英国追葬 -3-
丹念に舐め尽くした足指の一本ずつにまで、律儀にクリームを塗り終え、見るとルークは疲れ切ったように力なく顔を背けていた。辱めに堪えてきつく閉ざした瞼には、薄く涙が滲んで睫を濡らし、唇は乱れた呼吸を隠すように、抑え込んだか細い息を継ぐ。それでも、色素の薄い乳白の肌に浮かぶ、ほのかな紅潮の色は隠し通せない。本人もそれを自覚しているのだろう、ビショップの指先がそっと火照った頬にあてがわれると、嫌がるように首を竦めた。触れるなと言わんばかりに身体を丸め、か細い腕で自分を抱き締めて護ろうとする。
「ルーク様。……まだ、終わっていませんよ」
溜息交じりにビショップが囁くと、少年はよりいっそうに身を硬くして、ふるふると頭を振った。
さすがに少々、遊びが過ぎてしまったかも知れない。こんな風に追い詰めて、弄ぶのが目的だったのではないのだ。途中でつい興に乗って、横道に逸れてしまったことをビショップは反省しつつ、失礼いたします、と断って少年の手首を掴み上げた。
失礼どころか無礼にもほどがある行為であるが、今のルークには、それを咎める余裕などはない。せめてもがいてみせる可愛らしい抵抗を易々と押さえ込み、ビショップは少年の両腕を頭の上で束ねてシーツに押しつけた。隠すものなく晒されたルークの白い肢体を、無遠慮に眺め下ろす。
どうしてこんな目に遭わなければならないのか、分からないといったように眉を寄せ、淡青色の瞳を潤ませた、その表情。乱れた呼吸を継ぐ、可憐な唇。羞恥に染まる頬。細い首から鎖骨へは、疵一つないなめらかな肌に落ちた陰影が、呼吸の度に揺れ動いて艶めかしい。痩せた胸から脇腹は、塗りつけたクリームのせいだけでなく、内側から生起させられた熱のゆえにしっとりと汗ばみ、白い皮膚をほのかに光らせるかのようだ。ほっそりとした頼りない腰、しなやかに伸びる大腿の付け根へと視線を這わせていったところで、とうとう屈辱に堪えかねたのだろう、覆いかぶさる黒衣の長身を押し退けるべく、ルークは身をよじり、反動でもって自由な脚を振り上げようと試みた。
結論からいうと、その健気な抵抗は、無遠慮な行為に制止を掛けるための、何の役にも立たなかった。
「──慣れないことを、されるものではありません」
落ち着き払った態度で、ビショップが囁いたときには、ルークは片膝を立てた中途半端な体勢で、ぴたりと抵抗を止めている。否、強制的に、止めさせられている。
少年の両手首を纏めて片手で拘束しつつ、空いたもう片手を無防備な薄い胸の中央に押し当てた、ビショップの振る舞いはこんなときでも場違いなまでに余裕に満ち、暴力性の欠片も感じさせないどころか、いっそ優雅ですらある。あたかも、聞き分けのない生徒に根気強く接し、教え導かんとする慈愛に満ちた教師めいた態度でもって、少年を宥めているかのように見えるだろう──その薄く、壊れそうな白い胸の上に置いた手のひらに、寝台を沈み込ませるほどの自重が掛けられていることを、知らなければ。
抵抗を押さえ込まれた瞬間、衝撃に大きく息を吐き出してから、肺を膨らませることを許されず、ルークは苦鳴をもらして息喘いだ。強張ったその身体に、最早抵抗の意思の残っていないことを冷静に確認すると、ビショップは胸骨を折らない程度には加減をして押さえ込んでいた手のひらから、ゆっくりと力を抜いた。
「っ、は、はぁ……っ」
解放されるや否や、ルークは大きく胸を上下して、悲鳴めいた息を継いだ。こういう姿を見ると、白く冷たい人形めいたルークであっても、確かに熱を持ち、呼吸をしなければ生きていけない、生身の身体であることを実感させられる。胸の中央に軽く添えたままの手のひらからは、壊れそうに速い鼓動が伝い感じられて、ビショップは愛おしくそこを撫でた。びくり、と大げさなほどに身を竦ませて、ルークは息を詰める。
