英国追憶 -2-




12時間のフライトを終え、現地に降り立ったのは、時差の関係上、出発同日の夕方だった。周囲を行き交う人々の異国語のざわめきが、どこか耳に心地良い。戻ってきたのだ、と小さな実感が胸に広がっていく。入国手続きを待つ間、ルークと二人、はたして、ここから先は互いの会話も英語に切り替えるべきだろうかなどと、くだらない話をして笑い合った。
友人の説明によると、短期留学生としてのカリキュラム参加中は、学生寮の空き部屋を貸して貰えることになっているらしいが、ひとまず今晩の宿は、クロスフィールド学院近郊に用意されているという。空港で直截タクシーに乗り込み、ロンドン市内からは離れる方向へと移動する。
窓の外に広がるのは、濃緑から薄茶のグラデーションを描く平原が彼方まで続く、のどかな田園風景だ。道路脇には、日本では見慣れぬシルエットの木々が立ち並び、遠景には放牧された羊の群れが映る。そこへ、赤々とした雄大な夕陽がゆっくりと落ちかかる情景は、見事なものだった。暫し言葉を忘れて、車窓から望むパノラマに心を奪われる。それは、友人にしても同じ心境であるようで、ガラス玉めいた瞳に鮮やかな朱色を映して、ルークは身動き一つせず、流れる景色を見つめていた。
陽が落ち、濃紺の闇が降りてくる中を2時間ほど走ると、目的の町へ到着である。遠くからでも、大聖堂の尖塔がはっきりと見て取れ、それを囲むようにして、統一感ある素材で形作られた家々が立ち並ぶ。無粋な高層建築など存在しない、時間の止まったような情景。車は、石畳の道を小さな広場前まで進むと、そこで静かに停まった。
「ほら、着いたぜ。起きろよ」
案内人のくせに、陽が落ちて景色が見えなくなるなり、呑気にもすっかり眠り込んでいた友人を揺り起こす。小さく呻いて目を開けたので、これで大丈夫だろうと、ひとまずこちらは放っておいて、トランクから荷物を降ろす作業に取り掛かることにした。
自分の分と、ルークの分とを石畳の上に置いて一息をつき、友人が降りてくるのを待つ。だが、暫し待ってもタクシーのドアは開かない。俺は盛大な溜息を吐くと、座席で幸せそうに二度寝している友人を無理矢理、外へと引っ張り出す仕事に従事するはめになった。
どう見ても体力に自信があるとは思えないルークだから、今回の日本への往復で疲れているのだろうことはよく分かるが、まったく、これではまるで子どもと同じだ。寝るというなら、こんなところではなく、ちゃんと帰ってから、柔らかなベッドで存分に眠ればいい。
まだぼんやりとしている友人の手を引いてやりつつ、到着した宿は、決して華やかではなく、どちらかというと質素ながらも、確実に積み重ねられた伝統を感じさせる重厚な雰囲気を纏った石造りのホテルであった。フロントまで付き添って来てくれた友人を、そういえば、と俺は振り返った。
「お前は? これから寮に帰るのか?」
「ううん。僕もここに泊まるよ。無事に学院に到着するまで、お世話させていただきます」
おどけて一礼してみせる友人に、こんな頼りない付き人がいるかと思わず口にしかけたところを、辛うじて堪える。そうか、それはどうぞよろしく、と笑って、俺は部屋の鍵を受け取った。

友人と別れて用意された部屋に這入るなり、俺は寝台に身を投げ出した。柔らかな解放感を、全身で味わう。本当ならば、さっさとシャワーを浴びて身体をほぐし、明日に備えて寝るべきところを、なかなか身を起こす気になれず、意味もなくごろごろと転がっては、壁紙のパターンの繰り返しを目で追ってみる。
短期留学生として授業に参加するのは、まだ先の日程であるが、明日はルークと二人で、学院を見て回る約束をしていた。友人と共に、かの地を歩くのは──9年振り、か。
