英国追葬 -2-




バスルームは、それを機能重視の実用の場というよりも、好みの調度品で構成した趣味空間と定義してこだわりを発揮する英国人気質が反映されて、居室と揃いの壁紙、照明、そして毛足の長い絨毯によって装飾されていた。壁面には、牧歌的な田園風景を描いたいくつかの絵画が掛けられ、見る者に一瞬、ここがバスルームであることを忘れさせる。
本人を風呂に放り込み、身体を温めさせている間に、忠実なる側近は主人の濡れた衣装の始末にとりかかった。罠に巻き込まれることもなく、無傷で帰還したことは確認済みであるが、舞い散る火の粉のすべてを避けられる筈もなく、漆黒の衣装は裾を中心にだいぶ汚れてしまっていた。残念ながら、これでは、再利用は出来そうもない。どうせ二度と袖を通すものでもないのだ、と判断して、ビショップは、英国の誇る名門クロスフィールド学院高等部の格式高い制服を、そのまま処分することにした。
後の処理は部下に任せ、一息をついたところで、ふと喉の渇きを覚える。何時間となく、緊張感を帯びて直立していたのだ、この辺りで茶でも飲んで神経を休めるのが適当であるかも知れない。それと同時に、ビショップは、現在風呂に入っている少年もまた、同様に休息の必要があることに思い至った。かつての友人と連れ立って学院内を散策し、そのまま愚者のパズルへと足を踏み入れたのだから、朝から何も飲み食いしていない筈だ。オルペウスの契約者から貰ったという菓子は口にしたのだろうか? 暫し思案して、ビショップはおもむろに厨房へと向かった。
普段ならば、バスルームに余計な物など何一つ持ち込まず、殺風景なまでに整然とした室内で湯を浴びるルークであるが、折角こうして英国情緒溢れる館に滞在するのだ、いつもと違う趣向を試みるのも悪くないだろう。それは、絵画まで掛かった絨毯敷きの浴室で湯に浸かることもそうであるし、たとえばそこで紅茶を愉しむということだ。
ビショップとしては、個人的には浴室というのは決して茶を味わうのに適した場所であるとは思えないし、試してみようと思ったこともないのであるが、浴槽に小さく収まってティーカップに口をつける白い少年の姿を想像してみると、それはなかなかに可憐な情景であるように感じられた。正直なところ、その姿を見たいがために、あれこれの理由をつけてルークに茶を飲ませたがっている自分がいることを、少年の忠実な側近は苦笑交じりに認めざるを得なかった。
戸棚にストックされた茶葉の銘柄を一通りチェックし、無難なアールグレイを取り上げる。ベルガモットの爽やかな香りは、昂った神経を休め、精神に安らぎを与えてくれることだろう。上品なアンティークの家具と同様、管理者の洗練されたセンスを伺わせる備え付けの茶器を拝借し、ビショップは二人分の茶を淹れた。

主人のためのティーカップ一式を携え、浴室へと足を運ぶ。順調に手順をこなしていれば、今頃は髪も身体も洗い流して、ゆったりと湯に浸かっている筈の時間帯だ。軽い躁状態めいた、先ほどの少年の言動を思い起こしつつ、少しは落ち着いていると良いのだが、と一つ息を吐いて、ビショップは扉を開けた。
結論から言うと、その願いは不足なく達成されたといって良いだろう。
扉の向こう、立ち上る湯気に包まれたその空間は、一切を拒絶するかの如く、静まり返っていた。どこかへ逃げてしまったのかと、一瞬、錯覚しても無理はないほどの、それは、使用中の浴室にはおよそ不釣り合いな静寂だった。
もちろん、ルークはちゃんとバスタブの中にいて、白い身体を肩まで湯に沈めていた。大人しく──大人しすぎるほどに。
表情を隠して俯いた面は、ぴくりとも動かず、這入って来た側近の方を見ようともしない。反応が無い、否、そもそも存在に気付いてすら、いないのだろうか。身を沈めるバスタブの水面は、凍てついたように、波紋ひとつない。時折思い出したように白金の髪を伝い落ちる滴だけが、小さく音を立てて、か弱く水面を揺らす。それでかろうじて、目の前の情景が静止画ではなく、紛れもないリアルタイムの現実であると分かる有り様だった。
