屈折スペクトラム(プレビュー版)




POGジャパン総責任者、ルーク・盤城・クロスフィールドの更迭をはじめとする、青天の霹靂ともいうべき強硬な人事異動の発令から一夜明け、事態はそれなりの衝撃でもって、組織の人員に波及した。
以前からの不協和音がいよいよ顕在化し、ついに内部崩壊の兆しかといって不安がる声も聞こえてくる。憶測が憶測を生み、中には、更迭された元総責任者は、既にこの世にいないのだなどというもっともらしいデマゴギーまで飛び交っている有様である。今の組織の状態では、そんなくだらない噂さえ、それなりの信憑性がある話のように思えるのだから、まったく可笑しなものだ。
全世界のPOG構成員を結ぶソーシャル・ネットワーク上の話題は、昨夜から日本支部の情勢談議で持ちきりで、それによると、どうやら元トップの少年とその側近が、既に上層部によって始末されたことは確定事項になっているらしい。
呑気に寝ている間に、大事になったものだ──根も葉もない無責任な書き込みの数々が並ぶ端末画面をフリックして、私は独り、苦笑した。

ドラマティックな想像に水を差すようで申し訳ないのであるが、今回の一件において第一の標的となった当人、および巻き添えを食う形となったその腹心としては、仕事を干されて自室待機を命じられたというだけで、これといって不便は生じなかった。暫しの休暇と思えば良い、などというのは楽観的過ぎるかもしれないが、あれこれ心配してもどうにもならないというのが実際のところだ。
こんなときでも、私はいつも通りの時間に起床し、身支度を整え、いずれ復帰したときのために自室で今後の戦略を練っていたから、やっていることはそう変わらない。理不尽な仕打ちを受けているとの思いは多少あるといえ、逆に、個人的にどうあっても尊敬の念を抱けそうにないあの極東本部長から理解や同情を示されるくらいなら、左遷された方が余程ましであるというものだ。この閉鎖的な組織内においてはそれなりの効力を発揮する、中央戦略室付ギヴァーとしての栄誉だとか特権に、さしてこだわるつもりは、もとよりない。
それは、総責任者の椅子を追われたルークにしても同じことで、ただ、例のオルペウスの腕輪の契約者の動向を直に知ることが出来なくなったことだけ、彼は少々不服な様子だった。無理もない、彼がPOGに所属しているのも、今現在このような状況に置かれているのも、すべてはあのソルヴァーのためなのだから──それを奪われたら、ルークには殆ど残るものがないとさえいえる。

とはいえ、自ら指示を下せないというだけで、情報自体はほぼリアルタイムに入って来るのだから、それについては、まだ救いがあるといって良いのかも知れない。
情報──自室に軟禁状態で、いったいどうしてそんなものが掴めるものかと、あるいは人は疑問に思うだろうか。流行りの情報共有化というやつで、親切にも上層部から逐一、現状の報告と今後の展望が配信でもされているのか、などという誤解を招きもするだろう。
断っておかねばならないのは、我らがPOGは、そもそも決して風通しの良い組織ではないし、世間一般の風潮がどうであれ、間違っても情報開示に熱心に取り組むなどという事態は考えられない。古代ギリシャの秘教たるオルペウス教、および思想を同じくするピタゴラス学派の流れを汲むこの頭脳集団は、その性質上、ことさらに秘密主義を貫く。秘密を漏らせば死、という閉鎖的にもほどがある戒律は、どうやらこの現代においても、根底のところでしぶとく息づいているらしい。
秘密主義は対外的な振る舞いのみに限ったことではなく、組織内であっても事情は同じで、言うなればそういった体質こそ、要らぬ派閥や不協和音を生み出す元凶ということになるのだろう。やれやれ、ピタゴラスはあんなにも美しく調和した、数や音の比率を見出したというのに、それを受け継ぐ我々ときたら──なんとも気が重くなる話である。
そうした事情に加え、ましてや人間関係が不穏どころか、そもそもそれが築かれるより前に破綻して壊滅して断絶しきっている我々と極東本部との間で、何らかの情報が遣り取りされる筈もない。たとえ何かの間違いで塩が送りつけられてきたとしても、受け取りは慎んで辞退させていただくだろう。