いったい、何をされると思っているのだろう、透けるような瞳を瞠って、哀れにも肩を震わせる怯えきった様子に、ビショップは苦笑した。そこで気がついて、頭上に拘束したままだった両腕を放してやる。解放されてなお、少年は腕を引き戻さなかった。あたかも、未だ見えない拘束具に締めつけられているかのように、無防備に頭の上に投げ出したまま、ぴくりとも動かない。どうやら、完全に力が抜けてしまっているらしい。あるいは、少しでも勝手に動いたら、またひどいことをされるとでも思っているのだろうか。
咄嗟のこととはいえ、やり過ぎてしまっただろうかと、ビショップは己の行為を小さく反省した。しかし仕方あるまい、他に手はなかったのだ。声も上げられないほどに怯えさせてしまったらしいのは計算外であるが、間違った行動であったとは思わない。
ひとまず、自分では動かせないらしい少年の両腕を、忠実な側近は出来る限り丁重な扱いでもって、脇に下ろしてやることにした。右腕、それから左腕と、神妙な態度で静かにシーツに揃えるのは、まるで何かの儀式のようで、ビショップは胸の内で苦笑した。そのときだった。
「…………な、さい…」
か細い声が、耳を打った気がして、ビショップは顔を上げた。聴こえるか、聴こえないかで発せられた、小さな声。それが、今は従順に目を伏せて固く口を閉ざしたルークの発したものであると、遅れて理解すると、ビショップは堪らずに深く嘆息した。それさえも、今はルークを怯えさせることにしかならないと、分かってはいたが、押し止めることは出来なかった。
「謝らないでください。怒っていませんから。……続きを、してしまいましょう」
保湿クリームの缶を取り上げて示すと、ルークは戸惑うように側近を見上げ、それから目を伏せて、ほんの僅かな角度でもって頷いた。もとより、拒む選択肢はなかっただろう。これが終われば解放される、もうひどいことはされない、そんな風に考えていることは明らかだった。
すっかり力の抜け切った少年の身体を、ビショップは丁重に抱き起こした。今度は何をされるのかと、ルークは警戒に身を硬くしつつ、濡れた瞳で側近を見上げた。
「もう、いい……あとは、自分で、」
「お背中が残っています。ご自分でされるのは、難しいかと」
掠れ気味に告げられた主人の懇願を、にべもなく却下して、ビショップは少年の身体を向き合うかたちで緩く抱いた。こちらに身体を預けさせる格好で、白い背中にクリームを塗りつけていく。先程までの、焦らして弄ぶような指先の動きや、一瞬垣間見せた容赦ない攻撃性は影を潜めて、それは、幼子を宥めるような、優しく包み込むような、慈愛に満ちた手つきだった。
それでも、一度硬直してしまったルークの胸の奥までは届かないのか、細い肩は哀れにも強張ったままだ。痛ましく眉をひそめつつ、ビショップはなめらかな背中に手のひらを滑らせた。出来る限り刺激を与えぬよう、抑制を効かせた声でもって、主人の耳元に呟く。
「手荒な真似をして、申し訳ありませんでした。……あの体勢で無理に脚を上げられると、筋を違えて、あなたが痛い思いをするだけだったので」
抵抗を許さず、咄嗟に押さえ込んだ、先の理由を静かに伝えると、腕の中でルークが顔を上げるのが分かった。何か言おうとしているのか、あるいはこちらを見ようとしているのか、もたれていた身体を起こそうとする。その後頭部を、しかし、ビショップは片手で包むと、何も言わず、ゆっくりと元のように自分の方へと引き戻した。
「代わりに、怖い思いをさせてしまいましたが……お咎めは、後でいくらでも。何が良いか、考えておいてくださいね」
互いに表情が見えないように、肩口に首を預けさせて、安心させるように優しく髪をかきまぜる。暫く続けてやっていると、もう、頭を起こそうとはせずに、ルークは大人しく、ビショップの胸に身体を預けた。