格調高い雰囲気を醸し出す、年季の入った部屋の空気を味わいながら、懐かしいような戸惑うような複雑な気分に浸る。幼い頃からこちらで生活していたのだ、英国には第二の故郷といっていいほどに馴染んでいる筈なのであるが、まるで初めての地を訪れたかのように、変に気分が落ち着かない。時差ぼけのせいだろうか。それならば、一晩休んで、翌朝、陽の光を存分に浴びながら人々の行き交う街中を歩きでもすれば、かつての感覚を取り戻せることだろう。
──それとも。
これは、こんな気分になるのは、一緒にいるのがほかならぬ、ルークだから──なのだろうか。思いを馳せつつ、ぼんやりと寝転がっていると、控えめなノックの音が聞こえた。フロントに用を頼んだ覚えは無い。よっと身体を起こして、俺は寝台を降りた。
「はいはい、っと」
開けた扉の先には、予想通り、友人の姿があった。なんだろう、何か明日の予定について、言い忘れた伝達事項でもあったのだろうか。
疲れてるところにごめんね、と前置きして、ルークはこちらをじっと見つめた。
「話、したくて。いいかな」
少し首を傾げて、真摯な眼差しで問うてくる。先のぼんやりとした様子では、もう部屋に着くなりさっさと寝てしまいそうだったのに、これは意外な申し出である。機内や車中であれだけ十分に眠ったから、逆に今となっては眠くないということだろうか。
ともあれ、こちらとしては、疲れているかと訊かれれば、別にそうでもない、というのが素直な実感だ。確かに、十数時間の長旅を終えてひと段落したところなのだ、旅慣れない者であれば、随分と身体の節々が凝っている筈であるし、早々に寝てしまうのが最善だろう。
しかし、そういう遠出の緊張感とか、興奮の後の疲労感というのは、俺には無縁のものである。なにしろ、子どもの頃から両親に連れられて、国内外を問わず、およそ観光客が訪れるとは思えない、どころか地元住民さえ近寄らないような、秘境の数々を巡ってきたという経歴がある。そんな乱暴な英才教育の甲斐あって、俺はどんなに窮屈で、不安定で、雨風が侵入して、蒸し暑く、また寒く、騒々しい場所であろうと、構わずに睡眠を継続することが出来るという図太い神経を身につけている。
それに比べれば、航空機のエコノミークラス席なんて、家のベッドと何ら変わらず、心身の休まる快適なものである。今更、英国へ飛ぶくらいのことで、いちいち緊張したり、興奮したりなんて、しようと思っても出来ないのだ。
そうしたわけで、特に疲れてはいないのだから、友人の申し出を断る理由は無い。どころか、余程のことがなければ、ここで彼を追い払うという選択肢は、自分の中には存在しなかった。
なにより、わざわざこちらを尋ねて来てくれたことが、単純に嬉しかったのだ。懐かしい親友を前に、こちらこそ、まだまだ話し足りない思いでいる。昔のように、笑いながら喋って、パズルを作って、解いて──寝る前のひととき、そんな楽しい時間を過ごせれば良い。思うと、とても明日までなんて、待っていられない。俺は快く、友人を招き入れた。
一歩、部屋に足を踏み入れると、ルークはそこで、眩しそうに目を眇めた。
「……ごめん。消していい?」
「ああ。悪い、ちょっと待ってな」
応えつつ、急いでベッドサイドの照明を落とす。どうも日本での生活に慣れて、部屋を照明全開で隅々まで明るく照らすのが、自分の中で当たり前になってしまっていたらしい。失念してしまっていたが、こちらでは適度に間引かれた間接照明が基本だ。必要もない灯りを点け放しにするなど、無粋であることこの上ない。
一つ灯りを落とすと、室内には自然な陰影が生まれ、身体を休めるのに相応しい雰囲気に包まれる。それを認めてから、ようやく友人は安堵したように、部屋の奥へと這入ってきた。
