英国追憶 -1-
乗り物の窓にかじりついて、外の景色を眺めてはしゃぐなんていうのは、幼い子供だけに許された特権であって、十代後半にもなってやることではない。とはいえ、そうそう搭乗する機会のない乗り物で、そうそう観ることのない景色にお目にかかれるとなれば、自然と心が浮き立ってしまうというのは、年齢に関わらずどうしようもないことだと思う。それはおそらくは、これから自分はこれに乗って、日常を脱却し、非日常へと旅立つのだという高揚感も手伝って、冒険物語に憧れた無邪気な子供心を思い起こさせるためなのだろう。
「ほら、奥座れよ」
英国行きの飛行機の座席は、3列シートの窓際と真ん中の二つが予約されていて、どちらがどちらに座っても構わなかったのであるが、俺は自然と友人を促して窓際へと押しやっていた。
「いいの?」
先日、9年振りに再会したばかりの友人──ルークは、はたして客人を差し置いて使者たる自分がそちらの席を譲って貰って良いものかどうか、暫し躊躇うような様子を見せたが、いいから、と言って肩に手を置き、半ば強引に座らせてやった。
「……ありがとう。優しいね」
「別に」
存外に幼い表情で友人は微笑み、礼を述べた。それに対して、こちらがそっけない返答になってしまったのは、単純に照れくさかったからだ。こんなことくらいで「優しい」などと評されては堪らない。なにしろ、そんな風に褒められたことというのはここ数年記憶にないし、そういう言葉は自分なんかではなく、たとえばあの、いつも飄々としているくせにいざというとき頼りになると専らの評判の生徒会長殿にでも向けるのが適切だろう。彼と自分とでは、まったくもって正反対だ。
ルークに窓側を譲ったのは、俺が誰に対してでも優しいとか、自己犠牲の精神があるとか、自分一人を呼び出すためにわざわざ海を越えてやって来た旧友を労うつもりだとか、そういった理由あってのことではない。単純に、その方が良いと思ってそうしたまでだ。友人を思ってのことというよりは、自己満足という方が正しいかも知れない。
窓の外の景色を、ルークに見せてやりたかった。
彼自身が、そう望んだわけではないし、何らかの素振りがあったわけでもない。もしも訊いてみたら、そんなものに興味は無いとでも言われてしまうかも知れない。それでも、たとえこちらの身勝手であったとしても、ルークに外を見せるのは自分の役目なのだと、俺は滑稽なほどに強く意識していた。
「ああ、動きだしたね」
両手を窓枠に掛けて、触れるばかりに顔を寄せたまま、ルークはどこか楽しげに呟いた。これから延々と滑走路を移動して、離陸し、高度を上昇し、海の上へ出るまで、きっとその姿勢は変わらないに違いない。どうやら自分の身勝手は、良い方向に作用したらしいと、俺は胸の内に安堵を覚えた。
出逢ったばかりの頃の彼は、パズルのことこそ驚くほどによく知っていたけれど、それ以外のことについては、ごく日常的な事についてさえ、まるで知らなかった。
たとえば、料理。今朝のスクランブルエッグが、と話し始めたところで、それは何のことかと真剣な表情で訊き返されたときには、もしかしてこちらの方があの料理の名称を間違って記憶しているのかと、己の英語力が不安になったくらいだ。
たとえば、世界。彼は海を知らなかった。その行動圏は、クロスフィールド学院の敷地内の、それもごく一部に限られていて、その外に何があるかなんて、彼はまったく想像がつかないようだった。地球儀を見せながら、ここが日本で、ここから来たんだよと教えても、ただ不思議そうに首を傾げるばかりだった。
たとえば、景色。学院の外に出たことがないという彼でも、映像資料から情報を得ることは出来ているのだろうと思っていたら甘かった。彼は、頭の真上にある太陽しか知らなかった。それが昇るところも、沈むところも見たことがないし、夜空にきらめく見事な星々のことも知らなかった。
そういう友人に、当時の自分は、己の知る限りのことをひとつひとつ、教えてやった。自分が好きなのは、こういう料理で、こういうものから出来ていて、こういう味がする。海を越えるときは飛行機に乗って、とても高いところから地上を眺めることができる。早起きをして、少しずつグラデーションを描いて明るくなる地平線に太陽が顔を出すのを見つめるのは、とても気持ちが良い。
そんな他愛のない話を、ルークはいつもまっすぐな瞳で、何度も頷きながら聴いてくれた。そんな彼に応えたくて、俺はささやかで何でもないような日常の中にも、何か新たな発見がないかといつも探しながら、学院での日々を過ごしていた。
昼休みの僅かな時間しか自由になれないという、彼に教えてあげたかったのだ。
外の世界には、こんなに楽しいことがある。