「……ルーク様」
バスタブ脇に張り出した棚にティーカップを置きつつ、小さく呼び掛けると、そこでルークは、初めて気付いたとでもいうように、ゆっくりと顔を上げた。先ほどまでの、高揚感に輝く瞳はそこには既になく、何も見つめていないかのようなガラス玉めいた瞳が、立ち尽くす側近の姿を捉える。
「……問題ないのに。上手くいっているのに。どうして、こんな気持ちになるんだろう」
問い掛けか、あるいは独り言であっただろうか。繊細に揺れる睫を伏せて、ルークは小さく呟いた。ぱしゃん、と軽い音と共に持ち上がった細い腕が、自分自身の肩を掴んで抱く。
「一生懸命、がんばって役割を果たせば、あの人に褒めて貰える。でも、そうすればそうするほどに、強く、美しくなるカイトの方が、あの人の心を独占する。かなわない、僕はますます、惨めでつまらないものになり下がる」
うなだれて、ルークは自らを抱く腕にぎゅ、と力を込めた。閉じた瞼の裏に、いったい何を見ているのか、抗うように小さく首を振る。
「僕は、同じようにして欲しかっただけだよ。同じように接して、同じものを与えて。……それとも、そんなことさえも、望んではいけなかったのか。同じに扱ったところで、決して、同じになれる筈もない、こんな、僕では」
水音にかき消えてしまいそうなくらいの、僅かな音量でぽつりぽつりと紡がれる言葉に、ビショップは応える術を持たなかった。応えられる筈もなかった。否、そもそもそれは、誰かに応えて欲しくて紡がれた声ではなかった。これは、ただの──追想だ。ルークの中で始まり、終わるだけの、閉じきった物語だ。
それが分かって、少年の忠実な側近は、掛ける言葉もなく、ただ己の主人を見つめてその場に留まった。
ゆっくりと、深い眠りから目覚めるように、ルークは瞼を上げた。どこを見ているのかも判然としない、何ら内面を伺い知ることを許さない、作り物めいた瞳で、静まりかえった水面を映す。
「皆が、カイトを好きになる。僕から離れて、太陽みたいなカイトに、惹かれていく。……僕は、陰。誰も、好きになってくれない。誰も、一緒に、いてくれない」
可憐な唇は、変わらず淡々と、少しばかり掠れた声を紡いだ。
肩を抱いていた手が外れて滑り落ち、力なく水面を叩く。もう一度、ぎこちなくそれを持ち上げると、ルークは確かめるように、己の頬を包んだ。指先でもって目元を、耳を撫で、手のひらに頬を擦り寄せる。
「夕暮れなんて、好きじゃない。夜も、嫌だ、来なければいいのに。……太陽は、もっと、嫌いだ」
か細い両手を目の前に掲げて、軽く握ると、ルークは自嘲気味に嘆息した。
「僕じゃ、駄目なんだ。カイトを映すことしかできない、僕じゃ。力強く温めることも、明るく照らすことも出来ない。白くて、冷たいだけ。何も、持っていないから。僕は、カイトにはかなわない。カイトみたいに、……なれない」
それは、駄々をこねて訴えようというような、子どもめいた考えとは違って、あくまでも静かに、分かり切ったことを淡々と述べているといった表現が適当な在りようだった。だからこそ、ビショップは、ルークをこのまま放ってはおけなかった。これ以上、続けさせては、いけないと思った。
同じだ──先ほどと、何も変わっていない。続いている。表現の仕方が変わっただけで、ルークの抱えるものは、吐き出したい思いは、少しも鎮まってなどいなかったのだ。黙らせて、口をつぐませたところで、その内側に抱くものまで、封じることが出来たなどと思うのは、愚かを通り越して滑稽ですらある。何ということはない、それはただ、面倒事を目の前から隠して、見えなくすることで、直面するのを逃げるのと同じことだ。己の浅慮を悔いて、ビショップは頭を振った。
