ストレイシープ -3-
何かおかしいな、と気付いたのは、その日の彼のチェスの手に、いつもの切れ味がなかったからだ。どうも、隙のある危うい手ばかりを指しているような気がする。
といって、それでも結局、彼には勝てなかったのだから、ただの気のせいといってしまえば、そうなのかもしれなかった。
一局を終えると、なんだか疲れちゃった、と言って彼は芝生に寝転がった。このところ、一緒にパズルをしていても、どこか元気のない様子が気になっていたから、だるそうに身体を丸めるのを見て、心配になる。
「大丈夫? 風邪?」
「ううん。検査がね……最近、長いんだ」
薬も、毎回打たれるし、と呟いて、彼はそっと片腕を撫でる。目を閉じて、溜息を吐くと、友人は訥々と説明を始めた。
「機械に繋いで、仰向けになって。身体は動かしちゃいけない。唾を呑んでもだめ。真っ暗で、光が点滅してる……」
彼の言う、検査というものの概要を知ったのは、これが初めてだったように思う。それは、まっとうな脳波測定などとは違う、異様な内容だった。
「見てると、なんだかふわふわした感じになって、次々にパズルが浮かんでくる。僕はそれを、頭の中で解く。考える時間はとても短くて、答えを出すまでの間隔は、どんどん短くなっていく。考えるのと同時に答えたり、最後には、たぶん、考えることもなしに答えてるんだと思う。パズルが浮かぶと同時に勝手に解けて、自分でも何をしているのか、分からない。出てくるパズルも、外からじゃなくて、自分自身で作り出してるのかも……そういう自分を見ている自分がいて、いったいこれは何なのだろう、どこへ向かっているんだろう、起こっていることが、分からなくて……自分が自分じゃないみたいで、離れ離れになるみたいで、なんだか、とても、怖いんだ。光の点滅が、限界まで速くなって、そして、最後は眠ってしまうみたい。終わったよ、っていって、いつも揺り起こされるから。そういうときは、気がついても、すぐには起き上がれないくらい、……疲れてる」
眩しそうに目を眇めて、彼は申し訳なさそうにこちらを見上げた。
「ごめんね。一緒に、遊べなくて」
「いいよ。寝て」
遊べないのは確かに寂しかったけれど、それよりも、彼がこんな風に辛そうにしていることの方が、ずっと悲しかった。大好きなパズルを解けない自分の寂しさよりも、大好きなパズルを作れない彼の悲しさの方が、ずっと大きく感じられて、痛かった。
だから、せめて、一緒にいてあげたいと思った。パズルがなくても、遊べなくても、いつも通りに、一緒にいたかった。
寄り添いあって、労わるように頭を撫でてやっていると、彼はうとうとと眠りに落ちかかりながら、小さく唇を開いた。
「カイト、……一緒にいて、くれるよね」
「うん。いるよ。ずっと、一緒だから。安心して」
怖くないよ、と伝えたくて、一生懸命に手を握った。
良かった、と呟いて微笑むと、気が緩んだのか、彼はすぐに深い眠りに落ちていった。
□
いずれ、日本に帰らなくてはいけない身でありながら、そんなことを言ってしまって、自分はなんて無責任なんだろうと思った。口先だけで、彼を騙したような心地になって、少し落ち込んだ。
けれど、意外なことに、先にこの地を離れ、親友を置いていったのは、彼の方だった。
□
その日、珍しくいつもと違う、よそ行きの格好をした少年は、簡潔に一言、お別れだね、と言った。その表情は、少し寂しげで、けれど何かを受け容れたように微笑んでいた。
彼の方は、きっと前々からそれを考えて決めたことなのだろう。落ち着いた様子なのも当然である。しかし、こちらとしては寝耳に水の出来事だ。毎日一緒にいたのに、何も聞いていない。どういうことかと、焦って問うと、特別コースに行くんだ、と彼は答えた。
「もっと、すごいパズルが解けるようになるかもしれないんだ。そうしたら、もっとパズルと遊べる。大きくなったら、可哀想なパズルを全部解いて、自由にしてあげるんだ。もう誰も、戦わなくていいように。傷つかなくていいように」
そのためにも、寂しいけれど、しばらくさよならなんだ、と言って白い少年は淡青色の瞳でこちらを見つめた。何かを求めるような──切なく訴えるような、そういう瞳だった。彼のそんな表情は、これまで見たことがなかったから、戸惑いで心臓がどくんと跳ねた。
何とかしないといけない、と思った。少なくとも、彼は何かをして欲しがっていると思った。それくらいのことは、毎日一緒に過ごした仲だ、言われなくても分かる。
けれど、それではいったい、自分は何をしたらいいのか──具体的なその内容は、まったく見当がつかなかった。何を求められているのだろう──何をして欲しいのか、何を言って欲しいのか。悲しいくらいに、分からない。
どころか、自分が何を言いたいのか、それも分からなくなってしまっていた。突然の別れを前に、混乱したということだろうか。何かしなくてはと、心は焦る一方で、けれどもどかしいまでに、どうしたらいいのか分からない。