こんなにきれいな景色がある。
それを、伝えてあげられるのは、自分だけなのだと、使命めいた思いを胸に抱いていた。
──なんていう、子どもの頃の小さな使命感を、どうやら未だに捨てきれずにいるらしい。相手はもう16だ、特別な保護管理下に置かれなくてはならなかった幼いころとは、もう違う。今回だって、問題なく独りで来日したようであるし、クロスフィールド学院高等部に籍を置いているということは、かつてのような非常識加減は、既に十分に埋め合わされていることだろう。
今更、彼にどんな世界を見せてやるでもない──もしかしたら、今や友人の方がよほど、物をよく知っているかも知れないのだ。
──それでも。
ルークに外を見せてやりたい。連れ出してやりたい。手を引いてやりたい。
自分の中の思いは、あの頃のまま、消すことが出来ずにいる。そして、窓の向こうに遠ざかる地上を楽しそうに眺めている友人の姿を見ると、そういう自分の身勝手さも、案外嫌いではないように思えてくるのだ。
視界が雲に遮られて、変わり映えのしない景色が続くようになると、ルークはようやく窓から顔を離した。自然、ぽつりぽつりと共通の思い出を辿って言葉を交わすかたちとなる。ディスクタワーがどうの、タングラムがどうのと、パズルに関する記憶はお互い、隅々まで鮮明に覚えていた。それを確認し合う作業が、何故だかとても心地良い。それもそうだろう、俺にとってあの頃の日々というのは、今に繋がるかけがえのない大切な時間だった。それを誰かと分かち合いたいと思おうとも、白い友人にしろあの青年にしろ、再び会えることはなかったから、いつも独りで回想に浸っていたのだ。
それが、今は二人で確かめあえる。あの日々が、確かに輝かしく、大切な時間として存在していたことを、分かち合える。こんなときが来るとは思っていなかっただけに、それは心躍るような発見だった。
そんな会話の中、ふと、ルークは胸の前に両手を向き合わせ、ボールでも持つかのような仕草をして、首を傾げた。
「覚えてる? カイトが教えてくれた、あの遊び──キャッツ・クレイドル? ええと、」
「あやとり、な」
難しそうな表情で記憶を辿る友人に胸の内で苦笑して、俺はすぐに答えを教えてやった。いくら彼の記憶力が優れていようとも、何の脈絡もない日本語の遊びの名称を、いちいち覚えていられるものとは思わない。
答えを貰って、そう、それ、とルークは嬉しそうに声を弾ませた。
「あれは、シンプルだけどやみつきになるよね。パズル放ったらかしで、何時間も続けてたの、懐かしいな」
「あれも一種のパズルだろ。上手い奴同士じゃないと、続かない。またお前が、変なかたち作るもんだから」
「うん。カイトは、いつもちゃんと解いてくれたよね」
やってみようか、と言うなり、ルークはフライトアテンダントを呼んだ。そんなことで職員を呼びつけて良いものかと、俺は内心で焦ったが、友人は慣れた様子でにこやかに注文を出し、それらしい細い紐を調達した。ご丁寧にも、リクエストに応えて色は赤である。
自分から始めようとはせず、友人はそれを当然のような顔でこちらに渡してきた。自分でやれよと思いつつ、輪にして結び、記憶を辿って指に引っ掛けてみる。
「自信ねえな。こうだっけ」
「ああ、そんな感じ。取っていい?」
身体が覚えているとでもいおうか、始めてみると指が勝手に動いて、紐の作り出す複雑なかたちが、互いの両手の間を行き来する。両手の中の世界は、次々と新たな表情を見せ、飽きることがない。明確な答えがない以上、これをパズルと呼んで良いものかどうかは分からないが、やっている当事者の実感としては、どちらもとてもよく似ている。脳を刺激する高揚感、指先に伝わる緊張感、いずれをとっても心地良い。
高校生男子二人があやとりをする図というのも、はたから見るとなかなかに愉快なことになっているのだろう、なにやら近隣から微笑ましい視線が向けられているのをちらちらと感じる。それが不審な視線ではないというのが幸いなところで、それはきっと、白金の髪に乳白の肌、淡青色の瞳の友人の容姿のゆえに、これは留学生に日本の遊びを教えてあげているのだろう、とでも解釈されているに違いない。
先程ルークが口にしたように、これは英語圏ではキャッツ・クレイドルと呼ばれ、一般に知られている遊びなのだから、別に日本の伝統文化というわけではないのだが、それはともかく、やはりこれは面白いパズルだな、と改めて思った。
「……ね、カイト」
相変わらず難解なかたちを勝手に作るルークの両手から、なんとかして上手く取ってやろうと悪戦苦闘していると、小さく名前を呼ばれた。
「え?」
深く考えずに顔を上げる。目の前には、友人のガラス玉めいた淡青色の瞳が、思ったよりも近くにあって、一瞬息を呑む。どくん、と心臓が跳ねた。