今度こそは、逃げずに向き合わねばならないと思った。無理やり黙らせるのとは、違う方法で相対するのだ。長身を折って、宥めるように片手を差し出しつつ、ビショップは口を開いた。
「ルーク様、聞いてください。あなたはあなたです。それで良いではありませんか。彼に成り代わる必要など、」
「帰って来たとき」
側近の紡ぐ台詞を、ルークは遮って、はっきりと言葉を放った。どこか硬く、他人を拒絶するような響きに、思わず口をつぐんだビショップを、その淡青色の瞳でもって、まっすぐに射抜く。
「真っ先に訊いた──『オルペウスの契約者は?』と」
糾弾するでもなく、憐憫を乞うでもなく、無感動に発せられた一言は、しかし、この上なく強烈にビショップを貫いた。壊れそうなほどに澄んだガラス玉めいた瞳から、視線を外すことが──出来ない。
「それは……」
一つ呼吸を置いて、ビショップは続く言葉を探した。
確かに、ルークの安否を尋ねることもせずに、まずあのソルヴァーの動向について問うたことは事実だ。しかし、それは決して、彼をないがしろにしたというのとイコールではない。ルークが無事であることは、その時点でもう、分かっていたからだ。ずっと向こうから歩いてくる彼を見つめていたのだ、姿勢から、足取りから、それはもう十分に、分かってしまっていた。同時に、満足げな様子から、彼の計画が上手く運んだのであろうことも、推測出来た。
分かるから、敢えて訊かなかった。余計なことを言って、彼を煩わせるのは本意ではなかったからだ。何を言わなくとも、当然のようにして主人の現状を把握してこその側近ではないか。それを、何も気に掛けていなかったものと見做されるのは、心外である。
──などといって、弁明することは、ビショップには出来なかった。たぶん、そう言って丁寧に説明すれば、ルークは事情を理解してくれるだろう。だが、重要なのはそこではない。ビショップに、そんなつもりではなかったのだと否定して欲しくて、ルークはこんなことを言っているのではないのだ。謝罪も弁明も埋め合わせも、ルークは求めてなどいない。仮にこちらから頭を下げて、それを差し出したところで、決して受け取ろうとはしないだろう。
「そんなつもりではなかった」と、たとえそうだとしても。
何らかの事情が、あったとしても。
ルークが「そう」感じたということは、それはつまり、ビショップの態度が「そう」であったということだ。この上なくシンプルな理屈であって、どんな言葉を尽くしたところで、今更、覆すことはかなわない。ルークに「そう」感じさせたという、事実は変わらない。
見苦しくも己を弁護する行為は、背景はどうあれ、ビショップの忌み嫌うもののひとつだった。そういう人間を、彼は組織の一員として数多く見てきたし、言い訳に終始するギヴァーを、表情一つ変えずに自らの手で粛清してきた。ビショップにとって、自分がああいう彼らと同じものになるというのは、堪え難かった。
『ルークのことが、分かる』──その自分の特性が、仇になったのだと、ビショップは理解した。
あたかも、彼のすべてを把握しているかのように、勘違いをしていた。彼から唯一の信頼を寄せられている、己の立場を過信した。こちらがルークを理解しているように、ルークもこちらを理解しているものと、思い込んだ。互いに通じ合っていて、分かりあっていると、夢を見た。
そんなことなど──一つだって、なかったのに。
濡れ光る白金の髪を、梳いてやろうと手を伸ばして、しかし、触れることは出来なかった。必要なときに、必要とされていたものを与えてやることが出来なかった、自分にそんな権利はないのだと、ビショップは分かって、力なく腕を下ろした。
何時間も窓辺に立って、どれだけルークを心配したか。そんなことは、伝えるような内容ではないし、彼も報告されたくないだろうし、いかにも押しつけがましいからと思って、己の内だけに留めた。こちらへと戻って来る、その姿を見て安堵したらもう、先ほどまで心を乱していた事実はなかったかのように、きれいに隠蔽して、普段通りに振る舞った。
