノクルでも、何とか話題を見つけることができたでしょう。
しかし、ピノクルの目の前にいる相手は、何一つとして、ピノクルと同じ知識を有していそうにありませんでした。これは、いよいよ本当に、パズルの妖精かもしれない、とピノクルは真剣に疑いました。
そうしているうちに、先に動いたのは、相手の方でした。
「あの……これ、やる?」
おずおず、と白い子どもは、握っていた木の枝を差し出しました。もう片手で、地面に描いたパズルを指します。
思わぬ展開に、ピノクルはたじろぎました。見れば、地面のパズルは、いかにも高度そうです。こんなパズルは、授業でも、まだ解いたことがありませんでした。特別にパズルが上手というわけでもないピノクルには、とうてい、手に負えないことでしょう。
それから、ピノクルは視線を上げて、白い子どもの表情を窺いました。相手は、少し心配そうに眉を寄せて、ピノクルの返事を待っています。
ああ、この子も、勇気を出して誘ってくれたのだ、とピノクルは分かりました。それが、どれだけ難しいことであるのか、引っ込み思案なピノクルは、よく知っています。そんな相手の思いを、無下にしてはいけない、と思いました。
「う……うん、やる……」
小さな決意を固めて、ピノクルは、その場に膝をつきました。その返事に、白い子どもは、本当、と声を弾ませました。輝くばかりの笑顔に、ピノクルも、ぎこちなく微笑んで応じました。
木の枝を、白い子どもから受け取ります。そのとき、掠めた指先は、柔らかくて、けれど、少しだけ冷たく感じました。
結論からいうと、パズルは、ピノクルにとっては、あまりに難しいものでした。いったい、どこから手を付けたら良いのかもわかりません。
もしも、これが新聞に載っているパズルであれば、難易度の星は最高レベルが付いても、なお足りないくらいでしょう。考えれば考えるほどに、頭がこんがらがって、わけが分からなくなります。
手も足も出ずに、悩み苦しむピノクルを、白い子どもは、心配そうに見つめています。そんな風に、見ないでよ、とピノクルは思いました。パズルをやる、と言ったときの、あの嬉しそうにはにかんだ笑顔が、自分のせいで、次第に曇っていくのを間近で見るのは、辛いものでした。ピノクルは、どんどん悲しい気持ちになりました。木の枝を弄っていた手が、とうとう、止まります。
こんなパズルが作れるなんて、やはりこの子は、パズルの妖精に違いないと思いました。そんな妖精に、自分のような、平凡な子どもが、話し掛けてはいけなかったのだと思いました。
二人の間には、越えられない壁があります。妖精と人間は、仲良くすることは出来ないのです。
白い子どもは、気遣わしげにピノクルの顔を覗き込んで、小さく口を開きます。
「ねえ、良かったら、ヒント……」
「ごっ、ごめんなさい……!」
二人が言葉を発したのは、ほぼ同時でした。叫ぶようにして謝ると、ピノクルは木の枝を投げ出して、一目散にその場から駆け出していました。
待って、という声が、聴こえたような気がしましたが、振り返ることはしませんでした。足を緩めたら、妖精に捕まえられて、二度と帰して貰えないのだと思いました。そして、永遠にあのパズルを解かされるのに違いありません。
妖精は、可愛らしいものですが、ときに、そういういたずらもする、怖いものでもあります。パズルの中に閉じ込められるなんて、嫌だとピノクルは思いました。
生まれてから、こんなに必死に走ったことはない、というくらいに、ピノクルは森を掛け抜けました。
◇
「はぁ、はぁ……」
ここまで逃げれば、大丈夫だろうと、ピノクルは木の幹に背中を預けて息を継ぎました。どれだけ走ったことでしょう。もう、どちらの方角に校舎があるのかも分かりません。
森の中にすっくと聳え立つ鐘楼を目印に、ピノクルは、とぼとぼと森の中を歩きました。点呼の時間までには、寮に戻らなくてはいけません。ピノクルは自分の進んでいる道が正しいことを信じて、森を彷徨いました。
「ん……? あれは、」
ふと、目に留まるものがあって、ピノクルは足を止めました。少し先に、木々の開けた場所があります。そこには、おとぎ話に出てきそうな、小さな家がありました。こんな森の中に、誰が住んでいるのかと、ピノクルは足を止めて、様子を窺いました。
そこには、小さな庭があって、誰かが花壇の手入れをしています。それは、一人の女性でした。背中までの長い髪は、光に透けそうな白金です。質素な服装で、身につけたアクセサリーといえば、胸元のペンダントだけですが、穏やかに微笑む姿は、慎ましく咲く可憐な野の花を思わせました。
学院に住み込みの、庭師か掃除人でしょうか。それにしては、力もなさそうだし、どこか浮世離れした雰囲気です。ほっそりとした身体つきは、消えてしまいそうに儚げでした。
もしや、さっきの妖精の仲間だろうか、とピノクルは背筋を震わせました。折角ここまで逃げてきたのに、また見つかっては、大変です。少年は急いで、その場を後にしようとしました。