だから、最高機密ともいえる極東本部トップの動きを、どうして察知することが出来るかと言えば、答えは簡単なことだ。人事異動権を好き勝手に発動して調子に乗っているとしか思えない、あの傲慢な男に忠告してやりたいものだ──少しは、己の下にいる者たちの人間関係を探っておけと。否、それとも、過剰な自己中心思想で他人を虫けらとしか思わず、仲間も友人と呼べる者も信頼のおける部下も持たぬ哀れな彼にそれを要求するのは、少々酷な話だろうか。
いずれにしても、事をここ日本で、POGジャパンの人的資源を流用して起こそうというのならば、たとえ地位を追われた身であろうとも、アドバンテージはこちらにあると──そういうことだ。
この地で、ルークはお飾りの人形としてただ玉座に座っていたわけではないし、私にしても、ただその横に立っていたわけではない。椅子を一つ奪い取ったところで、それに付随するものが全てそのまま手に入るなどと考えるのは、あまりに短絡的だ。
ヘルベルト・ミューラーは、ルーク・盤城・クロスフィールドにはなり変われない。気付いていないのは当人だけというのが、また滑稽なことである。
向こうにとっては残念なことに、ルークはただ存在するだけで人々から畏敬の念を集めるプロフェッショナルであるし、私はその傍らに立つだけで人々との強固な信頼関係を築くプロフェッショナルである。性質が悪いことこの上ない。私であれば、決して表立って敵に回しはしないだろう。

結局、人が動くのは、論理や計算よりも、それ以前の感情のゆえである。主人が変わったといって、簡単に対応出来るものではない。ルークを頂点とする、POGジャパンのピラミッドは──崩れない。いくら外から働きかけようとも、無駄なことである。
なるほど、その意味で、我らが組織を一種の宗教と考えるのは案外、的外れではないのかもしれない。人々は求めているのだ──宗教的恍惚を。そして、それを与えてくれる、崇高なる存在を──美しき白の塔を。
誰もそこからは離れない──離れないまま、表向きは新たな上司の指示に従う。すると、どういったことになるか──もったいぶる必要もあるまい、こういうことだ。

「──それでは、暫くは時間が稼げる、ということですね」
長椅子に寝そべり、手遊びに知恵の輪をカチャカチャと弄びつつ、肩に挟んだ通信端末の向こうの相手に私は問い掛けた。
「そうっス。賢者のパズルを仕掛けるのはまだ先──奥の手を出さなくとも、簡単に始末出来ると踏んでいる様子で。例のガキも、暫くは楽しい学園生活っスよ」
「なるほど──分かりました。いつもありがとうございます」
ダイスマンからの報告に、私は感謝の意を述べた。足を組んでソファに寝そべったままで、尊大にもほどがある体勢ではあるが、対面しているわけでもないのだから問題あるまい。声だけ聞けば、あたかも回線の向こうで丁重に頭を下げたかのように伝い感じられる筈である。
予想通り、情報収集能力に長けた忠実な駒にして有能なギヴァーたる青年は、とんでもない、当然のことだなどと殊勝なことを言って応じる。
「極東本部長サマは人使いが荒くて本当、うんざりっスよ。何で奴の食事の世話までしなきゃならないのかって話でして。早く何とかならないもんスかね」
心の底からの憂鬱そうな声に、私は苦笑した。解けた知恵の輪を脇に置き、長椅子の上で足を組み替える。
「ご苦労様です。それなら、休暇をいただいた私たちの方が、むしろ得をしたということになりますか」
「……いえ、失礼。とにかく、我々一同、お二方の復帰をお待ちしております」
また大層な期待をされたものである──どうやら、身近に上司の(あるいは、もっと一般化して、人間としての、とでも言ってしまって構わないだろうが)悪い見本がいると、相対的にこちらの評価が上がるらしい。願ってもないことだ、と内心可笑しく思いながら、次回の報告時間を指定して通信を切った。

