ストレイシープ -1-




あの丘をそよぐ風が、いつも運んで来てくれていたのは、土と、草と、水の匂いだったのだと、そんな当たり前のことに気付いたのは、そこを遠く離れて、コンクリートとアスファルトの覆う街中に舞い戻ってきてからだった。

当たり前のことが、当たり前などではなかったのだと気付くのは、いつだってそこを通り過ぎて、もう後戻りが出来なくなってからだ。
今更、手に入らないものが、実は貴重だったのだといわれても、へぇそうなのかと他人事気分で呟くくらいしか出来ないし、どころか、少なからずもやもやとした気分にさせられるだけなのだけれど──それでも、気付かずにいることは出来ないし、それが避けられない以上、せめて前向きに受け取るくらいが正しい対応になるのだろう。
感傷的な喪失感も、時間とともに、いずれは懐かしい思い出に定着するものだ──おそらくは。そうやって、自分の中でゆっくりと、あの頃の思い出というのは、客観的に眺める対象になったのだと思う。

あの頃は、丘の上の木の陰で、自由気ままにパズルを作って遊ぶことが、何より楽しく、心躍った。
遠くには、のんびりと草を食む羊たちが群れていて、その穏やかな景色を眺める自分のすぐ隣には、これも羊みたいな白い頭をした友人が、いつだって座っていた。二人はお互いに他の誰より気が合って、いつも一緒に過ごしていたし、これからもずっと一緒なのだと、疑うことなく信じていた。

今は、もういない。
交わした約束だけを残して、親友は、いなくなってしまった。
戻らない日々の、風の匂いと、無邪気な笑い声。
懐かしい思い出で──叶わぬ夢だ。

思い返せば、あの頃、自分は相当に扱い難い、厄介な子どもだったような気がしてならない。あんなかたちで両親を失って、間もなく異国にひとり放り出され、ひねくれるなという方が無理な話だとは思うが、いずれにしても当時の自分は、すっかり周囲の世界というものに心を閉ざしていた。
なにしろ、今にしても記憶に残っている場面というのが、専らあの丘の上でパズルに勤しんでいるシーンばかりであって、一応籍を置いていた筈の、名高いクロスフィールド学院の授業風景など少しも覚えていないというのだから、我ながらあきれたものだ。
だから、あの頃、自分が唯一見て、聞いて、触れていた世界というのは、パズルとそれに関わる僅かな人々で構成された、ほんのささやかな範囲内に過ぎなかった。それでも、パズルを介して少しずつでも現状を受け容れ、馴染んでいくことが出来たのだから、今の自分があるのは間違いなく、あの頃に出逢った人々のおかげなのだと、そう思っている。
──まあ、今でも、扱い難い厄介なひねくれ者の子どもじゃないかと言われれば、きっと、その通りなのだろうけれど。

始まりは、あのときだ。
あのとき、この世界にはもう独りきりなのだと思い込んでいた自分に、そうではないということを、少なくとも一人は仲間がいるということを、教えてくれた。
丘の上の、木々の音を、風の温度を、草の匂いを、小さなシルエットを。
今でも、思い出せる。