お互いに、両手は糸に絡め取られて動けない。呼吸の混ざり合う距離で、ただ、見つめ合っていた。時間が止まったかのように、身体が固まって、瞬きすらも出来ない。
ふと、ルークの瞼が静かに下りる。これから眠りに就こうかというような、無垢な表情。少しずつ、互いの距離が縮まって、軽く首を傾げた友人の無防備な唇に、誘い込まれるように近づいて──
「──あ」
触れるばかりの距離で、ルークの唇が、小さく息をこぼす。それで我に返って、慌てて身体を離した。俯いた友人の視線を辿って見れば、順調に続いていた紐のパズルは、無惨にかたちを崩してしまっていた。
なるほど、先程の声は、小指から紐が外れてしまった際のものであったらしい。一つでも支点を失えば、張り詰めた糸のバランスはあっけなく失われてしまう。白い指を緩やかに拘束するように、解けた赤い糸の無秩序に絡んだ様子が、眼に鮮烈だった。
「取れなかったから、カイトの負けだよ」
「はいはい」
さっきの妙な気分は、いったい何だっただろう──何とも思っていなさそうな友人の呑気な台詞に生返事をしつつ、どこか落ち着かない鼓動を感じていた。
せっかく調達した紐を有効活用しようというのだろう、ルークは一人で、白い指先を動かして複雑怪奇な作品を作っては解くことを繰り返した。そうしているのを見ると、リクエストに応じていつも綺麗なパズルを作って出題してくれた、幼い頃を思い出さずにはいられない。
「なに?」
こちらの視線に気付いてか、友人は静かに微笑みながら問うた。少し首を傾げる、その仕草に懐かしい温もりがこみ上げるのを感じながら、いや、とぶっきらぼうに視線を逸らす。ただの照れ隠しだ、自覚している。
「……キレーだな、と思って」
それは、そうとしか言いようのない、正直な気持ちだった。
この友人は、本当に──綺麗になった。
日本ではおよそ見掛ける機会のない、上等な漆黒の制服を見事に着こなしているという所為もあるのだろう。洗練された身のこなしは上品で、小さな仕草ひとつ取ってもおよそ隙がなく、ひたすらに育ちの良さを感じさせてやまない。
その姿で、じっとして座っていたら、本当に人形か何かのように見えた。白く、作りものめいて、熱も重みも持たないような──気安く近づいては、いけないのではないかと思わせる。再会の喜びで、思わず昔のように飛びついてじゃれあってしまったが、よく考えると叱られてしまいそうな気がする。身体はもう大丈夫と言っていたが、それがどの程度まで大丈夫なのかどうか、まだ確認も出来ていないのだ。気を払うに越したことはない。
幼馴染といっていい仲とはいえ、距離のとり方は今後、配慮する必要があるだろうか──なんて、我ながら慣れないことに戸惑っているらしい。こんな風に、どぎまぎとしてしまうのは、ルークがかつてのルークとは随分と違って見えるためであるし、どうカテゴライズしたものか、未だ判然としないからだ。
だいたい、付き合いのある人間というのは、自分の中で緩やかにグループ分けされていて、あいつらはこういう傾向の奴、といってひと括りにしているものである。天才の称号を有する一部の彼らなどは、個性が強すぎてそれ単体で成立してしまうのであるが、そうはいっても、似た者同士をまとめて捉えることが出来ないわけではない。
だが、その意味で、いま隣に座るこの友人は、誰にも似ていない──少なくとも、今の学園生活においては、身近にいないタイプだ。距離の取り方を迷いもするというものだろう。
なにしろ、正直いって、彼は──綺麗なのだ。
といって、一言でまとめてしまうと、実に即物的な話である。そんなことで簡単に挙動不審になってしまう、免疫のない自分がそろそろ情けなくなってくる。といって、そんな免疫があるというのも、それはそれで嫌なのだが。
仕方が無いだろう、そう感じてしまうものは、そうなのだから──誰だって、彼を見ればそう感じるに決まっているのだから。そんな開き直りに近い態度で、せめて己の正当性を確保するばかりだ。
子どもの頃も、当時は意識などしなかったが、なるほど確かにルークは愛らしい顔立ちをしていた。色素が沈着していない幼子に特有の柔らかな白金の髪、乳白色の肌、利発そうに輝く大きな青い瞳。初めて見たときに、あまりに現実感のない姿かたちをしているものだから、もしかしたら人間じゃないんじゃないかなどと荒唐無稽なことを考えた記憶がある。その頃は語彙がなかったので、幽霊くらいしか思い当たる節がなかったが、今ならばさしずめ、妖精やら天使やらといった形容が相応しいだろう。いずれにしても、気恥ずかしいことこの上ないが、実際にそれが正直な感想である。