「……戻って、くるよね?」
結局、口をついて出たのは、ありきたりなつまらない言葉だった。行っちゃ嫌だ、行かないでと言ったところで、彼を困らせるだけなのは分かっていた。
せめて、また会うことを約束するくらいしか、ただの子どもにすぎない自分たちには、自由にならない。それを向こうも分かって、悲しいくらいに明るく微笑んでみせる。
「もちろん。いつになるか分からないし、君も日本に帰っちゃってるかもしれないけど……会えるよ、絶対。パズルを通して、絶対に」
だから、と少年はまっすぐな瞳を向けて言った。
「だから、忘れないでね。約束」
二人だけの、約束──パズルを信じてあげること。パズルのことも、自分のことも、嫌いになんてならないこと。いつか二人で、最高のパズルを解いてみせること。
「うん。忘れないよ」
そんな風に誓うと、彼はとても嬉しそうに微笑んで、ぎゅ、と抱きついてきた。いつもの重さ、いつもの温度。これも、もう暫くお別れなのだと、思うと自然に腕を回して抱き締めていた。
肩の辺りに顔を埋めて、友人は小さな背中を震わせながら、懸命に絞り出すようにして、声を紡ぐ。
「探すから。見つけて、会いに行くよ」
「うん」
「招待するから。思い出してね」
「うん」
「カイト、……大好き」
「……うん。知ってる」
慰めるように、柔らかな髪を撫でてやると、彼は堪え切れないように嗚咽をこぼした。ああ──初めて会った時にも泣かせて、別れる時にも、泣かせてしまった。次に会う時には、また泣くのだろうか──それとも、笑うのだろうか。
こっちまで泣いてしまったら駄目だと、笑って見送るのだと、懸命に堪えようとしたけれど、声を殺すのが精いっぱいで、溢れる涙はどうしようもなかった。お互いに縋りつくようにして、声もなく、別れを惜しんでいた。
身体を寄せたまま、彼は身じろぐと、ポケットから畳んだ紙きれを取り出した。
「これ、……カイトに」
言って、こちらの手に握らせる。受け取って開こうとすると、「後で読んで」と耳元で恥ずかしそうに付け加える。
「ひとりで読んで。カイトのためだけに、書いたから……君にしか、読めないよ」
そっと身体を離して、いたずらっぽく笑う。その瞳は涙に濡れていたけれど、小さな決意を宿した表情は、まっすぐで明るかった。頷いて、こちらも笑顔を見せる。
「いってらっしゃい。……気をつけてね。無理しないでね」
「うん。カイトを想って、がんばります」
お互いに目を赤くして、手を振って別れた。その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと、見つめていた。
「後で、読んでね」と念押しして、去り際に渡されていた紙きれを、そっと開く。
紙面に並んでいたのは、鉛筆の拙い筆致で書かれた、点と線、それからシンプルな図形による記号の羅列だった。
こんなもの、日常生活では、見掛けたことがない。瞬時に頭の中を検索して、知る限りの地球上のあらゆる言語における文字と照合するけれど、当然、一致するものはない。それもそうだろう、あれほど見事なパズルを次々に生み出す彼のことだ、手紙一つだって、普通のやり方で伝える筈もないに決まっている。
これは、彼が置いていった、──最後のパズルだ。
本当は、見た瞬間に理解出来ていた。知っている──両親の仕事の関係上、考古学、言語学関係の資料を目にする機会には事欠かなかった。これは、点が1、横棒が5を表す。そして、楕円状のシンプルな図形は、0を表す貝殻の意匠──かつてマヤ文明で用いられた、数字表記システムに他ならない。
分かるように翻訳すれば──15、14、25、25、18、22、12、12、25、28、32。
「11個の数字……最小が12、最大で32……アルファベットに対応? ……じゃないか、このままじゃない……英文だとしたら、アルファベットの出現頻度はE、T、Aの順で高いし、XとZは殆ど出てこない……25が3回出てくる、これがE……? 文の大半がAとTの間の文字で出来ているとして……AからTまでで20文字、それにUかWあたりを加えて21文字……12から32までの21個の数字に割り振れば、一応これで文は作れる……仮にアルファベットの換字式暗号として……けど、なんで12から? 駄目だ、理由がないと……そんな力任せの頻度分析を使うんだったら、誰でも解ける……そんなんじゃないはず……やっぱりAが1か0で……マヤ文明にはゼロの概念があった……0からのスタートでいいはず……0がA、26も2周目のAなら……P、O、Z、Z……後半に偏ってる……なんで2周目があるのか……足し合わせた? ……11文字の2つの文をそれぞれ数字に変換して、一文字目同士、二文字目同士、足し合わせたなら……? 2つの文は、暗号文とその鍵……鍵を知っている相手だけが読めるように……それなら鍵は……11文字……」
カイトのために、作った──どこか気恥ずかしげに、そして誇らしそうに、友人は言っていなかっただろうか。君にしか、読めないように作ったんだと、そう言っていなかっただろうか。