小さなテーブルセットに、向かい合って座るものと思って待っていたら、ルークはそこを素通りして、自然な態度で寝台に歩み寄った。光に敏感な眼球を持つ彼であるから、室内でもより薄暗いスペースの方が居心地が良いのだろう。整えられたシーツの上に、友人は小さく腰掛けた。
「カイト。僕のパズル、解いてくれる?」
俯いたその唇から、おもむろに発せられたのは、そんな台詞だった。ルークのパズル──久し振りに聞く、懐かしいその響きに、心が躍る。そう、今回こうしてこちらへやって来た目的の何割かは、彼のパズルに再び挑戦し、解いてみせることなのだ。もちろん、と言って応じると、こっちへ来いといって手招きされるままに、寝台の隣に腰を下ろす。
こちらとしても、あれからいくつもの修羅場をくぐり抜けて、腕に磨きをかけた自信がある。勝手にくっついてきた腕輪は気に入らないが、確かにそいつのおかげで、これまで到底手出しの出来なかった領域のパズルに触れ、掴み、己のものとしつつあることを感じる。成長した今の自分がパズルを解く様を、旧友には是非とも、見て欲しい。素敵だよと言って、また、同じように微笑んで欲しい。彼にそう言って貰えることは、今の自分にとっても、最高のご褒美なのだ。
一方で、こちらがそんな風に成長をしたというからには、当然、ルークの方だって、ますます冴えた方法で、情緒豊かな美しいパズルを編み出すようになっていることだろう。彼の作るパズルは、実に優しく、温かく、繊細なのだ。それを、早く見てみたいと、既に心は急いて高鳴る。
はたして、ルークはいかなるパズルを出してくれるのだろうか。見たところ、何も道具らしきものは携えていないようであるが──昔から、誰よりパズルを作るのが上手だった彼のことだ、何ら特別なものなど必要とせずに、それでいて、きっと今までにない、驚くような問題を与えてくれるに違いない。
期待に高鳴る内心を隠しもせずに、隣の友人を見つめる。彼はどこか物憂げに目を伏せたまま、緩慢な動作でこちらに向き直った。
その白い手が、静かにこちらの右手を取って引き寄せる。無言のうちに、ルークはそれを自分自身の襟元へと導いた。何をするつもりだろう──友人の意図が読めず、不思議に思いつつも、されるがままに任せる。
そのまま、友人は上品な光沢を纏うベルベットのリボンタイに、引き寄せた指先を引っ掛けた。そこで初めて顔を上げて、短く言う。
「脱がせて」
──一瞬、思考が停止した。それに、呼吸も。
何を言っている、ふざけているのかと──笑って返すことが、出来なかった。こちらをじっと見つめる、友人の淡青色の瞳は、どこまでも静かだった。
ぎゅ、と握った手を胸の上に押し当てて、ルークは訴えるように紡いだ。
「君に、……解かれたい。全部、暴いて。もっと、見て欲しい。奥まで、内側まで、何も隠せないくらい」
「……ルーク」
「カイト。キスして」
しん、と耳の奥が軋むような感覚がした。視線を外すことを許さない、まっすぐな瞳に囚われて、身体を寄せることも、離すことも──出来ない。見つめ合ったまま、沈黙だけが折り重なっていく。
動きを見せないこちらに対して、ふと、ルークの唇が溜息をこぼす。
「……どれだけ、君に会いたかったか。君を、待っていたか。分かる?」
大事そうに捧げ持った片手に、ルークはそっと頬を擦り寄せた。感じ入ったように瞼を伏せ、代わりに可憐な唇が薄く開く。
「カイト。カイト。……カイト」
名前を呼ぶことが、堪らない喜びであるかのように、ルークは吐息交じりに紡いだ。
「君に全部、あげたいんだ。カイトになら、どうされたって構わない。壊して、いいから……君のものにして」
片手を捧げ持つだけでは足りずに、縋りつくようにして、肘から先を胸に抱く。陶然とした表情で、腕を、指を絡ませて、愛おしげにかたちをなぞる。