いつも心から楽しそうに、にこにこと人懐っこい彼の笑顔を見ると、自然にこちらも温かい気持ちになった。丘の上で走り回ったり、羊に抱きついてはしゃいだり、そういう子どもらしい無邪気で快活な振る舞いが、誰より似合う子だった。
しかし、懐かしい記憶の中のそのイメージを、現在の隣に座る友人に重ね合わせることは、正直いって難しい。今の彼は、おそらくは丘の上などには行かないし、走るどころか歩き回ることさえしないのではないかと思わせる。一分の隙なく着こなした衣服の上から伺い知る限り、友人の身体は少し心配になるくらいに肉が薄い。抱きついたとき、その細さに内心、驚いたほどだ。
これでは、フットボールチームに所属して精力的に活動しているなんていうことはまずあるまい。身体がもう大丈夫という本人の言葉も、信憑性に欠けるというものだ。どう見ても、窓の閉ざされた部屋で静かに座して、本でも読むか、独りでチェスを指すか──そんな姿が、一番しっくりとくる。達観したような、落ち着き払ったその態度は、同い年ということを忘れてしまいそうになるほどだ。
そして何より、あの笑顔が──表情が、変わった。
話し掛けると、穏やかに微笑んではくれるものの、それは、かつてのような輝くばかりの喜びが溢れる笑顔とは違う。笑っていても、どこか物憂げで、心の中で何か他のことを考えているような──笑ってみせるために、笑っているだけというような──そんな表情だ。
こちらを向いていないときの彼からは、その表情さえ消え失せる。伏せた瞳はガラス玉めいて、何ら感情を伺わせない。ただ、機械的に開いて、表面に景色を反射しているだけ、というような──脳にまで、情報が到達していないような、そんな感想を抱かせる。相変わらず柔らかな白金の髪にしろ、なめらかなままの白い肌にしろ、そこは変わっていないのだから、印象が違って見える大きな要因は、その瞳ということになるのだろう。
そして、そういう無感動なルークは、こわいくらいに──人間ではないものであるかのように──綺麗なのだ。
大切に触れなければ、壊れてしまいそうな──そういう緊張感を人に与えるくらい──綺麗。
危うく見惚れてしまいそうになったところで、我に返って頭を振る。よく一般に言われるように、欧米人は成長すると見違えるように変わる、という実例なのだろうか。単に、色気づく年齢になって、こちらの見る目が変わったというだけかもしれないが。
無邪気に遊んでいた子どもの頃には感じなかった、境界線。それが、外見の変化だけに由来するものであるのか、それとも他に何かがあるのか、正体はよく分からない。隣にいる筈の親友が、ふとしたときに何故、こうも遠く感じられるのか──分からない。昔の彼が、何かを得てこうなったというよりは──何か、足りないように感じられてならないのは、どうしてだろう。
何かが欠けて、より透明に、より儚く、より綺麗になる──それは、成長というべきだろうか、退行というべきだろうか。
いずれにしても、かつての親友とは違う。
否、それも当たり前のことだろうか。再会の喜びに浸っていたときには気付かなかったが、考えてみれば、別れてからだいぶ時間が経過しているのだ。9年間──それは、幼児が成長し、それぞれの人格形成を果たすのに十分なだけの時間だ。
何があったのか、まだ聞いてはいないが、まさかあのままで──そのままでいられる筈もない。無垢な子どもの頃とは、お互い少なからず、違っているのだろう。向こうにしても、こちらを見て、同じようなことを思っているかもしれない。
「カイト」
小さく呼ばれて、振り向くと、いつの間にか友人はこちらに身を寄せていた。あ、と思う間もなく、肩に頭を乗せてもたれかかってくる。
「変わっていないよ、僕は。昔の、まま」
「……うん」
こちらの思考を読んだかのように告げられた言葉に、つり込まれるままに頷く。
膝の上の手に、そっと白い手が重ねられる。冷たそうな、けれど、ほのかに温かい手。人形みたいだ、と思っていた自分の感想を、ここで訂正しておく。それは、確かに──ルークの手だった。何も、変わっていない。
重ねた手を、軽く握られて、情けないことに身体が固まってしまう。そんな不器用な反応に、友人は、可笑しそうに声を抑えてくすくすと笑った。
「だから、カイト。昔みたいに、また──」
また──何だろうか。続く言葉を待っていると、聞こえてきたのは、小さな寝息だった。やれやれ、こういうところも、変わっていない──昔からルークは、夢中になって遊んでいたと思うと、疲れたといってすぐにぱたりと眠ってしまうような子だった。
あの頃と同じで、友人の身体からは、微かに抗紫外線ジェルの薬品めいた匂いがした。こちらに身体を預けさせてやりながら、その存外に幼い寝顔を見守った。