そうするのが、望ましいと──どうして、思い込んだのだろう。
言わなければ、伝わる筈もないではないか。
示さなければ、分かる筈もないではないか。
訊くにも値しない、驚くにも値しない、普段通りの何でもないことだと、そんな風に出迎えられて、ルークは──どう思っただろう。大丈夫だったかと気にするでもなく、最初に、たった今決別してきたばかりの相手の状況を問われて、何を感じただろう。
思うと、ビショップは悔やんでも悔やみきれなかった。

弁明の一つも紡がぬ側近を、ルークは無感動な瞳でじっと見つめ、それから、気だるげに腕を持ち上げた。手を伸ばした先は、先にビショップが置いた盆の上で、濡れた手にティーカップを取り上げると、少年は何事もなかったかのようにそれに口をつけた。バスタブの中、小さく膝を抱え、睫を伏せて紅茶を味わうルークの姿は、想像通り、愛らしいことこの上なかった。いつも一切の装飾を排した無機質な執務室に座する姿ばかり目にしているものだから、このような、人の手によって丁寧に時を重ねた温もりを感じさせる場所に身を置くルークは新鮮な印象で、かといって不思議と違和感はなく、よく似合った。こんな風に、優しいものに囲まれて、大切に扱われ、溢れる愛情を注がれるのが、本来あるべき姿であるようにさえ感じられた。
だが、ここはもちろん彼の家などではなく、ただの一時的な居場所に過ぎない。かつて、こんな場所で育てられたのでもなければ、おそらくは今後、こうした穏やかな暮らしをすることもないだろう。思うと、眼前に展開する光景は、空しいがらんどうの虚構に過ぎず、愛らしいなどといって無邪気に見つめることも躊躇われるようだった。その中にあって、バスタブにしなやかな肢体を預けるルークの在りようは、抱き締めて愛でる対象とするような類のものではなく、決して触れてはならない、あまりに繊細な氷細工めいて感じられた。それゆえに、ビショップはどうしても、少年に触れることも、声を掛けることも、出来なかった。

手を貸して、バスタブから上がらせるときも、身体を拭いて髪を乾かしてやる間も、互いに口を利くことはなかった。細い身体にバスタオルを羽織って、洗面台の大仰な鏡の前に座ったルークはずっと黙っていたし、ビショップもまた、淡々と機械的に主人の髪をかきまぜて温風を当てた。
二人して無言でいることは、両者の間においては、さして珍しいことではない。なにしろルークがこういう性質であるし、ビショップも己の立場をよくわきまえて、決して差し出がましい真似をしようとはせずに、主人に仕える。ルークが誰とも喋りたくない気分で黙っているときは、ビショップも何も話し掛けないし、何か言いたげにしている雰囲気を感じれば、それとなく問い掛ける。二人の間にあるのは、そういう関係性だ。
だから、沈黙は珍しいことではなく、むしろ通常通りといって良い筈なのに、今日のそれは、ひどく重苦しかった。
髪を乾かし終えると、いつものように服を着せられるものと思っているらしいルークは、バスタオルに室内履きだけという姿で浴室の外へ連れ出され、少しばかり表情に不審げな色を過ぎらせた。それでも、何も疑問を口にしないのは、ここが仮の宿だから、いつもとは勝手が違うのだとでも解釈しているのだろうか。それを裏切ることになるのは、多少の心苦しさを感じないでもないが、ビショップは、少年の入浴中に考えて出した自分なりの結論を、曲げるつもりはなかった。
忠実な側近は、迷いなく居間を通り過ぎ、己の主人たる少年を寝室へと導いた。まだ眠くないとでも言いたげに、ルークは扉の前で足を止めかけたが、丁重に、かつ確実に肩を抱かれて促されれば、黙って従うよりほかはない。自分自身の身体管理という面でおよそ難があり、寝ることも起きることも食べることも、忠実な側近が立てたスケジュールに従わなければ破綻してしまうルークにとって、こればかりは逆らうことが出来ない。本人よりよほどその身体事情を精確に把握して、適切な運用を行なう術に優れたビショップが促すのならば、ルークはただそれを信じて従うだけだ。