白いかたまりが、向こうから近づいてきているのには気付いていた。麓の方で放牧されている羊の仲間かと思ったが、近くなって見れば何ということもない、現地の子どもだった。
逃げるというのもおかしな話だし、それなりに気に入っているこの木陰の占有権を明け渡すのは単純に癪だったので、そのまま芝生での昼寝を継続することにする。
木漏れ日を受けて、穏やかに揺れる葉っぱの一枚一枚の形をぼんやり眺めて、精緻なフラクタル構造の神秘に思いを馳せていると、羊もどきは、いつの間にか丘を登ってここまで来ていた。ひょっこりと現れた白い頭に、まじまじと覗きこまれる。
「こんにちは。はじめまして」
真っ白な髪に、これまた真っ白な服を着た子どもは、少し息を弾ませながら、無邪気な笑顔でそう言った。気取った響きの異国語ではなく、耳に届いたのは、意外にも流暢な日本語だった。
どうせ付け焼刃で丸暗記したカタコトのあいさつが飛び出すものと決め込んでいたから、それには少しばかり驚いた。とはいえ、多少の興味を覚えただけで、こちらとしては別段に、何らかのリアクションをとろうというわけでもない。
笑顔で同じ言葉を返すことを期待されているのは分かるし、きっと日本にいた頃の自分なら迷いなくそうしただろうが、しかし、考えることもなく反射的に出来る筈のそんな簡単なことでさえ、今は面倒でならなかった。
やりたくなかった。声を紡ぐことも、身体を起こすことも、笑うことも、何もかもが面倒で、やりたくなくて、どうでもよかった。要するに、その頃の自分というのは、周りをとりまくこの世の全てに、ふてくされていたのだ。
こちらが反応を示さないのを見て、少年は首を傾げると、更に言葉を続ける。
「君と同じ、学院の生徒だよ。よろしくね」
そんなことを言って、片手を差し出してくる。
クラスでは見なかった顔だな、服装も違うし、とだけ横目で確認して、それきり知らん顔をしていたら、勝手に右手をとられて、強引に握手されていた。どうやら自分の無気力な態度は、独りで異国へやって来て不安に心を閉ざしている内気な転校生、といった解釈を呼んでいるらしい。
大いなる善意による誤解であるが、それを解こうという気すら起こらない。どうだって良い、どう思われようと、何だろうと──どうだって。
無事に握手を済ませたことに満足したのか、白い子どもは傍らに腰を落ち着けると、にこにことして話し掛けてくる。
「僕、日本語できるよ。あいさつだけとかじゃなくって、ほぼネイティブ並みには。今のところは僕だけかな。皆、近いところの言葉からマスターしていくから、なかなかアジア圏まで行き着かないんだ。でも、君が来てから皆勉強し始めたから、そうだね、一週間後には不自由なくコミュニケーションできるんじゃないかな」
慣れ親しんだ母国語を、異国の地で異国の顔立ちの人間が上手に紡いでいるのを聞くのは、妙に落ち着かない。居心地の悪さを味わいながらも、世話好きらしいこの少年に、何も言葉を返してやるつもりはなかった。
「…………」
「………………」
「……………………」
無反応を貫いていれば、諦めて立ち去るだろうと思っていたが、どうやらこの相手は根気強い性格らしい。それか、自分が拒絶されていることにも気付かない鈍感か、どちらかだ。
うーん、と腕組をした後、白い少年は、そうだ、と顔を輝かせた。
「君、パズル好きなんだよね。良かったら、一緒に、」
「Don't bother me. Just get off my back(うるさいな、ほっといてよ)」
完全無視、という掟を破って、とうとう反応してしまった。パズル、という単語を聞いた瞬間の、反射的な行動だった。
刺々しい拒絶の言葉を向けられた相手は、あっけにとられたように目を丸くしている。それもそうだろう、気を遣って日本語で話し掛けてやっても無反応を貫いていた奴が、突然反応したと思ったら、その第一声が、人の厚意を無下にする内容であるばかりか、正統な発音の英語だったのだ。普通は驚く──普通、であれば。
とはいえ、ここは普通の子どもの来る学校ではない。天才と称されるに値する資格を有する子どもたちだけが集められた、特殊な施設なのだと聞いた。
そこの生徒と名乗ったということは、当然、この頭のてっぺんからつま先まで白い少年も、有資格者ということになる。天才のくせに、こんなことで何を驚いているのだか、と心の中であきれておいた。
反応を返してしまった以上、どうやら、昼寝は継続出来そうにない。早々に諦めると、芝生から身体を起こして、改めてその場に座り込む。
「驚くようなことじゃないだろ。一週間もあればマスター出来るって、自分で言ってたじゃないか」
小馬鹿にするかの態度はあえて隠さずに、親切にも指摘してやると、少年は挑発されるでもなく、なるほどと感心したように頷いてみせた。裏のない、素直すぎる態度に、なんだか調子が狂う。
「そうだね。言語はパズルだもの。やっぱり君は、パズルが好きなんだね」
言って、心の底から嬉しそうに笑う。この世の悲しいことも痛いことも何も知らないというような、無垢な表情。そんなものを、とても直視することは出来ずに、顔を背ける。
「……好きじゃない」
口の中で小さく呟いた言葉は、どうやら相手には聞こえなかったらしい。白い少年は嬉々として、携えてきた荷物を探っている。
「僕、面白いの知ってるよ。ね、一緒にやろう」
「うるさいってば」
両手に載せてこちらに差し出されたものを、見もせずに無造作に払いのける。あ、と小さな声が上がって、何かのブロックがばらばらと芝生に転がるのが、視界の隅に映った。
ちくりと小さく胸が痛むのを、振り棄てるように顔を背ける。
「やりたくない。見たくもない。パズルなんて、……大嫌いだ」
「……でも」
納得がいかないというように、少年は口を挟みかけたが、続きを言わせる前に、自分から言葉が溢れて止まらない。
「好きだったんだ。信じてた。友達だって思ってた。だけど、違ったんだ。あんなやり方で、裏切った。それで、……」
父さんと、母さんを。
両手を握り締める。振り払った時にブロックにぶつけた指が、熱く痛んだ。
「嫌いだ、パズルなんて! なくなっちゃえばいい!」
あのとき、強烈なまでに胸に刻んで、それから何度も心の内で繰り返してきた、その思いを、力任せに叫んでいた。
どうして、あんなことがあったのに、この世にパズルがなくならないんだ。
平気な顔をして、何事もなかったかのようにして、まとわりついてくるんだ。
パズルのせいで。
パズルさえなければ。
皆、なくなれ、壊れてしまえ──! 