抱き締めるような姿勢で、塗り残しのないよう、ゆっくりと背中全体に手のひらを滑らせる。そのとき、ふと、小さく服を引かれる感覚があった。安堵の思いで、ビショップは表情を緩める。そろそろと持ち上がったルークの手が、躊躇いがちにビショップの黒衣を掴んでいる様子は、見なくとも分かった。それは、ルークがようやく、少しばかり心を開いてくれた証だった。こちらに頼ろうとしてくれている、証だった。
肋骨の感触も明瞭な脇腹へ、腰へと、大きく撫で下ろしてやると、堪らずに、背中に腕を回して縋りついてくる。あたかも、自分がこの白い少年から求められ、乞われているかのような幸せな錯覚に、ビショップは暫し身を委ねた。
その、ほんの小さなきっかけだけで、後はもう、いかなる手助けの必要もなかった。ルークの中で、押さえ込んでいたものが、とめどなく溢れ出していく。泣き出しそうな声を堪えて、ルークは背中を震わせた。少年の胸の内で渦巻く葛藤が分かって、ビショップはそっと、細い背中を支えるように手のひらを添わせる。
「ルーク様……仰ってください。どう、されたいのですか。何が、欲しいのですか」
静かな、囁き程度の声で、ビショップは少年の耳元に問うた。ひくり、と身体を竦ませて、ルークは縋るように側近の腕を抱き締める。言わなくとも、分かって欲しいと乞われていることは、ビショップはすぐに理解したが、それでは意味がない。ルーク自身が、己の望みを把握しなければ、いつまで経っても、同じことを繰り返すだけだ。
宥めてやるかの手つきでもって、肩を、背中を包み込む。側近の手から与えられるものに、少しずつ、ルークの緊張が解きほぐされていくのが分かる。頭を撫でて促されるままに、ルークは小さく唇を震わせた。
「……僕を見て。触って。撫でて。抱き締めて。呼んで。褒めて。叱って。赦して。好きになって……愛して」
絞り出した声は、殆ど掠れて、哀願に近かった。
堪らず嗚咽をこぼすルークの背中を、ビショップは分かるようにしっかりと抱き締めると、子どもにするように、ゆっくり撫でてやった。静かに、触れてやる手つきはこの上なく優しかったが、ただ繰り返すばかりで、少年の哀願に何ら、言葉を返すことはなかった。
肯定も否定も約束もせずに、肌を触れ合せて、温もりを与える。それが、今のビショップに出来ることのすべてだった。
ルークの時間は、9年前の夏に止まったままだ。
彼にとっての世界は、パズルと、二人のソルヴァー、それだけで構成されている。他の誰も、入り込む余地は無い。現在、彼の最も身近に仕えるビショップにしても、それは同じことだ。そこには、あまりに明瞭な境界線、あるいは、致命的な断絶があって、こちら側からいくら訴えたところで、何かが聞き入れられる筈もない。
ルークは、何も聞こうとしない。
何も見ようとしない。
何も話そうとしない。
何も放そうとしない。
何も変わろうとしない。
何も受け容れようとしない。
だから、ルークはそのままだ。今まで過ごした16年の時間の中で、唯一、輝きに満ち溢れていた、そのときのまま、彼のあらゆるすべては、止まっている。
幼い日の、他愛のない記憶。
彼にとって、価値があるのはそれだけで、意味があるのはそれだけで、欲しいものはそれだけなのだ。
他の者では、代わりにならない。
庇護を求めて啼く、ちっぽけな小鳥のようなルークを、そっと両手で包んでやることは──出来ない。
やりきれない思いで、少年の忠実な側近は首を振った。ルークに対して、何かをしてやりたいなどと、出過ぎた真似であり、思い上がるにもほどがある。
求められたところで、いったい、彼に何を与えてやれる。
迂闊に触れれば喰らい尽くされそうなほどの、ルークの内側に渦巻く、抑圧された渇望。
それを、満たしてやることなど、出来る筈もない。
仮に、自分が彼を愛していると言って、その望むすべてを肯定してやって、優しく抱いたところで、何ら幸福な結末には至らないことを、ビショップは承知している。