盤上の世界の把握には、細部にいたるまで常人の域を超えた「読み」を働かせるくせに、最も身近な存在である自分自身について、ルークは殆ど何も理解していない。精神活動と、それを宿す肉体とが、奇妙に断絶している。どれだけ眠れば良いのか、どれだけ食べれば良いのか、そんな普通ならば考えるまでもなく感覚で知っている当たり前のことさえ、自分では分からずに、いちいち誰かに教えて貰わなくては、上手く出来ない。その白くしなやかな肢体は、意のままに動く彼の忠実な手足などではなくて、ルークにとっては、得体の知れない、しかし離れることも出来ない、憂鬱な重荷であるにすぎないのだ。
まるで、ルールも知らずに欠けた駒を渡されて戸惑う、子どものようだとビショップは思う。ルークが胸の内に握る、塔を模した白のチェスピースは、たぶん、ずっと前に砕けて欠けてしまったのだろう。それでも、手放すことが出来ずに、無理矢理に動かし続けている。こんなにも、精魂を込めた作り物めいて整った姿をしていながら、あちこち欠落して、上手くかみ合わないルークを傍で見つめていると、そんな感想を抱かずにはいられず、小さな痛みが胸に滲み入るのだった。

頼りなく細い身体を包むバスタオルを肩から落とさせて、ビショップは几帳面に整えられた寝台の上にルークを横たわらせた。清潔なシーツに、白い肢体が遠慮がちに埋もれる。淡々とした動作で、ビショップはベッドサイドに据えられたテーブルの上から、手の中に納まるシンプルな銀の丸缶を取り上げた。蓋をひねって開けると、それを見ていたルークは、居心地悪げに身じろいだ。
「そんなこと、……しなくていい」
「いいえ。傷めてしまってからでは遅いのです。すぐに終わりますから」
珍しく躊躇うような表情を見せた少年の意思を、ビショップはあえて無視させて貰い、宥めるようなことを言いながら缶の中身を指に取った。高温スチームによって乳化された保湿クリームはなめらかに指に絡み、ほのかに立ちのぼる素朴なハーブの香りが優しく鼻腔をくすぐって、陰鬱な天候に沈んだ気分を癒す。
風呂上がりのルークの、まだ少し上気した柔肌に保湿クリームを塗りつけていく作業は、前に彼が一度、不慣れな日本の地で乾燥する冬の空気に無防備な皮膚をひどく傷めてしまって以来、ビショップの重要な職務の一つとなっている。そのなめらかな白い肌を護るのに最も適切なクリームを見出すべく、いくつもの銘柄を取り寄せて片っ端から試していった記憶も懐かしい。
精確にいえば、乗り気だったのはビショップだけで、当事者であるルークは、どれでも一緒だとでも言わんばかりに面倒そうな顔をして、あれこれと日替わりで塗りつけられるものに身を委ねていた。どれが良いと感想を言うでもなく、モニターとしては、およそ張り合いというものの欠片もない。だから、その中からこれぞという一品を選出し、このところ継続して使い続けているのは、完全にビショップの個人的な趣味の反映された結果である。
誤解を恐れずに言えば、有効成分はどれも似たようなものだという点で、ルークとは意見を同じくしていたので、後は手触りと香りで決めた。目を閉じて眠りに落ちていくとき、ルークを包むものが、こんな安らぎに満ちていれば良いと、小さな世界を想定して、それを選んだのだった。
きしり、と音を立てて寝台に腰掛けると、ビショップは白い少年の手首を丁重にすくって、少しばかり持ち上げた。もう片手には、二本の指に乳白色のクリームをたっぷりと絡め、軽くかき混ぜて体温を馴染ませる。ひやりとした感触がなくなるまでそうして、おもむろに、力なく預けられた細い腕の中ごろに擦りつけた。
「…………」
持ち上げて支える手の中で、指先がぴく、と跳ね上がるのが分かった。十分に温めたつもりではあったが、湯上がりの火照った肌には幾分か、冷たく感じられてしまったものらしい。