抑えてきた生々しい思いをぶちまけて、身体は熱く、肩で息をする。
こんなことを叫んだところで、どうにもならないことは分かっている、分かっているけれど、吐き出さずにはいられなかった。居合わせた少年にとっては、いい迷惑だ。
よかれと思って差し出した手を振り払われたばかりか、そんな暴言まで向けられたとあれば、普通の相手ならば頭にくるだろう。少なくとも、いよいよあきれて愛想を尽かすだろうし、怒って立ち去るなり、掴みかかって来るなりの反応が、当たり前だと思った。
だから、呼吸を整えながら、そうなるのを待っていたのだが、しかし、いつまで経っても相手に動く様子がない。座り込んだまま、黙っている。
さすがに不審に思って、そろそろとそちらに顔を向ける。
少年は──泣いていた。
茫然と見開いた大きな瞳から、次々に滴が溢れ、こぼれていく。
正直いって、驚いた。あっけにとられた、というのが正しいだろうか。相手の反応には、それだけのものがあった。
なにも、お前のことなんて嫌いだ、消えろ、と怒鳴ったわけではない。あくまでも、パズルに対する怒りを、苛立ち紛れにぶつけてやっただけだ。盛大な八つ当たりであることは確かだが、しかし、泣くことはないだろう。
驚かせてしまったのか、よほど臆病なのかとも思ったが、見ているとそういうわけでもないらしい。
澄んだ淡青色の瞳を濡らしながらも、彼は怯えているのではない。しっかりと背を伸ばし、まっすぐにこちらを見つめている。その表情は、どこまでも静かに、哀しみを湛えていた。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、白い少年は、縋りつくようにして言った。
「嫌いに、ならないで……なっちゃだめだ。パズルを──パズルが、好きだった自分を」
それは、とても辛いことだからと、彼は自分のことであるかのように言い、嗚咽に言葉を詰まらせた。それでも、途切れ途切れに、言葉を紡ぐことをやめない。
「ねえ、どうしてだと思う? どうして、人はパズルを作って、解いて、争わないといけないんだろう? 人を苦しめるために、傷つけるために、パズルを利用するんだろう? 可哀想なパズルを、作り続けるんだろう?」
それは──答えることが出来ない。
それは──自分が抱いたのと、まったく同一の思いだった。
こちらが何も答えられずにいる間に、彼はようやく気付いたように袖口で涙を拭った。それから、小首を傾げて、自嘲気味に微笑んでみせる。その唇が、次にどんな言葉を紡ぐのか、何故だか、分かるような気がした。
「……こんなに辛いのに、苦しいのに。どうして僕たちは、パズルを解かずには、いられないんだろう?」
ああ──どうして。
どうして、この子は、僕と同じなんだろう。
同じことを、思っているんだろう。
そんな子に会うのは、初めてだった。いつも、自分だけが違う存在で、応えてくれるのはパズルだけで、きっと誰とも、気持ちを分かち合うことなんて、出来ないのだと思っていた。
そんな自分を受け容れてくれる唯一の居場所だった家族も失って、パズルとも決別して、そうしたらもう、自分には何も残らないのだと思っていた。それで、仕方がないのだと、思い込んで、諦めていた。
だから、涙と共に溢れ出て来たのは、きっと、圧倒的な安堵だったのだろう。
これまで堪えてきたものが、一斉に溢れ出す。