手を差し伸べてやれば、きっとルークは、ビショップに縋るだろう。かつて、それが出来なかった代わりに、幼子のように、依存するだろう。すべてを委ね、自らの一切の所有権を明け渡すだろう。
そして、ルークは、崩れてしまう。
ルーク・盤城・クロスフィールドという存在は、取り返しのつかないまでに、崩壊してしまう。
渇望だけが、彼を突き動かす原動力なのだ。それが満たされれば、ルークには何も残らない。ただの、空しい抜け殻にすぎない。
ビショップが愛するのは、今にも壊れそうな危ういバランスで、奇跡的に成立した、あの白い少年の儚く美しいありようなのだ。自分で自分を追い詰めて、縛りつけて、締めつけて、軋ませて、けれど叫ぶことも出来ない、哀れで崇高なありようなのだ。
──満たされたルークなど、ルークではない。
その無感動な白い面、透けるように凍てついた、もの言わぬ瞳、固く引き結ばれた唇。
どれが欠けてしまってもいけない。
ビショップは、無条件でルークを愛することはしない。
ただ一つ、緩やかに落ちて砕けていく、ルークがどうか、満たされないように。
どうか、愛を知ることのないままに。
哀れに窒息していくように。
そういう彼しか、愛することの出来ない己を、青年は敢えて改めようとは思わなかった。せめて上辺だけでも、取り繕う努力をするのが、一般の道徳に適ったことであるのは承知しているが、そんなくだらないもののために己を曲げるのは本意ではない。その方が余程、誠意に欠ける態度であるようにさえ思える。
偽りの感情で、ルークに接することなど、出来る筈もない。
いくら表層だけをきれいな言葉に包んだところで、彼の眼はすべてを見透かしてしまうだろう。
だから、そうなる前に、ビショップは己のすべてを開示する。
条件付きの歪な愛情でもって、ルークに相対する、自分のやり方を教える。
何も言わずに、ルークはそれを受け容れる。理解され、それで良いと承認されているものと考えて良いだろう。
──愛して欲しいと、ルークは訴えた。
それに応えてやるところまでは、ビショップの役割ではない。
ただ、そういう願望を抱いている自分自身を、ルークに理解って欲しかった。
自分が何を求めているのかも分からずに、無力に膝を抱える少年の姿は、見たくなかった。
──哀れな子だと、彼をそう言って評するのは易しい。
本当に欲しいものを、ねだることも出来ずに、一度も与えられることのないままに、ただひたすらに白く、純粋に造り上げられた、何も知らない、何も持たない子ども。
彼を哀れだと言って、救いの手を差し伸べ、引き上げてやることは、すなわち、彼のすべてを否定することだ。壊れそうな中にあって、否応なしに歪められながら、それでも逃げることなく、棄てることなく守り続けてきた、彼の9年間を、否定することだ。善意を装った、究極の悪意といって過言ではない。
そうして彼から大切なものを奪い取って、代わりに何を抱かせてやれるだろう。
がらんどうになったルークに、ビショップは、何も埋め合わせてやれるとは思わない。
そんなことをすれば、ただルークは失って、そして、終わるだけだ。救いでも何でもない。
ビショップの思いは、ただ一つだ。
ルークからこれ以上、失わせたくない。
細い身体で立ち、自らを傷つけ、傷つけられながら、倒れることも膝を折ることも許されずに、冷たい盤上を進み続けるしかない、彼をせめて、支えたい。
歩みを止めさせることも、役割を代わってやることも出来ない、側に仕える者として出来るのは、ただそれだけだ。
それだけの、ちっぽけなことだ。
──あなたの道は正しかったし、これからも正しい。
誰が何と言おうと。
この先に何が起ころうと。
いかなる結末に至ろうと。
そう言い聞かせて、ルークを肯定する。
何度も繰り返し、抱き寄せて囁く。