こちらが硬直しきって反応がないのをみると、ルークは気だるげに身じろいで、二人の間の距離を詰めた。きしり、と寝台が軋んで、身体が密着する。熱に浮かされて潤みを帯びた瞳で、ねだるように間近で見上げられて、思わず喉が鳴った。
「カイトが、欲しい……もう、限界だよ。我慢出来ない。今じゃなきゃ、早く、……お願い。お願い、します」
切れ切れに紡ぐ声は、既に哀願に近い。ぎゅ、と肩にしがみついて、離れたくない、と呟くと、ルークは堪え難いというように俯いた。
「カイトは、かわいそうなパズルを解いてあげるんだよね。……僕は、かわいそうじゃ、ない?」
微かに震える声で、与えられた問いに、応えることが──出来ない。
何を、言っているのか──どうして、こんなことに、なったのか。
混乱しきった脳で、指先すらも動かせない。
カイト、と今一度、友人は名前を呼んで、こちらに身を寄せた。
「……助けて」
殆ど消え入りそうな声で、それは、今にも崩れ折れてしまいそうな、ぎりぎりのところで発せられた小さな叫びのように聴こえた。
だから、ようやく動いた右手で、顔を上げさせることしか、出来なかった。その震える唇に、望むように、小さく唇を重ね合わせてやることしか、出来なかった。
それで、今にも泣き出しそうな親友を落ち着かせることが出来るのならと、今の自分の頭にはそれしかなかった。この友人に泣かれることに、俺は昔から、非常に弱い。
「……ん、ぅ……」
切ない息をこぼす唇に、触れ合せ、離れては、また重ねる。白く冷たい人形めいたルークの唇は、確かに温かく、押し当てると柔らかな弾力を感じた。
そうして時間を稼ぎながら、辛うじて、ようやく思考停止状態から脱した脳を働かせる。どうして、こんなことをと、納得のいく理由を懸命に考える。そうでもしなければ、おかしくなりそうだった──おかしな気持ちに、なってしまいそうだった。
きっと、寂しいのだと思った。今のルークには、誰も、頼ったり縋ったりする相手がいなくて、独りきりで寂しい思いをしていたに違いない。そこで、かつての親友が学院に招かれると知り、自ら使者を買って出て、わざわざ日本までやって来た。自分は学業を休んででも、二人で学院内を見て回ろうと提案した。
そこが、思い出の地だから。
幸せな、記憶の残る場所だから。
そこでなら、誰の邪魔も入らず、二人きりになれるから──昔のように。
互いに、誰よりも強く結ばれていた、あの頃のように。
そこまでしなくてはいけないまでに、追い詰められていたのだろう。誰にも理解して貰えない寂しさは、こちらもよく分かっている。独りきりで過ごす時間の哀しさは、十分に承知している。
そこに、再会を果たした喜びで、気持ちが少し、行き過ぎてしまった──これは、気の迷いというものだ。落ち着いたら、きっと本人もそれを理解する。どうしてあんなことをしたのかと、後悔する。
だから、流れに任せてしまっては駄目だ──今一度、確認して己を律した。
「カイト……もっと、……」
吐息の合間に、誘い込むように可憐な唇が開いて、濡れ光る柔肉を絡めてくれとねだる。ルークのなめらかな乳白の肌は、今は紅潮して、長い睫を切なげに伏せて熱い吐息をこぼす様子は、幻想的な間接照明もあいまって、扇情的である以外の何物でもなかった。
これほど熱烈に求められて、気持ちが動かされないといったら嘘になる。けれど、駄目だ、いけない。大切な親友の懇願であろうとも──大切な親友、だからこそ、こんなことをさせてはいけない。まるで、自暴自棄になって、壊されるのを望むかのような──こんなことは、いけない。
より深くと、こちらの頭を抱きかかえようとする細い腕を、そっと掴んで外させる。肩を押してやると、触れ合わせていただけの唇は簡単に離れた。
「……ぁ、」