二人して声を上げて泣いているところを発見した教師は、さぞかし困惑したことだろう。ともかくそれが、彼との最初の出会いだった。



白い少年は、パズルをよく知っているというだけではなく、自分で作り出すことも得意にしていた。彼のパズルは、どこか自分と波長が合って、解くのがとても気持ち良かった。
すっかり夢中になって、彼が与えてくれるパズルを、次から次へと解いていった。そんなにどんどん解かれたら、なくなっちゃうよと彼は笑って、けれど、一度だってそのアイデアが尽きることはなく、求めればいつだって応じてくれた。
毎日、日が暮れるまで一緒になって、パズルの世界で戯れた。彼に教わって、新しいパズルを作ってみることもあったし、同じパズルをどちらが早く解けるか競ったこともあった。そうした中でも、やはり一番楽しいのは、友人が出題してくれるパズルを解くことで、それは向こうにとっても同じ気持ちらしかった。
「作っているときの君も、良いけど。やっぱり、パズルを解いているときの君は、素敵だよ」
にこにことした表情で、面と向かってそんなことを言われるのは、最初のうちは少しだけ気恥ずかしかった。ただ、彼は本当に嬉しそうに、繰り返しそういうことを言うから、そのうちすっかり慣れてしまった。そうかなあ、そうだよ、などと笑い合う。
膝に抱えたボードの上で、升目に数字を並べながら、友人は穏やかに声を紡ぐ。
「いつもね、自分で作って、自分で解いて、遊んでた。頭の中……ひとりきりの、部屋の中で。だから、初めてだよ。誰かに解いてもらいたくって、パズルを作るのは」
誰かに解いて貰うのが、こんなに嬉しいことなんて、知らなかったよと彼は笑った。それはこちらにしても同じことで、作った人の温かさだとか、優しさだとか、いたずら心が感じられるパズルを解く楽しさは、彼に初めて教えて貰ったものだった。
パズルの向こうには、それを作った人がいる。そんな当たり前のことを、白い少年は教えてくれた。
「僕たち、二人でひとつみたいだね。僕がパズルを作る。カイトがそれを解く。とっても、素敵じゃないかな」
白い少年は、こちらに身を寄せると、首の後ろに腕を回して、ぎゅっと抱きついてくる。これもまた、最初は戸惑った感情表現方法だった。けれど、今ではもう、二人の間で当たり前のコミュニケーションになっている。
自分たち二人は、お互いにとってかけがえのない、大切な存在なのだと、感覚で理解していた。
パズルを解く姿が素敵らしい、自分と。
パズルを作る姿が、とても素敵な、彼と。
一緒にいたら、これより素敵なことはない。
ばらばらになんて、なれる筈がない。そして、そんな風に、彼が言ってくれることが、とても嬉しかった。
顔を寄せると、ふわふわの羊みたいな髪が、頬にくすぐったくて、気持ち良い。日光に弱い彼は、外で遊ぶとき、たびたび肌に抗紫外線ジェルを塗っていたから、抱き締めるといつも、すっとした薬品めいた匂いがした。
温かい身体は、寄せ合っているとお互いに、とても安心する。ひとりぼっちじゃないんだと分かる。それは、たぶん、こちら側だけの気持ちではなくて、相手にしても同じなのだ。
満足げに目を閉じて、彼はしみじみと詠嘆するように言った。
「そんな、素敵なカイトが、大好きです」

後にも先にも、あんな風に純真で、まっすぐで、温かい想いを、家族以外から向けられたのは、あのときだけだった。実際、二人は兄弟のように気が合って、仲が良く、互いのことを誰より理解しあっていた。
大好きだった。
彼の作るパズルも──彼のことも。
それは、両親を失って、自分にはもう何もないと、誰もいないと思っていた幼い子どもにとっては、あまりに心地よい関係だった。全てが一変した、あの日に奪われたものを、少しだけでも、取り戻せるような気がした。海を渡って来て初めて、心安らいで誰かと笑うことができた。

このままでいられたら、乗り越えられるような気がした。
このままでいられたら、やり直せるような気がした。
このままでいられることを、当たり前のように、信じていた。




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