長椅子に身を沈めたまま、私は腕だけ伸ばして、端末をローテーブルに放った。白い天井を眺めつつ、片手の甲を額に当てて、深く息を吐く。
──いい気なものだ。
胸の内で呟き、小さく拳を握る。回線の向こうには伝わらなかったようで何よりであるが、私は少なからず、ルークの執着するあのソルヴァーの少年に忌々しい感情を抱いた。
この現状を招いたのが、いったい誰のせいだと思っているのか。ルークが彼のためにとった逸脱行為、それゆえに極東本部長に隙を見せることになった──たった一人のソルヴァーごときに、どれだけの犠牲を払ったことか。
しかも、得られたものは何もない。相手は呑気に学園生活など──いったい今、ルークがどのような状況で、どのような思いでいることか──それも知らずに。
ルークが得られなかったものを、あたかも代わりに奪うかのようにして、自分がどれだけ享受しているか、気付きもせずに。
こんなにも想われていながら、こんなにもヒントを与えられていながら、かつての親友を思い出すことすらせずに。
──否。
私はすぐに首を振って、とりとめのない考えを追い払った。この感情は正当ではない──八つ当たりもいいところだ。
きっと、ルークがこの件を知れば、憤ることなんてせずに、ただあの少年が今後迫る危機に対していかなる活躍を見せるのか、それにばかり夢中になるに決まっている。そして、それが正しい反応だ。こちらと、あちらとは、関係がない。断絶しきっているのだから──少なくとも、今のところは。

首の後ろで手を組み、今一度溜息を吐く。気持ちを切り替えるべく、一つ背伸びをして、軽く首を反らしたところで、私は硬直した。否、なにも日ごろの運動不足がたたって、関節を違えたなどという話ではない。いくら頭脳労働専門職の私でも、そこまで衰えてはいない──ただ、気分的には、それとさほど違いはなかったかもしれない。
数秒の沈黙を置いて、私はその姿勢のまま、声だけは間抜けなほどに礼儀正しく、挨拶の言葉を口にした。
「……おはようございます」
厳密に言えば今は昼過ぎで、決して早い時間ではないし、寝転がって伸びた状態で言うことでもないのであるが、他にこういったシチュエーションで何と言ったものか、私には良い代案がなかった。
いつの間にか、後ろに音もなく立って、無感動な瞳でじっとこちらを見下ろす白い少年に、いつも通りに微笑みかける以外には、何も思いつかなかった。
よく観察しなければ分からないくらいに僅かな角度でもって、ルークは応えるように小さく頷いた。




昨日、POGジャパントップの地位を追われ行き場を失くしたルークを自室に招いて、まず取り掛かったことは、全ての窓にカーテンを下ろすことであり、灯りを間接照明のみにすることであり、光源を覆って直截目に触れないようにすることだった。
残念ながら、このような事態を想定していなかった自室は、いたって普通の白い照明の降り注ぐ空間であったから、ルークの元々の執務室のような環境を作り出すのは、それなりの苦労を要した。苦労した模様替えの甲斐あってか、ルークは特に眩しいとも言わずに普通に過ごしたが、それでもやはり、居間よりは薄暗い寝室の方が好きらしかった。
昨夜も早々に寝室にこもり、ここにいて良いか、いつまでいて良いかとしきりに気にしていた。いつまででも、好きなだけいれば良いし、なんなら食事も運びますよと私は笑って答えた。