どうしてやめてしまうのかと、潤んだ瞳で問うように見上げられて、小さく心臓が鳴る。駄目だ、と今一度頭を振って、おかしな熱っぽさと、何だか分からない胸の痛みを振り払う。
諭すように、相手の目を見つめて、俺はルークに、そして自分自身に言い聞かせた。
「いいよ、こんなこと、しなくても大丈夫だ。俺はお前のこと、ちゃんと分かってる。ずっと、一緒にいるから」
揺れる瞳でこちらを見つめて、しかし、ルークはふるふると首を振った。
「……やだ。やだ、ちゃんと、カイトが欲しい」
「あのな、……」
「教えるから」
何を、と問う間もなく、耳元に口づけられる。熱い吐息が耳朶を撫で、柔らかく濡れた感触に包まれる。
「っ……」
よく声を上げなかったものだと、自分を褒めてやりたいくらいだった。初めて知る感覚は、いとも容易く皮下を駆け抜け、反射的に頸を仰け反らせる。必死で声を堪えるのを嘲笑うように、巧妙な愛撫が首筋を伝い下り、喉元、鎖骨と順に征服していく。
身体を離させようとするも、腕を絡ませてもたれかかられた体勢では分が悪い。なりふり構わず、全力で抵抗すれば、もちろん逃げられもするだろうが、この友人の華奢な身体を、突き飛ばしたり殴ったりすることには、どうしても躊躇わざるを得ない。
そんなことは、どうあっても、してはいけないのだと──傷つけては、いけないのだと。これもまた、幼い頃に植え付けられた意識のせいなのだろうか。中途半端な手加減でもがいているうちに、とうとう背後へ押し倒され、覆いかぶさられる体勢となる。
そうしている間にも、白く綺麗な手が、服の上からもどかしげに胸を、脇腹を辿る。
「カイト……カイト、気持ちいい……?」
掠れた声でそんなことを問うてくる友人の、切ない息遣いを肌で感じて、心臓の辺りが震えた。今にも服を剥かれそうな状況だというのに、何故かルークはそうしようとはせずに、ただただ露出している耳から首、鎖骨辺りに繰り返し口づけ、丹念に舌を這わせ続けた。
だからといって、何らこちらに余裕の生まれるわけもない。服の上から緩急をつけてまさぐられるだけで、おかしいくらいに頭が熱くなる。直截的でないがために、より一層にもどかしく、じわり、じわりと焦燥感が這い上がる。声を噛み殺すのに精一杯で、ひたすらに状況は悪く、それもいつまで続けられるものか分からない。どんなひと押しで、決壊してしまうものか分からない脆い堤防を、必死に支えるばかりだ。
混乱の極みにあるこちらとは対極に、ルークは身体を密着させながら、吐息混じりの気だるげな声でもって、耳元に囁きかけてくる。
「練習、したんだよ。カイトと、上手く出来るように。……褒めてくれないの」
返事のないことをどう捉えたか、首の付け根に軽く噛みつかれて、危ういほどの感覚が背筋を駆け上がる。腹の底から、制御出来ない熱がこみ上げ、得体の知れない微弱な痺れが、触れ合った箇所から皮膚を侵していく。
あたかも、綺麗なパズルに挑み、とうとうあと一歩で組み伏せんとするときのような、高揚と焦燥、それから歓喜の予感──このまま意識を委ねてしまいたいと、一瞬、思わなかったといえば嘘になる。
「……『友達』は、こんなこと、してくれた?」
ぽつりと呟かれた問い掛けに、応えるどころか、その意味を考えることすら出来ない。何を──何を、言っているのか、分からない。
はぁ、と感じ入ったように息をこぼして、首筋から一旦顔を上げると、ルークはこちらの手に指をきゅ、と絡めた。煽るように緩急をつけて擦り立て、揉み込み、握って、愛おしげに先端に口づける。
「カイト、僕だけ見て……触って。欲しいよ、一緒にいこう、感じたい……」
カイト。カイト。カイト。
その声で切なく名前を呼ばれる度に、じわじわと思考が呑まれ、麻痺していくようだった。心地よい陶酔に、浸るようだった。