あるいは、自分の指先がそもそも、さほどの熱を持っていないために、クリームを人肌程度に温めるには力不足であったのかも知れない、と思ってビショップは申し訳ない心地になった。暗く冷たい塔に独りでいるルークを思うと、とても自分だけぬくぬくとしてはいられずに、暖房機器も入れずに窓辺に立ち尽くしていたのだ。多少は熱を取り戻したとはいえ、未だ指先は、十分な体温を感じさせるというには足りない。身体を温めたばかりのルークにしてみれば、その冷ややかさはより明瞭に感じ取れてしまうだろう。
せめて、まだ気にならないであろう手のひらを中心に使って、ビショップはルークの腕に保湿クリームを滑らせていった。こうして触れ合わせているうちに、こちらの指先も温まってくることだろうことを期待して、薄い皮膚に包まれた細い腕を丁重に伝っていく。なめらかなクリームは抵抗なく肌の上を滑って、人形めいたルークの腕をほのかに艶めかせる。最小限の力でもって、優しく包み込むように、ビショップは手のひらを、指を、柔肌の上に繰り返し滑らせた。
肘の内側から伝い上がると、ルークは小さく身を竦め、咄嗟に腕を振り払いかけたが、ビショップの両手に緩く固定されて、逃げることはかなわなかった。そうしている間にも、絡みついた冷たい指が、指先の一本一本に至るまで、付け根から爪の先へと、丁寧に塗り込むように擦り立てる。いつもより妙に念入りなその手つきに、少年は戸惑うように瞳を揺らした。
ともあれ、この作業が一度始まってしまうと、全身に塗りたくられるまで解放して貰えないことは、ルークにしても百も承知である。諦めたように顔を背けて、しかし、一言だけ小さく呟く。
「……早く」
「承知いたしました」
主人の願いに、忠実なる側近は慇懃に応じると、新たなクリームを指に取り、冷ややかなそれを温めるのもおざなりに、頼りなく上下する痩せた胸の中央に落とした。
反射的に背を反らして、ルークはきつく目を閉じる。指先で円を描くように薄く塗り広げていくと、可憐な唇から、声にならない、掠れた息がこぼれた。

──どうしたら、少しでもルークを楽にしてやることが、出来るだろう。
黙らせたところで、言い聞かせたところで、彼の抱く憂いを軽くしてやることは出来ない。どちらにしても、表面をきれいに覆い隠すばかりで、楽にしてやるどころか、よりいっそうに彼を追い込むことにしかならない。
他の方法として、ビショップはこれしか、思いつかなかった。
抑え込むのではなく、開示させること。
打ち明けて、委ねさせること。そして自分は、それを受け容れること。
出来るのは、ただそれだけだと思った。
ルークに、教えてやらなくてはならないことがある。そして、それが出来るのは自分だけであることを、ビショップは知っている。
ひとりきりで戦いに赴く彼を心配する思いを、無事の帰りを喜ぶ思いを、伝えなかったこちらの非は、心から認めよう。しかし、それを言うならば、ルークの方にだって、問題がなかったというわけではないのだ。責任転嫁するつもりはないが、それがビショップの正直な思いだ。
ルークは、他人に心を読ませない。
考えを教えない。
思いを打ち明けない。
何でもないような、何も感じていないような、何も欲していないような、そんな無感動な在りようで、何も言葉を発しない。
それでは、まるでこちらも、何も与えてはいけないのではないかと、躊躇いを覚えずにはいられない。与えたところで、どうせ何も感じないのだろうと思うと、まるで無意味に思えてしまう。ましてや、彼がそんな振る舞いの中で、何かを欲しているなどという可能性に思い当たることは、困難を極める。
欲しいのならば、分かるように知らせてくれなければ、与えられない。
