ストレイシープ -2-




二人で話すことはといえば、パズルのことか、学校生活のことだった。転入したクラスにだいぶ馴染んだとはいえ、やはり一番親しい友人はクラスメイトではなく白い少年であることに変わりはなかったから、教室で大人しく過ごした分も、丘の上で彼に向けて喋りたかった。
今日の授業ではこんなことを学んだ、こんなことを覚えた、それがどんなに面白かったかと、身振り手振りを交えて話すと、白い少年はいつも、一緒になって楽しむように、それでそれで、と目を輝かせて聞いてくれた。彼にしても、進度が違うクラスの話を聞くのは新鮮で、面白いのだろうと思っていた。
そうして、出来事を話すのは、何故かいつも自分の方ばかりで、そういえば彼が学校でどんな活動をしているのか、少しも知らない。違う制服を着ているから、やっていることも違うのだろうとは思っていたが、校内で見かけたこともないから、彼のクラスがどこにあるのかさえも知らない。
それに気付いた自分は、その疑問を思ったままに口に出して問うていた。
「君はいつも、どんなことを勉強してるの?」
それは、何ということもない、いつもの他愛のないお喋りの中の一つの質問、ただそれだけの筈だった。少なくとも、自分の方としては、そういう認識だった。
けれど、それを問い掛けられた瞬間、白い少年の表情は、あからさまに強張った。澄んだ青空の色の瞳を大きく瞠って、瞬きも忘れてこちらを見つめる。
何か答えようとして開いた、小さな唇は、しかし、何も声を紡ぐことが出来ずに、ただ、微かな息をこぼすだけだった。いつも楽しそうに、優しく笑っている彼の、そんな顔を見たのは初めてで、正直いってかなり動揺した。
何か、いけないことを言ってしまったのだろうか。必死で考えてみたけれど、思い当たることはない。友人が、いったいどうしてしまったのか、その心が──分からない。
突如にして場を支配した沈黙を、先に破ったのは、彼の方だった。気まずい雰囲気を振り払うかのように、ことさらに明るい声で、しかし表情はまだ少しぎこちないまま、言葉を紡ぐ。
「学校ではね、パズルはあんまり、してないんだ。他の子たちと勉強することもない。僕は、特別だから、ここにいるだけで良いんだって。ここにいて、毎日検査を受けるのが、僕の仕事なんだって」
説明してから、少年は少し考えるようにした後、「検査って分かる?」と問うてきた。ペーパーテストの類かと思ってそう答えると、そうではなくて、健康診断みたいなものだよ、と笑われた。
「頭の、ここから、ここにね、機械を繋ぐんだ。それから、身体にも、いっぱい。痛くないよ、皮膚の下まで針を刺されるのは特別な日だけで、いつもは貼り付けるだけだから」
でも、そこで塗られるジェルは冷たくて、ぬるぬるしていて、ちょっと気持ち悪いんだ、と声を潜めて付け加える。
これまでその話題に触れることなく避けてきた反動か、彼は饒舌に、己の置かれた状況を語った。
「検査の前にはね、よく身体を洗わないといけない。特に、頭は大事。結果が変わっちゃうかもしれないから。それから、検査が終わったら、また洗う。ぬるぬるしてたら嫌でしょ? だからね、皆が勉強してる間に、僕はしょっちゅうお風呂に入ってるんだ。おかしいよね」
いつも洗いたてのように、ふわふわの白い髪。白い肌、白い服、どこをとっても、いつだって汚れ一つなく、不自然なまでの清潔な白さを保っているのは、そういうことだったのかと、このとき初めて納得がいった。
「パズルをするときの僕の脳は、特別なんだって。だから、調べないといけないって先生たちは言うよ。僕にはあまり、分からないけど……たぶん、大事なことだよね。だって、父さんは、こういう脳が欲しくて、僕を父さんの子どもにしてくれたんだから」
父さん──彼の口から、その単語が紡がれるのを聞いたのは初めてだった。思えば、彼から家族の話を聞いたことはない。もしかしたらそれは、こちらに対する配慮だったのだろうか。
あ、しまった、というように口に手をやって、申し訳なさそうな顔をする彼に、ううん、気にしないで、と返す。実際、そういつまでも気を遣われているというのも、あまり居心地の良いものでもない。どうせ、いつかは割りきらなくてはいけないことだ。
そこまでの思考を、当時の自分が働かせていたかどうかは、やや心もとないが、いずれにしても、彼の発言で自分が気を悪くすることはなかったし、むしろ、続きが気になった。
「君のお父さん、その、脳が欲しくて……って?」
「ああ、言ってなかったっけ。クロスフィールド学院、別名、天才脳純粋培養所。計画責任者が、僕の父さん。彼のコレクション、17番目の白の塔。生き残りの、<セブンスランク・ルーク>。それが僕だよ」
お父さんが偉い人なんだ、ということだけは、理解したように記憶している。だが、それ以外のことについては、完全に意味不明だった。
「ふぅん……よく分かんないな」
「うん、僕も」
自分のことなのにね、と彼は言って、くすくすと笑った。自分の置かれた状況を、それは、当たり前のようにして受容しきった態度だった。
「おかしな子どもばかり、ここには集められてくるけど。ここにいられて、僕は幸せだよ。皆、大好き」
穏やかに微笑んで言うと、白い少年はこちらに向き直り、例によって抱きついてきた。それだけではなく、こちらのおさまりの悪い黒髪を面白がるように、頭を撫でてくる。仕返しにこちらも、ふわふわの髪をかき回してやると、くすぐったそうな笑い声が上がった。
屈託なく笑いながら、彼はこれまで何度も口にしてきた言葉を、もう一度、声に出して伝えた。
「カイト、大好き」