不意に指先が、温く湿った感触に包まれて、思わず身が竦む。目の前で、ルークが可憐な唇に親指を咥え込んでいた。伏せた睫を震わせて、熱い吐息をこぼしながら、柔らかく、また固く、解きほぐすように、敏感な箇所に刺激を与えていく。
「何でも、するから……カイトの、ためなら。何だって、出来る……がんばれる」
ちゅくちゅくと、淫猥な音を立てて指を吸い、甘噛みしてみせながら、ルークは途切れ途切れに紡いだ。時折、濡れた唇から感じ入ったような小さな喘ぎがこぼれて、ともすればそれは、自らの意思で、この手で友人の口腔を犯しているような、眩暈のするような感覚に陥らせた。
何でも、すると──そう告げた友人の声が、瞬く間に脳を浸蝕していく。
何を──してくれるというのだろう。この先に、何が──待っているというのだろう。まだ知らない、何があるというのだろう。
このまま、身を任せたら、もっと途方もない快楽が約束されるような──そんな予感に、心が傾きかける。
だが──駄目だ。頭を振って懸命に、最後の理性を呼び起こす。いけない、こんなのは──駄目だ。
先端を強く吸い上げて、親指を解放すると、ルークは陶然とした表情で、心臓の上に頬を擦り寄せてくる。その細い手が、愛おしげに脇腹を、腰を伝い下り、そして熱を持った身体の中心へと至る。
「カイト……舐めていい?」
返事を聞く気はもとよりないのだろう、身じろいで、今にもそれを実行に移そうとする友人の薄い肩を、俺は辛うじて掴んだ。びくり、と怯えたようにその身を竦める反応に、ともすれば力を抜いてしまいそうになる己を叱咤して、放すまいと固く掴み直す。
多分、放っておけば、ルークは「がんばって」くれるのだろう。したいようにさせてやれば、こんな風に切なく声を震わせるほどのその寂しさを、少しは満たしてやれるのかもしれない。
けれど──確実に、自分たちは、失うだろう。
幼い頃、出逢ってすぐに心を通わせた、あの日のことも。
夢中になって遊んだ、あの場所のことも。
大切なことを教えてくれた、あの人のことも。
懐かしく、温かな記憶を──そして、それを大事に胸に抱いてきた、自分自身を。
きっと、台無しにしてしまう。
かけがえのない、親友を──失くしてしまう。
この場所で、他でもない思い出のこの地で、そんなこと──させるわけにはいかない。
やめてくれ、と叫びかけたとき、ふとルークの強張った肩から、力が抜ける。
分かってくれたのだろうか──分かってくれたのなら、それでいい。こちらも、そろそろと手を離した。強く掴んでしまって、痛かっただろうかと思うと、申し訳ない心地になる。
何か、声を掛けてやらなくては──そんな風に思って、口を開き掛けた、そのとき。
「……どう、して……?」
小さく、くぐもった声が聞こえた。ぎゅ、と胸の辺りの衣服が掴まれる。どうして、ともう一度声を震わせながら、ゆっくりと頭を起こした、ルークは──泣いていた。
信じられないというように、茫然と見開いた瞳から、滴が溢れてはこぼれ落ちる。
「どうして、いけないの、……好きなのに。大好き、なのに」
子どものように、泣くじゃくっては、どうして、どうしてと繰り返す。親友の紡ぎ出す幼い日本語は、まるで、二人一緒に過ごした、9年前の──あの頃のままに戻っていた。自分自身の肩を、まるでそうしなければ壊れてしまうとでもいうように固く抱き締めて、悲鳴めいた呼吸を継ぐ──その姿を、茫然として、眺めることしか出来なかった。
ふらり、と操られるようにして、ルークは上体を起こした。こちらの腹の上に跨って見下ろし、ぽろぽろとこぼれる涙もそのままに、嗚咽交じりに紡ぐ。
「僕が、完璧じゃないから……綺麗じゃないから。汚れてるから、壊れてるから。だからカイトは、解いてくれない、……愛して、くれない」