そんな当たり前のことも、ルークは理解出来ていない。否、それ以前の段階として、そもそも自分が何かを欲していることすら、彼は自覚していないのではないか。自分が、何かを感じることの出来る存在であることを、忘れてしまっているのではないか。先の少年の、発する言葉と感情の乖離しきったような、奇妙に歪んだ在りようは、ビショップにとって、その推測の根拠として十分だった。
心配して欲しい、気にかけて欲しいと、子どものようにねだってくれたならば、まだ良かったのかも知れない。彼の訥々と紡いだ言葉だけを聞けば、あたかもそれを求められているような気になる。いたってシンプルで、いっそ微笑ましくすらある。だが、実際はそうではなかった。
あれだけ、言葉を尽くしておきながら。
自分が何を言っているのか、ルークは分かっていない。
何が足りなくて、何が欲しいのか、分かっていない。
だから、欲しいと言って叫ぶことも、出来ずにいる。
どうしたら良いのか分からずに、ただ、切なく痛む欠落を、抱えていくしかない。それは、他者に助けを求めるどころか、ひたすらに内側へと志向するばかりで、彼自身を傷つけることにしかならないだろう。
なんて面倒なことだ──これだから、手に負えない。
胸の内で、ビショップは盛大な溜息を吐いた。
普通よりずっと手がかかる、面倒な子ども。神に愛され、かつ、見放された、哀れな子ども。入り組んで、解き明かさなくては触れることも出来ない、厄介な子ども。
そんな、扱いづらいことこの上ない子どもが、ビショップの唯一の主人だ。恵まれた職場環境であるとは、お世辞にも言えない。
どれだけの時間を、掛けたところで。
どれだけの忠誠を、捧げたところで。
どれだけの犠牲を、払ったところで。
ほんの少し扱いを間違えてしまえば、その時点で取り返しようがなく破綻してしまう、脆い関係。
自分たちの間にあって、か細く通じ合わせているのは、その程度のものであることを、ビショップは知っている。この関係を、守っていくために力を尽くさねばならないのは、専ら自分の方であって、見返りにルークから目に見えて与えられるものは何もないのだと、承知している。
与え、捧げ続けることで、かろうじて、繋がっていられる。いつ断ち切られてしまうかも分からない、そんな頼りないものに価値を見出し、心を砕いて、なんとか大事に保っていこうとしている自分は、客観的にいって、滑稽であることこの上ないだろう。何をそこまで尽くす必要があるといって、あきれられてしまうかも知れない。
そうやって、他人に緊張感と高揚感を強いる、この白い少年は、実にまったく、手に負えない。面倒で、厄介で、──目が離せない。引き寄せられてしまって、離れられない。
一度、関わってしまったら、どうしようもなく、抗いようもなく、繋ぎとめられてしまった。気高く美しい、白の塔に、囚われてしまった。心からなにから、支配されて、自分ではとても動かせない。
そして、そういう現状は、はたから見れば愚かで、くだらないかも知れないが、ビショップにとっては、喜びである以外の何物でもないのだ。
ルークの傍にいることが出来る。
ルークの隣に立つことが出来る。
ルークの言葉を聞くことが出来る。
ルークの言葉を伝えることが出来る。
ルークの指示を受けることが出来る。
ルークの思いを推し量ることが出来る。
ルークの思いを代弁することが出来る。
ルークの痛みを感じることが出来る。
ルークの憂いを感じることが出来る。
ルークの喜びを感じることが出来る。
ルークの興味を引くことが出来る。
ルークの姿を見つめることが出来る。
ルークの手を取ることが出来る。
ルークの肩を抱くことが出来る。
ルークの背を支えることが出来る。
ルークと言葉を交わすことが出来る。
ルークと視線を交わすことが出来る。
ルークと意思を交わすことが出来る。
ルークと体温を交わすことが出来る。
ルークに従うことが出来る。
ルークに応えることが出来る。
ルークを想うことが出来る。
ルークを喜ばせることが出来る。
ルークの支えになることが出来る。