てっきり、今もまだ夢の中にあるものと思っていたが──なにしろ、これまでルークは自分で起床するという習慣がなく、毎朝私が起こしてやっていたから、独りでに起き出してきたらしいというのは意外でならなかった。
否──独りでに、というのは語弊があるかもしれない。思い返してみれば、確かに私は今朝一度、彼を起こそうと試みていた。しかし、当人に覚醒への意思が全くみられなかったので、これは駄目だと潔く諦めたのであった。
これまでの日々のように、最高責任者の一日のスケジュールを恙なく進行させるべく、側近としての熱意を胸に抱いていたならば、強引にでも寝台から引っ張り出すところであるが、残念ながら、その役職を失った少年の本日の予定は真っ白である。無理に起こす必要は無い、と私は判断した。
むしろ、これは貴重な機会であるとさえいえる。決して身体の強くないルークだ、これまで少なからず無理をしてきた分も、今のうちに取り戻して休んで欲しいと願う。といって、あの生理的に受け付けない忌々しい極東本部長が、人を見下しきった皮肉げな態度で謹慎を言い渡してきたときの言葉に従うことになるのが癪であるが。

どうやら、朝方にそうして中途半端に起こされてから、ルークは半覚醒の状態で午前中を過ごし、そろそろそれにも飽きて起き出してきたものらしい。寝巻代わりに貸してやった上等の白いシャツ(私自身は滅多に袖を通さない。残念ながら、明るい色が致命的に似合わない人間なのだ)は寝乱れたままで、釦が外れて鎖骨が覗いているし、指先まで隠れる筈の袖は片方だけ丸まって捲れ、お世辞にも行儀が良いとはいえない。
とはいえ、だらしない格好というのに、嘆かわしいというよりは、むしろ微笑ましさを感じてしまうのは何故だろうか。そんな格好でも、あの透けるような冷たい瞳はそのままであることに、ささやかな喜びを覚えてしまうのは、何故だろうか。少年の穢れなき白が、こんな場所にあっても変わらずそのままであることを、嬉しく思ってしまうのは、何故だろうか。
正直いって、見慣れぬ格好をして、似つかわしくない場所に立つルークの姿は、私の心を浮つかせるには十分だった。普段、一分の隙なく白い衣装に身を包んだ姿ばかり見ているものだから(そうさせているのは、他ならぬ私自身なのであるが)、こんな普通の子どもっぽい姿が新鮮でならない。気取らない在りようが、どこか温かく、頼りなげで──可憐だ。

などという、私の方も、他人のことをだらしないなどと言えたものではないのは確かである。偉そうに批評するならば、まずそのクッションに埋もれて寝そべった体勢を何とかしろと言われてしまうところであろう。
やれやれ──油断していた、というべきなのだろうか。知らず知らず、思考に没入してしまっていたらしい。こんな姿を見られてしまうとは、とんだ失態である。勤務時間中であったならば、即座に首を切られてもおかしくはない。
ただ、幸いなことにというべきか、今の私は謹慎という名の優雅な休暇中の身分である。自室にこもってどんな格好で何をしようと、咎めだてされるいわれはない。
だから、私が憂鬱になるのは、単純に、この少年にだらしないところを見せてしまったという気恥ずかしさによるところが殆どであるといっていい。これまでがこれまでだけに──私は彼の前で、ことさらに余裕ぶって、優雅な振る舞いの落ち着きある大人を演じていた──とうとうやってしまった、という感覚が強い。
とはいえ、やってしまったものは仕方がない。慌てて取り繕うとする方が無様というものだ。私はあえて、そのまま長椅子に身を預けるのを継続することにした。あたかもこれが当たり前であるような自然体でいれば、ルークも特別に気にすることなく、人が部屋で寛ぐというのはこんなものだろうと納得してくれるのではないかと思った。我ながら、浅ましい考えである。