細い指が、震えながら、いつの間にか解けていたリボンタイに掛かる。ひどく緩慢な、ぎこちない動作で、何度も失敗しながら、ようやく辛うじてそれを白い喉もとで交差させると、ルークは目を閉じて首を反らせた。ぽたり、とその瞳から溢れた最後の滴が、頬に落ちるのを感じた。
躊躇いなく、あたかも靴紐でも締めようかという風情で、ルークは逆手に握ったリボンタイの両端を、ぐ、と引いて──
瞬間、びくり、と背が跳ねて──
ぎり、ぎり、と何かが軋む嫌な音がして──
唇が、喘ぐようにわなないて──
──ああ、だから、あやとりのとき──紐を、自分で結ばずに──結ぶのが下手だから──
そこで、ふと金縛りが解けたように、身体が跳ね起きた。意識するより前に、友人の腕を力任せに掴む。
勢い余って、華奢な身体を押し倒していたが、そんなことには構っていられない。背中から倒れ込んで、相手の怯んだ隙に、無理やり指を開かせ、馬鹿な行為を止めさせる。白い頸部に巻きつくリボンを、忌々しくむしり取ると、脇へ投げ捨てた。
上下にもつれあったまま、互いにひどく息を乱して、しかし、こちらが汗を拭って馬鹿野郎と叫ぶ前に、先に声を発したのはルークの方だった。
「どう、して……カイト、要らないんだよね。だったら、僕はもう、……必要ない」
痛々しく掠れた声でそう言って、軽く咳き込む。戸惑うように見上げてくる瞳には、およそ錯乱も狂気の色もない。それは、ごく当たり前に、当たり前のことをしただけだとでもいうかのようだった。何がいけないのか、どうして叱られるのか分からない、とでもいうような、無垢な表情。
「失敗作なんだ。ちゃんと、かたちになっていない、不完全な出来損ない──だから。カイトを、満足させてあげられない。こんなの、見せたくない。カイトにあげるパズルは、もっと綺麗じゃないと。これは、棄てるよ」
まるで、自分の作ったパズルを評するかの調子で、ルークは平然として言った。
こんなにも──こんなにも、あっさりと。
自分を、要らないと──言いきってしまう。
どうして──分からない。
分からない。
分からない。
「なに……何、言ってるんだ、……ルーク、そんなの、いけない、駄目だろ……駄目、だ」
上手く声を紡げない──喉を叱咤するけれど、途切れ途切れに出てくるのは薄っぺらな言葉ばかりで、思うところを何一つ、伝えられない。
何を言っているのだろう──何を言いたいのだろう、何を言わなくてはいけないのだろう、何を伝えるというのだろう──何もかもが、分からなくて、ぐしゃぐしゃで、喋るほどに声が掠れた。首が熱い、息が詰まる。ぐらり、と世界が揺れたような気がした。
そんなこちらの様子を、ルークは黙って見上げていた。その唇が開いて、ゆっくりと、確かめるように言葉を紡ぐ。
「……それじゃあ、カイトが、してくれるの?」
無垢なまでの表情で投げ掛けられた、その問いが何を指しているのか、言われなくとも明らかだった。相手の意図を把握した瞬間に、ぞくり、と背筋が震える。
自分でするのが、駄目というのなら、代わりの誰かにして貰えばいい。本気で、そんな理解をしている瞳だった。奥底まで澄みきって、透けるような、とても綺麗な瞳だった。
ちゃんと伝わっているかどうか、心配になったのだろう。少し首を傾げて、ルークは丁寧に言い直す。
「僕の、首を、カイトが──」
「やめてくれ!」
頭を振って、思わず叫んでいた。駄目だ、それ以上を、言わせることは出来ない。言わせてはいけない、絶対に。
言わせられるものか──あんな表情で。あんな、どこか嬉しそうな顔で。ご褒美のプレゼントを待つ、無邪気な子どもみたいに、弾んだ声で。
──僕の首を、カイトが絞めてくれるの? 
そんな言葉を、紡がせて──たまるものか!