ルークの盾になることが出来る。
ルークの剣になることが出来る。
ルークの目になることが出来る。
ルークの耳になることが出来る。
ルークの腕になることが出来る。
ルークの脚になることが出来る。
ルークの翼になることが出来る。
ルークの駒になることが出来る。
だから、ビショップはルークの隣にいたいと望む。従属だろうと、隷属だろうと、束縛だろうと、捨て駒だろうと、何であろうと、構わない。
知ろうとしても、知り尽くせない、際限のない黄金螺旋のような、ルークにもっと近づきたい。たとえそれが、無限に堕ちていくだけのことだとしても。共に、呑まれてしまいたいと思うのだ。

「っ、……ん…」
足の指の間まで、余すところなく丁寧に辿られて、ルークは小さく声をこぼした。薄く開いた唇は、浅い息を継ぐ合間に、抑えきれない切なげな色を滲ませ、その内奥に着実に募る熱の存在を教える。時折、何かを堪えるようにシーツを握り、肩を震わせる仕草も愛らしい。
自然と閉じていってしまう瞼を、思い出したように上げるのは、せめて側近の動向を把握しておきたいのだろうか。先程から一言の説明もなしに奉仕されて、いつもと違うやり方に、ルークなりに戸惑っているのかも知れない。濡れた瞳が、懸命にこちらを捉えようとしているのに気付いて、ビショップは優しげに微笑みかけてやった。そうしておきながら、さりげない風を装って、しなやかな足の甲を軽く引っ掻く。
「ぁ、っ……」
予想外の刺激であったのだろう、短く声を上げて、ルークはびくりと身を竦ませた。跳ね上がりかけた脚は、それを見越して足首に掛けられていた側近の冷静な手によって、難なくシーツに押さえ込まれてしまう。やり場のない熱にもどかしげに身じろぐ、少年の過敏な反応が愛おしく、ビショップはそこを指先で優しく撫でる動作と、小さく引っ掻く動作を繰り返し与えた。
「……っ、く……」
焦らすような末端の愛撫に、ルークはきつく目を閉じ、ともすれば声を上げてしまいかねない唇に片手を押し当てて塞いだ。いいように翻弄されながらも、主人としてのせめてもの矜持を守ろうというのだろうか。それでも、乱れた呼吸の合間に、押し殺した声が入り混じるのを止める役には立たない。
制止の声が掛からないのを良いことに、ビショップは少年の華奢な足首をそっと捧げ持つと、あたかも神聖なる儀式めいた敬虔な態度で、爪先に丁重に口づけた。手指と同じく、形の良いルークの爪は、幼い子どものように澄んで美しく、硬化する前のみずみずしい弾力を保っている。こんな細部にいたるまで、丹精込めて制作された人形のような、非の打ちどころのない繊細な肢体への讃美を込めて、ビショップは爪先、そして指の付け根へと唇を寄せた。触れて確かめたそこは、他の箇所より温度が低く感じられた。
「少し……冷えてしまいましたか」
湯に入って温めたとはいえ、纏うもののない身体の末端から熱が抜けていくことは避け難い。呟くと、その親指を、ビショップはおもむろに口腔に含んだ。小さく息を呑んで、ルークが身体を強張らせるのが分かった。怖気づいたのか、反射的に脚を引き戻そうとするのを、逆に抱え込むようにして掴み上げ、逃れることを許さない。包み込む唇で柔らかく解きほぐし、また、気まぐれに甘噛みを施すと、細い足首は面白いようにびくびくと過敏な反応を返した。
「ん、……っう、あぁ、」
舌先を押し当てて指の間をなぞり上げると、堪え切れないというように上ずった声がこぼれる。よく手に馴染んだ楽器のように、知り尽くした箇所をそっと奏でてやれば繊細に震えて応じる、その交感が愛おしく、ビショップは陶然と瞼を閉じた。心地良い暗闇の中で、切ない息遣いとこぼれる音色に耳を澄ませる。それが、許しを乞うような、小さくすすり泣く声に変わるまで、ビショップは巧妙な愛撫を施し続けた。




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