と、そこへ、がさがさと茂みをかきわける音がします。
「ただいま、ママ!」
明るい声とともに、顔を出したのは、ピノクルと同じ、クロスフィールド学院の制服に身を包んだ少年でした。少年は女性のもとへと駆け寄り、甘えるように、膝に抱きつきます。自分と同じ、色素の薄い白金の髪を、女性は愛しげに撫でました。
「おかえりなさい、フリーセル。学校はどう? 楽しかった?」
「うん! 僕、今日、とても上手に詩を読んだんだよ」
満面の笑顔で母親に頬を擦り寄せる少年のことを、ピノクルは、知っていました。柔らかに巻いた白金の髪、物静かで、どこか気品を感じさせる佇まいの、彼の名は確かに、フリーセルといった筈です。
あまり他人と関わり合いになりたいとは思わないピノクルですが、初めて彼を見たとき、不思議と心を惹きつけられたことを覚えています。春の青空を映し込んだような大きな瞳が、とてもきれいに澄んでいたからでしょうか。
きっと彼は名家の御曹司か何かなのだろうと、ピノクルは思っていました。いつもひとりで、友達がいなさそうなのも、学生寮で姿を見かけることがないのも、きっと、特別扱いで、近くの別邸から毎日馬車で通っているのだと、勝手に思い込んでいました。
それが、まさか、こんな森の中の粗末な家に暮らしていたとは、驚きです。馬も、メイドもいない、小さな家に住まうのは、彼と母親の二人だけのようでした。
「ママ、お花のお世話は、僕がするよ。ママは、中で休んでいて」
「そう? それじゃあ、お願いするわね」
女性は柔らかく微笑んで、家の中に姿を消しました。庭に残ったフリーセルは、よし、と腕まくりをして、その場にしゃがみ込みます。
雑草を抜いているようですが、なかなか大変そうです。ピノクルは、知らず知らずのうちに、茂みを出て、そちらに歩み寄っていました。
「……うん? 君は……」
茂みから出てきたピノクルに気付いて、フリーセルは顔を上げました。青空の色の瞳を瞬いて、思わぬ来訪者を見つめます。
その眼差しを受けて、ピノクルは、思いがけず大胆なことをしている自分に気付き、狼狽しました。どこまでが家で、どこからが森なのか分かりませんが、人の家の庭に勝手に上がりこむなど、礼儀にかなった行動ではありません。不審に思われても、仕方のないことです。
「え、えっと、迷っちゃって……」
しどろもどろになりながら、ピノクルはなんとか、言葉を紡ぎました。怪しい者ではないということを、懸命に伝えようとします。
フリーセルは、暫し、きょとんとしていましたが、慌てるピノクルの様子が可笑しかったのでしょう、くすくすと笑いだしました。
「びっくりした。きのこの妖精が出てきたかと思ったよ」
にこにこと人懐こい笑顔を見せて、フリーセルは言いました。ピノクルも、ぎこちなく微笑みます。学校の誰かの前で笑顔になるのは、そういえば、久し振りだなと思いました。
土にまみれたフリーセルの小さな手を見つめて、ピノクルは、自然と一歩、踏み出していました。
「あの、大変そう、だね……僕、手伝おうか、」
「いいの? じゃあ、一緒にやろう」
屈託のない笑顔で、フリーセルはピノクルを庭に招き入れました。友達の家に招かれるなんて、ピノクルは初めてのことだったので、どきどきとしながら、花壇の手入れの仕方を教わりました。
それから、二人は協力して、庭を手入れしました。一通りの仕事を終えて、フリーセルは、晴れ晴れとした表情で、ピノクルにお礼を言いました。
「どうもありがとう。助かったよ。きっとママも、喜んでくれる」
「ぼ、僕も……楽しかった」
汗を拭いながら、ピノクルは素直な気持ちを述べました。誰かと何かをするというのは、わくわくとして、楽しくて、ずっと続けていたいくらいのことなのだと、短い時間のうちに、ピノクルは実感していました。フリーセルが、教えてくれたのだ、と思いました。
沈み行く夕陽が、空も、森も、フリーセルの白金の髪も、鮮やかな緋色に染め上げます。そろそろ、お別れの時間でした。
「ええと、君は寮に帰るんだったね。そこの道を行くと、墓地に出る。それから、イトスギの道に沿って行けば良いよ」
「うん。……ありがとう」
じゃあね、またね、と二人は手を振りあって別れました。初めて、誰かと親しく話せた喜びで、ピノクルは胸がいっぱいでした。またね、と言ってくれた優しい声を、何度も心の中で繰り返しました。
それは、また一緒に遊ぼうという、約束でした。その夜は、小さな約束を、大事に抱き締めて、ピノクルは眠りました。
翌日から、二人は学校で会えば、挨拶を交わすようになりました。一緒に行動したり、親しくお喋りをすることはなく、ただそれだけのことでしたが、それでも、ピノクルにとっては、特別なことでした...
[ to be continued... ]
SPARK新刊・幼少ピノフリルクの出逢い話『はじまりのおはなし』プレビュー(→offline)
2013.10.26