しかし、ルークは相変わらず、こちらを見つめて立ちつくしている。表情の希薄なその白い面から、意図を読みとることは容易ではないが、推測するにそれは、戸惑うような──困惑するような表情といえなくもない。
そんなにおかしな格好をしているだろうか──私は少々、心配になってきた。確かに、勤務中と違って、私服は首周りの開いたラフなカーキのトップスに黒のジーンズというくだけた出で立ちではあるが、そうまじまじと見られるようなものではない筈だ。
と、そこで私は、ああと気付いて目元に手をやった。指先にかつんと触れる、武骨な黒のセルフレーム──もしかしたら、これのせいだろうか。
そういえば、彼の前でこれを掛けるのは初めてであったかもしれない。就業中は眼に直截レンズを入れる方法で視力を矯正しているのだから、その筈だ(というのも、個人的な感覚として、あの衣装に黒縁眼鏡は泣きたくなるほど似合わないという理由による)。
私服の時には眼鏡、というのが私の中でのルールだ。そうすることで、なんとなく眼を休ませて、日頃の疲労を回復出来るのではないか、レンズを入れて傷ついた角膜を修復出来るのではないかと小さな期待を抱いているのであるが、効果のほどは定かではない。
ちなみに、眼鏡の時はピアスを外すというルールもあって、これは単純に、一度につける装身具は一つと決めているからである。といって、これらの他にこれといった装身具は持たないのであるが(指輪は好きではない。うるさいし、束縛されるようで、違和感が拭えない。ペンを持ったときにぶつかりあうのも気に掛かる。何より、主人の身の回りの世話をするにあたっては、手はいつも自由にしておきたいものだ。同様に、首から何か提げるのも遠慮したい)。
数ある眼鏡の中から、それなりの存在感を放つ、いかついこのフレームを選んだのは、なにもファッション性を意識したわけではなく、単純にレンズ厚の関係上、これの他に選択肢がなかったからである。華奢なメタルフレーム、ましてやナイロールなどでは、このレンズを支えるにはいささか心もとないというものだ。
加えて、輪郭が太くはっきりとしていないと、どこに置いたか裸眼で見つけられなくなるおそれもある。あれこれ物を倒しながら手探りで行方を求めるような滑稽な真似は御免こうむりたい。そうしたわけで、この黒縁である。

確かに、いきなりこんなものを掛けていたら、見慣れない姿に戸惑うものかも知れない。これが気になるのかと思って、私は試しに眼鏡を外してみた。途端に、焦点を失った視界は曖昧に滲んで溶ける。その得体の知れない世界で、しかし、何か白いものが近寄って来るのは分かった。ああ、こんな自分の眼でも、ルークは白いから判別しやすくて良いな、と私は見当違いの感想を抱いた。
近づいてきたルークは、長椅子を回り込んで脇に立ち、(おそらく)こちらを覗き込んだようだった。その場で膝を折って、(たぶん)しげしげと見つめてくる。逆光のせいもあって、相手の表情はよく分からない。
私は眼鏡を脇に置くと、近寄って来た少年の頬と思しき辺りに、そっと手を沿わせた。(希望的観測では)拒まれていないことを確かめながら、ゆっくりとこちらに覆い被さらせるかたちで引き寄せる。少年の細い手が、支えを求めるように、私の肩の辺りに掛かるのが分かった。
そうして、殆ど触れるばかりに間近で見つめ合う。ようやく確認出来た、我が主の表情は、あっけにとられたように瞠目している、というものであった。きっと、彼の方は近すぎて上手く焦点を合わせられずにいるのだろう、戸惑うように睫を震わせる。

表情を確かめるという目的を果たしたのだから、すぐに離れればいいのに、何か惜しいような気がしてそうせずに、私は暫し、ルークの淡青色の瞳を見つめた。普段よりも輪郭の滲んで視えるその瞳は、幻想的に光るようで、美しかった。互いの呼吸が静かに入り混じり、確かに息づく鼓動が伝い感じられた。
ついでとばかりに、白金の髪を梳いてやりながら、私は静かに言った。
「──すみません。よく視えないもので」
「……いつもと違う」
そうですか、と私は苦笑した。短い言葉に込められた意図がどのようなものであるのか、それは例によって推測の域を出ないが、確かにその通りだと感じられる。外見だけの話ではない──ここへ来てからは、お互いに、いつもとは違う。今までとは、違うのだ。
手を離してやると、ルークは身を起こすかと思いきや、そのままくたりと私に身を預けた。肩の辺りに額を置いて、表情は読めない(それでなくとも、これだけの距離が開いては、私の裸眼では視認が難しいのであるが)。どうやら、両腕で上体を支えるのに疲れたものらしい。
少年の儚い重さを胸の上に感じながら、緩く腕を回して、その温もりに浸った。