ひとしきり、そうしてじゃれあってから、あ、そうだと思い出す。大事な報告を、忘れていた。
「ね、チェスしようよ。僕、クラスで一番強くなったよ」
「本当? さすがカイトだね。楽しみだなあ、よろしくお願いします」
友人は自分のことのように喜んでくれて、嬉々として芝生にチェスセットを並べた。彼が黒で、こちらが白。まるで逆みたいだけれど、初めて対戦したときから、もうこれで当たり前に固定されている。
パズルの他に、二人で何かゲームをして遊ぼうというとき、その筆頭に挙がるのがチェスだった。日本にいた頃からルールは心得ていたが、実際に対戦してその魅力にとりつかれたのは、ここへ来て友人の手ほどきを受けてからだった。まるでパズルを解くような、その勝利への道筋を思考するのは、頭がくらくらするほど楽しかった。
クラスで一番になったというのは本当で、転入生の初心者でありながら、その上達の早さに、周囲は舌を巻いていた。けれど、それでもまだまだ足りないのだと分かっていた。
白い友人は、もっと──もっと、誰よりも、強い。その彼と毎日のように指しているから、自然とその思考をトレースする力が身について、こんなにも上手くなれたのだ。
チェスを指すときの彼は、深遠な思索家だった。いつものような、ふわふわとした笑顔の代わりに、どこか遠くを見るような目をして、実に冷静な判断を下す。
盤を挟んで向き合いながら、彼は静かに言葉を紡いだ。語りかけるようでもあり、独り言のようにも思える、その声に耳を傾けるのが、好きだった。
とてもきれいな手つきで、音もなく駒を持ち上げながら、彼は言った。
「君は、パズルを解けばいい。可哀想な全てのパズルを、君が解けばいい。そうすれば、誰も悲しまなくて済む」
こういうときの彼は、話し方もどこか大人びて、確かに裏打ちされた自信を感じさせ、素直に教えを請いたいような心地にさせられる。
もっと話して欲しい。その居心地の良い声を、もっと聞いていたい。だから、こちらのターンになったときも、黙って駒を進めた。
その動きを読んでいたかのように、彼の指は迷いなく次の手を指す。
「パズルは、君を裏切らないよ。絶対に。人間よりも、よっぽど信じられる」
運用側のモラルの問題だ、と彼は、幼い容姿に似つかわしくない落ち着き払った口調で言った。彼の意のままに動く、忠実な駒たちに、慈しむようにそっと手をかざす。
「ご両親のこと、それだけじゃない。君は、あのパズルを解放してやれなかったことを、ずっと、悔いている。あのパズルを、解きたかったと。純粋に、そう思っている君がいる。解けなかったパズルを、君は、取り戻さなくてはいけない……解答者(ソルヴァー)として」
知らない単語を、彼は小さく口にした。盤上だけをじっと見つめる、その澄んだ瞳に、まるで何もかもが見透かされているような気がした。
その日もまるで歯が立たないままチェックメイトされて、けれど全然悔しくはなかった。こんなに実力の違う相手で、彼の方はつまらないんじゃないかと、こちらの心配を読んだかのように、友人は、楽しかったよと笑ってみせる。
「一手一手が、パズルみたい。僕の問い掛けに、カイトは一生懸命、考えて解こうとしてくれる。僕の頭の中を、読もうとしてくれる。それが、とても嬉しいんだ」
少しはにかんで言う、彼が喜んでくれていることが分かって、こちらも嬉しくなった。まだ力不足で、彼の考えを読むなんてことには程遠いけれど、いつかは追いつきたいと思う。そうして、もしも彼に勝利したら、きっと彼は悔しがるのではなく、心から喜んでくれそうな気がする。理解してくれて、ありがとう、と笑うような気がする。
「次は勝つからね」
「うん。楽しみにしてる」
いつも通りのやりとりをして、夕焼けを背に、丘を下って行った。



毎日が、ただただ楽しかった。
パズルがあって、彼がいる。
それだけで、もう十分だった。
このままでいられるようにと、願うことすら忘れていた。
当たり前のように、このままでいられることが、何より嬉しかった。

──それなのに。

どうして人は、自分の置かれた安定的状況が、いつまでも続くものだと無邪気に信じ切ってしまうのだろう。同じようにして、当たり前のように信じていた両親との日常だって、あんなかたちで、突然に打ち切られたというのに。
どうして、今度こそはと、懲りずに信じてしまうのだろう。
自分の身だけには、ひどいことが、そう続く筈もないと、思い込んでしまうのだろう。

大切なものは手放すなと、あの人は言っていた。だから、あのとき、手を離しては、いけなかったのだ。今ならば、それが分かる。あのとき、決定的に、自分たちは分かたれてしまったのだということが。
けれど、幼い自分には、それがどういうことであるかなんて、全然分かっていなかった。またすぐに会えるに決まっていると、無邪気に信じて、いつも通りに別れるだけだと思っていた。

手を、離してしまった実感なんて、これっぽっちもなかったのだ。




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