これからも、ルークがルークで在り続けるために。
彼を、褒め称え続けられるように。
崩れ折れることを許さず、崇高な白の塔として、立ち続けることを強いる。
そうすることで、はじめて、ビショップはルークと繋がっていられる。
同じ盤上に、立つことが出来る。
同じ望みを、重ね合わせることが出来る。
彼を一番理解ってやっているのは自分なのだと、幸せな錯覚に酔うことが出来る。
それが、ルークのか細い首を、両手で締めつけることになるのだとしても。
自分たちには、こうするしかない。
ルークが、こうするしかないように。
ビショップも、こうするしかない。
それだけの、ことだ。
それだけの、つまらない、どうしようもない、くだらない──役どころを、演じるだけだ。
嗚咽が途切れ途切れになってきたところで、ビショップはそっと、袖口を握るルークの指を外させた。意を問うように、心細げに顔を上げる少年の瞳を見つめながら、背中を支えて、ゆっくりと押し倒す。二人分の自重を受けて、寝台が小さく軋んだ。
覆いかぶさられた格好で、ルークは拒絶の意思を見せることもなく、ぼんやりと側近を見上げる。薄く開いた可憐な唇は、今にも奪われ、深くかき回されるのを待つかのようだ。あまりに無防備なその様子は、今ならば、何をしても許されるのではないかと、見る者の内にそんな身勝手な衝動を湧き起こらせる。ほのかに上気した頬に、ビショップは引き寄せられるように指を添わせた。触れるか触れないかという程度で撫でると、ルークは心地良さそうに瞼を伏せた。
その表情を見下ろして、忠実な側近は満足げに微笑すると、寄せていた身体を静かに離した。立ち上がると、何事もなかったかのように洗練された所作でもって、少年の身体を掛け布で覆い隠し、丁寧に整える。何か言いたげなルークの視線には気付かぬ振りを装って、ビショップは最後にもう一度、主人の枕元に跪いた。
「──さあ。お疲れでしょう。ゆっくり、お休みください」
両眼の上に手のひらを翳して、閉じるよう促しつつ、耳元で囁く。眼窩にじわりと伝達する体温に、ずっと張り詰めていた緊張が解けていったのだろう。まだ眠くない、と掠れた声で紡ぎながら、ルークは急速に、夢の世界へと落ちていった。
起きている間は彼を苛み続ける憂いから解放され、安らかに寝息を立てるルークの表情は、普段の無感動なまでの冷徹な印象からすると、驚くほどにあどけない。姿かたちだけ見れば、大切に護られて、何ら欠けるところなく満たされ、無条件の愛情を注がれてしかるべき、無垢で幸せな子どもといったところが最も適切であるように思える。
だが、実際の彼は、そうではない。与えられるどころか、ルークは奪われる一方だ。差し出して、差し出して、自分が取り返しようもなく欠けてしまうまで差し出して、そうしてルークはここまできた。
がらんどうで、殆ど何も残っていない。「与える者」としての、それが定めだとでもいうのだろうか。同じギヴァーであるビショップにしても、その在りようは、およそ許容出来るものではない。逆に言えば、それが出来てしまったからこそ、ルークは稀有な存在として、今ここに立っているのだといえよう。
残ったのは、手に入らない、渇望だけだ。それさえも利用されて、ルークは奪われていく。非情にして大いなる意思は、最後まで、彼の内包するものを使い切って、そして駒のように、あっさりと棄て去るだろう。それでも、己の置かれた盤上から、ルークは逃れることが出来ない。駒として、プレイヤーに従属し、これを慕うことしか──許されない。
彼自身の意思ではない。きっと、ルークは自分の意思で選んだ道だと思っているのかも知れないが、そうではない。そう思い込むように、教育され、上手く誘導されてきただけだ。たかだか16年しか生きていない、それも制限された世界で偏った教育を受けて育った子どもの判断力など、とうてい、当てに出来るものではない。