こんな居心地の良さを、自室で感じるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。などと言うと、他人からは不可解に感じられてしまうだろうか。
仕事から解放されたプライベートな空間なんて、一番リラックス出来る場所ではないかと言われれば、それはその通りであって、確かに妙な話ではあるが、実際、いつもは自室にいても、どこか安らぐことが出来ずにいた。小さな懸念事項が、胸に引っ掛かって落ち着かないのである。
それというのも、自分が側を離れている間、ルークの世話は信頼のおける部下たちに任せているのだが、ちゃんと出来ているのか、何か不測の事態が起こってはいないかと、気にしはじめたら止まらなくなる、という私の面倒な性質によっている。決して部下たちを信用していないというわけではないが、客観的にいって、そう思われても仕方がないだろう。とにかく、気になるものは気になるのだ。
結局、非番というのに様子を見にいってしまうこともしばしばである。これでは、仕事中毒(ワーカホリック)のルーク中毒(ルークホリック)、と口の悪い部下に揶揄されようとも文句は言えない。いっそ執務室に監視カメラでも設置して、いつでも様子を見られるようにしてはどうかと、真剣に検討したことすらある(そうすると完全にオンとオフの境界がなくなってしまうことに気付き、辛うじて思い直したのであるが)。
だが、今はルークと共にここにいる。自分の空間に、二人だけでいる。邪魔するものも、恐れるものもない。その、ささやかに閉じて調和した空間を、居心地が良いと感じずにいることは難しかった。

さて、そうして己の身体の上にもたれるルークを緩く抱いていたわけであるが、このままの体勢で眠られると、互いにとってあまりよろしくない。いつまでも怠惰な気分に浸っていたいのはやまやまではあるが、私は己を律して、小さく少年の名を呼んだ。
それに応えて、ルークはのろのろと身を起こした。眠い、とさして眠そうでもない無感動な調子でもって、一言呟く。これまでずっと寝ていたではないか──などとあきれることもなく、私もまた起き上がって眼鏡を掛け、長椅子を降りた。
「きっと、まだ疲れが抜けていないのでしょう。もう少し、休まれてはいかがですか」
素直に頷く我が主の手を引いて、寝室へと連れ戻す。まるで厄介者扱いしているかのような誤解を招くかも知れないが、決してそのようなつもりはない。カーテンを下ろしているとはいえ、やはり陽光の降り注ぐ日中は、窓のない寝室にいて貰った方が、こちらとしても安心というものである。その色素の欠落した肌を、瞳を、万が一にも灼いて傷つけてしまうことは堪え難い。
無事に寝台まで送り届け、戻ろうと扉に手を掛けたところで、背後から声がかかる。
これからどうするのかと、少年は寝台の上から不思議そうに問うた。同じく謹慎中の身分ながら、自分が寝ているのに、こちらが何か活動をしようというのが気になるらしい。
答えは、決まっていた。私がすることは、いつも一つだけだ。
「私は──パズルを作ります」
それだけ言い残して一礼し、静かに寝室の扉を閉めた。
戻る途中でキッチンに立ち寄り、朝方に淹れたコーヒーを温め直してタンブラーに注ぐ。昼食時をやや過ぎた頃合いではあるが、パズルを作るときには食事は抜くことにしている。クリアーな思考、シンプルな身体──それが、「制作」には必要不可欠だ。

さて、それでは──パズルタイムを、始めよう。




[ to be continued... ]
















完成版はweb再録集『capture』に収録しています。(→offline) ビショップさんは残念なイケメンというのが一番のテーマ。

2011.12.4

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