勢い任せに、拳をシーツに叩きつける。びくりと身体を竦ませて、ルークは口をつぐんだ。
ああ──この友人のことを、自分は何も、分かってやっていなかったのだ。
昔と、同じでいられる筈も──ないのに。
同じであって欲しいという、こちらの勝手な幻想を押し付けた。
そのせいで──自ら首を、絞めさせるまでに。
一緒に、いてやるだなんて──想いに応えてやることも出来ないで、軽々しく誓うなど──なんて、愚かだっただろう。なんて、ひどいことを、言っただろう。
無自覚のうちに、大切な友人を、手ひどく──傷つけた。
赦せない──こんな、自分を赦せる、わけがない。
──最低じゃないか。
いらないというなら、出来損ないというなら、それは──むしろ──
そこで、ふと意識が、柔らかく包まれる感覚がした。なにか、温かなものに寄り添われるような感覚。
そっと、躊躇いがちに、頬に触れてくるものがあった。いつの間にか、視界が滲んで、それが何であるのか、分からない。瞼が痺れる、頭が痛い──痛いんだ。
「……カイト。泣かないで」
濡れたままの瞳で、友人は健気にも微笑んでみせた。とても、見ていられないほど、それは悲しく、綺麗な笑顔だった。
「本当はね、カイトに初めて解いて貰いたかった。一番先に、あげたかった。大好き、だったから。でも、駄目だった。他の人たちに解かれちゃったパズルなんて、カイトは興味ないよね。まだ解かれていない、綺麗なほうが、いいよね。……ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさいと、肩を震わせて、嗚咽交じりに繰り返す。か細い腕が持ち上がって、何かを護ろうとするように、何かを拒もうとするように、きつく己の両耳を塞いで頭を抱える。それでも、ルークのわななく唇は、ごめんなさいと繰り返すことをやめなかった。
まるで、そうすることで、怖いことから見逃して貰えるとでもいうかのように。止めてしまえば、もっと怖いことが起こるのだと、知っているかのように。聞かせる相手もいない、どこに向けたのかも分からない言葉を、紡ぐのをやめなかった。
その言葉を紡ぐ度に、自分を責めて、心臓に突き立てて、柔らかい部分を抉って、ぼろぼろになっていく──ばらばらに、壊れていく、姿が、痛みが、見えるような気がした。
──どうすることも、出来ない。明瞭過ぎるほど明瞭に、それが分かった。
どうしてやったらいいのか、分からない。ぼろぼろになって、ばらばらになって、今にも壊れてしまいそうな、ルークに何をしてやったらいいのか、分からない。
分からない──けれど。
どうしたら良いのか分からなくて、やみくもに腕を伸ばした。震える身体を、ただ、精一杯に抱き締めた。両腕でも足りないくらいに、抱き締めてやりたかった。
力任せで、焦燥だけで、情緒も何もない。もしかしたら痛いかも知れないけれど、そんなことに構ってはいられなかった。
痛いくらいにしてやらないと、たぶん、ルークは分からない。
痛いくらいにしてやらないと、きっと、ルークを──護ることは出来ない。
今度こそ、手放したくはない。どこにも逃がすまいと、しっかりと抱き締めて、落ち着かせるように大きく背中を撫でる。繰り返してやっていると、拒むように耳を塞いでいた両手が、次第に弛緩して、力なく脇に下ろされる。それを待ってから、俺は静かに口を開いた。
「……違う。違うよ」
言い聞かせるように、ゆっくりと紡ぐ。
「ルークは、……綺麗だ」
それだけしか──自分に言えることはない。
本当に、確かだと思って、言えることはない。
大切な友人について、こんな自分が言えることは──ただ一つだけだ。
だから、いなくなって良いわけがないと、伝えたかった。
こんな風にしか、伝えることが、出来なかった。
躊躇いがちに、背中に腕が回って、きゅ、と抱き締められるのが分かる。さっき、あんな巧妙な誘惑をしたのと同じ人間とは思えないほど、それは微笑ましいくらいにささやかな意思表示だった。
肩口に頬を擦り寄せて、ルークは小さく囁いた。
「……カイト、大好き」




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