否、何年経とうと、結局、変わりやすく曖昧なヒトの考えなど、信用出来るものではないか、とビショップは思い直して首を振った。自分にしても、今ここにいるのが確かに自分の意思であると、そんなことは言い切れないと気付いたからだ。盤上の駒は、プレイヤーの意思を知ることは出来ない。ただ、動いて、動き続けて、止まるまで続けて──砕けて散るだけだ。
洗いたての、柔らかな白金の髪を、優しくかきまぜるようにして撫でる。指を撫でてくすぐる感触が心地良くて、ビショップは小さく笑みをこぼした。慈しむ思いで、なめらかな頬に、そっと指先を添わせる。
今宵のことは、目覚めたら、きっと、覚えてはいまい。これは、急激な変化を体験した直後の、不安定な精神が生み出した、一時の幻想だ。夢と入り混じって、忘れてしまった方が良い。ルークにとっても──自分にとっても。ビショップは思った。
こんな風に、ルークの幼い精神が、むきだしになって良い筈がない。それは、かつての彼が、一度葬った筈のものだからだ。亡霊のように、度々墓を出て蘇られてはたまらない。いくらここが、彼の始まりの場所であり、終わりの場所であるとしてもだ。
英国首都にその威容を誇る塔(ザ・タワー)──かつて監獄および処刑場として使用され、幾多の咎人の血を吸ってなお、白く輝くその城塞には、無念の死を遂げた王侯貴族らの魂が彷徨い出るという。観光客の喜びそうな、そんな逸話を思い起こして、緩く首を振る。それを言うならば、ルークに最も相応しいのは、草原の中に突如として聳える、巨大なモニュメント──先史時代の遺産たる、巨大な環状列石(ストーンサークル)にほかならない。
古くは悪魔の手による作品、また天文観測所、あるいは宗教施設。その用途に数多の議論を呼び、今なお人々の関心を引きつけるヘンジは、ルークにとっては、ただ一つの意味だけを有する、譲り得ぬ象徴だ。クロスフィールド学院の有する広大な敷地、その丘の麓に悠然と立つ巨石を想起して、ビショップは目を閉じた。
ここは、墓場なのだ。9年前の夏、幼いルークは、ここに埋められた。白の巨石群に護られた、冷たい土の下に。草原に立ち並ぶ巨石は、ひとつひとつが、失っていったものたちの墓標に他ならない。
いま再び、ルークは埋めようとしている。これは、白く儚い追憶の、定められた追葬だ。一夜限りの、──幻想だ。
次に彼が目覚めたら、ささやかな喪は明ける。そのときは再び、一点の穢れもない、純白の衣装を、ルークに纏わせる。細い首に、大仰な首輪を嵌める。逃れることを許さずに、その姿で、玉座に座らせる。そうして、白の塔としてのこの少年を護り、そう在り続けるよう強いることが、己の役割であると、ビショップは知っていた。たとえ、愚か者の誹りを受けようとも。ルークがそうであるように、自分もまた、そうであるという定めから、逃れることは出来ない。
──だから、せめて。
この少年が、白く崇高なもので在り続けられるように。
自分だけは、喪に服していようと思うのだ。
漆黒を身に纏い、ルークの代わりに、彼の失っていったものにささやかな哀悼を捧げる。
聖職者の名を冠しておきながら、神に祈りを捧げたことなど一度もない、こんな異端の身であっても、出来ることがあるのだとすれば──
安らかに目を閉じた、無垢な少年の面を見下ろして、ビショップは長身を屈めた。
「──良い夢を」
触れるばかりに唇を寄せて、耳元に囁く。それから、今一度寝具を整え直してやると、POG総帥が腹心、ルーク・盤城・クロスフィールド管理官の側近たる青年は、事の顛末を本部、および協力者たる日本支部の幹部らに報告し、今後の戦略を速やかに俎上に載せるべく、迷いのない足取りでもって、主人の眠る寝室を後にした。
まさか#14でガンシャされるとは思わず…分かってたらもっと情けなく受け受けしく書いたのに!
2012.01.10