「……KAITO……DAIMON……?」
──11文字。小さく、心臓が鳴った。
自分の名前のアルファベットを数字に置き換えたらどうなるか、それは今まで暗号遊びで幾度となく試している。10、0、8、19、14、3、0、8、12、14、13。頭の中で、すぐに思い描くことが出来た。
友人の残した数字の羅列から、それを対応する一文字ごとに引いていく。現れたのは、4から19までの数字の並び──5、14、17、6、4、19、12、4、13、14、19。
0をAとすれば、4はE、19はT、それぞれ2回ずつ登場している──法則通りだ。
あとは、数字をアルファベットに置き換えて読むだけだ。ゆっくりと、文字を辿って、11個の発音を綴る。
「……f、or…get、m、e……not」
──思わず顔を上げて、足を踏み出した。
しかし、そこに彼はもういない。目の前には、穏やかな草原が、ただ広がるばかりだった。優しい風が、手の中の紙きれをそっと揺らす。
ああ──ルーク。
彼の残した言葉を握り締めて、しゃがみこんだ。さんざん泣いた筈なのに、次々に溢れる涙が、止まらなかった。泣きながら、行ってしまった親友の名を、繰り返し呼び求めていた。
そうだ、どうして言ってやらなかったのだろう。
彼は、何度となく、言ってくれていた。こちらのことを、大好きだと、小さな全身で表現してくれていた。
それを、当たり前のように思って、ただ向けられた気持ちを受け取る一方だった。
改めて言うのは気恥ずかしかったし、別に言わなくても、分かるものだと思っていた。
なんて──馬鹿だっただろう。
彼が繰り返し、繰り返し、その言葉を口にしていたのは、他でもない、同じ言葉を返して欲しかったからではないか。
どうしても心配で、確かめたいと思ったからではないか。
──それなのに。
僕も、君が大好きだよと、どうして──伝えてやれなかった。
好きになって貰うことよりも、忘れないでいて貰うことを、そんなちっぽけな程度のことを、彼に願わせてしまった。
そんな自分を、責めて泣いた。
今度、逢ったら──ちゃんと伝えよう。
大好きだと、言ってやろう。今までの分も──これからの分も。
それだけ、固く胸に誓った。
それを最後に、彼と再び顔を合わせることもなければ、一通のメッセージが送られてくることもなかった。
□
今にして思えば、おぼろげながら、あの施設がどういう場所で、何のために子どもを集めていて、白い少年に対して毎日のように検査とやらを行なっていたものか、だいたいの予測がつく。
そして、あの子がどこへ行ってしまったのかも。気を失うまで脳に負荷を掛ける実験を厭わぬ組織だ、倫理観などというものに期待は出来まい。
「特別コース」などと──まったくもって、失笑ものではないか。ああ、確かに特別だ。選び抜かれた、実験台、という意味で。おそらくは、能力開発などといって、その幼い頭蓋に刃を入れ──何らかの処置を施し、そして、かつてそういう試みの上手くいった試しのないことが示唆するように、彼もまた、行き過ぎた欲望の犠牲となったのだろう。
パズルを解き続けていれば、また会えるなどと、今となっては本気で信じてはいない。
それでも、既に果たす相手のいない約束を、どうしてか、棄て去ることが出来ずに守り続けている自分がいる。
諦めが悪い、負けず嫌いというのが、自分のどうしようもない短所であることは自覚していて、けれど、そういう自分が嫌いではない。パズルにおいても──それ以外の、すべてにおいても。
手紙を送るからと、あんなに一生懸命に言っていた、あの子の思いが報われることなく消えてしまったなんて、思いたくないのだ。どんなかたちでもいい、せめて自分だけは、受け止めてやりたい。
あの子が送りたかったメッセージが、もしかしたらいつか、パズルの内に隠されて届くのではないかと、そんな風に思っている。
彼はまだ、こんな自分を見て、素敵だと言ってくれるだろうか。
幼い日の他愛のない記憶に、時折、無性に縋りつきたくなることがある。
その声を──聞きたい。
その髪に──触れたい。
その温度を──感じたい。
大好きだと言ってくれた、彼を、そして、あの頃の自分を、決して忘れたくはない。
パズルを解くときの、音も光も遮断され、感覚を失い身体を失い、意識だけとなって感じる、真っ白な世界。
脳を侵す、圧倒的な恍惚感。
パズルの中に、過去を幻視し、パズルの中に、未来を夢想する。
そこに、あの子がいるのではないかと。
待っているのではないかと。
呼んでいるのではないかと。
探すことを、止められない。
叶わないことは知っている。けれど、せめて、これくらいのささやかな慰めは、胸に抱いていても良いと思うのだ。
自分だけの──否、二人だけの。
誰に解かれることもない、秘密だ。
#12が待てずにやってしまった捏造過去話。暗号は…スルーで…!
2011.12.11